2019/01/12

セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑤

アウエアネス・awareness(意識)

セイラーボブはミーティングで、「アウエアネス・awareness」という言葉を頻繁に使います。ボブはこのアウエアネスのことを「知性エネルギー」「空」「認識する空」「seeing」「スペース」「それ」など、様々な言葉で言い換えします。

ボブの使うアウエアネスの意味は、「意識」のことです。私たちが日常、普通に持っている意識。誰かが気絶すると、「意識がなくなった」とか、「意識が戻った」とか言うあの意識のことです。

もっと詳しく言うと、思考(言葉)、イメージ、記憶などの背景にあるもの。思考(言葉)、イメージ、記憶などがやってくるスペースのようなもの。「背景にあるもの」、「やってくるスペース」という言い方は正確ではないかもしれません。思考やイメージもアウエアネスそのものなのですから。

その意識の中に様々のものがやってきます。思考、記憶、言葉、イメージなど。朝、目が覚めると、意識の中に一日がやってきます。目を開けると意識の中に目覚まし時計がやってきて、(会社へ行かなくちゃ)という思考がやってきます。そこから一日中、意識の中に一日の出来事が次々にやってきます。

あなた、私、椅子、建物、海、山。全部意識にやってきます。私たちには、物心ついた頃から意識があります。そのためこれを個人の意識だと思っていますが、そうではありません。逆なんです。個人がアウエアネス(意識)の中にいるんです。

宇宙の果てまで、このアウエアネス(意識)があるだけです。それがセイラーボブのいう「他に何もない一つのもの・one without a second」であり、「ただそれだけ」のそれです。

そのアウエアネス(意識)の中に「私」という個人が現れます。そうするとその個人はその意識は自分のものだと錯覚しますが、そうではありません。あなたも私も、猫や犬もアウエアネス(意識)の中にいて、アウエアネス(意識)を自分のものだと錯覚しています。

机や椅子もそうなのですが、机や椅子の場合には「知性エネルギー」と言った方が適切なのかもしれません。というのも、机や椅子は人間のように感覚器官がないために、それを意識として認識することができません。でも、机や椅子もアウエアネス(意識)の中にいるのであり、アウエアネスそのものです。

私たちの意識がなくなると、全世界が消えるのか?ある意味そうです。私たちは五感と思考を使って世界を認識しています。もし肉体を離れてその機能がなくなると、私たちは何も認識できなくなって、そこに何があるのかわからなくなります。このあたりのことは、セイラーボブの教え(入口)に書いたので読んでみてください。
コウモリは超音波を使い、犬は人の100万倍以上の嗅覚を使って世界を認識しています。私たちとは全く別の世界(アウエアネス)を感じ取っています。

