個人のものではない、純粋な知る働き
ボブ:「何もないもの」は思考では理解することはできません。それゆえに人々は迷い、混乱します。人々は、自身の狭いマインドでそれをとらえ、姿形として概念化できると考えています。人々は、「これだ。これがあの偉大なエンライトメントか何かだ」と想像します。また、何か恍惚とした体験をして、「これがそれだ」と考えます。
質問者:何もないものには、ただそうした主観的な経験があるだけです。主観的な経験の外には何かありますか?
ボブ:その主観性はあなただけのものですか? 知覚するということに関して。
質問者:そう確信しています。はい。
ボブ:でも、この部屋にいる一人一人は同じ世界を見ています。あなたは違った視点から見ていますが、私たちは皆、反対の極へと動く一対の思考の中で、同じように考えています。それでもあなたは、主観は個人的なものだと思っています。もしあなたが、純粋に主観的に見ると、そこには見る対象は何もありません。それが純粋な見る働きです。私が言っているのは、あれを見るとか、これを見るということではありません。概念のラベルが無かったら、それは純粋な見る働きです。それが、あなたのすべての経験の根底のあるのではありませんか? もしその知る働きがなかったら、どれだけのことを体験することができますか? その知る働きは、原初の思考である「私はある」を通して現れているのではないですか? 同じように、あっちの「私はある」、こっちの「私はある」を通して現れています。それは同じ知る働きで、私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。それが違ったパターンとなって現れています。