2024/09/19

おたよりをいただきました

拓さんはじめまして
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。

私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハーディング、マハラ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してきている者です。
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちらのブログを発見し
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私のような探求の最
中にあるものにはすがすがしく響きました。

私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象であり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現象としての私も確
認できませんし、かえって混乱するのかなと。

拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょうか?
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なのでしょうか?
ふと気になったのでお便りさせていただきました。

よろしくお願いいたします。
ケン

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おたよりありがとうございます。
とても難しい内容で、どうご返事したらよいのかよくわかりませんが、一応何かご返事をと思い書いています。

非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。

私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解のくだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きないと言いたいだけです。理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと思います。

多くの非二元の教師たちは、「私は実在ではない」以上終わり、という人が多く、主体や客体という話を持ち込まない人も多いので、その方がわかりやすいのかなと思います。非二元の教えの核は「私は実在ではない」ということなので、それさえしっかり説いていれば、あとはそれぞれの教師の味付けだと思います。

拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょうか?

「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そんな自分はいないということを言いたいだけです。「意識だけがある」と言ってしまうと、それは誰の意識なのか、その主体は何かとなってしまう恐れがあります。実際にはそれを「意識」と呼ぶことさえ一種の観念化であって、そう呼ぶべきではないのかもしれません。仏教がいうように、そこには何もない。空だというべきかもしれません。

何もないと言ってしまった方がすっきりすると思うのですが、人間という参照点から見た場合、そこには世界を投影している何かがある気がするので、仮に「意識」という言葉を使っているにすぎません。もし、人間という参照点を離れれば、そこには何があるかは誰もわからないし、何とも表現しようもない気がします。U.G.クリシュナムルティは「意識なんてものはない」とさえ言っていたと記憶しています。

意識についても、そんな説明をしない非二元の教師も多くいます。私はセイラーボブから非二元を学んだので、意識やアウエアネスという言葉を使っていますが、実際それは何なのかと聞かれても、答えようがありません。また、それを答えることができる人がいるとは思えません。

私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象であり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、

そのように理解されているのなら、それで十分だと思います。私のブログが、その理解をかえってわかりずらいものにしているのなら、申し訳なく思いますが、ケンさんはもう十分に非二元を理解されていると思います。主体や客体という説明に違和感を感じてみえるなら、その説明は無視してください。「私は実在しない」ということさえしっかり理解してみえれば、あとの説明は不要だと思います。

時々自身のブログを読み返してみて「意識」という言葉は良くなかったなと思うこともしばしばです。でも、セイラーボブが「awareness」という言葉を使うので、その都合上、「意識」と訳して書いています。

私は、思想の体系や説き方は全く違うけれど、佐々木閑先生の教える仏教も師事しています。そこでは、「意識」や「主体・客体」という言葉も説明も出てきませんが、「私は実在しない」という基本だけは非二元の教えと同じだと思って師事しています。説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。また、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」という基本さえ外れていなければ。

お便りの返事としてはピントがずれていて、何の返事にもなっていないかもしれませんが、難しい内容なので、とりあえずこれでご返事とさせていただきます。