至福(bliss)
私たちは、覚醒が起こって至福で満たされることを求めています。でも、私たちが探している至福はセイラーボブに言わせると、やってきては去っていく体験にすぎないと言います。そしてそれはセイラーボブの教える至福ではないと言います。
以下はLiving Reality.p.105から
エメット:あなたが理解した時、最終的な瞬間というようなものはあったのですか?
ボブ:どんな最終的な瞬間も決してありませんでした。ニサルガダッタのもとにいた時、私はただ単に彼の言うことを理解しただけです。それは、私は今までずっとそれだったということです。私は他のものではありえなかった! 見せかけの16年間の私の探求は夢のごとくに消えました。私の16年は問題ではなかったと理解しました。以前に起こったことはどんなことであれ問題ではありませんでした。未来に起こるどんなことも問題ではありませんでした。現実は今ここです。私はこの瞬間をもう一度生きることは決してできません。そしてあなたも。もし私がこの瞬間を完全に生きることができなければ、もし私が完全に見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことができなければ、もし私がマインドの中に閉じ込められていたら、私は本当には生きることができません。あなたが完全に気づいている時、完全に敏感な時、あなたは本当に生きています。それがこの瞬間の現実です。それは二度と起きません。あなたは過去を思い出し、未来を想像することはできます。でもあなたはあなたのエネルギーを、過去を思い出したり、未来を想像したりして浪費しています。なぜなら、それらの行為が、今ここを見ることを妨げているからです。ですから、もしあなたが気づいていれば、もしあなたが目覚めていれば、ということです。
エメット:至福意識と言われる最終的な自己実現の描写がありますが・・・。
ボブ:ええ、それはすべて体験です。それはそれではありません。あなたが体験できるどんなものもそれではありません。キリスト、ブッダ、マホメット、などどんな名前で呼ぼうが、「無(no thing)」を超えて行ってはいません。そして私は自分が無であると知っています。誰もそれを超えることはできないのです。
エメット:あなたはそこへ行って至福を感じることができますか?(笑い)
ボブ:あなたは至福を体験することはできます。しかしその至福は単なる体験です。私は沈黙や平和よりもおしゃべりの方を好むというわけではありません。それは両方とも体験です。その体験がその中で、もしくはその上で起きる場所が本質であり、それが私です。そしてそれは決して変化することがありません。実在の定義は決して変化しないものです。[ある辞書の実在の興味深い定義は(否定できない確かな存在)] その他のものは束の間のもの、やってきては去っていくもので、実在ではありえません。実在は「無 no thing」です。
ジェームズ:あなたは探求の途中で、その状態を達成したら、どんなに至福に満たされるかという記述に出会ったことはありますか?
ボブ:もちろんです。
ジェームズ:ということは、彼らは基本的には誤解して教えていた、まちがっていた、そうでしょ?
ボブ:そうです。それらを体験することはできます。私にはあらゆる種類の体験があります。幻覚を見たこともあります。あらゆる種類のクリヤ(背骨から強いエネルギーを上昇させるためにとるポーズ)から即座に起こるクンダリーニを経験したこともあります。至福や恍惚感も体験しました。様々な色の光も見ました。でもそうしてことは、あなたが探しているものではありません。それらの体験はやってきては去っていきます。あなたが探しているのは無(no thing)です。そしてあなたはいつもそれであったし、これからもそれです。あなたはそれを探すためにどこにも行く必要はありません。なぜならあなたはそれだからです。そしてそれが、あなたが探している幸福をもたらします。
ジェームズ:あなたが話しているのは、あなたの生涯あなたとともにある幸福感のことを言っているのですか、それともニサルガダッタの教えを理解してから始まった何かのことを言っているのですか?
