2023.6.25ミーティング 40:15から
参加者:あなたがおっしゃったことを理解しようとしていますが、あなたがおっしゃったのは、考えていること自体が思考だということですか?
カット:いいえ。考えている人、つまり「私が考えている」という思考の「私」が考えているのではないということです。私が考えているという事自体が別の思考なのです。私が考えているという思考は、思考の内容であり、そこに考える人はいません。そこに「私」がいて、それが考えているというのは想像です。でも、真実は、そこには考えている「私」はおらず、「私が考えている」という思考にすぎません。そこには誰もおらず、他の思考と同じように、「私が考えている」という思考があるだけです。
ジュリア:ただ、そう主張しているだけです。あなたが考えているという主張があるだけです。この幻想の中で、うわべ上それが考えているように見えているだけです。ここには何かを考えている人は誰もいない。もし、あなたが考えていると言うのなら、思考が起こるのを止めるためにはどうしますか? 脳の中のシナプスが働いて思考が起こるのですが、あなたがシナプスを働かせているのですか? それともそれはただ起こっているのですか?
参加者:瞑想している時気づいたのですが、
ジュリア:あなたは瞑想しているの?(笑い)
参加者:いいえ。言葉のあやです。思考は私のせいではなく、起こっています。それはよくわかります。思考は私によって起こるのではありません。それがわかるのにしばらくかかりましたが、それははっきりとわかりました。でも、あなたたが言うことが理解できないのです。
カット:思考はあなたによって起こるのではないと言いましたね?
参加者:ええ。
カット:では、ボブの言ったことに対する質問は何ですか? もし、私が考えるという思考は、思考を考える人ではなく、単なる思考だというのなら、それを起こしている「私」はいないということになります。
参加者:オーケー。
カット:それはすでにあなたが理解したことです。そうでしょ。
参加者:どうしてこんな簡単なことが、ぼんやりとしか理解できないのかわかりません。
カット:もし体の他の機能を調べてみるなら、例えば髪が生えること、あなたが髪を生やしているのですか?
参加者:いいえ。
カット:でもあなたは、ええ、私は髪を伸ばしている、短く切ったけど、もっと長くするつもりだと言います。まるで、あなたが伸ばしているかのように。髪が自然に伸びるように、見る働きは自然に起こっています。思考は自然に起こっています。もちろん、あなたが髪の毛にとって健康なものを食べれば、健康な髪が生えるでしょう。あなたが幸せなら、思考は、より幸せなものとなるでしょう。見る働きなどもすべては相互に作用していて、外側で起こっていることと分離しているわけでありません。
あなたが髪を成長させていないのと同じように、あなたがあなたの思考を考え出しているわけではないのです。では、「私」は一体何をしているのか? それはそこにいる必要さえないというのに。おそらく「私」はまったく余分なものです。髪は自然に生え、思考はやってきて、見る働きも自然に起こっています。
ボブ:呼吸も。
カット:呼吸も自然に起こっています。「私」には何の仕事もありません。唯一の仕事は、自然がすでにやったことを自分の手柄にすることだけです。
参加者:ボブが語ったセンテンス、「もし思考の・・・」、いいえ、ええっと、彼は何と言いましたか?
カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。
参加者:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。
カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。私が考えていると言っている思考が、実際には考えていないのなら、どうなるのか? それは深淵な言葉です。もし、私は見ていると言っている「私」が見ていないとしたら、どうなるのか? ボブが言うように、思考の「私は見ている」には目がありません。体には目がありますが、私は見ているという思考には考えるための脳も見るための目もありません。思考は単なる音です。それは何もできません。
参加者:私が今この質問をしているのは、以前、一年ほど前のことですが、このことははっきりとわかっていました。それは、深い理解(realization)というより、いくぶん知的な理解(understanding)でした。見ることは起こっています。つまり、聞くことと一緒に起こっています。そこには、聞いている人はいません。それは聞く働きにすぎません。同様に、見る働きも同じだとわかります。そこには、見ている人はいません。見る働きがあるだけです。
でも、それは深い理解(realization)ではなく、シンプルなことで、つまり、どうして以前はこんなことがわからなかったのだろうという程度のものです。もしそれが真実なら、なぜ私は理解(realize)しないのでしょうか? 何が私の理解を邪魔しているのでしょうか? 私には、解消しなくてはいけない自己同化があまりにもたくさんあるからではないでしょうか?
