非二元の本を読んでいると、「気づき」と訳している人もいます。
でも、気づきと訳すと、そこに誰か気づく人がいるように思えてしまうので、よくないのではないかと私は考えています。
セイラーボブはまた、アウエアネス(awareness)を space-like awareness(空間のような意識)、seeing(見る働き)、seeing-knowing(見る働きー知る働き)、presence-awareness(存在意識)と表現することもあります。
私は、このアウエアネスを理解することこそがセイラーボブの教えの全体を理解する重要なポイントだと思っていて、「私はいない」や「万物は他に何もない一つのものである」という事は、それほど重要なことではないように思います。アウエアネスを正しく理解すれば、あとのことは自然に理解できることだと思います。
私は、わかりやすくするために、「今ここにある意識」という表現を使います。
世界は、今ここにある意識の中に現れます。
朝目を覚ますと、そこに世界が現れます。
また、夜空を見上げると、この今ここにある意識は遠くの星まで広がっています。
寝床で目を閉じて想像すれば、それは銀河の果てまで広がっていきます。
それには限界も境界もありません。これを言葉で定義しようとしてもできないし、一体これは何なのかと考えても理解できません。
それが私であり、あなたであり、すべてです。
すべての物事はそこに現れます。それは一つのものです。
それは誰かに与えてもらうものでもなければ、エンライトして手に入れるものでもありません。
それは、今ここにある意識。それが私です。
私は、この瞬間にしか存在しません。
すべての存在は、今ここにある意識の中にあります。
私たちが物を見る時、その背景にはアウエアネス(awareness・意識)があります。
でも私たちは直接アウエアネス(awareness・意識)を見ることはできません。
音も同じです。音もアウエアネス(awareness・意識)に現れますが、私たちは音の背後にあるものを認識することができません。
五感、思考はすべてアウエアネス(awareness・意識)に現れます。でも、私たちは直接アウエアネス(awareness・意識)を認識することはできません。
逆の言い方をすると、五感、思考を通じてしかアウエアネスを感じることはできません。
五感、思考そのものもアウエアネスです。
それゆえに人々はその存在に気づくことが容易ではありません。
でも、そこにあるのです。一番身近なところに。
それなくしては、景色も音楽も味も思い出も、何も認識することができません。
それが私です。I am that.
タスマニア クレイドル山国立公園 2017