2023/06/16

草はひとりでに生える

2023.6.11ミーティング 36:18から

カット:(携帯を見ながら)今日は27人から30人ぐらいの人がオンラインで参加しています。質問はありませんが、いくつかのメッセージがきています。何人かの人から皆さんへおはようのメッセージが届いています。ラムから、「今日のボブは、まるで10年前のようで、エネルギーがみなぎっていた」。ギルバートから、「人々の欲求を満たすためではないポインター。自然ですばらしい。それを知的に理解しようとすれば失敗する。それで何も悪いことはない。あるがままは、あるがまま」。

そしてまたラム、「カットはボブに何を食べさせたのか」。(ボブに向かって)彼はあなたのエネルギーが良かったけど、何を食べさせたかですって。(笑い)ええ、もちろん愛情です。それに、皆さんからいただいたもの。ディーンの有機野菜園で作ったすばらしい作物などをスープや汁に、違った形の愛として入れています。JBから、「とてつもなく素晴らしいスピールでした」。そしてサラから、「ありがとう」。オンライン参加者からは質問は届いていません。誰か質問したい人やシェアしたい人はいますか? カビーシャ、質問ですか?

カビーシャ:質問かどうかはわからないのですが、ボブの話でちょっと感じることろがありました。何かをする必要はないというところです。それはとても強力でした。というのも、私は生涯を通して、善良であろうと努力したり、両親や教師にほめられるように努力してきたりして、子供の頃からそうするようにと社会に条件づけされてきたからです。

そのため、努力を要しない? ワオ! とてもショックでした。でも、私は天国へ行くつもりなのではないか? 私の言っていることがわかりますか? それは奮闘するエネルギーです。そして、あなたは、努力は必要ないと言いました。それが今日とても胸を打ちました。どうやってそうしたらいいのかわかりません(笑い)。

カット:あなたがやる必要はないのです。

カビーシャ:まさしく、そのとおりです。(笑い)ああ、どうしよう、私は努力しようとしている。(笑い)

カット:やらないようにと努力しなくていいのです。(笑い)

カビーシャ:ええ。サンキュー、ボブ。

ボブ:サンキュー。私も何年も努力しましたよ。

カビーシャ:そしてまた、スピリチャアルの道では、エンライトメントや、なんやかんやを達成するまで、努力することにエネルギーを注ぐことで手一杯です。それはたぶん、なんやかんやなのですが、それは、ただ在る状態にリラックスすることではありません。それは常に私たちを取り巻いているのに、私たちは夢の中で努力してその周りをかけずりまわっているのですね。サンキュー。

ボブ:サンキュー。

カット:すばらしいですね。努力するという概念は、その根底に様々な仮定を含んでいます。ありのままではいけない。何か違ったものになるため、変えるためには何かに向かって奮闘しなくてはいけない。そのため、この瞬間を受け入れるかわりに拒絶するのです。拒絶するということは、違うものになって、この瞬間から分離することになります。もはやあなたはこの瞬間にいません。この瞬間にある何かから、傷つけられたり抑圧されたりすることになります。

そしてまた、あなたが言ったように、努力、奮闘することは、将来、何かが起きること、成し遂げることを意味します。今、この瞬間がいけないというだけでなく、おそらく後でいつか別の瞬間が来るということを意味しますが、後はありません。どんな未来の瞬間も、今この瞬間の想像の中にあるだけです。そして、「私」と、この知る働きのフィールドには分離はありません。

でも、努力することは驚くべきことです。あなたは実際耳にしました。というのも、それはあらゆる苦悩、苦しみを含んでいるからです。私は人間であり、分離している。私の外にあるのは世界であり、それと折り合いをつけなくてはいけない。そして、世界は間違っていて、私はそれを変えるために努力をしなくてはいけない。そしてまた、私はよくない、自分を変えなくてはいけない。

カビーシャ:私たちは、原罪を背負っているために、それほど勝ち目がありませんでした。そうでしょ? 最初から背負っているのです。あなたは原罪とともに生まれた。ええ? 私は何もやっていなのに。私はただの赤ちゃんなのに。(笑い)

カット:原罪についてボブは、私たちが言葉を覚えたために天国から追い出されたと言っています。子宮から出た時ではないのです。その時点では原罪、分離はありません。でも、私たちは言葉を学びます。私たちは善悪の木から食べるのです。両親から、これは良くない、これは良い、私はここにいて、世界はここにあると学びます。

そうして分離が創造されます。たくさんの概念、たくさんの言葉。一歳半から二歳半の頃。それは言葉によります。ある言葉はより易しいでしょう。概念ができあがり、まわりの人を真似ることによってそれを学びます。それが、天国から追い出される瞬間です。善悪の知識、言葉によって、分離の感覚がやってきます。

42:32から55:40まで省略。

55:40から
カビーシャ:歌を歌ってもいいですか?(一同拍手)

[Spring comes and the grass grows by itself sitting silently doing nothing.]
(何もしないで静かに座ると、春がきて草はひとりでに生える)

あとはこの繰り返しで、みんなで合唱でした。

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カビーシャの歌の歌詞の出典は何だろうと思って、ネットで英文を検索してみました。すると、驚くことに、この言葉は松尾芭蕉の言葉であるという画像がたくさん出てきました。そこで、芭蕉の言葉を日本語で検索して、それらしい言葉か俳句があるかと探したがみつかりませんでした。

調べていくうちに、その情報源は、OSHO(ラジニーシ)の「草はひとりでに生える」であり、どうもOSHOが芭蕉の言葉であると誤って語ったことが、ネット上で拡散したものらしいとわかりました。(参考:草はひとりでに生える

もともとの出典は景徳伝灯録(中国、北宋の禅の書)のようです。(参考:茶席の禅語選黄檗宗大本山塔頭 宝善院) おそらく、カビーシャは禅の本から歌詞を取っていると思われます。

この言葉の禅的な解釈は禅の専門家にお任せして、非二元的な解釈をするなら、行為者の不在ということだと思います。私たちはもともとそれなのだから、必要なことは、ただ理解することだけです。
このミーティングの中のスピールでも、ボブは、「私」がそれをやるのではなく、生(命)が自然にそれ(理解)を起こすのだと言っています。カビーシャの質問も、そのスピールに対するものです。