2023/06/02

それが、深い苦悩をもたらすことはありません

2023.5.28ミーティング 49:06から

ボブ:それは空間のような意識と言われていて、意識とは空間のようなものです。その意識の中に中心を見つけることはできますか? 中心、あるいは始まりを見つけることができますか? 境界はありますか? 境界も始まりもありません。ただそこにあるのです。空間の外で、何かを仮定・考えることはできますか? それは、空間の中だということに気づくはずです。

空間は物ではありません。それには姿・形がありません。空間の外では何も仮定することができません。いわゆる、物はすべて空間の内容物なのです。空間は物ではありません。物が物ではないものから生まれるでしょうか? いいえ。ということは、空間のような意識が、うわべ上でそのように見えているだけなのです。

あなたはどこから来ましたか? あなたの両親の本質は、空間の内容物なのです。あなたは空間の内容物ではありませんか? あなたはその外に出ることができますか? 

参加者:ボブ、そのことに関して短い質問があります。空間がなかったら、そこには何もないのですか?

ボブ:ええ、あらゆるものは、物ではないもの/無(no thing)であり、物ではないもの/無がすべてなのです。空間さん、こんにちは!(一同笑う)

カット:今日はたくさんの人が来ていますが(参加者が多く、キッチンや玄関にも座っている)、それでも部屋の中には空間があります。(笑い)
そこに、たくさんの意識(アウエアネス)があります。ボブがいつも尋ねるように、「あなたには意識がないのですか?」。そこに意識があって、それが体・マインドを通して現れています。それがそこにあることは否定できません。

存在、実在がそこにあり、それが唯一重要なものであり、その他のことは過ぎ去っていく物語です。それは変化していく現象。それはエンターテインメントです。ある状況においては、それが展開して、とてもつらいもの、押しつぶされそうなものと感じるかもしれません。あたかも、川が流れて岩にぶつかって、大きな渦を作るようなものです。

それは私たちが出会った、オンラインショップの宅配便の人のようなものです。彼は、可哀そうなことに、四か月前に奥さんを亡くしました。娘はてんかんで病院にいます。四か月の間に、父親、母親などに次々と不幸が続き、彼はそうしたドラマで煮え立っていました。私は当事者ではなく、彼は沸騰状態でした。

ええ、生とはそういうものです。明晰さがあろうと無かろうと、生は川の流れのようなものです。動物を見ると、彼らは自然な状態で生きています。彼らは傷つけられ、争いをかいくぐり、干ばつや洪水にあい、あらゆることが起きます。でも、心理的な苦悩は、それに付け足されたものです。

災難、苦痛、病気、老齢など、うわべ上に現れるものを避けることはできません。それは夢の中のことであり、夢のルールの一部です。その形には始まりと終わりがあります。あらゆるものが形となって、車、衣装、乗物、体となって現れ、それは重力の法則を受け、建てられ、朽ちていきます。

でも、苦悩、精神的な苦悩、心理的な苦悩は、付け加えられたものです。というのも、その配達人が別の配達のために数日後にやってきたのですが、彼は完全に明晰な空間の中にいました。「こんにちは、またお会いできてよかった。今度は玄関を間違えませんでしたよ」と言ったのです。

驚いたことに、今回彼は、マインド・ドラマ・物語の中にはおらず、存在する幸せの中にいました。私たちも、癌、子供の死、病気、何であれ、周りの状況に関わらず、同じように生きることが可能です。周りの状況のことを考えると、それが重くのしかかってきますが、その解釈の外に出てリラックスして、奇跡の展開とともに、ただ在るようにする。もしもっと湿っぽいドラマが起こっても、それに注意を向けなければ、それを体験することはありません。

心理的な苦悩は、そうした考え・物語に注意を向けることから起こります。ええ、もちろん、それを否定することはできません。世界には飢えもホロコーストも、どんな考えもあります。でも、もしそのことを考えなかったら、それを経験することはありますか? その思考を持ち出さなければ、その思考を具現化しなければ、その思考に多くの心を向けなければ、それを経験することはないのです。

それが実在かどうかを議論することはしません。なぜなら、世界は単なる現象にすぎないからです。もしこれが実在ではなく、例えば過去や他の場所が実在であったとしたら、何が問題ですか? でも事実として、直接の現在進行形の体験のレベルにおいては、あなたは自分が存在するということを知っています。そして、物語を具現化して信じることがなければ、それだけのことです。

そして、純粋な実在の中には苦悩は存在しません。もしそれを、罪悪、恥辱、悔恨と呼ばなかったら、自身のことを犠牲者と呼ばなかったら、世界を裏切り者と呼ばなかったら、それに上張りを貼らなかったら、苦悩は存在しません。たとえもしそこに上張りがあったとしても、それはシネマ・映画・ネットフリックス・スクリーンと同じです。それは見せかけです。それを映画と同じように眺めると、それがあなたを傷つけることはありません。それが、深い苦悩をもたらすことはありません。