2022/11/18

探求が終わっても古い頑固な習慣が消えるわけではない

2022年11月6日ミーティング
1:01:38から

(ある女性『サロジャ』が、ボブの話を聞いて楽になる時はあるが、ハートのあたりに重苦しい感じがあって、それがどうしても去らないと質問します。それに対して周りの人があれこれコメントしたあとでカットが発言しました)

カット:みなさん素晴らしいコメントをありがとう。サロジャ、一言だけボブがいつも強調して言うことをもう一度繰り返して言いたいと思います。私たちはもともと存在しているものを理解します。その時、何の障害もなく、思考の雲もなく、重苦しい感じもありません。それは自然な状態ですが、その自然な状態は時々何かが注意のフィールドに入ってきて邪魔をして不鮮明となります。それはひょっとすると肉体的な重苦しい感覚かもしれません。

もしそれが、物語を伴わない感覚にすぎないのなら、医療関係の専門家に診てもらうというのは良い考えかもしれません。それが何か肉体的なものかどうかは誰にもわかりません。というのは、通常、感覚がやってきた時、それは体の中で何かが注意を要求しています。それは調べてみる価値があることかもしれません。もしそれが肉体的なものでないなら、思考がやっています。たとえば、「私には価値がない」「私は自身の可能性を浪費している」「私はそれを手に入れられないだろう」。

そうした思考があなたの魂を押しつぶし、ハートを閉じさせているのです。私の人生もほとんどそういう状態だったからわかるのです。そしてそれがひどい重苦しさを生み出すのです。でも、それは思考です。そしてその思考は、存在意識の静寂の側から認識されるのです。あなたは、重苦しさを、重苦しさを超えた地点から認識しているのです。あなたはそれを一個の物として描写します。あなたは思考を一つの対象物として描写します。そしてあなたは純粋な主体性です。

実のところあなたは、たとえひどく押しつぶされそうな苦悩のさ中であっても、それを平安な場所から見ているのです。そして、もともといつも存在する場所へ戻り続けるだけでいいのです。なぜなら、もともとあなたはその自然な状態であり、それはもともと存在するものだからです。それは誰も判断しない解放された空間であり、そこには好き嫌いはありません。空間はすべてを含んでいて、すべてを歓迎し、すべてを愛しています。それが本当のあなたです。それはもともとここにあります(自分の胸を指さす)。

その中のその重苦しさは、やって来て去っていきます。幸運にもそれを聞けて私は嬉しいです。それはやって来て、去っていき、小休止が訪れます。あなたのハート全部、注意力全部を、その小休止の瞬間を見抜くために注いでください。何が、そしてどうやってそれが不鮮明にしているのかを見てください。最初にボブが重要なアドバイスをしました。そこには私がいるように見えて、それが行為をやっているように見えますが、そうではありません。それは単に共鳴しているにすぎません。

マインドを見つめて、それがどのように機能するか、何をしているかを見てください。何がそれを引き起こしているのか? 興味を持ってください。それは、現象として現れた生の本質が形となって現れていて、それが唯一のやり方なのです。あなたの体が一番近くにあるものであり、それがあなたの乗り物なのです。それがあなたに見るための目を提供しているのです。それが唯一密接に知っているものです。そのプロセスを楽しんでください。というのは、あなたがその調査に全力でハートを注げば、それはいとも簡単に明らかになるからです。

私の場合もボブの場合も他の人の場合も、それはとても大きな瞬間(ではなく)、それは一回の花火の爆発のようなものではありません。というのも、それは何かが突然あなたに付け足されるような瞬間ではありません。それは単に重しが落ちるようなものです。それは突然雷に打たれてショックを受けて、解放されて、神聖になるといったそういうものではありません。全然そんなことはありません。

それはまるで何か重荷を下ろすようなものです。大多数の人にとって、それは徐々に起こります。そうした瞬間が少しづつ頻繁に起こるようになり、思考ももっとしばしば認識されるようになります。たとえボブや私が、うわべ上の自己、構築物は即座のものであると見破ったあとも、思考は依然としてやってきました。思考は依然としてしばらくはぶらついています。何年も経つ間に、ぶらつきは減っていきます。なぜなら、思考はエネルギーから燃料を得るからです。思考は注意を引かなくなり、エネルギーを得ることは減っていきます。

もし、イメージの解体が即座ではなかったとしても、行動や反応のパターンは崩れて消えていきます。7年前、私は依然として狂信的にヴィーガンを信じていました。それは真実(だと思っていました)。もちろんそうではありませんでした。もしあなたが誰かにその考えは真実かと聞けば、ノーと言うでしょう。でも私はそれを疑問に思いませんでした。今でもそれを疑問に思ったことはありませんが、今はその信念が不在なのです。もうそれはありません。そうした生きた例が真実として働きます。ジェーンが言ったように・・・・真実が嘘を食べ尽くすのです。それはある意味、石や障害物を取り除くようなものです。それは自然な光を邪魔しているヴェールを取るようなものです。

ジェーン:一言添えたいのですが、カット。かつて私は「アイ・アム・ザット」を読んで、ボブの話を聞き始めました。私はその時点で自身の探求が終わったことを知りました。というのも、私は見破ることができたからです。あなたが言ったように、私は、「私」、仮定の私の物語を見抜くことができたからです。でもそれは、頑固な古い習慣が消えたということではないのです。そこには、二歳半ごろから続いている分離した自己に対するたくさんの自己同化がありました。つまり、自己の探求は終わったと知ったにもかかわらず、古い習慣がしつこく続くというシナリオが確かにあったのです。でもひとたびボブ(の言葉)と本当に共鳴したら、彼が本当のことを言っていると知りました。なぜなら、あなたが言ったように、私たちはもともとそのことを知っていたからです。私たちは皆そうした瞬間があります。なぜなら、もともと一度も分離したことはなかったからです。

カット:まさしく。すばらしい言葉でした。その点を見てください。とても上手に言葉にしました。「おー、私はエンライトメントを達成した」と言う代わりに。そこには達成する私はいません。でも、探求は落ちていきます。終わったのです。探すものは何もありません。なぜ? なぜならそこには何かを探す誰かはいないからです。それが解放です。そこに、何か違うものを欲しがる人はいません。そこには、違ったものになるようにと、頭に髪の毛が一本欲しい人は誰もいないのです(ボブの頭をなでる)。このあごひげ。(一同笑う)。違ったものになる必要は何もないのです。なぜなら、そこには、この完璧な瞬間、今この瞬間に対して抵抗する人は誰もいないからです。それが歯痛であろうと、老齢であろうと、すべて。それに抵抗する人はいないのです。それが解放です。それが自己からの解放です。でも、それは自己のためではありません。そこには解放される自己はいないのです。