今現在世界で残っている仏教を大きく分けると、南伝仏教と北伝仏教ということになります。南伝仏教は、スリランカ、タイ、ミヤンマーなど東南アジアに伝わった仏教であり、北伝仏教は三蔵法師などによって、中国、韓国、日本へ伝わった仏教です。
南伝仏教と北伝仏教では、その成立年代と内容が異なります。二千数百年前に釈尊が亡くなるとすぐに、弟子たちの手によって、経典の編纂(最初は口承)が始まります。そうしてできた一連の経典を阿含経(あごんきょう)と言い、それはそのまま釈尊が説いた教えです。阿含経のことをニカーヤとも呼び、それがスリランカ、タイ、ミヤンマーなどへと伝わり、今日でも生きています。この時代の仏教を初期仏教とも言います。
それから数百年後、紀元前後になると、仏教は変異して、インドで大乗仏教が起こります。それがどのようにして起こったかはあまりはっきりわかっていません。もともと一つの教えだった仏教が様々な教えの仏教へと変異し、その総称を大乗仏教と呼びます。
やがてインドでは大乗仏教が主流となっていきます。その後、大乗仏教は三蔵法師などの手によって中国へと伝わり、さらに韓国、日本へと伝わって今日でも生きていますが、インドではヒンドゥー教の台頭やイスラム勢力の侵入により十世紀ごろに消滅しました。
非二元という視点に立って、南伝仏教と北伝仏教の違いについて書きます。ここからは、南伝仏教は阿含経がメインなので、阿含経と呼び、北伝仏教は大乗仏教なので、大乗仏教と呼ぶことにします。阿含経は釈尊の説いた教えです。大乗仏教は突然変異して登場した仏教なので、釈尊の教えそのままではありません。
阿含経では体の存在を認めます。つまり、体は実体があるものとして存在することを認めます。でもそれは五蘊(ごうん)といって、「私」を構成する構成要素の一つにすぎないと説き、「私」は構成要素の集まりであり、そこに実体のある「私」はいないと説きます。要するに、体は存在するが、「私」は存在しない。
大乗仏教では、体も存在しないと説き、体も「私」も実在ではないと説きます。これは、そこには何もないという「空」の思想です。体の実在を認めるかどうかの違いはあるものの、阿含経も大乗仏教も、「私」は実在ではないと説きます。それを「無我」と言います。仏教の根本教説は、無我です。無我とはつまり、「私はいない」ということです。
日本に伝わった仏教は、密教の一部を除くと全て大乗仏教です。当然その教えは無我の教えということになります。
では仏教のどこにその無我の教えが具体的に説かれているかというと、まずは阿含経です。そして大乗経典です。大乗経典の代表は般若心経です。そして、大乗仏教の中のキーワードを挙げるなら、龍樹(りゅうじゅ)、唯識(ゆいしき)、禅です。唯識の中では世親(せしん)であり、禅の中では盤珪(ばんけい)です。
私は、なんとかしてそうした仏教関係の書籍から学べないかと、あれこれの本を読んで、禅・Buddhismを書きました。たしかにそこには非二元の教えがありました。でも、この作業はけっこう大変でした。どれも原典を自分で読めるわけではないので、学者か僧侶の方が書かれた解説本を読むことになりますが、それでも難しい。
仏教の中にある非二元を詳しく学ぼうと思われる方は、禅・Buddhism と、仏教その他 の中にあるYouTubeで学ばれることをお勧めします。それを見たうえで、わからないところを自分で調べるという方法が一番近道だと思います。
仏教の「無我」と非二元の「行為者の不在」を一緒にするなと言われる方もみえるかもしれません。でも、私は同じことを言っていると思っています。これは私だけでなく、セイラーボブをはじめ、多くの欧米の非二元の語り部たちが仏教を引き合いに出して語り始めていることからも明らかではないでしょうか。
セイラーボブは「行為者の不在」を自分で調べて確かめなさいと言います。自分で調べなさいという人はまだ良心的ですが、たいていの人は何の説明もなく「私はいない」と繰り返すか、「私は体験した」の一点張りです。ある意味、説明に深みがありません。
そこへいくと仏教は、たくさんの説明を持っています。その時代や経典によって説明は様々で、深みがあり、納得できるものが多い。私は、非二元の説き方の潮流は仏教をベースにしたものに移っていくのではないかと思っています。