さてここで、セイラーボブの教えを勝手に一行に要約してしまうとこうです。

「あなたは体でも思考でもなく、アウエアネス(意識)である」

それだけのことをボブは様々な言い替えや例え話で私たちに伝えようとしています。
ボブが使うawareness(アウエアネス・意識)の別の呼び方を書き出してみます。
・intelligence energy(知性エネルギー)
・cognizing emptiness(認識する空)
・space もしくは space-like awareness(空間のような意識)
・nothing(「無」あるいは「空」)
・presence-awareness(いまここにある意識)ゾクチェンの言葉。さらに付け加えて、non-conceptual, ever present, self-shining, one without a second, just this nothing else(概念化されず、永続で、自ら輝き、他に何もない、ただ何もないもの)という時もある。
・omnipresence, omniscience, omnipotence(偏在、全知全能のもの)聖書から
・Advaita(ヒンズー教)ad=not, vaita=two 二つではないもの
・non-duality(非二元)advaitの英語訳
・one without a second アドヴァイタ(他に何もない一つのもの・mahavakyasから)
・not two
・sat-chit-ananda =being存在-awareness意識-loving愛(ヒンズー教)
・刀でも切れず、火でも燃やせず、風でも乾かせず、水でも沈められないもの
 (ヒンズー教聖典ギータから)
・シバのダンス
 (ヒンズー教)この世に現れるものはすべて神の遊び、気晴らし。神が無知を装って様々な形となって現われ、ふたたび自分を再認識する様子を言う。実際には何も起こっていない。エネルギーのパターンが現れているだけ。
・non-conceptual awareness(概念化されない意識)
・naked awareness(むきだしの意識)
・seeing(見ること)五感はすべて自然に起こるアウエアネスの現われ。
・hearing(聞くこと)そこには見る人も聞く人もいない。
・smelling (かぐこと)
・touching (触れること)
・tasting (味わうこと)
・being (本性・本質)もしくはbeingness 我々の本性は意識(アウエアネス)
・wakefulness(起きている状態)
・timeless spaceless bodiless mindless birthless deathless pure presence awareness(時間もなく空間もなく体もなく思考もなく死もない純粋な今ある意識)
・natural state(自然な状態)
screen (映画のスクリーンがアウエアネスで映し出される映画が世界の例えで使う)
mirror (鏡がアウエアネス(意識)で映し出されるものが世界の例えで使う)
sun (太陽がアウエアネス(意識)で雲が思考の例えで使う)
クンダリーニ(エネルギーもアウエアネスの現われ)
以下は「ただそれだけ」中で使われている表現
・それ
・偉大なる完全さ
・非概念的意識
・思考が現れ、それ自身を信じ始める前の空っぽさ
・穢れのない原初のもの
・偏在、全能、全知であるもの
・思考によって分断されない単一なるもの
・二番目のない一なるもの
・一つでさえないもの
・空間的意識
・認識する空
・純粋な気づき
・意識
・非概念的
・永遠に新鮮
・自ら輝くもの
・存在意識
・まさにこれであり、それ以外の何物でもないもの
・不生の仏心
・ブラフマー(ヒンズー教の創造神)から草むらまで(ギータ)

これは全部、アウエアネス(意識)の別の呼び方です。ボブはアウエアネス(意識)と思考の関係をこれらの言葉使って説明します。いくつかボブの使う例え話を書きます。

一番頻繁に出てくるのが鏡の例えです。ボブの家の居間の壁には大きな鏡があって、ボブはその鏡を使ってしょっちゅうこの例えを使います。
鏡がアウエアネス(意識)で、その中に映るものが世界であり思考です。鏡には人々が映ったり去ったりしますが、その背景である鏡(意識)は何の影響も受けません。嫌な思考や悲しい出来事が起こっても、私たちの本質は鏡(意識)であり、それが映し出されたもの(思考や出来事)に影響されることはありません。

次は映画のスクリーン。スクリーンがアウエアネス(意識)で、映し出される映画が世界や思考です。映画の間はそこに世界が現れ、楽しいことや嫌な事が起こります。でもいったん映画が終わるとそこには白いスクリーンがあるだけです。「何も起こってないんだよ」なんて言う時も多いです。

太陽もしくは空をアウエアネス(意識)、それを覆い隠す雲を思考に例えるときもあります。私たちの本質が太陽であり空であると知っているなら、どんな雲(思考や出来事)が覆い隠しても不安になったり悲しんだりすることもありません。

ボブがアリンタ農場を洪水で失い、病気で苦しんでいた時も、「だいじょうぶ、万事うまくいくだろう」という感覚があった(「ただそれだけ」p.66)というのは、思考が私ではないということを理解していたからです。彼がエンライトメントしていたからではありません。

さてこのアウエアネス(意識)をはっきりと認識するにはどうしたらいいでしょうか。思考の背景にあるものなので、思考が止まっていればはっきりとそれを認識することができます。

私がボブに聞いた時は「花」ではなく「TAKU」と繰り返し唱えてストップするように言われました。(「ただそれだけ」p.108参照)そうするとそこに一瞬、アウエアネス(意識)がはっきりと認識できます。

また別の例をあげるなら、熟睡した朝、目を開ける前、思考がやってくる前のほんの一瞬、思考のない瞬間があって、そこでアウエアネス(意識)を鮮明に感じることもできます。

わざわざそんなことをしなくても、慣れてくればいつも思考や感情の背景にあるのがわかるようになります。それは瞑想したり何たらのコースやセミナーに参加したりして手に入れるものではなく、いつも普通にある日常の意識のことです。

それには段階も高い低いも浅いも深いもありません。鍛えることもなければ、失われたり、獲得したりするものでもありません。時々ボブのミーティングでも勘違いしている人がいて、「今日はアウエアネスに集中できた」とか「今日はアウエアネスがなかった」という人がいますが、集中していようがボケっとしていようが、いつもあるものです。

私の時もそうでしたが、ボブが質問者から「アウエアネスとは何ですか?」と聞かれて答える典型的なパターンは、トラムの音の会話です。ボブの家の前にはトラムが二路線走っていて、しょっちゅうトラムの音が聞こえます。

質問:アウエアネスとは何ですか?

