2019/01/28

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑪

Living Reality 抜粋 パート2

第一章からの抜粋

自然な状態

一歳か二歳のころ、言語を習得する前、人は単一性の中で生きています。自己の外での経験はまだありません。なぜならまだ自己は概念化されていないからです。そこにあるのは、ただまったくの直接の経験、いにしえの神秘家たちが非二元と形容したもの、他には何もない一つのもの、「自然な状態」と呼ぶものです。

二歳ぐらいになると、ゆっくりと言葉を理解し始め、子供は自分の名前と自分が個人であることを学びます。この時点から、「私」と呼ばれる基準点があなたの一生を生きていくことになり、「私」の外のものはすべて「他のもの」と考えるようになります。私たちが知っている人生が始まり、私たち自身の本質からの分離が生まれます。この分離感が表面的には終わりのない完璧さへの渇望を生みます。それはまた、利己心、欲求、行きわたる不安感、多くの問題を生み出します。この本の教えの大部分はセイラー・ボブ・アダムソンと精神世界の探求者たちの間で交わされた、「私」として知られるマインドの中の自己認識の正統性の欠如についての会話から成ります。いったんそれが架空のものとわかれば、偽の「自己の中心」、人間が作り出した基準点は消え始め、一方で自然な状態、全体性、一体性がそこにあるすべてであり、それは残ります。見かけ上失われた自然な状態を取り戻すことが何千年にもわたって探求者のゴールであり続けました。

今ここにある意識(presence awareness)と呼ばれる自然な状態は不変でいつもあり、魚にとっての水、人にとっての空気のように人々に見落とされています。エンライトメント、すなわち自己実現を達成したと言う人たちのもっとも一般的なコメントは、彼らが目覚めたその瞬間に理解するのは、もともとそうだったということです。なぜなら、自然な状態はいつも私たちとともにあるからです。実際、今ここにある意識が唯一の実在であり、私たちの人生において唯一不変のものです。それが私たちの存在の基盤です。自然な状態は私たちの根底をなす状態、すなわち「存在の基盤」であり、そこですべての経験が生まれます。しかしそれは、ほとんど毎日毎瞬の、まったく自動的に条件付けられた日々の行動によって、ほとんど無視されてきました。それはまったく偽りの基準点、「私」なのです。

あなたがこれから読む話は、調査と吟味、私たちが無意識に生きている「私」をさらけ出すことについてです。熱心な探求者にとって、ここから先の話の中に究極の自由、自然な状態があります。それは、とめどないエクスタシーや水の上を歩く能力のことではありません。それは心理的な苦悩の終わりにすぎないということです。   

例え話
昔あるところに、世界中を旅してエンライトメントを探している探求者がいました。ある時彼は、本物の自己実現を成し遂げた師のことを聞き、会いに行きました。彼はその人助けに熱心な聖人に、自分の望みを伝えました。その聖人は、たった三語。「汝それなり」と言っただけでした。(「それ」とは今ここにある意識、他には何もない一つのもの、神、究極のもの、などと言われるもののことです)その探求者はその言葉に感動することも変わることもなく、完全に失望して、探求を続けました。

彼はそのアシュラム(グルの家)から、さほど遠くない場所に、とても崇拝されている別の師を見つけ、彼に自らを自由にしてくれる真理を知りたいという望みを伝えました。その新しいグルは探求者のそれまでの探求について尋ね、探求者は落胆した話をしました。

今度のグルは最初のグルと懇意のグルで、こう言いました。「私は確かにお前を助けることができる。しかしお前は真理のために準備しなければならない。もしお前が12年間私に仕えるなら、お前を助けてあげよう。アシュラムマネージャーのもとへ行けば、仕事を与えてくれるだろう」

