2019/01/24

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑨

非二元の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにしないでください。

セイラーボブが私たちに教えようとしているのは非二元の世界です。非二元の世界は、ボブ英語でいうと、reality (実在)、または、unmanifested world(非顕現の世界)です。一方、私たちが住んでいる世界は現実の世界。ボブ英語でいうと、appearanance (顕現、みせかけ)、または、manifested world(顕現の世界)です。

私もそうでしたが、セイラーボブの教えを学んで日が浅い人の中には、非二元の世界と現実の世界をごちゃ混ぜにして理解しようとする人がいます。それが混乱を引き起こします。

「私もあなたもいない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」こういったボブの発言は、非二元の世界のことを言っているのであって、現実の世界の話をしているわけではありません。

時々、それをごちゃ混ぜにして、「最近体が消え始めた」「頭が消えた」「何も起こっていないのだから何をしてもいいのだ」「ピラミッドなんて、あるように見えるだけで、実際には何もないのだ」なんて言っている人がいます。

そうではありません。現実の世界では、あなたもいるし、私もいる。世界は幻なんかではないし、そこにはちゃんと守らなければいけないルールもあって、時間もある。ピラミッドも建っている。

セイラーボブが語る非二元の世界はどこにあるのかというと、現実の世界と同じ場所にあります。ただ私たちは、肉体という基準点を持って生まれてきました。その基準点が無くならない限り、非二元の世界を見ることも体験することもできません。

例えて言うなら、セイラーボブが語るのは映画のスクリーンで、私たちが見ているのは映写された物語です。映画が終わって点灯されるまでは私たちがスクリーンを見ることはありません。

セイラーボブと初めて会って会話する人はひどく混乱します。会話を極端に再現すると、例えばこんな感じになります。

私:「エンライトメントがないというのは本当ですか?

ボブ:「エンライトメントは何かになることです。それは未来です。時間は存在しません」

私:「いえ、私が聞きたいのは、」

ボブ:「私とは誰のことですか? あなたは自分がいると思っているのですか? あなたはいません」

私:「いえ、そうじゃなくて、昨日の夜あなたの本を読んでいたら」

ボブ:「昨日は過去です。過去は時間です。過去は存在しません」

極端に書くとこんな感じになって、ボブとはなかなか会話がかみ合いません。ミーティングでも同様で、ボブは決してぶっちゃけて説明するなんてことはせず、実直で厳格、融通の利かない非二元の教師を演じ切ります。

「私もあなたも実在ではない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」こういった発言を、ぶっちゃけた説明もなく、さも当たり前のように平然と、あたかもそれを見てきたかのように言い切るので、こちらとしてはどうしたら同じように実感できるのかと考えるばかりでした。

ボブのミーティングに2015年と2016年に参加して、(理解したぞ)と思って日本帰ってきても、いつも戻ってくる疑問が二つありました。

一つは、awareness という言葉の厳密な意味です。意識ということはわかっていたのですが、具体的にどういう意識なのかということ。「ただそれだけ」の中では、「純粋意識」「存在意識」「目覚めた意識」と訳されています。じゃあそれは具体的にはどういう意識なのだろうか、ということ。

もう一つは、「私もあなたも実在ではない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」ということに実感がもてないことでした。

セイラーボブの本を何度読んでも、そのあたりのことが釈然としませんでした。
そのあたりを、ぶっちゃけて説明してくれたのが、ギルバートとカタリーナでした。

私が2015年に行った時はまだギルバートがミーティングに欠かさず出ていたころで、Facebook を交換していたので、その後も彼のFacebook を毎日読んでいました。