ボブ:Aren't you aware that tram? That is awareness. (トラムの音に気づいていますか? それがアウエアネスだ)

それまでトラムの音など全然気にしていなかった質問者に、今走っていったトラムの音に気付いているか?と聞きます。このやり方は英語ネイティブには有効ですが、日本人にはどうかなぁ、と思います。aware (気づく) と awareness (意識)で韻を踏んでいるわけですが、日本語で韻を踏んで訳すと、「トラムの音に気付いてないのか?それが気づきだ。」となって、意味不明になってしまいます。

人間の五感はすべてアウエアネスの現われです。耳で聞いていると思っていますが、実際に聞いているのはアウエアネス (意識)です。目で見ていると思っていますが、実際に見ているのはアウエアネス (意識)です。脳で考えていると思っていますが、考えているのはアウエアネス (意識)です。

最近私は丸善に行った時は、脳科学のコーナーに行って、意識に関する本を立ち読みします。でも驚いたことに、意識が何なのか、いつ発生するのかということは科学的にも医学的にもまだ何も解明されてないそうです。

セイラーボブが言うように、死んだばかりの死体には目も耳も脳もあるのに、それだけでは見ることも聞くことも考えることもできない。コンピューターに電気が通らないと何も機能しないのと同じで、人間には知性エネルギーが機能しないと見たり聞いたりできない。

ボブのホームページから

意識 (awareness) は、それ自身で存在するものであり、それを手に入れたり無くしたりするための努力や誰かを必要としない。自然な状態は決して失われない。それは見せかけではないので消えたりしない。それはいつも変わらない。それは物ではない。概念上の考える人や概念上の思考は概念化されない自然な状態を見かけ上で見えにくくしてしまうということを理解しなさい。ほんの一瞬でも思考を止めてみれば自然な状態は全く明白だ。止まって見てみなさい。その見ることの中で純粋な意識が姿を現わす」
                             – Sailor Bob Adamson

自らの自然な状態を思い出しなさい。基準点(自己の中心)を持たず、いかなる実体も独立した存在形式も持たない、純粋で、偏在、空間のような、現われ続ける、自然な今ここにある意識を。自然な状態(顕現と空、空間と内容物の統一体)を思い出さなければ、錯覚が起き、見せかけへの執拗な固着、私と他者、うわべの二元性、が起きる。固着がなければそこには自然な状態としての自由があり、錯覚は消え均等性(非二元)が残る。それは自然な状態であり、それがあるだけで、他には何もない。自然さ(平静)として自然に残るのは、誰にも何に対しても瞑想することのない自然な(努力の要らない)瞑想である。何かを得ようとしたり避けようとしたりすることのない、今までもずっとそうであった努力の必要のない実在。それを何度も何度も繰り返し思い出しなさい」
                             – Sailor Bob Adamson

「いまここにある意識を調べてみる時、見る「物」はなく、ただ自然な概念化されない見る行為そのもの(seeing)

けがあり、実際そこには主体も客体もない。これを調べてみるとき、 awareness (意識)consciousness (意識)マインドとラベルが貼られているものには、主体も客体も現われないということはすぐに理解できる。主体も客体も空であり、空が見ているのである(認識する空)。空は空によって空 (から)になることもなければ、空で満たされることもない。その概念を取り去ると、言葉も思考もない、形容することのできない空が残る。真空でも空白でもなく、まるで晴れ渡った空いっぱいの光のような、生き生きとして自ら輝く、自らを認識する空。それを自分で確かめなさい。あなたの他には誰もそれはできない。それは自明のこと。見ること (seeing) は絶え間のないことだということを理解し続けなさい。あらゆる疑い、疑問や議論、概念上の探求者がまたやってくるだろう。それでも概念化されない空は平穏なままだということを理解しなさい」
                             – Sailor Bob Adamson


以下は Presence-Awareness からの引用です。(p.106)

