2023.7.2ミーティング 1:06:50から
ギルバート:自然な状態には言語がありません。それには言葉はなく、静寂です。つまり、実在(being)には言語がありません。言葉を必要としないのです。でも、いわゆる人には言葉が必要です。心配したり、答えを見つけたりするためには言葉が必要です。でも、ボブが言うように、マインドの中には決して答えは見つかりません。
もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドには何が起きるでしょうか? もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドはどこにあるでしょうか?
参加者:それはノーマインドです。
ギルバート:ええ、それはノーマインドです。では、ノーマインドに問題はありますか? 禅のいにしえの言葉に、"No mind, beginner's mind"(無心は初心)という言葉があります。ニサルガダッタは、「意識の意識でありなさい」と言いました。それを本で読んで、次の文章へ移ることもできます。でも、ポインターの持つ意味は、それが指し示すことが何なのかを理解してこそ価値があります。
意識の意識でありなさいという意味は、そこには一つの意識があるだけだということです。そこには、私の意識もあなたも意識もなく、一つの意識があるだけです。映画館には一つのスクリーンがあり、そこにコメディ、ドラマ、悲劇などが映し出されますが、スクリーンは変化しません。それは変化することはなく、同じスクリーンです。電気が消えると、真っ暗になりますが、スクリーンはそこにあります。
夜眠ると、意識(consciousness)が薄れ、休息します。精神は休息します。でも、アウエアネス(awareness:意識)は依然としてそこにあります。もし誰かが大きな音でドアを叩くと、何かがあなたを揺り動かし、あなたは起き上がってドアに応答します。なぜなら、アウエアネスは常にそこにあり、それには時間がなく、それは物ではないからです。
それは競争ではありません。スピリチュアリティ(精神世界)は巨大な競争のようなものになっていて、そこでは、人々は競ってグルの近くへ行って、グルの足にキスをするのです。人々がグルのもとに駆け寄ってキスするのを初めて見た時、彼らは何をやっているのだろうと思ったものです。(一同笑い)
そしてそのグルは至福の中にいるかのような表情でした。裸足の足にキスを受けて、天国にいるかのようでした。でも、そのシーンは、エゴそのものでした。でも、それも単なる意識(consciousness)なのです。意識が役を演じていて、人々はそれぞれの役を意識の中で演じているのです。それは、一つの意識です。
ニサルガダッタが言ったように、意識の意識で在ると何かが起こります。意識の意識で在るということは、マスターキーのようなものです。自己成就(self-realization)のマスターキーは、「私は在る」という認識です。それが、シッダ・ラメッシュヴァールが指摘したことです。でも、私たちの問題は、その「私は在る」に物事を付け加えてしまうことです。
「私はギルバート」「男性」「オーストラリア人」「いいやつ」「時々はちょっと扱いにくい性格」など(一同笑う)。でも、話を「私は在る」に戻すと、私は在るとは何なのか? 私は在る(I am)の am は、存在するという動詞(to be)です。「私(I)」とはアイデンティティです。私のアイデンティティとは何か? そこに存在(being)するということであり、それは自然に起こっているものです。
アウエアネス(意識)は自然に起こっているものです。それは「私」に依存しているのではなく、意識(aware)しようとしてそうなっているのではありません。アウエアネスはそこにあるものです。ボブはしばしば、「あなたに意識はないのか?(Are you not aware?)」と尋ねます。そしてもちろん、私には意識がある。そして次の質問は、「意識があるために何をしなくてはいけなかったのか?」です。
何もしていないのは明らかです。そして、「私」が何かをやっているという考えが、存在の基盤を歪めてしまうのです。「私」は行為者ではありません。意識(consciousness)がすべてを行っているのです。でも、手柄を横取りする「私」がやってきて、「私がこのことについて何らかの貢献している」というのです。ナンセンスです。
探求者は幻想です。それは幻想にすぎません。探求が問題へと変わるのです。探求者、「私」は幻想です。それは全部ナンセンスです。あなたはそれです。あなたは常にそれでした。あなたはそれ以外ではなく、ボブはそれをミーティングや本の中で指摘しています。それがすべてです。フルストップ!
意識の意識で在ること。それを理解してください。それは無(nothing)ではありません。ニサルガダッタやボブ、その他の教師たちは、そうしたこと(覚醒・あるいはエンライトメントのことを言っていると思われます)を面白半分にでっち上げたりしません。それをやる人もいますが(一同笑い)。たとえば***。彼は面白がることが大好きでした。いずれにしろ、それは意識(consciousness)なのです。
(***は、とあるインド人の名を挙げていますが、諸事情により伏せておきます。興味のある方は聞き取ってみてください。1:12:58あたりです)