2023.9.10ミーティング 50:26から
ギルバート:何年も前、ボブはよくオークの木のどんぐりの話をしました。それぞれのどんぐりは、オークの木で地球をおおう潜在能力を持っています。それを臼にいれて粉々にすると、それは粉末になって吹き飛ばすことができます。すると、その潜在能力はどうなるのか?と、ボブはよく言ったものです。
それはどこからやってきたのか。一本のオークの木には、おそらく2000から3000のどんぐりが実ります。それらはお互いのことを知りません。彼らは、とても似かよった兄弟姉妹です。でも、何らかの共通点があります。それらは、地球、つまり大陸をおおう潜在能力があるのです。
では、私の潜在能力はどこにあるのか? あらゆるものが現れ出る究極・無限の潜在能力とは何なのか? そして、私はそれと分離しているのか? どうして私がそれと分離することができるだろうか? 観念上では、自身をそれから分離することはできます。可哀そうな私は何にもなりませんが、もし私がどんぐりだったら、オーストラリアをおおうことができるでしょう。
自身を調べてみることは、必須のことであり、本質的なことです。もし、苦難と混乱の人生を歩みたくないのなら、内側へ向きを変えて、見てください。目を閉じて、内側へ向きを変えて、その空間を見るのです。その空間には、後ろも左右も上下もありません。そしあなたが実際に注意深く調べてみると、それは空です。それは、あたかも空の舞踏場のようなものです。
そこでは、誰も自転車に乗っておらず、街角で枯れ葉をはいている人もいません。単なる空です。それは死んだ空ではなく、認識する生きている空であり、生(life)そのものです。おそらく、体は現れておらず、感覚が現れているかもしれません。目を開けた時だけ、体が形となって現れますが、すでに指摘されたように、私は体でもマインドでもありません。
私が体でもマインドでもないとしたら、私とは何なのか? 私とは何なのかを、対象物として実際に知ることはできません。それは純粋な主体、無限の潜在性の現れに違いありません。それは、一粒の種のようなものです。ニサルガダッタが言ったように、それは意識の種なのです。それは永遠に新鮮で永遠に新しいものが自身を表現しているのです。
オークの木を切り倒して、小さな破片にしても、それはどんぐりには戻りません。過去を未来にすることも、未来を過去にすることも、オークの木をどんぐりに戻すこともできません。また、その必要もないのです。なぜなら、生(life)が私たちとして、永遠に新鮮で永遠に新しいものとして、観念なしで、言葉なしで表現しているからです。
「私」とは何か? それを否定することはできません。言葉では、言葉がやってくるところのものを表現することはできません。今までの人生で語ったことすべてを、取り戻すことはできません。それは表現です。良いものもあれば、それほど良くないものもあるでしょう。そういったたわ言に対して、自らを罰することも可能です(笑い)。他の人が私を罰することでしょう(笑い)。ええ、実際そうでした。
「私」とは何なのか? 「私」とは何なのかを、対象物として知ることはできません。それは主体であり、無限の潜在能力。常に自身を表現する永遠に新鮮で、永遠に新しいもの。過去に語られたすべての言葉をもってしても、それを言い表すことはできません。誰かによって語られ、あるいは書かれたものでも、永遠に新鮮で、永遠に新しいものを言い表すことはできません。それは、腐ってしまうような、新鮮で新しいパンではないのです。
それは毎瞬毎瞬新鮮で新しいもの。毎瞬という言葉さえ時間を意味せざるえませんが、それには時間はありません。時間も死もない存在(spirit)なのです。私たちは言葉でそれを表現しますが、言葉は決してそれではありません。