31.ただそれがあるだけ
ボブ:そこにはただそれがあるだけです。すべてのものがそれです。他には何もない一つのものが、様々な姿形となって現れているだけです。他に使われる例えとしては(空間のような意識)が空間に例えられます。空間を同じような見方で考えてみてください。すべての物は空間の中にありますね。空間の外では何か仮定したり考えたり想像することができません。あなたが何かをする瞬間、それはどこで起きますか?何の中で現れたりやってきたりしますか? それは空間の中で現れたりやってきたりするのではないですか。もしそれが何か確かな物として現れるなら、その確かな物は何の中に現れますか? 空間の中にです。同様に、この純粋な知性エネルギーすなわちアウエアネスは空間のようなもので、すべてを含んでいます。体、マインドやすべてのものがそこに現われます。それは他に何もない一つのものです。ですから、それはあなたでもあるに違いありません。しかし、あなたはそれを思考やマインドで理解することはできません。それはマインドの中にはありません。マインドは物なので、物ではないものを理解しようとしません。

今までの人生で私たちは自分の役目を果たしてきましたが、どれほど空間に気づいてきたでしょうか? もし私があなたに、最初に見えるものは何ですか聞くと、あなたはたぶん、壁か何かが見えると言うでしょう。「ええ、最初に見えるのは空間です」と言う人はほとんどいないでしょう。いつもそうです。あなたが目を閉じている時でさえ、あなたの眼球と瞼の間には空間があります。アウエアネスについても同じです。あなたがきちんと物事を見始めると、最初に起こることは、もっともっと空間に気づき始めるということです。逆に言うと、すべてはアウエアネスの中で起こると知っているなら、最初にそこにアウエアネスがあることを認識し、感覚や感情、すべてがそのアウエアネスの中に現れます。あなたは空間を切ったり、掴まえたり、かきまぜたり、どうすることもできないと知っています。アウエアネスも同じです。それをどうすることもできないのです。何者もそれに触れることはできません。どんな傷もドラマもトラウマも決してそれを汚すことはできません。

別の言い方すると、「認識する空 (くう)」です。認識することはいつも起こっています。すべてを認識しているのは純粋な意識です。すべての物はただそのように現れる。認識する空。あなたはそれをどう理解しますか?「おや、私は今空 (くう) を見ている。今私は空に気づき始めた」彼らが言っているのは認識している者自体が空 (くう) ということではないだろうか?認識しているのは空 (くう) である。それを理解しなさい。あなたが注意して見る時、ここで最初に理解するのは、頭などないということです。そこにはただ空があるだけだ。すべてをそこから見ている。あなたが詳しく認識する空の中を調べてみると、そこにはいかなる見る人も考える人も意思決定者もいないとわかるでしょう。それはまったくの空 (くう) である。その中に物事が現れる。この体、頭の両側面、体の正面、これらはすべて、鏡の中の反射のようなものです。鏡の特性は反射すること。それは澄んでいて何もないが、近くに来たものを反射する。鏡に映し出されたものは鏡を汚したり触れたりすることはありません。

それを調べてあなた自身が空 (くう) そのもの、物ではない、と理解しなさい。すべてのものがその空間のようなアウエアネスすなわち空の中に現れては消えるということを理解しなさい。空は真空だとか空白だという意味ではありません。それは認識する。それは純粋な意識。この宇宙を機能させている知性と同じもの。パターンが現れては消えていく。

難しく考えないでください。要するに私たちの意識のことを言っているだけです。
そこにあるのは空間であり、そこにあるのは意識です。

ボブの使うアウエアネスの別の言い方で私が一番好きなのは、presence awareness。「存在意識」と訳される場合が多いけど、それだとわかりづらく、何か別の意識があるように思えてしまうので、私のブログでは「今ここにある意識」と訳しています。

ボブが教えようとしていることのすべては、「私は体でもマインドでもなく、今ここにある意識だ」ということです。

あなたは今までの人生で大成功を収めたかもしれないし、取り返しのつかない失敗をしたかもしれない。これから何かを手に入れようとしているかもしれないし、失おうとしているかもしれない。

でも、そんなことは「あなた」とは関係なく起こってくることであり、それは「あなた」ではありません。「あなた」は、「今ここにある意識」。ただそれだけのことです。