カット:ええ。そこには、「私」という観念があります。あなたは、「私」には見ることができず、見ることは起こっていると理解しています。その「私」は髪を伸ばすことはできず、髪は自然に伸びています。でも、あなたは、依然として、「私」が理解(realize)できると信じています。そこには誰もいないのに、どうしてそれが理解できるでしょうか? 「私」がいない時、そこには理解があります。
参加者:そのことはわかります。それはとてもシンプルです。そこには何もありません。でも、あまりにも私は自己同化しています。それは何かエネルギーのようなもの。それが何なのかはわかりませんが、悪い習慣です。どうやったら、その悪い習慣を乗り越えることができるでしょうか?
ギルバート:その習慣は単なる習慣だと知ることです。理解に到達するためには、理解すべきことの直接的な体験が必要です。この場合、今この瞬間、自分で思考を考え出すことができるかやってみることです。一つの思考を自分で考え出すことができるか。できますか?
参加者:できるように思います。
ギルバート:オーケー。本当ですか?
参加者:いいえ。
ギルバート:それが直接の体験です。あなたは、一つの思考も考え出すことはできないと体験しました。そうやって、理解は努力なく自然に変化していくのです。つまり、身に着けた誤った知識を消し去るための洞察力が必要なのです。その知識が「私」の元となっています。知識とは、実際には無知のことです。いにしえのインドの経典にあるように、avidya(アヴィジャ:知恵)と vidya(ヴィジャ:無知)は同じものです。彼らはそれ以上のことを言いませんが、それは深い理解であり、私たちには自分でそれを理解する必要があります。
あなたが自分だと思っているものや、蓄えたすべての知識は、無知以外の何ものでもありません。そしてそれがあなたに問題を引き起こすのです。それを調査することによって消し去る必要があります。ボブが言うように、「私」を見つけることができるかを、自身で調べることです。「私」を見つけることができますか? この「私」を、あなたは見つけることができません。
参加者:自己同化が起こるたびに、その「私」を探す必要があるということですね? 毎回。いつも、絶えず。
ギルバート:アイデンティティ(自己同化)とは何ですか? 「私」のアイデンティティとは何なのですか? この「私」が実在かどうか調べるために、「私」は何かに自己同化しますが、それは決して実在ではありません。人々、愛する誰か、物などに執着します。誰かが私の財布を盗んだ、あるいは車、その他の何かを盗んだとしても、それは私のアイデンティティではありません。私のアイデンティティとは何ですか? それは「私は在る」です。
「私は在る」という知識です。それは皆に共通のものです。でも、私たちはそんな風に生きることに慣れていません。すべては「私」に関わっています。自身が安全だと感じるために、物事を手に入れ、ため込むのです。でも、安全などというものはありません。というのも、それはすべてフィクションだからです。それは完全な全くのフィクションです。それはありふれた知識ではないので、新聞や7時のニュースではやりません。「私」はフィクションです。世界のあらゆる苦悩は、それが元となっています。
一つの思考を考え出すことができますか? あなたは、あらゆることを考え出すことができるアウエアネス(意識)、コンシャスネス(意識)から独立した存在ですか? いいえ。そこにあるのは意識(コンシャスネス)だけであり、その意識(コンシャスネス)がすべてを行っているのです。そこには、どこにも分離した存在はいません。
仏陀は空(くう)を見つけました。彼は、自我(self-nature)はどこにも存在しないと言いました。つまり、あらゆる苦悩の原因となる自己という観念、分離した個人は幻想なのです。それはとてもシンプルです。自身の空間、時間、プライバシーの中に、「私」を見つけることができるかを調べるのです。今それをやってみるのです。
見つかりません。なぜなら、それはフィクションだからです。それは、皆が信じているとてもありふれたフィクションです。そのため、世界は苦悩、戦争などで満ちていますが、それは幻想なのです。それはまったくの幻想です。
私たちは皆、一つの本質がうわべ上で別々の存在として現れたものです。その本質を知る必要があります。なぜなら、あなたはその本質だからです。「私は在る」は知識です。「私は在る」は実在の本質なのです。実在は静寂です。実在には言葉は不要です。実在は静寂であり、あなたはその静寂とともに座ることができます。
そしてあなたは、マインドを観察して、それが動きであり、じっとしていることができないということを理解することができます。瞑想することはできますが、マインドはじっとしてはいられないのです。というのも、それは生(命)であり、動いているからです。その静寂・実在の中に座って、マインドを見つめ、その動きを見て、自分はそのマインドが同化しているものではないと知ることができます。
あなたは、マインドが同化している何かではありません。あなたは、それを目撃者として見つめ、それが何をしているのかを見るのです。すると、あなたはマインドが何なのかを理解します。ニサルガダッタが言ったように、マインドは良い召し使いだが、悪しきマスターです。もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります。でも、苦悩する人は誰なのか? ごめんなさい。独占してしまいました。
カット:いいえ。すばらしかった。