ある時ギルバートがこんなふうにFacebookに書いたのです。

念のために言っておくが、
世界中の人が大騒ぎしてグルを追いかけて、探しても手に入らないと騒いでいるものは、あなたが勝手に思い違いをしているものだ。
グルたちが言っているのは、普通の意識(wakefulness)のことを言っているだけだ。
騒ぐ必要もない。ファンファーレも雷鳴もトランペットも歓迎の垂れ幕も不要だ。
普通の、まったく普通の意識のこと。
あんまり普通なので誰もその完全さに気づかない。
それは普段の視界の中に隠れている。
何も付け足すこともできなし、その必要もない。それはもう完全なもの。
そこから何も取り去ることはできない。
訓練や練習は不要。高めたり、減らしたりする方法はない。
剣で切ることも火で焼くことも水に沈めることも風で飛ばすこともできない。
段階も高さも低さもない。
何かにくっつけることもできない。
もっとも近くにあって個人のものではない。
教えたり、教えてもらったりすることもできない。
人に渡すことも無くすこともできない。
たくさんの名前を持っているが、名前はそれそのものではない。
それを探すことはそれから遠ざかることになるが、誰も遠ざけることはできない。
それは、性別は年齢や人種や信条にかかわらず、すばらしい財宝をくれる見えない寺院のようなもの。
それは、毎日の普通の意識(Wakefulness)
それがあなただ。

ここでいう Wakefulness(目を覚ましている状態・起きている状態) は、awareness (意識)と同じ意味で、セイラーボブもよく使います。
私はこれを読んで、ボブのいう「意識」の意味が完全に理解できました。ボブのいうアウエアネス(意識)=(Wakefulness)は、私たちの日常にある普通の意識のことです。

念のため、ボブの本をあちこち読んで確認しましたが、間違いありませんでした。
不思議なことに、2016年に行ったときの最終日のブログに、そのことを書いています。でも自分で書いておきながら、忘れたというか疑問がわいたというか、人間そういうものですね。
p43
「あなたはそれを何と呼びますか?普通のアウエアネス(意識)です。普通の、ただの日常の普通のアウエアネス(意識)です。


もう一つは、「私もあなたも実在ではない」「世界は幻影であり、そこでは何も起こっていない」「時間は存在しない」「万物は一つのものである」ということに実感がもてないということでしたが、これはカタリーナがミーティングでぶっちゃけトークをやってくれたおかげで、それを体験することも実感することもできないとわかりました。

「(私はいない)ということをいくら考えても、(私はいる)という思いは消えることはない。なぜなら、もし私という主体が消えたら世界が消えて何も認識できなくなって、(私はいない)という認識も消える」

「私がいない、ということを体験しようとしてもそれはできない。あなたが、(私)という基準点を完全に無くすのは肉体を離れた時であり、死んだ時である」

「この世がマヤ(幻影)だといくら言っても、実際には生きている限り世界は現われ続ける。(私)という基準点は生きている限り現われ続ける」

ボブの教えを理解しても、実際に何か体験が起きるということはありません。非二元の世界を体験することもなければ、垣間見ることもありません。体が消えることも、世界が消えることもありません。何も起きません。何か起きたと言うなら、それはトリップであり、トラップです。

ボブは私たちと同じ世界を見ています。ボブが非二元の世界を見ているわけではありません。「時間はない」と言いながら、ミーティングが終わりに近づくとチラチラと時計を見ます。個人面談の予定が入れば手帳にメモします。

「私はいない」と言いながら、イケヤのフードコートではムシャムシャと肉料理を食べ、苦いコーヒーを飲みます。
「体はない」なんて言いながら、鍼を打ってもらいます。

ボブは覚醒した人ではなく、普通の人です。
「昨夜は眠れなかった」なんてことはしょっちゅう言っていましたし、庭の木を切っていて額をひどく擦りむいたこともありました。

ボブは超常的な経験や秘教的な経験、奇跡、奇跡を行う人には興味がありません。また、俺は覚醒したと公言する人や、最終理解を達成したと公言する人にも興味がありません。
ボブは普通の人です。でもミーティングになると、厳格な非二元の師となります。

ボブは常に堅物で厳格な妥協のない非二元の教師で、160キロの剛速球を投げて、注意をそらさないようにします。でも私はその剛速球を見送りするばかりで少しも理解できなかった。

ギルバートとカターナがぶっちゃけトークをしてくれて、160キロの剛速球の打ち方をお教えてくれなかったら、私がボブの教えを完全に理解することはなかったと思います。

ニサルガダッタ・マハラジは、彼の教えは6、7回聞けば十分に理解できる教えであると言っていて、セイラーボブも同じことを言っています。(Living Reality.p.150から)

