2019/01/26

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑩

Living Reality 抜粋 パート1私が今まで読んだセイラーボブ関連の本の中で、セイラーボブの教えを理解するのに一番役立ったと思う本は、ジェームズ・ブラハの Living Reality です。日本語版未出版のボブの講話収録本としては他に、What's Wrong With Right Now?(ギルバート・シュルツ編纂 講話集)と Presence-awareness: Just This And Nothing Else(ジョン・ウイーラー編纂講和集)がありますが、この二冊は二つとも140ページ前後の薄い本で、講話と質疑のみが収録されています。Living Reality は322ページもある厚い本です。ジェームズ・ブラハが2004年にセイラーボブをフロリダに招き、5週間にわたってミーティングを開催し、それをテープに記録し、ブラハが解説したものです。ブラハの質問は、私が聞いて欲しいようなことをもれなく聞いてくれていますし、解説もわかりやすいのでとても助かります。今回、ジェームズ・ブラハさんの許可を得ましたので、彼のホームページにある、Living Reality の抜粋を4回にわたって掲載します。引用元はこちら。

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はじめに


あなたがこれから読むのは、私の30年間にわたる解放へ向けての探求の成果です。その解放というのは、物心ついて以来ずっとしつこく私につきまとう、源泉すなわち本質からの分離した感覚の終了ことです。そしてまた、「何かになる」という、以前は逃げることができなかった感覚や死の恐怖を伴って私を悩ませた過去や未来に対する絶え間のない懸念の終わりことです。およそ30年の精神的探求でも見つからなかったのですが、その成果はヒンズーの教えアドヴァイタからやってきました。それはまた非二元としても知られています。


アドヴァイタ(アド・ヴァイ・タと発音)の文字通りの定義は「二つではない」であり、oneness(単一性・一つのもの)を厳密に表現する場合に好んで使われます。というのも、oneness という表現は、他に何かがあるかもしれないと暗示してしまいかねないからです。それでも、oneness(単一性・一つのもの)という表現は、アドヴァイタが指し示す、あらゆる顕現に内在する本質的な不可分性、同一性、単一性を指す場合に一般的に使われます。科学の世界では、この単一性は、量子力学的な物理学に見ることができます。それによれば、すべての物質は、小さく小さく分解して亜原子粒子まで分解すると、最終的には光、もしくは何もない状態、すなわち空間に他なりません。実際にところ、顕現となって現れているすべてのものは、一つ、たった一つの要素でできています。 

そのことについては、実際に私たちの生活体験の中にその客観的な証明はあるのですが、それは非常に多岐にわたり、相違に満ちていて、その共通の要素は、ほとんどまったく無視されています。そしてその要素とは、同一性、単一性であり、それは常に存在し、それがすべての経験を可能にしています。それは存在意識(他にもたくさんの呼び名がある)と呼ばれ、それは本質的に今この瞬間、今ここのことです。それは「今ここ」であり、今までも、そしてこれからもそうです。あなたが五歳の時に経験したことも、このページを読んでいるのも「今ここ」です。そしてこの同一性が、六十歳や七十歳の人が、彼らが子供の時にやったことも内側では何の違いもないと感じさせます。存在意識(訳者注:自分が存在するという感覚)。それは生まれた時にもあり、死ぬ時にもある。今ここ。私たちに常にある一つのもの。 

二〇〇四年の初め、幸運にも私は、セイラー・ボブ・アダムソンという名のオーストラリア人指導者が書いた「What’s Wrong With Right Now Unless You Think About It?」(今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?:未邦訳)を手にしました。ボブの探求は、一九七〇年代の中頃、偉大なヒンズーの聖者ニサルガダッタ・マハラジのもとで学んだ時に終わりました。以降彼は非二元を教え続けています。幸運にも、ボブと彼の妻はアメリカを訪れ、私の家に五週間滞在しました。その間、彼はたくさんの素晴らしい話や教えを提供し、そのほとんどはこの本に掲載されました。 

エンライトメントや解放を求めるほとんどの探求者にとって、探求は長く、途中たくさんの紆余曲折を伴います。あまりにもたくさんの観点があるため、真理を見つけることはとても困難なことです。人々は、遺伝的、文化的、感情的に異なっています。献身的なタイプ、知的なタイプ、神秘主義的なタイプなどの道があります。たいていの道や宗教に共通するのは、信奉者たちに実際に真理を見つけさせることなく、探求を続けさせるということです。これは、そうした道が実を結ばないという意味ではありません。それは単に、そこには絶えず、もっと追いかけるもの、探求するものがあるという意味です。そこには絶えず、より良い未来の約束があります。(たとえもし、人生は今しか生きることができないとしても)。そして、「ああ!ゴールにたどり着いた。見つけた。私は成就した」と、立ち止まって言う地点に到達することはほとんどありません。もちろん、それが起こるまれなケースもありますが、それは例外です。見つけたと主張するごく少数の人は、いつもリーダーであり、参加者ではありません。この事実だけでも、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があります。

この点において、非二元の教えは全くユニークです。それがユニークなのは、そこには結論だけがあり、探求の余地がないからです。アドヴァイタでは、探求はあきらかに馬鹿げています。なぜなら、探求は未来に何かを見つけることを意味するからです。もし、存在するすべてが一つのもの(oneness・単一性)なら、どうして過去や未来がありえるでしょうか? 


