2019/08/03

非二元の師たちが教えているのは、エンライトメント(覚醒)ではありません。

最初にセイラーボブの本を読んだ時、セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)した状態のことだと勝手に思い込んでいました。

セイラーボブに会って、エンライトメントなどないと聞かされたあとでも、心のどこかで、セイラーボブの意識の状態は、普通の人の意識の状態と違うのではないかと思っていました。

セイラーボブが、自分はエンライトメントをしたとか、いわゆる覚醒の一瞥体験をしたと言ったのを聞いたことは一度もありません。それでも、セイラーボブの教えを理解すれば、何かが起きるはずだと勝手に思っていました。

セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)ではありません。セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと何も変わらない普通の人です。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別なことが起きるということはありません。

セイラーボブが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。

1980年代から90年代は、エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルやマスターたちが人気の時代でした。
ここでいうエンライトメントというのは、ある時何かが起こって、永遠の恍惚感がとめどなく続くような状態のことを言っています。人々はそれを手に入れるためにグルや教師のもとを訪れ、瞑想したり、講話を聴いたりした時代でした。

最近、ネットや書店で本を読んでいて気になるのは、そうしたグルの説くエンライトメントは、実は非二元の教えている状態だったのだ、というような話を見かけることです。

長年瞑想してエンライトメントを求めてきた人が、エンライトメントは実はとめどない恍惚感が続くようなものではなく、もともとの自分の状態だったと気づくというストーリーを見かけます。

また、かつては人気絶大だった目覚めを説く教師が、近年になって、非二元関連の本の序文を書いて、自分の教えている目覚めは非二元の教えていることと同じであるかのように装っている人もいます。

私はこの風潮を良いことだと思っていません。
私も必死で瞑想してエンライトメント(覚醒)を求めていました。
でも今は、それが完全に間違いだったと思っています。

そうしたグルや教師たちが教えていたことが正しかったのかどうかを、きちんと再評価する必要があるのではないかと思います。
もし、エンライトメント(覚醒)や目覚めなんてものはないのなら、彼らは大勢の人たちを騙してしてきたペテン師だったということになります。
彼らが当時説いていたエンライトメントは、明らかに非二元と同じものではありませんでした。

ラマナ・マハリシやダグラスハーディングの本はずいぶん前から書店に並んでいたのですが、私は勝手に彼らもエンライトメント(覚醒)した人たちだと思い込んでいました。極端な話、精神世界の棚にある聖人は全部、エンライトメント(覚醒)した人だと思い込んでいました。
でも、注意深く読むと、彼らの教えているのはそうではないということがわかります。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説く人たちの特徴は、必ず自らの覚醒体験を語っていることと、それは手に入れるものだと説いているので、そういう人を見分けるのはそう難しくはありません。彼らは覚醒体験で自らを権威付けし、それを客寄せの道具として使っています。

彼らの説くエンライトメントは手に入れるものであり、別の意識状態になるものです。一方、セイラーボブの説く非二元は、手に入れるものでも、何かになるものでもありません。注意深く読めばその違いはすぐにわかります。

私は今では、自らの覚醒(エンライトメント)体験を語っているグルや教師は全部ペテン師だと思っています。

何世にもわたって輪廻転生をくり返し、やっと手に入れるエンライトメント(覚醒)というストーリーが、いかに馬鹿げた作り話だったかとわかったからです。
あまり過激なことを書くと、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人の怒りをかいそうで嫌なのですが、挑発するつもりはありません。おたよりをいただいてもご返事できません。単に見解の相違ですので、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人はどうぞこのブログを読まないでください。

問題を複雑にしているのは、非二元の教えを説く人の中にも、私はエンライトメント(覚醒)したという人がいるということです。私はこういう人も信用していません。もし、こういう人の教えが正しいのなら、セイラーボブが教えていることは間違っていることになります。なぜならセイラーボブは覚醒した人ではないし、エンライトメント(覚醒)なんて作り話だと言っているからです。

