30年近く前、私はインドのアシュラムで毎日瞑想に励んでいました。当時そのグルは地球上で200人の人が覚醒すれば、それが種火となって野火のように広がり、世界中で多くの人が覚醒するだろうと言いました。
あれから30年経ちましたが、誰かが覚醒したという話を聞きません。
10年ほど前、当時全米で大人気の指導者は、今地球上で多くの人が目覚めようとしている、新しい地球がやってくると言いました。私も目覚めたい、新しい地球の一員でありたいと思い、その人の本は全部買って読み、CDやDVDもたくさん買いました。
あれから10年経ちましたが、誰かが目覚めたという話を聞きません。
一体何が起こっているのでしょうか。
私は30年近く、あっちのグル、こっちのマスターとさまよいました。多くのマスターが覚醒や目覚めを説くのですが、それに至る確実で具体的な方法をはっきりと教えてくれた人は一人もいませんでした。
多くのグルはスキャンダルまみれになって表舞台から去るか、釈然としない話で民衆をたぶらかしながら金まみれになっていたずらに月日が去っていくというパターンばかりでした。
グルホッピングに嫌気がさして世界を巡っていたところ、ある人からオーストラリアにいるマスターのことを教えてもらい、今度のマスターはどんなふうにエンライトメントや目覚めを説くのだろうと期待してメルボルンへセイラーボブに会いに行きました。
そしたらいきなり「エンライトメントなんてない!」と言われて驚きました。
だって私、30年もエンライトメントを探していたんですもの。
セイラーボブの本には12年間グルのもとで修行して「汝それなり」と言われる人が出てきますが、私なんてもっと長い。
その大半は書籍を通じてですが、会いに行った人もいるし、セミナーみたいなものも数多く出ました。
今まで誰も、「そんなものはない!」なんて言わなかった。あれこれの瞑想をしろ、このテープを聞け、何たらのコースをやれ。そんなのばかり。
私はセイラーボブに会って初めて、エンライトメントなんてものはないと理解しました。
私がここでエンライトメント(覚醒)と言っているのは、ある時何かのきっかけで意識に変化が起きて覚醒が起こり、真理が理解でき、とめどない恍惚感や至福につつまれ、悲しみも悩みもなくなり、いったんそれを達成したなら二度と失わない状態。地球上で多くの人がそれを達成しようとグルや指導者のもとで瞑想したり修行したりしているが、めったに得られない状態のことを言っています。(enlightenment は正確にはエンライトゥンメントと表記すべきでしょうが、中間にある en はほとんど発音されない場合が多いので、当ブログではエンライトメントと表記しています)
インドのグルも、全米で大人気の指導者も、それを手に入れたと自らの著書で書いていました。丸善の精神世界のコーナーに行くと、同じようなことを言っている人の本がたくさん売っています。
それを手に入れなかったら生きている意味などない、逆にいうなら、それさえ手に入れさえすれば、至福に満たされ、永久に輪廻転生から解放されるというような本ばかり。
私はそこで本を買ったり立ち読みしたりするのがライフワークのようになっていた時期があって、そこで売っている本の大半は何が書いてあるかを知っていました。ただここ最近10年間ぐらいは、グルホッピングに嫌気がさして足が遠のいていたことと、父親の介護や長旅に出ていた時期があって、これほど非二元関連の本が書棚に並ぶようになっていたことは知りませんでした。
私がそうした本を読んでいて常々思っていた疑問は、多くのマスターが「今ここを生きろ」「あるがままを生きろ」と説く一方で瞑想を奨励し、エンライトメントや目覚めなどの未来を説くことです。
エンライトメントや目覚めを目指すというのは、何かになろうとしていて、今ここではなく未来を生きているわけで、あるがままを受け入れていません。言っていることが矛盾しているのになぁ、といつも思っていました。
多くのマスターの教えは、覚醒や目覚めを手に入れさえすれば、悩みとは無縁で幸福に生きることができるという教えですが、セイラーボブの教えはある意味では幸福になるための教えではありません。
セイラーボブの教えは、幸福も不幸もマインド(思考)が勝手に作り出している実態のないものだということを理解するための教えです。
人間が生きていれば、不幸な時もあれば幸福な時もある。幸福は不幸があるから成り立つのであって、幸福だけでは成り立たない。
もし幸福しかないなら、それが普通の状態になって、幸福ではなくなってしまう。もし不幸だけならそれが普通になって不幸でも何でもなくなる。
「エンライトメントなんてない!あなたはもともとそれなのだ」なんて言った人はセイラーボブが初めてでした。
