2023.8.6ミーティング 43:43から
ギルバート:顕現の中には距離があります。「ここ」、「あそこ」があります。そして、私はまだ「あそこ」にはいないと考えます。でも、「あそこ」は存在しないのです。なぜなら、私が「あそこ」へ歩いていくと、「あそこ」が「ここ」になって、実際には「ここ」から出ることはできません。
たとえもしマインドの中で、夢の中へ入っていこう、あるいは、望んだ目的地に行こうと思っても、この直接性の外に出ることはできないのです。なぜなら、その直接性こそが生、永遠の命なのです。生には時間は存在しません。生はどこからやってきたのですか? 命はいつ始まりましたか? 科学者は、それはビッグ・バンだと言います。彼らは望遠鏡を打ち上げて、時間を遡ってそれを探そうとしますが、唯一存在する時間は今だけです。
直接性があり、時間は観念なのです。私たちは時間を想像することができ、うわべの上では空間も見ることができます。でも、空間を見ることができますか? 私たちは大きさを見ることができますが、部屋の大きさは空間の中にあるのです。目は空間の中に現れています。そして、最初に見るのが空間なのです。
そして、私とは何なのか?私はどこから見ているのか?見ているのは誰なのか?というのは、とても重要な問いです。それが直接指し示しているのは、見ることは自然に起こっているということです。あなたが、見ることを起こしているわけではありません。
朝目覚めると、見る働きはすでにそこにあります。ほんの一瞬、自分がどこにいるかわからないかもしれません。部屋の中にいて、ラベルが戻ってきます。ああ、起きてシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、仕事に行かなくてはいけない。どんなストーリーがやってきたとしても、存在意識の直接性の中には、ストーリーも「私」もありません。そして、それを認識することは可能です。そして、それが実在のすべてです。
メッセージとしては、それを調べてみることです。もしあなたが心理的に苦悩しているのなら、その苦悩している「私」は誰なのかを調べてみるのです。実際に調べてみると、「私」は見つかりません。なぜなら科学は、宇宙のどこにも静止した地点はないと告げているからです。それは動きであり、絶えざる変化の流れです。しかし、その絶えざる変化は、変化しないものの上に現れています。
noumenon(本体:哲学用語で現象の反対にあるもの)は顕現となって現れることはありません。存在(being)、知る働き(knowing)など、すべての可能性はnoumenon(本体)の中にあり、あなたがそれを体験することはありません。それはマインド、体験を超えたところにあります。でも、あなたはそれを否定することはできません。
昔ある人が、「神は死んだ」と言いました。その本が書かれた時、いかれた知識人たちがそれに飛びつき、神は死んだ、いや生きていると議論しました。それは単なる観念です。あなたは、自分が存在することを否定することはできません。あなたが誰であろうと、あなたが存在しているということを否定することはできません。というのも、私たちはみな存在そのものだからです。
あなたは、それが何なのかを対象物として描写することも知ることもできません。なぜなら、それは主体だからです。それは一つのものであり、唯一の主体だからです。それを神と呼ぼうと、呼びたければ「私」と呼ぼうと、それは問題ではありません。どんな言葉もそれではありません。