私はセイラーボブに会ってから、彼の教えを完全に理解するのに4年かかりました。でも、それはニサルガダッタ・マハラジが「I am」と繰り返し唱えて自己の本質を理解するのに要した年月と違って、私の場合は英語力の問題もあったと思います。もし、ボブの教えをちゃんと理解している日本人が日本語で説明してくれたなら、もう少し早く理解できたのではないかと思います。

そう考えて、私は親しい友人に、私のブログの セイラーボブの教え (概略)を読んでもらい、その後で口頭で彼に説明しました。その友人は、精神世界には全く興味のない人です。そしたら、「全く理解できない」という返事でした。
それを聞いて、けっこう驚きました。誰でも理解できると思ったのに、やっぱりそれなりの興味があって、機が熟してないといけないのかもしれません。

セイラーボブの言っている内容そのものを理解することはそれほど難しいことではないと思いますが、それを本当の意味で理解することは機が熟してないと起きないのかもしれません。

以下はliving Reality.p.134から。

マーチン:ボブ、あなたのマインドの定義は何ですか?

ボブ:マインドなどというものは実際にはありません。マインドは思考の集まりであり、それを私たちはマインドと呼んでいるだけです。そして思考はもちろん独立した存在ではありません。それはやってきては去っていく。私たちは見せかけの世界で自分を見失います。それでも見せかけは現われ続けます。体がある限り、私たちは同じように感じ続けるでしょう。対極のある一対のものとして。それ以外のやり方で感じることはできないのです。それをあなたが理解するかどうかにかかっています。そしてそれを見抜くことができれば、あなたは解放されます。

以下はliving Reality.p.142から。

ジェームズ:ボブ、あなたは実際には空(くう)を見ているわけではないのですね? あなたはただ、すべては空間であると理解しているだけですね、そうでしょ? なぜ尋ねたかというと、いろんなことを言う人のことを聞いているからです。超常的な知覚や、オーラやエナジーが見える人などのことを。

ボブ:彼らが実際にそれを見ているかどうかは問題ではありません。彼らが何らかの経験をしているかどうかにかかわらず、彼らも私とあなたと同じように空(くう)を見ているだけです。実際のところ彼らは、「私の経験の方があなたの経験よりすごい」と言っているにすぎません。彼らにどんなことが起こっていようが、彼らは見せかけ、すなわち空(くう)を見ているにすぎません。たとえそれがどんなにすばらしく恍惚とするような出来事だったとしても。

以下は Living Reality .p.184から

マーチン:ニサルガダッタと会話してから、あなたの人生が変わったのは知っています。でも、例えば、テーブルは見せかけにすぎないのですが、あなたのテーブルに対する感覚は変わりましたか。感じ方は変わったのですか。

ボブ:いいえ。そのままです。以前と同じままです。でも、それは見せかけにすぎないと完全に理解しています。

マーチン:ということは、あなたの知覚はそのアウエアネスで変化したということはないのですね?理解することで世界は変わりますか?

ボブ:ええ、何かをできる何者かが存在するという信念はもはやありません。分離した存在がいるという信念もありません。それは見せかけにすぎないのです。そこにあるのは一つの知る行為(one knowingness)があるだけです。

以下は A sprinkling of Jewelsから。

もしあなたがバケツ一杯の青い海の水を汲んでも、それは青くはありません。もし海が青く見えても、あなたが実際には青ではないと知っていれば何の問題もありません。あなたは青くはないと知っているのに、どうして青さを変えようとするのですか?

以下はLiving Reality.p.290から

ボブ:あなたはマインドの中に答えを見つけることはありません。マインドは物です。私たちの本質は物ではありません。物は物ではないものを理解できません。私たちは答えをマインドの中に探すが、そこに答えはありません。そして、マインドからの出口は全停止しかありません。その全停止の中で、あなたの思考は止まるが、そこに意識はあります。思考と、むき出しの意識には違いがあります。あなたの思考がない時、たとえそれが一瞬でも、あなたは思考を超えています。人々は思考を超えようと何年も費やします。しかし実際にはとてもシンプルなことなのです。