私はうかつにもエンライトメントがあるかどうかを疑ってみたことはなかったのですが、普通に考えれば、そんなものはないということはわかりそうなものでした。
1.幸福感や至福が永続するならそれが日常になってしまって、幸福や至福ではなくなってしまう。
2.何世にもわたって修行してもめったに手に入らないもので、もし今回の一生でも手に入らないなら、この人生も無駄にしてしまうことになる。そんなものに煩わされるのはやめてこの人生を楽しむほうがいい。
3.覚醒したと言っているマスターたちのやっていることが金儲けにすぎないことが多い。エンライトメントや目覚めを追及するあまり、あまりにも多くの人があまりにも多くのものを失う。金、仕事、地位、名誉、家族、人間関係、精神。最悪のケースではカルト事件に巻き込まれて犯罪者にまでなってしまう。
4.エンライトメント(覚醒)が具体的に何なのか、どんな状態なのか誰も知らない。
エンライトメント(覚醒)や目覚めは人間にとって最高の欲の現われではないでしょうか。お金では買えない。どんなに出世しても手に入らない。一旦手に入れれば来世まで持っていける。
こんないおいしいものを商売にしない手はない。仕入れ原価はタダ。儲かってしょうがない。しかもめったに手に入らないものだから、お客が手に入れられなくても返金補償も責任もない。
手に入れられなかった人はまた別のマスターを探して丸善の精神世界のコーナーで青白い顔をして立つだけ。
私はこれを覚醒産業と名付けることにしました。
なぜ人はこうも簡単に覚醒産業に騙されてしまうのでしょうか。
最大の理由は、私たちがエンライトメントについて何も知らないということ。
私たちは勝手にエンライトメントがすごくいいものだと想像しています。
でも実際はそれがどういうものなのかを誰も知りません。知らないからこそ無性に欲しくなる。
ある時少年がクモに噛まれて手先から糸を飛ばせるようになってビルからビルへ飛び移るようになったら。スパイダーマンはアニメの世界の話だ、現実じゃないと言います。
新聞記者が電話ボックスで着替えてマントを着て空を飛べるようになったら。スーパーマンは映画の世界だ、ありえないと言います。
でも誰かが、グルのもとで瞑想していたら覚醒が起こって、それ以来幸福感がとめどなくあふれ出て止まらなくなった、悩みも苦しみ全部消えた、私はとうとう手に入れた。こんなことを言おうものなら、みんな私も欲しいと言い出して、話を聞きにいきます。どうしてこうも簡単に信じてしまうのでしょうか。覚醒なんて、そんなことが起こるわけないじゃないですか。
エンライトメント(覚醒)はフィクションです。
なぜここでエンライトメントに対して辛辣なことばかり書いているかというと、セイラーボブの教えを学べばエンライトメントなんてないとわかるからです。
ボブのミーティングではエンライトメントはジョークでしかありません。
私がミーティングで覚醒のことばかり聞くものだから、ある人がこうジョークで言いました。
「オーストラリアには10万ドル出すとエンライトメントを請け負ってくれる人がいるんだ。必ず最後までやってくれる人なんだけど、どうする?」
本当にそういう広告を出している人がいるんだそうです。
私のような人がミーティングにやってきて「どうしてエンライトメントはないのですか?」なんて聞こうものなら大盛り上がりです。誰かまたそういう質問をしてくれないかと楽しみにYouTube越しに見ていますが、なかなか現れません。みんなそのへんはちゃんと理解している。
あまり辛辣なことばかり書いてもいけないので、ここでちょっとエンライトメント(覚醒)という言葉を取り巻く状況について考えてみたいと思います。
英語の enlightenment の意味は、啓発、教化、啓蒙、悟り、という意味の名詞です。日本語の「覚醒」とぴったりと同じではありません。日本語で「覚醒する」と言った場合は、何かが起こって意識が幸福感に包まれて悩み事がなくなる状態、いわゆるエンライトメントをさす場合と、「真理を理解する」という意味で使われる場合と二通りあると思います。
私が「覚醒なんてない」と言う場合は前者の意味を言っています。
ところが、この使い分けがはっきりしていない場合が多く、例えば本に「私は覚醒した」と書いてあると、読者はたいてい前者の意味にとってしまうのではないでしょうか。
精神世界の書物や翻訳では、このあたりが混同されている場合が多いように思います。英語で realize (理解する・悟る)、awake (目覚める)、understand (悟る・理解する)などは、どちらの意味にも解釈できてしまいます。
マスターやグル、指導者たちが、enlightenment, realize, awake, understand を使った場合にどういう解釈が可能か考えてみます。
