1:07:28から
(一人一人が考えていることを順番にシェアしていく中で)
ギルバート:人が認識できる一つのことは、見ること、見る活動は自然に起こっているということです。そして、「私」は何もしていません。そこには見ることをやっている人はいない。ただ自然に起こっているだけ。それは知る働きにも同じことが言える。認識活動は自然に起こっている。そしてこれを認識すると、ものごとはそのように起こっているとわかる。生そのものが自然に起こっている。
そして私たちはそれに意味を与え、組み立て、個人の物事を付け加える。でも、私がかつて最初の瞬間とよく呼んでいた瞬間は、自然の見ること、知ることがあるだけで、そこには何も存在しない。最初の自然な動きの中には何か存在がいるという観念はない。そして、社会や他の人と接触することによって「私」という考えが生まれる。でも、役に立つ質問は、私はどこから見ているかというもの。実際に私はどこから見ているのか?
そして、「私」はフィクション、物語だということがわかる。物語は何も見ることはできない。言葉は何も見ることはできない。考えは何も見ることはできない。つまり、「私」は何も見ることはできない。でも、物事の性質上、「私」は見ることを借りてきて、生き残るために自身の物語を組み立てる。というのも、人生は外の世界ではジャングルのようなものだから。でも、自然に起こる現象の性質に立ち返ると、それをやっているのは私ではない。そこにはそれをやっている「私」はいない。それはフィクション。
あなたは何もすることができない。それが、それの現れるやり方。そして、それに逆らうのは意味がない。でも、あなたはそれをあるがままに見ることはできる。すると、そこには解放感がある。というのも、あなたはたいてい選択できるから。あなたは「私」の思考に従う必要はない。というのも、それはいつもトラブルやドラマへと導くから。「私」は生き残らなくていけない。
たとえば、トイレットペーパーのパニックを覚えているでしょう。なんと奇妙なことだったことか。誰もかれもがあらゆるトイレットペーパーを買いあさった。それはとても奇妙な生き残り競争だった。人々は自分の尻を拭かなくてはいけない。それが最も大切なこと。(別の参加者が何かジョークを言うが聞き取れず)。いずれにしても、どこから私が見ているのか、それは本当に役にたつ質問です。そしてあなたは実際にはそれに答えることはできない。でも、見ることは起こっている。
参加者:私はあなたが例えとして使うミッキーマウスが好きよ。物語上のキャラクターについての話。
ギルバート:私が子供の頃、随分昔。私が子供だった頃。ミッキーマウスは漫画の大きな存在だった。映画を見にいくといつもミッキーマウスの漫画だった。グッフィや他もいた。ミッキーマウスは虚構のキャラクターだ。それは「私」のようなもの。「私」も虚構のキャラクター。でも、あなたは漫画を見ることができる。ミッキーマウスがスクリーンを飛び出して、あなたのアイスクリームやポップコーンをつまむことはない。そんなことは起きない。つまり、ミッキーマウスはキャラクターだ。「自己」というイメージも同じ。
自己というイメージも、固定された永遠にあるというものではない。それは絶えず変化している。そしてそれはとてももろい。誰か他の人がそのイメージに何か意義を唱えたり侮辱したりしただけで大騒ぎになる。「私」は単なるミッキーマウスにすぎないと理解するのはいいことだ。ウオルト・ディズニー。ディズニーランドは巨大だ。たくさんのものがある。何を求めてディズニーランドに行くのか。ミッキーマウスの衣装を着た人が歩いていさえする。それは子供たちにとってはすごいこと。でも、大人になったら……。
参加者:コスチュームパーティ。