過去や未来はマインドの中の観念であり、今この瞬間、今ここが実在するだけです。アドヴァイタの反対があるとすればそれは、探求することです。 アドヴァイタは、もっとも大局的で可能な観点から、実在と存在を理解することに基づいています。それは、練習、訓練、儀式、経験とは全く関係ありません。自己啓発や、より良い未来の約束を探す探求者がそれをここで見つけることはありません。非二元は好みによる選択を拒絶し、経験、肯定否定、他者より少し優れているとか劣っているということに重きをおきません。 機の熟した探求者にとって、非二元は自由しか残らない地点までの、終わりに次ぐ終わりです。いったん、私たちが生きている基準点、「私」が思考とイメージの集まりにすぎないということを理解すると、いかなる優越感も個人も消滅します。実在の定義が「決して変化しないもの」とわかるやいなや、私たちの「見せかけ」の創造物の実体のない本性が明らかとなります。存在の本質的単一性が理解されるやいなや、幼い頃、いわゆる「個人」という自己認識が生まれた時に身についた分離した感覚は存在し続けることはできません。それは単に消えていきます。いったん、今この瞬間、今ここが今までも、そしてこれからもあるすべてであると理解されると、過去を悔んだり未来を憂いたりする分別のない行動は全くなくなります。

本当の私は、実際には「ものではないもの」、セイラーボブが言うように、非観念で、永遠に存在する、自ら輝く存在意識、ただそれだけ、他に何もない、ということをはっきりと理解すると、自身を変えたり、直したり、修正したり、正したりしようとすることは無意味となります。「何かになる」という気持ちは即座に落ちていきます。万物はすべて本質的には実際に一つ(なぜなら、万物は根底にある同じ意識の中にあるため)であるということを理解すると、すべての基準点が偽りであるということが明らかになります。すべての基準点が偽りであるとわかれば、経験したことや誰かのことを、良い悪い、正しい間違っていると判断するのが馬鹿馬鹿しくなります。起こってくることすべてを単に「あるがまま」に見ます。ひとたびすべての経験を「ありのまま」に見ると、快楽を渇望し、苦痛に抵抗するという絶え間のない習慣は終わります。それゆえ、機が熟した探求者にとって、アドヴァイタは、以前は終わりがないように思えた探求の最終局面となります。もう一度繰り返しさせてください。アドヴァイタは、以前は終わりがないように思えた探求の最終局面となります。

「機が熟した」探求者とはどういう意味でしょうか? それはうわべ上の個人の死を進んで受け入れる人のことです。多くの探求者は個人の死を進んで受け入れるという観念を耳にしたことがあり、実際にその用意もできているにもかかわらず、たいていの人はそれをどうやってやったらいいのかわかりません。それは何か情報が不足しているということではありません。というのも、「小さな自己」が死ぬために個人ができることは実際には何もありません! 


なすべきことは、包括的な観点から実在を理解することです。そうすることによって、うわべの上では孤立した一つの波が海に帰っていくように、うわべの上での個人が普遍性に包まれるようになります。 理解することは解放とは全く違うことのように思えますが、そうではありません。実際それは、解放には本当に不可欠なことです。究極の自由を得る鍵は、実在をどう認識するかにかかっています。解放、すなわち目覚めは特別な経験や行動様式の結果ではありません。それは実在を理解した結果なのです。いわゆるエンライトメントした人たちが行動規範を持たないのはそのためです。そういうわけで、それぞれ個人は自分で目覚めなければならないのです。過去数世紀にわたって、多くのヨギや神秘家たちが、スピリチュアルな経験を他に人に授けてきました(それはしばしば、理解するための強力な触媒となりました)が、誰も永遠の自由を与える理解そのものを授けることはできませんでした。解放は認識、すなわち理解からしか起こりません。そしてそれは、人に譲渡できる何かではありません。暗闇でロープを見た人は最初、それを危険な蛇だと思ってパニックになるでしょう。近寄ってよく見て、それがありのままのロープだとわかると、恐怖は消えます。同様に、人が自身の境界のない本質を理解すると、それまで考えていた束縛から解放されるのは必然の結果です。 

およそ三十年にわたり、多方面にわたる様々な進化の道に携わってきてわかったのは、たいていの探求者は、生涯探求の道の途上にいることを好むということです。ある人は探求のプロセスを愛していて、ある人は至福の瞑想に魅せられ、またある人はただ単にまだ準備ができていません。この本を読んでいる探求者で、自らがその発見者になるという意欲を厳しく吟味したことのない人は厳しい試練に合うことになります。非二元の教えに同意すると主張する一方で探求を続けている人は、実際にはアドヴァイタを理解していないということを証明しています。 