①自ら、「覚醒した」と宣言している場合。
ある時、光に包まれて恍惚となって、悩みが消え、幸福感が永続していると自分で言っている人たちの場合。こういう人たちは、自分の一時的な体験を語っているに過ぎないと思います。彼らは、「覚醒した人」などという存在はいないと十分に知っているはずです。ですが、「覚醒した人」という看板は金になるために、なかなかそれが一時的な経験にすぎないとは言いません。
この部類の人たちは、言っている内容を聞けば本物かどうか十分わかるので、私はもう一切信用していません。
私の判断基準としては、未来のある時点で、永続する覚醒や目覚めが起こることを説く指導者たちは全部ニセモノだと思っています。
②enlightenment, realize, awake, understand を、「真理を理解した」という意味で使っているマスターやグルの場合。
私は、多くの信頼に足るマスターやグルたちは、この部類に入るのではないかと思っています。時の試練に耐えて未だに読み継がれている人々たちは、この部類に入るのではないかと思っています。
彼らの中には、覚醒体験がもとで真理を理解した人もいるでしょう。彼らは「覚醒した」という看板をあげることはしないのですが、回りの人間が、その人の一時的な覚醒体験を聞いて勝手に覚醒(エンライトメント)したと思い込んでいる場合が多いのではないでしょうか。彼らを見分ける特徴は、何物かになる必要などないということを「理解する」教えを説いていることです。
③翻訳に伴う問題の場合。
精神世界で使われる言葉(英語)はぴったりと日本語にあてはまるものばかりではないうえに、どうとでも解釈できてしまう幅がある。mind などが良い例で、何通りにも解釈できてしまう。翻訳者もよく理解できてなくて、覚醒なのか理解なのか、ぼかして翻訳する結果、読み手もよくわからないまま、この人は覚醒した人だと思い込むことになる。このケースもけっこうあるのではないでしょうか。
いずれにしても、セイラーボブの世界にはエンライトメント(覚醒)はありません。
セイラーボブは、「覚醒した人」という看板を完全に否定しています。彼はお金にも名声にも興味がなく、彼の家の居間に入れるぐらいの人が聞きに来れば十分と考えています。
ある時、ボブの家にインドからやってきた人が、彼の前にひれ伏し、彼の足先に触れさせてくれと言ったそうです。インドでは、覚醒した人の足先に触れると御利益あるという習わしだそうです。
その時セイラーボブはひどく怒って、その人をたたき出したという話が残っています。
セイラーボブの教えはadvaita・アドヴァイタ(非二元)の教えです。
advaita はサンスクリット語で、ad=not, vaita=two です。つまり二つではないもの。
もしエンライトメントを認めるとなると、普通の意識の他に覚醒した意識があることになり、その時点でもう矛盾してしまいます。
セイラーボブの教えには今ここしかありません。覚醒するというと、未来の時間を認めることになります。
セイラーボブの教えでは「私」はいません。それなら誰が覚醒するのか。覚醒して何者になるというのか。それではアドヴァイタではなくなってしまいます。
セイラーボブは自分に起きたことを、enlightenment と言ったことはありません。彼が使う言葉はいつも understandingです。awake(目覚める)でもrealize(悟る)でもなく、understanding(理解)です。
ボブが教えているのは、私たちの日常にある普通の意識(awareness)のことです。瞑想して手に入れたり、覚醒が起こって手に入れたりする意識のことではなく、普通の意識のことです。
今あなたはがこのブログを読んでいる普通の意識のことです。文字を追っているのはマインド(思考)かもしれませんが、その背後にある意識のことです。今ちょっとお休みして文字から目を一瞬離して思考を止めて、焦点を少し遠くのものへとずらしてみてください。
そこにある、そのむき出しの意識こそがセイラーボブの教えているそれであり、知性エネルギーであり、アウエアネス(意識)です。
それはあまりにも身近にあるため、誰も気づこうとさえしません。
何も付け足すことも取り除くこともできず、いつも新鮮な意識のことです。
それは修行や訓練で得るものではなく、高めることもできない。
それには段階も程度もなく、高い低いもない。個人のもののように見えるが誰のものでもない。
誰かに指し示すこともできないし、人から譲り受けることも譲り渡すこともできない。普通の、日常の意識のことです。そしてそれはエンライトメント(覚醒)とは何の関係もないものです。
