40:17から
参加者:あなたの言葉で何か心に触れたものがあって、それで以前考えたことがあるのですが、私たちはサット・チット・アナンダです。私たちは毎朝夢の中へと目覚めます。目覚めると、自己のイメージと体が組み立てられます。存在することの喜びは体の中にある自己のイメージを愛することが可能です。でも、私たちは歳を取ると、体のあちこちが衰え始め、痛みや、がんなどを経験し始めます。その、存在することの喜びは、どうやってそうしたことと折り合いをつけているのでしょうか? というのも、少なくとも私のマインドは、それを拒絶したがり、痛みを止めたがり、それを実在とは切り離されたもの、あの自己とは切り離されたものとして見たがります。たとえば、私はこれが嫌い、私はこれは欲しくない。それでも、それは「一つ」の中に入っています。
ボブ:ええ、それもまた観念のイメージです。そしてそれが痛みを癒そうとします。その痛みや苦しみはどれも体にはよくない。それでそれを治すために何かしなければいけない。あなたを生きている命がそれ自身で生きているというのに、何があなたを癒すというのですか? あなたが切り傷や骨折、背骨に痛みなどがあるとき、縫合がそれを治すのですか? いいえ。それはただ縫い合わせるだけです。折れた骨は繋ぐために吊られるだけです。すると、体自身が自分でそれを治すのです。体が自分で世話をするのです。
そして今や私たちには科学があり、それを使っています。それはとても役に立つものです。でも最悪なのは心理的な物事です。体は歳を取って死に、無くなります。でも、その命(life)自体は永遠に新鮮で永遠に自由であり、決して腐ることもなければ汚染されることもありません。パターンが姿形となってそれを通して表現したものとしては、決してそうなりません。それはまた空(くう)へと帰っていきます。死体はどこへいきますか? 棺に入れられ、土に埋められるか、あるいは燃やされます。
そして、いわゆる観念上の時間がまた過ぎて、分解されます。灰から灰に、塵から塵に。全部が塵、すなわち土に戻ります。そして最終的には海へ入ります。海は水です。それは太陽によって蒸発します。しかし、木や植物、種などすべて、あなたが食べる食べ物などが、さらなる命を運んできます。命から、あなたの両親から、命は命からやってきます。そして、形作られた命は、同じ命として戻ってくることはありません。しかし、可能性はたくさんあります。あらゆるパターンが姿形となり、それを続けます。自然に努力なく一人でに。