2019/07/09

おたよりをいただきました。

おはようございます。
拓さんは、もっと違う人生(より良い人生)が良かったと思うことはないですか?
よろしくお願いいたします。


何とも、哲学的な質問をいただいて、どう答えていいのか困っています。
「もっと違う人生(より良い人生)が良かった」と思ったことがない人なんているのでしょうか?

幸せそうに見えても、誰しも苦しみや悲しみを抱えて生きています。
精神世界に興味を持っている人は特にそうです。そうでなければ、精神世界の本を読んだりはしません。

私の場合は、「もっと違う人生(より良い人生)が良かった」というよりは、「あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思うことばかりの人生でした。

私は30歳の初め頃まで、公務員をしていました。ある時、ふとしたきっかけから、今でいうパニック障害になりました。電車に乗っていても、不安で不安で乗っていられなくなるくらいでした。

パニック障害と同時に強迫神経症もあり、毎日が何をしていても苦しくて恐怖の連続でした。
当時は、それがパニック障害、強迫神経症ということさえ知らずに、自分は気が狂ってしまったのだ思い誰にも相談しませんでした。それを克服しようと、催眠治療を受けたり、精神世界の本を読んだり、瞑想したり、グループセラピーに参加したりするようになりました。

ところが症状は一向に改善せず、毎日が苦しくて苦しくてしかたがありませんでした。
精神世界に深く傾倒していき、こんな苦しみはもう嫌だ、輪廻転生から抜けて、エンライトメント(覚醒)したいと本気で思うようになりました。
思い悩んだ挙句、仕事を辞め、インドへと旅立ちました。

エンライトメント(覚醒)さえ手に入れればすべての苦しみから解放され、私の症状も消えるだろうという、今から思えばとても浅はかな妄想に取りつかれていました。もちろん両親を悲しませることになり、それまで築いてきた人間関係も崩壊しました。

それからの私の人生はどんどん悲惨な方へ転がり始め、次から次へと不幸な出来事が重なっていきました。母が亡くなり、弟が癌で亡くなりました。

体調不良が何年も続き、いくつもの病院にかかりましたが原因不明で、今でもそれほど万全な体調というわけではありません。

新しい仕事に就いても、エンライトメント(覚醒)が頭から離れず、その仕事をずっと続ける気にはならず、転職もしました。
お金にまつわる大失敗から、貯金のほとんどを無くしたこともありました。

こんな私でも、一緒に家庭を持ちたいと言ってくれる人もいたのですが、エンライトメント(覚醒)病に取りつかれていた私は、家庭を持ったら探求どころではないだろうと、家庭を持ちませんでした。その選択もその後長い間私を苦しめました。

この間の20年間は、悲惨な出来事の連続で、毎日、「あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思う日々でした。

最後には、上司のこっぴどいパワハラに毎日悩まされながら、家では認知症の父の介護をするという日々が5年以上続きました。経済的にも苦しい時期で、会社を辞めることもできませんでした。

この20年間、外見上は普通に見えたかもしれませんが、私の内側はメチャクチャで、毎日土砂降りの泥沼の中をイカれた精神を騙しながら、やっとの思いで歩いているような日々でした。

父の介護が終わり、すべてを忘れたくて、会社を辞めて長旅に出ました。
一年半ほど旅をした頃にはずいぶんと気持ちも晴れて楽になってはいましたが、まだエンライトメント(覚醒)病があり、セイラーボブに会いに行きました。

そうしたら、セイラーボブはいきなり、エンライトメントなんてものはない、と言うのです。
私が何年も探したエンライトメントはないと言うのです。
それだけではなく、「私」もいないと言うのです。
あのムチャクチャな苦しみを味わってきた「私」はいなかったと言うのです。

時間はかかりましたが、私はセイラーボブのメッセージをしっかりと理解しました。
そして苦しみから解放されました。
あの日以来、あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」という思いは無くなりました。

今でも時々はそういう思いがやってくることはありますが、そこには「私」はいなかったことを知っているので、また昔の思考の癖がやってきたなとやりすごす程度で、それが苦しいとかはありません。

もう少しわかりやすく言うなら、起こるべきことは私の意思とは関わりなく起こったのであって、私に選択の余地などなかったのです。そういう風にしか生きられなかったのです。

本当の私とは、映画のスクリーンのようなものです。
スクリーンの上には、いろんな映画が写し出されます。悲惨な出来事や、つらい出来事、苦しい事、恐ろしい事。
私たちは、そのストーリーが自分に起こっていると思っていますが、そのストーリーの中には「私」はいません。

それは単なるストーリーです。映画が終わって電気がつけば、そこにあるのは真っ白なスクリーンだけです。そのスクリーンが私です。
スクリーンはストーリーが悲しいと言って泣くこともなければ、苦しいと言って逃げ出すこともありません。あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思うこともありません。

ただ、実際の私たちの人生のストーリーはずっと続いていくので、白いスクリーンを直接見ることはありません。

あなたの人生のストーリーがどんなに苦しいストーリーだったとしても、そこには「私」はいないということを理解してください。そうすれば、そのストーリーは昨日テレビで見た映画のストーリーと何も変わりません。

この人生を生きている「私」も、あの人生を生きている「あなた」も、そこには誰もいないということを理解してください。
「私」「あなた」は思考の産物であり、実体のないものだということを理解してください。

そうすれば、人の人生をうらやむことも、自分の人生から逃げ出したいと思うこともありません。
起こってくるストーリーを我慢して受け入れろとか、ストーリーは「私」の意思とは関係なく起こってくるのだからあきらめろと言っているわけではありません。

「神は手を持たない」という言葉があります。神はわれわれの手(行動)を通じてストーリーを変えようとします。自分の手で変えられるストーリーもあります。変える努力を惜しまないでください。

変えるように努力して、変わらなければ泣けばいい。でもそこに「私」を持ち込まないで、次にはどんなストーリーが待っているかわからないということを理解してください。

ほんの数年前まで、認知症の父を在宅介護しながら、パワハラの上司に怒鳴られても金に困っていて会社を辞めることもできず、苦しい毎日を生きていた私が、その数年後、2年にも及ぶ長旅をして世界をまわり、セイラーボブに会い、エンライトメント病からも解放されるなんていうストーリーが待っているとは夢にも思っていませんでした。

私が何かをしたわけではありません。ストーリーが勝手に展開していったのです。
これからも、良いストーリーも悪いストーリーも起こってくると思います。

「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄のごとし」。人生に起きる良いことだけを取ることはできません。悪いことも起こってきます。
でも、そのストーリーを良いとか悪いとか判断しなければ、それは単なるストーリーにすぎません。何が起こっても私は観客として見ているだけです。
悲しければ泣き、うれしければ喜ぶだけです。

私の人生を生きている「私」などいないということを理解してください。
そうすれば、私の人生も、もっと違う人生もありません。
それは単にストーリーです。