グルやマスターたちは、握りこぶしの中にあたかもダイアモンドがあるかのように見せかけてあなたに差し出します。でもその拳が開かれることは永久にありません。なぜならそこには何もないからです。エンライトメントはフィクションです。
ただし、セイラーボブも、体験としての覚醒体験や目覚めを否定しているわけではありません。ある時何かが起こって、悩みが全部消え、光に包まれて恍惚感に浸るというような経験は程度の差こそあれ、多くの人にある経験です。
またそうした経験がきっかけとなって、自分が肉体でも思考でもないということを突然理解することも起こりうることだと思います。
しかしそれはあくまでも一過性の経験であって、それが永続するようないわゆるエンライトメント(覚醒)はないと思います。
30年ほど昔、パリである日本人の青年に会いました。その青年は旅先で時々ドラッグをやるそうです。ドラッグが何だったかははっきり覚えていませんが、大麻のような弱いものではなかったと思います。
青年いわく、ドラッグをやると、気分が澄み渡って幸福感に包まれ、自分がどうして生きているのか、宇宙の真理が何なのか、すべてがはっきりわかるというのです。
それで、毎回、それをあとでわかるようにノートに書き留めるんだそうですが、ドラッグが覚めて読み返してみると、何を書いているのかさっぱりわからないそうです。
この青年が言うように、体験として一時的に真理が理解できるような意識状態はあるのではないかと思います。ただし、それはあくまで体験であって、別次元の意識になるとか、それが永続する状態はありえないと思います。
多くのグルやマスターたちが客寄せのために自慢げに話す覚醒体験は、あくまでこうした一過性の体験にすぎないのではないでしょうか。
宗教や精神世界の人たちの覚醒体験をここで取り上げてどうこう言うのは差し障りがあるので、そうした世界とは遠い世界の人間の覚醒体験を取り上げてみたいと思います。
私が昔読んだ立花隆の「宇宙からの帰還」に出てくる宇宙飛行士のエド・ミッチェルの話が有名です。
月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無隈の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び偶然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすぺては動いているのか。こういったような疑問だ。
いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづげるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験(至高体験)だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物ではありえない。すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的をもって進化しつつある。個別的生命は全体の部分である。個別的生命が部分をなしている全体がある。 すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。宇宙は創造的進化の過程にある。この一瞬一瞬が宇宙の新しい創造なのだ。進化は創造の継続である。神の思惟が、そのプロセスを動かしていく。人間の意識はその神の思惟の一部としてある。その意味において、人間の一瞬一瞬の意識の動きが、宇宙を創造しつつあるといえる。
こういうことが一瞬にしてわかり、私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の瞬間だった。神との一体感を味わっていた。
――その神というのはつまるところ何なのか。神的プロセスを表現する概念ということだが、もう少し説明するとどういうことなのか。(立花による質問。以下同様)
神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。宇宙知性(コズミック・インテリジエンス)といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人問の意識はその思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではたく霊的知性なのだ。この本質が神だ。
――では、この肉体を持った個別的人間存在は何なのか。人は死ねぱどうなるのか。
