2023/07/21

ネーティ、ネーティ

2023.7.16ミーティング 42:00から

ギルバート:在ること(being)と、何かになること(becoming)の違いは何なのか? 違いはあるのか? 何かになるとは、観念的なものです。在ることは全く観念ではありません。なぜなら、あなたは自らが存在することを否定できないからです。

でも、どんな思考であれ、起こってくるものは否定・拒絶することができます。私はこれではないと。つまり、ニサルガダッタが語ったように、「これでもない、あれでもない(ネーティ、ネーティ)」です。そしてそれを多くの人が誤って解釈しています。たしか「I AM THAT」だったと思いますが、それを初めて読んだ時、静かに座ってマインドを見つめました。

そして、どんな思考がやって来ても、「ネーティ、ネーティ」、私はそれではないとやったのです。どんな思考がやって来ても、私はそれではない。それを繰り返し続けたら、紙袋から何かを取り出すように、マインドが空になっていきました。

次の思考は何だろう。マインドを見つめて調べ、何がやって来ても、私はこれではない。存在することとは。意識(consciousness)とは。それはすべて意識なのですが、その意識に気づいているものは何なのか? それを突き止めることはできません。ボブが言うように、思考はあらゆるものとして、形や特徴となって現れます。なぜなら、そう信じられているからです。でも、もしあなたが、それを本当のあなただと受け入れなかったら、それは単なるマインドの内容物にすぎません。

そして、それを注意深く見ると、マインドの内容物は絶えず変化しています。そして、もし思考が止まっても、私が消えて無くなることはありません。イエスは砂漠に行き、そこで40日、40夜過ごしました。それは家具や家や動物や木々などがないということを象徴しています。砂漠には何もありません。命はあるものの、私たちの思考による家具などは何もありません。

皆さんが砂漠に行ったことがあるかは知りませんが、私はあります。それは全く当惑させられるものでした。360℃が平でした。ムーブラ(?)のロケット基地で働いていた兄を訪ねて行った時のことです。列車に乗っていると、男がやって来て、「君の降りる駅は次の駅だ。朝の5時30分着」と言いました。列車が止まり、私は小さな青いスーツケースを持って降りました。たしか18歳でした。

そして列車が見えなくなると、そこは砂漠の中に小さなプラットホームがあるだけでした。列車が消えて何も見えなくなるのを見ながら、私は取り残されました。まったくの一人ぼっちでした。道路があって、兄は約一時間あとに迎えに来てくれることになっていました。私はコップ半分ぐらいの水を持っていましたが、太陽が昇ってきて、とても暑くなり始めていて、ひどく心配になってきました。

そこに立っているのは妙に現実離れしていました。丸いとは知っているのですが、平な地球の上。砂漠の中を少し歩いて、古い骨などを見つけました。そこにあったのは、社会や、もろもろのことのない存在そのもの(beingness)でした。それは表面上ではひどく困惑してしまうものでしたが、また、他の人から離れてほっとするものでもありました。

確かジャン・ポール・サルトルの言葉ですが、「地獄とは他人のことだ」。(笑い)ええ、そうではありませんか? でも、存在(being)には全体が含まれています。すなわち一つのものであり、全体は分割されていません。決して分割されてはいないのです。うわべ上のマインドによって、他人や私、その他のものに分割されているにすぎません。現象が空であるということを知るのはとても簡単です。

それを知るのは簡単なのですが、私たちは、この、ここにあるパターンを(自分の体を指さして)それに含めることを忘れます。それもまた空なのです。それは恐ろしいことではありませんか? 誰が恐れているのでしょうか? 思考の「私」「自分」です。その「私」は幻想です。

ボブが本やミーティングの中で指摘しているように、「私」を見つけることができるかを自分で調べるのです。そしてそれを、「ああ、わかりました、わかりました」と言ってやり過ごすのは簡単です。そうした人々が、「『私』が戻ってきました」というのを聞いたことがあります。彼らは至福の中にいて、「私」が戻ってきましたというのですが、どうやって「私」が戻ってくることができるでしょうか? もし「私」は幻想であり、あなたがそれを見破ったなら、どうやってそれが戻って来ることができるでしょうか?

それはありふれた感覚であり、ボブが最初の本の中で言っていますが、「もしあなたが、何が真実、あるいは実在ではないと知ったなら、どうしてふたたびそれを信じることができるでしょうか?」。できません。子供は、サンタクロースは実在ではないと知っても、残りの人生で、サンタクローズは実在ではないということを問題にすることはありません。「サンタはいない、サンタいない」と人に言ってまわることはありません。「私」は実在ではありません。

そして、「私」「自分」、その他のものも実在ではありません。そしてそれは見せかけ、一時的な見せかけであり、実際には分裂はないと知った時、それを調査すれば、それは粉々に砕けます。それは調査に耐えることができません。つまり、在ることと何かになることの違いは、存在(在ること)が究極のもの、あるいは究極のものが分割されずに表現されたものということができるなら、何かになることは、未来の時間を含んだ夢なのです。そして、未来という時は存在しません。