ただし、非二元の本質を理解している人の中には、「本当のエンライトメントは、永遠に続く恍惚感というようなものではなく、今ここにある意識がそれだと気づくことだ」というように言う人もいます。これは許容範囲です。でも、いっそエンライトメントという言葉を使わない方が良いのではないかと思います。こうした言い回しは、過去のペテン師グルたちを正当化してしまうことになりはしないかと思います。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルや教師の教えていることと、セイラーボブが教えている非二元は全く別のことです。そのことをはっきりと理解していないと、わけのわからない教師やセミナーの餌食になってしまいます。

非二元の教えを正しく理解するためには、エンライトメント(覚醒)などないということを理解する必要があります。それは単なる作り話で、いわばペテン師グルたちの悪しき条件付けだからです。その条件付けがある間は、もし非二元を理解すれば何かが起きるはずだという幻想がなくなりません。その結果、いつまでたっても非二元の教えを理解できないことになります。

また、非二元の教えを説く人の中には、非二元の世界の一瞥体験や、ある時何かのきっかけで突然に非二元の世界を理解したという人がいます。例えば、何かのきっかけで、(私は体でもマインドでもないと理解した)(世界は一つの存在であるとわかった)というような理解が突然起きる場合です。

こういう体験を「覚醒」として語る人もいます。これはエンライトメント(覚醒)ではなく、非二元を理解した体験です。こういう人の中には、優れた非二元の師となっている人もいます。こういう人のことを否定するつもりはありません。ただ問題は、その人が本当に覚醒という意味でその言葉を使ったかどうかです。本人は「理解」という意味で言ったにもかかわらず、「覚醒」と翻訳された可能性もあります。そのあたりの英語は両方に解釈できる言葉があるからです。

非二元の理解は、何かの体験を通して突然起こるやり方でも、私のようにセイラーボブの話や本を何度も読んでいるうちに、それが真実だと理解したという理解の仕方でもどちらでも良いと思っています。セイラーボブの周りにいる人の大半は私と同じように、何度もセイラーボブの話を聞いているうちに理解したという人が大半です。

問題は、非二元を説く側の人の中にも、エンライトメント(覚醒)と、非二元の一瞥体験をゴチャゴチャにして語る人がいて、聞く側の人もそれをゴチャゴチャにして聞いています。私は、エンライトメント(覚醒)は無いと思っていますが、非二元の一瞥体験をすることはあるのではないかと思っています。

でも、非二元の世界を一瞥するというのはどういう体験ですか?
自分は体でもマインドでもないという一瞥をしたということですか?
もし自分の体やマインドが消えると、その一瞥体験を見ることも覚えていることもできないはずではありませんか?

あれは一瞥体験だったんだ、と思い出せるということは、それを見て感じて記憶している誰かがそこにいたはずです。だったらそれは非二元の世界を見たことにはならないのではないですか? それはあくまで疑似非二元の世界にすぎないと思います。

多くの人たちが、ネット上で自分の一瞥体験についてあれこれと語っていますが、それは個人的な思い込みであって、それを語ることはほとんど意味がないし、そういう人たちが必ずしも正しく非二元を理解しているとは言えません。
なぜなら、非二元は何かになることや、何かを体験することではないからです。

一瞥体験がきっかけとなって、非二元の世界に興味を持っていった人もいると思います。そういう人の中には非二元を正しく理解していて、人々を正しい方向に導いている人もいると思います。でも、それを看板にして客寄せをすることは、多くの人を迷わせる結果になるのではないでしょうか。なぜなら、非二元の世界を実際に見て体験することはないからです。

セイラーボブもそうした体験に対して「そういう体験も非二元そのものの体験ではない」と言って、否定しています。
セイラーボブは、非二元の世界を体験したとか、一瞥したとか言ったことは一度もありません。非二元の世界を理解したら、何か特別なことを体験すると言ったこともありません。

非二元の教えは、特別の人にしか起こらない何かではありません。
すべての人がもうすでにそうなのだということを理解すればいいだけのことです。
それを理解するために、何か特別な体験が必要なわけではありません。
普通の人の普通の頭で考えて、(本当に「私」はマインドと体なのだろうか)と調べることだけです。そしてそれは、あなたがこじらせなければ、そんなに難しいことではありません。

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