人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、本質的には肉と骨で構成されている物質ということにたろう。そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、 人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。人問は限界があると思っているから限界があるのであり、与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、あらゆる環境与件を乗りこえていくことができる。
人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。人間の本質は後者だから、人問は不滅なのだ。キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。だから、私は死を全く恐れていない。
――そういう認識が一瞬にして生まれたということだが……。
そうなのだ。瞬間的だった。真理を瞬間的に獲得するとともに歓喜が打ち寄せてきた。その感動で自分の存在の基底が揺すぶられるような思いだった。より正確にいえば、いまことばであれこれ説明しているように、論理的に真理を把握したわけではない。ことぱでは表現できないが、とにかくわかった、真理がわかったという喜びに包まれていた。いま自分は神と一体であるという、一体感が如実にあった。それからしぱらくして、今度はたとえようもないほど深く暗い絶望感に襲われた。感動がおさまって、思いが現実の人間の姿に及んだとき、神とスピリチュアルには一体であるべき人間が、現実にはあまりにあさましい存在のあり方をしていることを思い起こさずにはいられなかったからだ。
現実の人間はエゴのかたまりであり、さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きている。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れて生きている。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して崖の上から海に飛び込んでいくところであるかのように行動している。自分たちが集団自殺しつつあるということにすら気づかないほど愚かなのだ。人間というものに絶望せずにはいられない。私の気分はどんどん落ち込んでいった。ところが、またしばらくすると、先ほどの神との一体感がよみがえってきて、感動的な喜びに包まれる。するとまたしばらくして絶望感に打ちひしがれる。こうして無上の喜びと、底知れぬ絶望感と、極端から極端へ心が揺れ動きつづけた。それが三十時間にもわたってつづいたのだ。その後は、地球への帰還の準備で忙しくなり、忙しさにとりまぎれて、そういうことは考えなくなった。
しかし、地球に戻ってから、この体験を反芻し、哲学書、思想書、宗教書などを読みふげるようになった。もともと哲学、神学に興味をもって読んではいたが、やはりそれまではキリスト教の立場からのものが中心だった。しかし、今度は心をもっと広く開いて、あらゆる宗教、あらゆる思想に偏見なく接するようになった。私が持ったあの神との一体感、あれが特定宗教の神との一体感であって、その神だけが真実の神であり、他の宗教の神は虚妄であるとは私には思えなかったからだ。
以上はこのサイトから引用しました。
エド・ミッチェルの体験はあくまで体験であり、この文章の中にもあるように、30時間でもとの意識状態に戻っています。体験の内容の是非はともかく、そういう体験を否定するものではないという例として引用しました。
アポロの宇宙飛行士たちは宇宙から帰ったあとで、宗教家になったり神秘主義に傾倒したりする人の割合が一般の人よりも高いそうで、それがこの本のテーマでもあります。
体験としての覚醒体験はあると認めます。それがきっかけとなって、真理に目覚めることもあると思いますが、それはあくまで一過性の体験だと思います。そうした体験が突然起こって、まったく次元の違う意識状態になって、それが続くと言うことはありえないと思います。
また、私たちがその体験だけを追い求めるのは間違っています。仮にそれらしき体験が起こったとしても、どう解釈すべきなのかわからないし、マインドが引き起こしている可能性だってある。またそれは、セイラーボブの教えを理解するためにはまったく必要のないことです。
一番始末が悪いのは、ちょっとそうした体験をして、(自分は覚醒した)と思い込んで、それを売りにしている覚醒産業の人たちです。上は世界的に有名なグルから下は町のセラピストまで。あまりにもそうした輩が多すぎる。
覚醒した人なんてのはいません。みんな同じ人間です。特別な意識や覚醒した意識なんてものもありません。普通の日常の意識があるだけです。