誰も、なぜある弟子が探求を終える用意ができていて、他の人ができていないのかを言える人はいません。アドヴァイタでは、顕現として現れた万物は幻影、すなわち見せかけであり、それは同じ単一性(oneness)すなわち意識の中にあり、そこから現れ、その見せかけにはどんな理由も原因もないと考えています。それは注目に値することですが、目覚め、すなわち解放を成し遂げたと主張する多くの人たちは、皆ではないのですが、同じことを言いました。彼らが強調するのは、ある時点で彼らは真実、自由を見つけるために必死になったということです。多くの人は、これから詳しく知るセイラー・ボブ・アダムソンのように、彼らの明白な束縛がなくなるまでは家には帰らないとさえ誓ったのです。

私はこれを、自己実現を達成するためのヒントや方法として言っているのではありません。私がこれに言及したのは、アドバイタに取り組む多くの探求者は、アドヴァイタの教えは観念的で知的であり、単なる知的な理解が何の役に立つだろうと思っているからです。非二元の教えが心に響かない人にとって、こうした反応は嘘でもなければ、悪いことでもありません。そうした場合、何も得るものはなく、何の助けにもなりません。しかしながら、発見者になることに真剣な探求者、思い出せるかぎりさかのぼったころに始まった絶え間のない分離した感覚にもはや耐えられない人にとっては、自身が何なのか、それは永遠で境界がないもの、そして自身が何ではないのか、それは物質、肉体、束の間のもの、そして制限されたもの、の違いがはっきりします。ひとたびそれが起きると、人生はもはや同じではありえません。 

注目すべきことは、理解が必要なだけです。注目すべきことは、瞑想、詠唱、ブレス、神経系統の浄化、セラピーへの参加、聖典を学ぶことなど、多くのことをする必要がないということです。自己実現は、在ることの中にあり、することの中にはありません。強力なテクニックを使って、時折、至福の絶頂の経験を楽しんでいるスピリチュアルの熱望者にぴったりの言葉があります。「あなたを幸せにしないことをどれだけやっても満足は得られない」。その神髄、本質が単一性(oneness)である原理の中で、何かをすることで何を得ることができるでしょうか? より大きくて良い経験にどんな価値があるでしょうか? 

もちろんこれは、先に述べたことをすることが、素晴らしいことや価値のあることではないと言っているのではありません。しかしながら、自らの本質を見つけることは、「瞬時の理解」によって起こると言っているのです。そしてその瞬時の理解は、完全に今この瞬間、今ここにあるということです。そしてその理解は何かをしたことの結果として起こったように見えても、そうではありません。現象の世界では、実際に原因があるわけではなく、見せかけとして現れているにすぎません。そこには原因はありません。というのも、幻影の世界、私たちの世界は独立した本質がないからです。現れ出た神羅万象すべてのものには、始まりと終わりがあります。現れたものすべては、いつかは消えていきます。そこには見かけの上だけの原因があり、実際には何もありません。 

私の期待したとおり明らかになったように、非二元は個人のエゴを超えた観点です。それは、普通の人には信じられないような観点であり、現象に関心を持つことはありません。世界のおよそ半数の人々がマーヤー、世界は幻影であるという概念を受け入れています。でも、誰もそれが真実であるかのように生きてはいません! というのも、人々は自身の観点、自身のエゴすなわち基準点から人生を生きているからです。非二元の真の理解は、自身の基準点は制限された偽のものであると理解して、はっきりとそれを見た時にのみ起こります。もしこれが起こらなければ、理解は起きません。 

この本の目的は、個人の基準点である「私」、マインドが創り出した幻影をありのままにさらすことです。私の望みは、偉大なインドの聖人、ニサルガダッタ・マハラジが、私の師であるセイラー・ボブ・アダムソンにやっとこと、そしてセイラー・ボブ・アダムソンが私にしたことを読者に対してすることです。そしてそれは、「探求者を助けの要らないところまで連れていく」ことです。この本を読んで、あなたがあなたの生涯を生きてきた「私」はマインドが創り出した偽の創造物であることをはっきりと理解すれば、あなたはもう二度と助けを必要としません。あなたは自身の本質を知り、理解するということの本当の意味を知るでしょう。

私が教えているのは、理解を通じた昔からのシンプルな方法である。自身のマインドを理解しなさい。そうすれば、マインドのしがらみは瞬時に消える。マインドは誤解する。自らの本質を誤解する! 正しく理解することだけが救済策だ。たとえそれを何と呼ぼうと。

ニサルガダッタ・マハラジ

「シュリ・ニサルガダッタ・マハラジの知恵」ロバート・パウエルより