53:28から
(思っていることを一人一人が順番にシェアしていく中で)
ギルバート:もしすべてのものがそれであるなら、他には何もない。ただ一つのものがあるだけで、他には何もない。この、自己の中心という考えは実際にはフィクションです。それならそういうふうに見えなくてはいけないのですが、自己の中心が存在するという信念のために、すべてのものが分離しているように見えます。そしてそれは言葉やラベルなどによって分割されています。
そしてその自己の中心という信念は、たとえそれがフィクションであっても、うわべ上の限界、自己の中心が保持しているでっちあげた考えや言葉に依存しています。たとえもしそれが実在ではなかったとしても、現れ続けます。つまり、それは見せかけです。そして、見せかけはマーヤーです。つまり、見せかけは実在ではありません。顕現は見せかけです。そして、非顕現が実在です。実在は決して現れません。そのため、自己と呼ばれるもの、すなわち「私」を見つけることができないのです。
「私」を探しても、物語や記憶しか見つからないのです。そして記憶は全く信頼できません。(一同笑う)記憶は過去です。この「私」という考えは、他の人の描写や意見、私に対して考えていることなどに依存しています。物事の常として、この「私」を本当に見つけることができるかを調査することが不可欠です。そして、もし、見つからなかったら、何回調査しなくてはいけないのか? それが実在でないと確実にわかるまでです。
そしてこの分離、分離しているという信念は、精神的な苦悩の原因です。心理的な苦悩は不要です。そして私は誰もどこにも精神的苦悩を歓迎する人を知りません。おそらく、どこかのバカが(苦悩)しようとするでしょうが、それは不必要です。ボブは指摘しています。それは知性エネルギー。知性エネルギーがすべてを行っていると。それが単一性として自身を表現していると言うことができます。
そしてすべてのものは、たとえ限界でさえも知性エネルギーなのです。それがパターンとなって現れています。自己の中心の限界は、エンライトメントしようとすることや、自己を束縛から解放しようとすることなども幻想の一部だということです。なぜなら、もともとそれは最初から存在していないから。どうしてそれを解放することができるでしょうか?
あなたが実際には入ってない牢屋から外にでることはできないのです。あなたは刑務所の設計図を持っていて、それを調べてトンネルを掘ろうとするかもしれません。私はあの物語が好きです。あの名前は何だったか……。モンテクリスト伯。彼は刑務所の中にいて、ある独房から地面を掘って、別の独房に出てしまい、最終的にはその男が死ぬのを待って、その男が体を包んで海に投げ捨てられたあとで、その死体を引き上げて自分の独房に入れて、穴を戻したあとで自分を包んで海に飛び込んだ。そうやって自由になった。
それは全く複雑だった。でもそれが私に希望を与えた。もし、私がすべてを整えたら、私は解放されると。でも、自己の中心はフィクションです。それは、あらゆる種類の限界を持っているように見える。でももしその限界を調べてみると、それはフィクションです。というのも、それはすべて空想上のキャラクターだからです。つまり、すべてがそれなのです。
私がそれなのです。そしてすべの顕現が自然の中の美しいものとなって現れているのです。例えば、昆虫や鳥などを調べてみると、それはすばらしいものです。でも、彼らには心理的な苦悩がありません。鳥や動物。そこにいる猫。それには心理的苦悩がありません。それは単なる存在で、心地良く動いたりしていて、いわゆる人間的な心理的苦悩がありません。ええと、永久に(話を)続けられそうですが……。
参加者:続けて(笑い)
ギルバート:どうぞ続けてと言われても、もうない。(笑い)最初、ボブの最初の本で、最初の一行は、「もはや今以外に神はいない」だったと思います。そしてそれをタイプしている時、それはとても興味深いことだと思いましたが、それ以上はもうありませんでした。私たちは、もっと欲しがります。私たちは少なくではなく、もっと欲しい。自分をもっと安全で安心するようにもっと欲しい。でもそれはフィクションです。もし本当にそれが実在ではないとうすうす感じたり、味見をしたりして、重荷が降りたような感じがしても、それでもドラマは起こってくるのです。あらゆる種類のドラマが続きます。それは心理的な苦悩です。