ボブ:それは、いつもそこにあったが、決して気づくことが無かった何かのことです。それは無視されていました。でもいつもそこにあった。それはマインドにとってはシンプルすぎて理解できなかった。その微妙さはマインドではとらえられませんでした。あなたが、「無 no thing」すなわち「私はいる」に留まる時、その微妙さを感じ始めます。あなたは原因のない平和、原因のない喜び、悲しみや混乱の反対ではないもの、愛や憎しみではないもの、原因のない愛を感じます。それはあなたに備わっている自然な慈愛です。それが現れ始めます。そしてそれには対極のものがありません。なぜなら原因がないからです。それが、それです。それがあなたの自然な状態です。それが、ニサルガダッタの言う自然な状態です。あなたは子供のようになります。それは、あらゆる種類のドラマが起こらないということではありません。でも、自分は何かということをずっと知っていたと理解しため、あなたはそれから逃げることはできません。あなたはそれを否定できません。あなたはそれを失うこともできません。あなたは今までもこれからもずっとそれだった気づきます。それには始まりも終わりもありません。誕生も死もありません。時間も空間もありません。それは概念化できません。あなたはそれです。いまこの瞬間。
2015年にミーティングに参加していたある日、スウェーデンから男性二人組がミーティングやってきました。二人は一週間の滞在で、ボブの家の向かいのホテルに滞在して、3回ミーティングに出ました。
一人の男性は毎回ミーティングで何度も活発に質問したのですが、もう一人の人はほとんど質問しませんでした。英語があまり得意ではないという事情があったのかもしれません。
最終日のミーティングが終わって、みんなでボブの家の近くのレストランに行って、二人を囲んで食事をしました。その時に、そのほとんど質問しなかった男性がボブに聞きました。
質問者:ところで、その、至福というのはどこにあるのですか?
ボブ:至福はあなたの日常の意識の中にあります。
そしてボブはいつものように、思考が無い時、アウエアネス(意識)にはほのかな至福があるということを説明しましたが、その人が納得した様子はありませんでした。
横で私は、きっとがっかりしたんだろうなぁ、と思って聞いていました。
セイラーボブによると、知性エネルギーから滲み出るほのかな至福が、私たちの意識にあるのだそうです。それは非常に繊細で微妙なものなので、強い刺激ばかり求めている人には気づかないと言います。
私たちのマインドは普段、それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、現代社会では強い刺激に溢れています。TV、映画、DVD、ゲーム、車、パソコン、スマホ、Twitter、SNS、インスタ、インターネット、新聞、雑誌、本、ショッピング、ドライブ、セックス、ギャンブル、酒、女、男、イベント、旅行、パーティ、グルメなどなど。
もしそういったものを一時でも脇に置いてひと息つくと、思考の合間には至福があるはずです。そこに至福があると言われても退屈としか感じないかもしれません。マインドは一時も退屈に耐えられない。至福どころか不安に感じて、すぐに何かないか探し始めてしまいます。でもそこにセイラーボブのいう至福があります。
セイラーボブはアリンタ農場で洪水や干ばつに襲われ、病気に苦しんでいる時の様子をこう書いています。(「ただそれだけ」p.66.l.6)
「そんな状況にもかかわらず、その間ずっと、「だいじょうぶ、万事うまくいくだろう」という明晰な感覚があった。どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があったんだ。先のことについて考えたり、どうなるだろうと思ったりすることはあったけど、それについて物語が構築されることもなければ、なんらかの精神的苦悩にとらわれることもなかった」
ボブは「常に一種の幸福感があった」と言っています。ボブの言う「一種の幸福感」とはこの至福のことです。ボブは、思考は「私」ではない。思考が唯一の問題であると理解していました。そしてその背景にある意識に、ほのかに滲み出る至福を感じていたのです。
その至福は無理に探すものではなく自然に感じるものだと思います。ボブは、それをどんふうに感じるようになるかを、ひまわりの種の味で説明します。(「ただそれだけ」p.57.l.5)
「自分は肉体でも心でもなく、私はそのことを理解することができた。ニサルガダッタが言わんとし、常に指摘していたのは、それはすべて観念的だということだ。私が自分自身について抱いているイメージ、考え、創造は、真実ではないということだ。私はニサルガダッタが何を指摘していたかを理解した」
ボブはニサルガダッタと最初に会ったとき、彼の言っていることの本質を理解しました。彼は心が唯一の問題だということを理解し、それを明確に見たなら、自分は二度とそれに引っかからないと思ったのです。そのセッションが終わって、玄関から外へ出ると、彼はすぐに心に捕らえられました。とはいえ、心が唯一の問題であることを理解したので、以前とは違った感じでした。彼が心にひっかかったように見えたとき、彼は自分自身にこう言いました。「おいおい、ちょっと待て、これは先日も見たことだ。これは一体何なのか?」。それは彼を制止し、彼はもう一度それを見て、それが、「ただ、おなじみの古い心の糞が、もっと出てきただけ」であることを見たのです。
