1:04:35から
参加者(外見とアクセントから、インド系の女性):お尋ねします。なぜ私たちは、私たちの家である「我はそれなり」を去って、はるばると長い道のり生死を繰り返し、サンサーラ(輪廻)の中で道に迷い、帰り道を探しているのでしょうか? どうして私たちは家を出たのでしょうか?
別の参加者:誰がそれを知りたがっていますか? 誰がその質問をしていますか?
カット:そしてまた、その質問にはいくつかの仮定が含まれています。ボブに答えてもらいたいですか? (ボブに向かって)どうして私たちは何千という生と死を繰り返し、肉体となり、生まれ変わり、サンサーラ(輪廻)へと入っていくのでしょうか? そこにとどまることもできたのに。
ボブ:あなたは実際にそこを去ったことがありますか? あなたは今この瞬間意識がありますか?
参加者:意識しています。
ボブ:ええ、あなたはその存在意識です。それが表面上、観念や思考によって不鮮明になっているだけです。
カット:そうした観念が不鮮明にしたことによってできる観念は時間です。そこにあるのは過去生、来生ですが、それは想像上のものであり、あなたがそれを考えた時だけ存在します。思考がない瞬間には昨日はありません。そこには千年前はありません。そこには過去生はありません。それは生命の本質、単一性が、自身は体、マインドであり、時間の中にいるという夢を見て、幻想の中で自身を見失うのです。それは遊びです。それはリーラ、神聖な遊びです。それは、自分ではなく、何か他のものであるふりをしているのです。
何かの理由があってやっているわけではないのです。どうして私たちはこれをしたのか、どうして私たちは道に迷ったのかというような理由はないのです。それは、放蕩息子が父親の財産を全部持って放浪し、また父のもとに戻ってやっとわかり始めるという、あの話に似ています。なぜ、という質問に答える物語はたくさんあります。でも、それは実際に起こったのか、本質が実際に去ったのか、実際に迷い、輪廻を繰り返したのか、それとも、それはマインドの中の単なる思考であり、それが時間の中を旅するという幻想全部を作ったのか。
ボブ:ニサルガダッタは、あなたたちは世界と呼ぶ夢を見ていると言いました。彼は言いました。夢の出口を探すのをやめなさい。夢が問題なのではない。あなたの問題は、夢の一部を好み、他の一部を嫌うことだ。全部を好きになるか、全部嫌うかしなさい。私たちが、信じている夢を見始め、それがリアルだと考え、それを調べると、それはすべて起こっていなかったのです。夢なのです。そのように見えているだけなのです。それは現象的な顕現と呼ばれます。現象の定義はそのように現れているものです。すべてそれは見せかけにすぎません。