2022/12/22

どうやって決断したらいいのですか?

2022.5.15ミーティング
33:09から

参加者:また素晴らしい話をありがとう、ボブ。ボブが話をすると、私の体がライトアップされたようになって、深く共鳴するのを感じます。そして私は、選択の余地のない実在のようなものを感じることができます。私の人生で起こる多くのことには選択の余地はないということを知り、理解していると感じています。でも同時に私は、ある意味、決断することと格闘しています。いつ決断するのか、それどころか私が決断するのか、それをどう理解したらいいのか。

私が話しているのは特に今関連のある関係性のことや以前の関係性に関することなどで難しい決断をしなくてはいけない時です。私の一部は、選択はできないのだから、そのままにしておいて起こるに任せておこうという方へ傾き、言い訳をしているように感じる一方で、何かをするようにと決断を迫られていると感じている時に、どうやって決断をしたらいいのかわからず、この選択の余地がないという観念と、どう調和させたらいいのかわからないのです。

ボブ:決断はなされ、選択はなされます。でもそこには選択者はいません。決断がやってくると、あなたは「私が決断をした」と言います。あなたはそれを分離した存在がやったことにしたのです。でも、あなたの次の思考は何ですか? あなたは次の思考が何なのかを言うことができません。でもあなたは「私が考えた」と言うでしょう。あなたが「私が考えた」と言うやいなや、あなたは主体、思考者を作り出したのです。そして「私がこの思考を考えている」と言います。その思考が思考と思考者となります。

でも、思考することなしに思考者がいますか? いません。考えることなしに思考がありますか? ありません。選ぶことなしに選択がありますか? 選ぶことなしに選択者がいますか? うわべ上では私が選択をしたり、決断をしたりしているように見えます。でも、それをやっている「私」はあなたではなく、生命の本質そのものがそれをやっていて、それが翻訳されて思考の「私は在る」になるのです。あなたはその命、実在、実在性、敬神、もしそういう言葉を使いたければ。存在意識。

「私」は本当に究極のものです。そこにいるすべては究極のものです。究極のものに何を付け足すことができますか? 付け足すことは何もありません。それから何を取り去ることができますか? 何もありません。それはただ単に究極のものなのです。あなたはいかなる言葉も持って生まれませんでした。あなたが二歳か二歳半の頃に両親から言葉を学んだ時、あなたは「私は在る」という言葉を学びました。それが存在の意識です。それがマインドによって翻訳され、思考の「私は在る」になりました。

しかし、その思考は本当のあなたではありません。それは翻訳にすぎません。ニサルガダッタが「私は在るとともに留まりなさい」と言ったとき、それはその思考と一緒に留まりなさいと言ったのではありません。彼はあなたに、それが表すものと一緒に留まりなさいと言ったのです。それは、この存在意識のことです。それが本当のあなたです。あなたは今意識していませんか? あなたは存在しています。あなたは今この瞬間存在しています。あなたは意識であり、あなたが存在することは幸福であり、何かになることや、何かを見つける必要はありません。それはもともとそうなのです。それは常にそうでした。

でも、私たちは言葉を通じてそれを見失いました。シェイクスピアは400年前に言いました。「何も良くも悪くもない。思考がそうしているにすぎない」。ニサルガダッタは「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめはしない」と言いました。今、その想像(imagination)という言葉を、image(イメージ)とin(入る)に分解してみてください。それが私たち皆がやっていることだと理解してください。私たちは心理的なイメージ、すなわち観念を創造し、それが実在だと思っているのです。

私たちはその観念の中で道に迷います。一つの本質がパターンとなり、姿形となり、あらゆるものとなって現れています。一つのものがあるだけです。それは常に一つです。私たちはそれを、いわゆる個人、「私」と結びつけます。そしてそれには何らかの実体があり、それ自身に何らかの独立した性質があると思っています。でも、その究極のものが、それ自体で何ができるでしょうか? 何もできません。すると、何が起きるでしょうか。

それはそれ自身を体験して表現するためにパターンを形成し、姿形を作ります。その姿形となった生が、うわべ上では分離したものに見えます。それにはこの体があり、例えば脳や神経などがあります。でも、それ(生)なしで、どうやって体は言葉を発することができるでしょうか? それが、内在する知性が機能するやり方です。それがすべてを行い、体やこの顕現全体を形づくります。それは一つの本質です。

私があなたに話したように、聖典では、ブラフマンから草むらまでと言います。あるいは、シヴァーシャクティです。シヴァが静的な面であり、その配偶者であるシャクティが女性的な面として振動しています。シャクティが振動して世界が現れます。つまり、すべては振動するエネルギーなのですが、それでもその本質は一つです。シヴァとシャクティは分離してはいません。私たちが分離させた分離という観念上のイメージは問題となります。

カット:ちょっと付け足したいと思います。というのも、決断を下すというのは重要な問題だからです。私たちは認識する能力を持っているため、異なるシナリオを予想します。そのために、考えがぐらぐらと揺れ動きがちになり、不確かになり、何そすべきか、何をすべきではないかと迷います。動物には通常そういう問題はありません。

もし、あなたに断つべき関係性があるなら、何をすべきか確信が起こり、行動が起こります。自然な状態にとどまるための最良の方法は、ボブの言う「私は在る」のハートの状態、無思考の非観念の空間にとどまることです。そして、決断が完全になされ、それが明確になるまで待つのです。というのも、そうした決断はうわべ上では毎日の生活の中でやっていることだからです。コーヒーにしようか紅茶にしようか? そして、とても明確な決断がやってきて、ああ、これだと感じる。

もちろん、コーヒーにしようか紅茶にしようかと決断しているのは「私」ではありません。体とマインドが衝動、直観に従うのです。同じことすべてが人生でも起こります。どうやって私たちが苦しみを減らすのかは、思考の中でぐらぐらと揺れ動かないことです。まだ明らかに決断に従うほど決断が明確でない時はまだ決断する時ではないのです。それはまだはっきりしていません。それはまだやってきていません。それがやって来る前、ええっと、私もそうでした。その時はすでに観念上では強く理解していました。私は「助けてください。これは重要なことです。私のために決断してください」とインドのグルに叫んだのを思い出します。そして彼はただ笑い続けるだけでした。笑ってしまいます。実際あれがどれほど重要だったのか。

何が起きようと、人生、夢がどのような道に進もうと、あなたがとどまろうが行こうが、あれやこれやが起きようと、それは夢の内容の違いでしかありません。でも本当に大切なことは、内容にかかわらず、あなたの本性を理解することです。あれが起きようが、これが起きようが、何が起きようが、自由で完全で成就した存在でいることが可能です。なぜなら、まだ知らないシナリオがあるかもしれないからです。