経験はそれがどんなに素晴らしいものであっても実在ではない。それは本質的に、やってきては去っていくものだ。自己実現は獲得するものではない。それはむしろ、理解するということだ。いったん到達したら失うことはない。 Nasargadatta Maharaj, I am Tthat
経験はそれがどんなに素晴らしいものであっても実在ではない。それは本質的に、やってきては去っていくものだ。自己実現は獲得するものではない。それはむしろ、理解するということだ。いったん到達したら失うことはない。 Nasargadatta Maharaj, I am Tthat
以下は What's Wrong with Right Now unless you think about it.p.100から引用。
質問:あたかも何か達成したとか、何かになるというエンライトメントという誤った概念は・・・
ボブ:何が、そして誰がエンライトメント(覚醒)するのですか? それは、自分は覚醒する、もしくは自分は完全でも一体でもないと信じている「私」にすぎません。もしそれを調べてみるなら、その「私」は単なるイメージにすぎないとわかるでしょう。それは、自分では理解することができません。それは判断することができない。それはどんなパワーも持ち合わせていません。
どうしてパワーを持っていないその思考が、完全で一体のものになりえるでしょうか?思考の本質的な特徴は分割することです。すべての思考のやり方は両極に分割すること。もともとの特徴が分割することなら、どうして一体のものになりえるでしょうか?
あなたは、一体性が起きるのは、そこに思考がない時だけだということを理解できるでしょう。そうすればそこには常に一体性があります。
質問:私たちはこのメッセージを聞いて、思考のない状態を探すのですが。
ボブ:ええ、それもまた間違いです。なぜなら、思考や理解がどう機能するかを理解するだけの問題だからです。そうすれば思考は自然と消えます。あなたは「私」が何も変えることができない事を理解します。その「私」はマインドであり、マインドでマインドを変えることはできません。
以下は小冊子 Sailor Bob Adamson Inter-view(ボブの家でのみ販売)からの引用です。
質問者:ボブ、エンライトメントというようなものはあるのですか?
ボブ:「エンライトメント」という言葉は、誰かエンライトメントする人がいるということ、何か手に入れるものがあるということ、何かなすべきことがあることを意味します。いいですか、最初に、誰かがいるという考えが浮かんだとたん、あなたは分離した存在がいるという考えを持ったということですが、それは二元性です。そしてそれは同時に未来のある時点で何かになるという考えを持つということであり、それもあなたを偏在から遠ざけます。そしてまた何かが、そして誰かがあなたにそれをもたらすという考えは、それもまたあなたを、あなたは全能、全知、偏在であるという知恵から遠ざけます。あなたは完全なものです。エンライトメントという考えは、探求者と言われる人たちにずっと探求をさせ続ける間違った考えです。探求者と言われる人たちはいつも探し続けている。探求者は決して発見者になることはありません。
質問:私たちはこのメッセージを聞いて、思考のない状態を探すのですが。
ボブ:ええ、それもまた間違いです。なぜなら、思考や理解がどう機能するかを理解するだけの問題だからです。そうすれば思考は自然と消えます。あなたは「私」が何も変えることができない事を理解します。その「私」はマインドであり、マインドでマインドを変えることはできません。
以下は小冊子 Sailor Bob Adamson Inter-view(ボブの家でのみ販売)からの引用です。
質問者:ボブ、エンライトメントというようなものはあるのですか?
ボブ:「エンライトメント」という言葉は、誰かエンライトメントする人がいるということ、何か手に入れるものがあるということ、何かなすべきことがあることを意味します。いいですか、最初に、誰かがいるという考えが浮かんだとたん、あなたは分離した存在がいるという考えを持ったということですが、それは二元性です。そしてそれは同時に未来のある時点で何かになるという考えを持つということであり、それもあなたを偏在から遠ざけます。そしてまた何かが、そして誰かがあなたにそれをもたらすという考えは、それもまたあなたを、あなたは全能、全知、偏在であるという知恵から遠ざけます。あなたは完全なものです。エンライトメントという考えは、探求者と言われる人たちにずっと探求をさせ続ける間違った考えです。探求者と言われる人たちはいつも探し続けている。探求者は決して発見者になることはありません。