私の場合、セイラーボブの言っていることを心の底から確信を持って理解できるまでに随分と時間がかかりました。言っていることの意味が分からなかったわけではありません。説明の内容も理解していました。でも、それが本当のことだとは思えませんでした。
「行為者の不在」「時間の不存在」「何も起こっていない」「あなたは体でもマインドでもない」「あなたは意識(アウエアネス)である」「過去も未来も存在しない」「あなたは実在ではない」。こういった言葉を真実だと理解するのに随分と時間がかかりました。確信が持てなかったのです。
でも、ギルバートが言った、「アウエアネスとは、あなたの普通の意識のことだ」の一言がきっかけとなって、一気に理解が起こりました。でも、同じことをセイラーボブは『ただそれだけ』の中で何度も似たような表現で説いています。でも、何度読んでもそれが私の意識のことだとわかりませんでした。先入観と言ってしまえばそれまでですが、何か特別な意識があって、それを何かのきっかけで獲得するのだと勝手に思っていました。
このことについても、セイラーボブは、何度も何度も「手に入れるものは何もない」と説いていたにもかかわらず、それをちゃんと理解することができませんでした。言葉の意味の理解ではなく、それが本当だと確信できるのは、ふとしたきっかけなのではないかと思います。
例えばセイラーボブは、行為者の不在について様々な説明をします。(行為者の不在の説明のしかた 2022.12.7ブログ)。でも、それですぐに納得できる人がどれだけいるでしょうか。私の場合は何回も聞いたにもかかわらず、確信が持てませんでした。
セイラーボブの教えの理解は、理屈ではなく、心の底から湧いてくる確信のようなもので、理屈や説明は不要で、かつ説明にしようにも説明できないものだと思います。それがいつ、どんなきっかけで起こってくるのかは人それぞれだと思います。
これはセイラーボブが言っているわけではなく、私が勝手に思うのですが、そうした理解が起きるのは、様々なことを、ああでもない、こうでもないとやってきた後で起こるのではないでしょうか。セイラーボブのまわりにいる人たちは、散々あれこれと探求をしてきた人たちです。
ミーティングを見ても、参加者の平均年齢はかなり高く、高齢者も多い気がします。そのほとんどの人が、ああでもない、こうでもないと探求した挙句にやってきます。そして「エンライトメントなんてない」と言われて、なぜないのかがサッパリ理解できないところから始まります。
盤珪は「不生の仏心」を説いたわけですが、何の修行もしていない人が、「そのままで仏なのだ」と言われても、ハイそうですかとは納得できないのではないでしょうか。当の盤珪でさえ病気になるほどの修行の果てに「不生の仏心」にたどりついたわけであり、何もしなかったわけではありません。
そして、ボブのまわりの人たちは、理解が起きても、contraction が起きると言います。私はこの「contraction 」という単語を上手に表現する日本語を知りません。辞書を引くと、「収縮・短縮・縮小、低下・減退」というような意味が出てきます。ジェームズ・ブラハやカタリーナ(カット)が使うので、精神世界特有の特別な意味があるのかもしれません。
要するに、自分が理解したと思っても、疑いが出てきたりして、確信が揺らぐような状態なのではないかと思います。そういうcontraction が起きるうちは、本当に理解したとはいえないと思います。ましてや、もっと別の人の本をと、あれこれあさっているなら、理解は起こっていないのだと思います。あさらなければ出会えないのだから仕方ないのですが、なかなか一人の師に出会うということは容易なことではないと思います。
でも、続けていけば理解は起きます。その起き方は人様々であり、決まったやり方はないと思います。わかったふりをしないで、地道に続けていくことだと思います。理解している人も理解していない人も、それであることには変わりはありません。