探求者は大喜びしてマネージャーのもとへ行き、トイレ掃除の仕事をもらいました。

12年間のトイレ掃除を終え、探求者は彼の敬愛するグルのもとへ行き、真理、彼を永久に自由にする真理を聞く用意ができたと告げました。

グルは言いました。「汝それなり」

おわり。

私の場合、12年間のトイレ掃除に相当するのは30数年に及ぶ毎日の瞑想、9回もしくは10回の数か月にわたる瞑想コース、ハタヨーガ、クンダリーニ呼吸法、リバーシングセッション、マクロビオティックスとその他の食事浄化法、ロルフ式マッサージ、バイオエナジェティックス分析、ESTセミナー、Actualizations、Lifespring、 Reichian Therapy、ヒンズー・ヴェーダ占星術、精神世界の本などなどです。

物語に出てくる探求者と同様、私も探求の途中で何度も、「あなたはそれである」(完全には「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」)という言葉に出会いました。その探求者同様、私はこれを、私や私の状況とは無関係なものと思っていました。それまでの探求から、エンライトメントは、奇跡的で意識が恍惚感で満たされ、絶え間のない至福を伴い、いったん手に入れれば二度と失わないものと信じていました。悲しみも問題も不快感などもないもの、地球上で幾多の人がいくつもの探求活動をしても、めったに手に入れられない状態、キリスト、ブッダ、老子のような状態であると。

私のトイレ掃除の終わりは、ヒンズーの精神体系の一つであるアドヴァイタから、ニサルガダッタ・マハラジとその教え子であるオーストラリア人、セイラー・ボブ・アダムソンの教えとしてやってきました。それはまた非二元としても知られています。アドヴァイタの文字通りの意味は、「二つではないもの」で、「一つ」よりも好んで使われます。なぜなら、「一つ」は他に何かあるのではないかと連想してしまうからです。アドヴァイタは、目覚めを理解、もしくは認識として提供します。それは聖書にあるように「真実を知ればあなたは解放される」であり、はっきりとした揺るぎない理解、認識です。
五十数年の間に多くの探求者を導き、1981年に亡くなったヒンズーの偉大な聖人、ニサルガダッタ・マハラジはこう言っています。
「解放とは獲得するものではなく、自分が常に自由であったという確信と信念の問題であり、その信念にもとづいて行動するということだ。何も変えるべきことはない。何かを変えようという思考は偽物だと理解すれば、変化しないものが自ずと明らかになる」

探求者たちは、ヨーガによる神経システムの浄化、マントラの詠唱、禁欲の励行、あれこれの霊的テクニックによってのみ目覚めは起きるという極端な話を何度も何度も聞かされてきました。エンライトメントは、ただ在ることではなく、変えること、何かをすることでのみ得られるという極端な話を。

ニサルガダッタは彼自身の目覚めの過程をこう言っています。「師は私に、(私はいる)という感覚を持ち、一瞬たりともそれを離すなと言いました」。彼は「私はいる」という思考のことを言っているのではなく、「私はいる」という感覚のことを言っています。
彼が言っているのは、今ここにある意識のこと。すなわち、自然な状態。私たちの存在の基盤であるラベルの貼られていない静寂のこと。彼はこう続けています。「私は彼の指示に全力で従い、比較的短期間で、彼の教えの真理が私の中にあることを理解しました。私がやった事と言えば、彼の教え、顔、言葉を絶えず思い出すことだけです。それがマインドを終わらせ、マインドが静かになると、私は無限のものであることを理解しました」。

 私はニサルガダッタの本から多くを得ましたが、中でもとりわけ傑作である「I Am That」の中で、彼がセイラー・ボブ・アダムソンに指導したことを覚えていてくれたことを非常に感謝しています。ボブは30年間教え続け、まったく幸運にも、ずっと以前に本物の師を探すことをあきらめてしまった私の前に現れたのです。エゴ、金、権力、セックス、スキャンダルなどに汚されていない師。普通の良識を持ち、それでいて慈愛深く、ユーモアに富み、愛情に満ち、明晰でわかりやすい師が。