45:18から
(参加者の男性、ジョゼフが自然な状態ついて質問します。質問の要旨は、もし、結婚相手の女性に魅力を感じなかったら、自分自身に正直でいることと、結婚生活を維持するということは相容れない。自然な状態とはどういう状態なのか混乱しているというもの。次にマイクを取った女性が、思考以前に意識や認識は起こっているという発言をします。そして、次に別の男性、ラッキーがマイクと取って発言します)
50:36から
ラッキー:ちょっと付け足したいと思います。たぶん10年ほど前、こうしたことに興味を抱く前の記憶がひらめたのですが、その頃私は何かを理解しようとしていました。脳のどこでニューロンが始動するのかに関する心理学の本を読んでいました。その本では、もし人が行動を起こそうとする時、あるいは、誰かがあなたに対して行動を起こす時、脳の中の行動を指示するパートが最初に始動して、そして次に脳の一部の前頭葉が思考を生むそうです。
つまり、行動が起きたあとで思考がやって来て、言葉によって、自分がなぜそれをやったかを説明するのだそうです。それを読んでも納得することができませんでした。というのも、行動の後で思考がやってくるということに驚いたからです。そして、そのことは、思考は
理論的に独立してあるのではないということを発見したのだと理解しました。それは文字通り肉体的な事実なのです。
思考は後でやってきて、自分が何をしたかを説明したり、自分が存在することや、自分が知っていることを説明したります。それはまるで誰か他の人が行為を行い、その後で脳の一部がやって来て、これは私がやった。あれやこれやの理由で私がやったと言うようなものです。でも実際は、行動は起こり、その行動の後でそれを説明し、その説明を真実だと思っているのです。そのことが突然はっきりとわかりました。10年前には納得できなかったことです。なぜだかわかりませんが。
(他の人の発言 省略)
59:00から
カット:何人かからコメントが届いています。アマナから。静寂と愛の言語には言葉はない。ラムから。時間を超えた意識を現象と置き換えるのは無知、幻想、マーヤーの誕生だ。JBから。すばらしい発言だった。思考が起きる前の認識はとてもシンプルなため見逃されてしまう。キャリンから。エゴは実際には見つからない。発見者もいない。(コメントおわり)
みなさんがジョゼフの質問に既に答えましたが、私も一言付け加えます。しばしば人々は、非二元とは何だろう、非二元の道徳的立場は何だろう、その特別な宗教は何と言うのだろうと、こっそりとのぞき見しようとここへやって来ます。というのも、あなたはキリスト教へ行き、一夫一婦制でいなさい、同性に興味を持つな、というようなことを言われるからです。イスラム教へ行けば、奥さんは4人までと言われるでしょう。どんな社会も、あなたがどういうふうに生きるべきかという異なる概念を持っています。
でも、非二元では「すべき」だという言葉は使いませんし、「すべき」だとも言いません。なぜなら、その「すべき」に従うあなたはいないからです。私が書いた本のアマゾンのレビューで見つけたのですが、私が倫理的、あるいは道徳的な事柄について書いてないというものがありました。それは不利な点かもしれません。
話は戻りますが、非二元は本質的に、どのように生きるべきかということをあなたに言いません。なぜなら、根本的な理解として、あなたがあなたの人生を生きているのではないからです。生(life)があなたを生きているのです。生があなたを条件づけて、あなたは例えば同性愛などに魅かれます。それはおそらく、条件付けであり、例えば母親が妊娠中のことかもしれず、社会に出てからのことではないかもしれません。集合的な影響です。
それとも、あなたは生まれつき一夫多妻なのか、あるいはその他の何かかもしれません。それが何であろうと、生があなたを通して、認識や行動として表現しているのです。そこで、社会的、文化的条件づけのうわべによって、ラッキーが言ったあの有名なリベットの実験の解釈をもたらします。実際あの実験は多くの大学において繰り返され、行動の約0.5秒後に物語がやってくることが明らかになっています。
今もし、条件づけが、あなたは罪人だと告げたとします。なぜなら、二人以上の女性に魅かれるからです。でも、誰にわかるでしょうか? それは生がそれ自身の物語を表現するやり方の一部なのです。そのせいであなたはそれに溺れるかもしれないし、ひどく苦しむかもしれません。その苦しみのせいで刑務所に入れられ、あなたの母親が悲しむかもしれません。
そして、どこかでさざ波効果が起きて、意識が対応するでしょう。というのも、他の人があなたと交流するでしょうから。あるいは、あなたが明晰さを持つようになり、思考が何と言おうと、それは思考が言っているにすぎないと気づくでしょう。体は条件付けられたように行動します。でもそれは、マインドが、オーケー、どこへでも好きなところへ行って、何でも好きなことをしろ、という意味ではありません。
自由にどこかへ行って人を殺したりレイプしたりしてもいいということではありません。なぜなら、それもまたあなたができることではないからです。なぜなら、自由にどこかへ行って人を殺したりレイプをするあなたはいないからです。あなたが愛、充足感、完全性の感覚を経験する時、もはやあなたは欠乏を感じることはなく、あなたは不完全な可哀そうな私ではなく、自身を修正する必要もありません。
誰かがまちがっていると証明したいとか、誰かから何かを盗まなくていけないとか、誰かを傷つけなくてはいけないという感じは消えてなくなります。なぜなら、そうした衝動はすべて、不完全さと自己の中心からやってくるからです。それは完全なものにならなければいけないという思いからやってくるからです。もしあなたに欲望がなかったら、どうして人の物を盗むでしょうか?
つまり、非二元の道徳的側面は明晰さがやって来た時は自明のこととなります。そしてそれは即座に起きることではありません。というのも、明晰さは少しずつ現れてくるからです。そして人を傷つけるという古い条件付けが依然として残っています。あるいは、明晰さは一回の爆発で起こるかもしれません。でも、身体とマインドという装置の再条件づけを定着させるにはしばしば時間がかかるものです。どんな物語が現れれようと、どんな状況も新鮮で新しいものです。
でも、もしあなたが、その状況で私はどうすべきか、何が適切かという非二元的スタンスや意見を探しているなら、あなたがそれをここで見つけることはありません。なぜなら、私達はうわべ上の社会的な条件付けや道徳上の教え、宗教のようなものを教えているわけではないからです。私たちはそうしたことを超えた真実を見つけ、その人為的ではない単一性の真実の中でくつろぐのです。そこでのあなたはもはや体でもマインドでもありません。
そして、あなたは自分が意識すなわち空間であると認識し、体とマインドの活動は、副次的なものになります。その意識の空間からの行動はより非個人的なものとなります。自己判断や自己嫌悪、罪悪感という重荷は軽くなります。それによって、あきらかに傷つかなくなり、重荷からより解放されます。そして、もしあなたがパートナーをだましているなら、自身がパートナーをだましていることに気づくでしょう。でも、たとえあなたの体が条件付けや観念から行動したとしても、本当のあなたは空間のような意識なのです。ある時は観念から、ある時は条件づけから行動したとしても、それは同じものの二つの側面です。