僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだ
それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。
Takuさんは、
セツ
「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりま
最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。
もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。
セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?
セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。
私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。
また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。
セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。
セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。
私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。
「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」
こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。
「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。
でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。
そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。
セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。
でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。
私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。
でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。
周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。
セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。
「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。
セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。
また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。
誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。
セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。
心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。
その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。
その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。
セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring the bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。
真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?
そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。
セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。
そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。
「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。
もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。
もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。
セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。