ミーティング2023.10.10 36:53から
質問者:意思の果たす役割は何ですか? 私の言っているのは、注意を意図的に向ける能力、意思のことです。
ボブ:もしそこに生(life)がなかったら、あなたに意思はありますか?
質問者:ですから私はあなたにそのことについて話してもらいたのです。それが重大な鍵だと知っています。それは未解決の質問です。
ボブ:あなたは今、生きていますか? それで、あなたの役割は何ですか?
質問者:私は今、認識しています。
ボブ:あなたの役割は、その質問をすることです。
質問者:そうなんですか?
ボブ:よくわかりませんが、あなたは質問しています。
質問者:どのようにして、ボブという人間が、自分はそれであるということを知るようになったのですか? その当時それが起こった時、ボブの注意力の果たす役割は何でしたか?
ボブ:私が指摘するのは、役割があると思っていたボブには、役割はなかったということです。彼には役割があると思っていたために、問題をかかえていました。そこに誰かがいると思っているときは、いつも問題があります。そこには、ただ生(life)だけがあり、あなたはその生(life)なのです。あなたのまわりに現れているあらゆるものは、その生(life)の表現です。誰、あるいは何がそれから分離しているでしょうか?
質問者:私に尋ねているのですか? それとも(一同笑い)
カット:ええ、それは考えるまでもないことです。でも、それはたびたび尋ねられる重要な質問、自由意志という幻想についてです。それはたやすく見破ることができます。たとえば、意思が注意力となって、特定のものをボブ、花、部屋として見つめます。そこには選択をしている誰かがいるのか? それとも、単なる思考が意識の中に現れているのか? そしてその思考に続いて、意識の中に行動がやってくるのか? 自身が、特定の物事が存在するということの信者であることを選んだのか? 特定の音楽や食べ物の好みを自分で選んだのか?
それともそれは、体の条件付けによって、単に意識の中に現れたのか? 私たちがその中に深く入っていくことによってそれがわかります。行為者、コントローラー、自己という幻想が、いかに余分なものであるかということがわかります。生ははるかにシンプルなことです。幻想が邪魔しなければ、生はもっとシンプルに展開していきます。なぜなら、苦悩も邪魔しなくなるからです。
動物を見てみると、どうやって獲物を捕まえるのか? たとえば、ライオンがアンテロープの群れを襲う時、どうやって一匹を選ぶのか? そこに意思、意識的な選択があるのか? いいえ、それは本能です。体の条件づけによって獲物を選び、本能的にそれを追いかけるのです。私たちも同じです。でも大きな違いがあります。私たちの頭の中にはコメンテーターがいて、いつも物語を語っています。
そこには、食べる事、交尾をする事などへの欲求があります。そしてそこにはコメンテーターがいて、「いや、これは私だ。私がやっている。私が選択している」と言います。そして、幻想の「私」にだまされるのです。その「私」は物語の中にだけ存在します。それが人間の条件付けとなり、苦悩、感情的心理的苦悩を生み出すのです。
途中省略
1:04:25から、カビーシャが、スーフィの詩人ハーフェズの詩の歌を歌いました。
Beyond the idea of right doing.
Beyond the idea of wrong doing.
There is a field.
A beautiful field.
I'll meet you there.
善悪の思考を超えたところにある場所
そこには美しい場所がある
そこであなたと会いましょう
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ボブが lifeと言う時、「命」と訳した方がいいのか、「生(せい)」と訳した方がいいのか、いつも迷います。時には「命」と訳し、時には「生」と訳しています。いわゆる生物ではないものも lifeの現れとして現れているとボブが言う時、命と訳すと違和感があるような気がします。
あらゆるものが、一つの lifeあり、一つの生、一つの命なのだという意味です。言葉には限界があります。