盤珪の言う「不生の仏心」や、セイラーボブの言う「自然な状態」というのは、言うならば生まれたままの状態ということですよね。だとすると、人間の初期設定は何なのだろうかと考えます。さらに、人生、人間も含め命の初期設定は何のでしょうか?
私が考えるに、生の初期設定はポジティブなもの、善、良、喜び、光なのではないかと思います。それは、言うならば、ネガティブの反対としてのポジティブではなく、反対のないポジティブ。悪の反対ではない善、良。悲しみの反対ではない喜び。闇の反対ではない光ではないでしょうか。
もし、そうでないなら、「不生の仏心」や「自然な状態」でいる意味はなく、頑張って、善、良、喜び、光の存在になるべく努力しなくはいけません。もちろん、「不生の仏心」や「自然な状態」であるためにだって努力が要ると思いますが、それはまた別の努力になると思います。
私たちは本来、仏心一つで生まれ、自然な状態にいたはずです。それが、社会や環境の条件づけによって、「不生の仏心」や「自然な状態」が見えなくなります。それを見えなくしてしまうのが「私」であり、「私」にまつわる欲望です。
生の初期設定がポジティブなものだと思う理由は、TVやネットで動物の動画を見ている時です。動物には人間のような高度な思考はないはずですから、過去のことをあれこれと思い出したり、明日のことを思い煩ったりしないはずです。でも、何の不自由もなく生きています。
動物の親は誰に教わらなくてもちゃんと子供を育て、仲間を助けます。ウミガメは生まれた瞬間に海の方角へわき目もふらずに歩いていきます。人間も同じです。生まれた瞬間に自分で空気を吸って呼吸を始めます。乳首をあてがってやれば、お乳を飲み始めます。
生存のための本能は、誰に習うこともなく、自然に働くような初期設定になっています。そして、その初期設定は、人生を通して働いているのではないでしょうか。その初期設定を見えなくしてしまうのが、「私」です。「私」があれこれ考え、悩み、条件づけが植え付けられ、初期設定を見えなくしてしまう。
ウミガメは産卵の時期がくれば砂浜に戻ってきます。サケも戻ってきます。人間も、生存のための本能は、利用可能な情報と照らし合わせた上で、最良の答えを選択するように初期設定されているのではないでしょうか。
動物には条件付けが全くないかというと、そうとは言えないと思います。虐待されたペットを見ると、怯えていたり、反抗的であったりします。でも、そうしたペットも、もともとはそうではなかったと思うのです。その初期設定は肯定的なものではないでしょうか。
私達には、見えなくなった初期設定を再認識すること、条件付けの解除が必要です。でも、難しく考えないで、日常的に非二元の教えを学ぶ一方で、何か迷った時は、自然な直観、フィーリングを信頼して行動すればいいのではないでしょうか。何か気が進まない時は止めておくとか、思考はこっちを選びたがっているけど、フィーリングはこっちという場合は迷わずフィーリングに従うという態度が大事な気がします。
恋人になったり、友達になったりする時は、相手を理由づけして選ぶなんてことしませんよね。なんの理由もなく人を好きになるし、なんとなく気の合う人と友達になる。何かの理由で人に近づいても、あんまり良い人間関係は作れません。それと同じで、日々の行動や選択も、初期設定を信頼して自然に任せればいいのではないでしょうか。
そうして選択したら、後であれこれジャッジしないこと。もし直観やフィーリングに従って行動して失敗しても、それがベストな結果なのかもしれません。生の初期設定を信頼して生きることが大切なのではないでしょうか。