「こういった古い習慣のパターンは長年のもので、すぐには止まらなかった」と彼は言います。「しかし自己憐憫や恨みに根ざした心のおしゃべりが再び始まっても、そこには何もない、だからそれは長くは続かないことを思い出したんだ」。ボブがその偽りを見るたびに、それは強烈さを失い、苦しみは和らいでいきました。
習慣が消え始めるとき、それまで微妙でよくわからなかったことが、はっきりわかるようになることがありますが、ボブはそれについてこんなふうに説明しています。昔、彼が禁煙し始めたとき、最初のうちはひまわりの種を食べてもほとんど味がしませんでした。しばらく禁煙を続けていると、彼の味覚は種の微妙な味を区別できるようになり始めました。同様に、自分は全体とは別個のものと考えることによって、分離した「自分」という
概念を形成してきた信念は、それまで一つであることの味を雲らせてきました。自分は意志とコントロールをそなえた分離した「行為者」であるという、この偽の概念を見抜くとき、存在の神秘、万物の一体性がわかってくるのです。「まず、それを味わってください」と彼はいいます。一度でも味わえば、それを忘れることはできないことを、彼は知っているのです。
以下は(「 What's wrong right now?p.28日)から引用。
質問:私の意識が訴えるのは、私は他の人たちがそれを体験するようなレベルでそれが体験できないということです。何年か前にある有名スワミが言ったのを聞いたのですが、彼によれば、ヨーガの実践、瞑想の実践で人はマインドを理解するようになり、マインドを超えることができるようになる。私には意識(consciousness)は意識の外では何も認識できないように見えます。それがジレンマに思えます。ここでの私たちのやりとりは意識レベルのものです。それで「静かにして、私が神である事を知る」方法はありますか?もしそこに何か得なければならないものがあるとするなら、瞑想するのが一番良いのではないですか?
ボブ:そのスワミであれ誰であれ、何を経験しようと、それはまだそれではありません。いわゆる超越した状態というのはまだそれではない。そこに静けさがあろうとおしゃべりがあろうと問題ではありません。なぜなら、その両方とも私にとっては経験にすぎないからです。しかし、その純粋な認識、両方ともその中に現れるのですが、そこに現れるものすべて、それは経験を超えています。それは純粋に経験する行為そのものです。
どんな経験であろうと、それではないということを、マインドで理解しなければいけないのですが、答えはマインドの中にはありません。そうなれば、あなたはいわゆる究極の状態やそうでない状態を得ることに構わなくなります。あなたはただ「今にいる」ことの繊細さの中に留まる。そこから来るものは何かを理解してください。原因のない喜び、原因のない幸福そして澄んだ慈愛が起こります。それがマインドを通して表現されたとたんに、あなたがそれらにつけた名前であるのですが、あなたは「私は今それを経験している」とは言えません。
以下は(Presence Awareness.p.81)から引用。
質問:質問があります。目覚めていること、今にいること、そして私がいないということについてです。いつも特定の感じがしているようで、自然な感じではないのです。
ボブ:ええ。それはうわべでは物ではないのですが、実は満たされているものです。
質問:どんな時でも私が現れてきます。
ボブ:マインドで理解しようとしても無駄です。そこにあなたは現れます。理解する必要はないのです。マインドも現れます。そのままできるだけそこに長く座ってください。そうすると、その何もないところに、ある種の繊細さがやってきます。それは幸福感です。もし呼びたければ、原因のない喜びと呼んでもいい。それは悲しみの対極にあるものではありません。それには原因がありません。それはただ自然にあることの幸福感です。すべてOKです。それはとても繊細なものです。なぜなら私たちは外の世界の荒い感覚に慣れていて、そちらに注意が向かいがちです。それは私たちが生まれてからの条件付けです。この繊細さとともにいると、そこに何があるかを感じ始めます。そこにはエネルギーがあり、それはあなたの顔を明るくする光、ある種の放射と呼べるようなものです。
以下は(Living Reality.p.79)から引用。
ボブ:それから私たちはオーストラリアに帰って、700エーカーの農場とたくさんのヤギを買った。そのあとの洪水でそれを失い、病気になりました。ロスリバーウィルス感染症にかかりました。それですべてを失った。ロスリバーウィルス感染症は一、二年の間は本当にひどかった。それでも、そんな最中でもいつも内側に幸福感がありました。もしそれが以前に起こっていたら、きっと狂っていたでしょう。自分を撃ち殺していたでしょう。それほどの心配とストレスでした。でも幸福感が常にあったのです。
ジェームズ:それは単に自分がいないと知っていたから?
ボブ:自分をちょっと脇に置いてみると、繊細なエッセンスが幸福感として現れます。ニサルガダッタがこう言いました。「私はただネガティブにしか言えない。もう何も悪いことはない」。これは崇高とかすごいとか何とか言うことはできないものです。そして悪いとかダメとかとも言えない。それはただあるがままです。そこには幸福感があります。それは原因のない喜び。原因のない愛と慈愛と呼んでもいい。
以下は(Living Reality.p.128)から引用。
ボブ:何年も前、ニサルガダッタのところにいた頃はひどい状態でした。彼は言いました。「私が誰かを助けるためにできるのは、もう助けが要らないところまで連れていくことだけだ」。そして彼は、私が私だと信じていることが本当かどうかを調べさせるだけでそれをやりました。彼の指示するように調べてみたら、私は私の信じているようなものではないとわかったのです。その日から今日まで、もう助けは必要なくなりました。それは、事件や問題が起きないということではありません。何年にもわたって、私たち(ボブとバーブ)にあらゆることが起こりました。でも自分という束縛から解放されたおかげで、幸福感があります。それはもともとあなたにもあるものです。あなたはそれをすべて知っていて、今までの人生で何度も垣間見ています。でも、外側の世界に焦点を合わせるあまり見落としてきました。だから私は、あなたがこれを聞くとあなたに共鳴が起こると言っています。なぜならそれがあなたの自然な状態だからです。
以下はYouTubeから(2017.1.1ミーティング)
マハーヴァキヤの大格言では、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言います。その「それ」とは何でしょう。私たちは「それ」を耳にします。「それ」はいい、とか。あなたはその「それ」を調べたことはありますか?
あなたは彼らが何のことを言っているのか、すなわち彼らが五つの独立した要素のことを言っているということを知るでしょう。すなわちヒンズー教の五つの要素。彼らがそれを、サット・チット・アナンダ・ナマ・ルパと呼ぶ時、それは存在、意識、至福、名前、形です。そして名前と形は実在ではありません。それは見せかけです。それは現実のものではありません。それは見せかけだけのものです。
でも、サット・チット・アナンダは実在です。サットは存在、チットは意識、アナンダは至福です。誰か今この瞬間に存在していない人はいますか? 誰かこの瞬間に意識のない人はいますか? 誰かこの瞬間に存在することを愛していない人はいますか? それは至福の別の言い方です。私たちは至福という考えに凝り固まり、取り違えたり見失ったりしています。私たちはそれをそのままの状態で永遠に留まる何か恍惚とした高揚した精神状態のことだと思っています。
しかし、至福とは、あなたが前日ぐっすり眠った時に、至福の眠りだった、と言うように、それは平穏すなわち平静です。そこには正しい悪い、高い低い、心地良い悪いはありません。それは単に存在する喜びです。存在の喜び。ただ単に存在への愛です。この瞬間の直接性の中で、自然に起こって常にそこにある。それが彼らの言っていることです。
あなたが、「我はそれなり」と、そして彼らが、「それとして生きる」と言う時、彼らは何のことを言っているのでしょうか。
存在として生き、意識として生き、存在する喜びとして生きること。それをまた別の表現で言うと、存在する意識は至福であるということ。サット・チット・アナンダ。存在する愛情のこもった意識。その本質を大切にしてください。自分自身を愛してください。
私たちは、生きているかぎり様々な問題にぶち当たります。生老病死は避けられません。セイラーボブもパーキンソン病を患っています。
セイラーボブの教えは、ある時覚醒が起こって、あとは悩みなく生きられる教えではありません。
セイラーボブの教えは、ある意味では幸福になるための教えではありません。幸福も不幸もマインドが作り出していると理解するための教えです。
問題が起こったら、それは誰に起こっているのかを何度も何度も思い出して、今ここを生き生きと生きていく教えです。
私にも、(もう何が起こっても大丈夫)という幸福感が芽生えました。これからも問題や困難は起こってくるでしょう。でもその時に何度も何度もセイラーボブの教えを思い出して乗り越えていきたいと思っています。