2022/11/14

物は実在か

昨日のブログの佐々木閑先生のYouTubeはとても有意義な内容でした。そこで、物は実在かということについてもう一度考えてみたいと思います。今までこのブログで何度も書いてきたことと重複しますが、重要なところですので、どうぞお付き合いください。

私は、初めてセイラーボブのミーティングに出たころ、エジプトのピラミッドは本当にあるのかと、よく考えていました。それは私の意識の中にしかないのなら、実在しないことになる。でも、私がピラミッドのことを考えたとたんにピラミッドは出現するし、飛行機に乗って見に行けばちゃんとある。じゃあ、私が寝ている時はどうなのか。そんなことを考えて混乱していたのを思い出します。このあたりが、非二元の教えが一般の人に敬遠される原因なのではないでしょうか。

体は実在か。この問いを、佐々木閑先生の説く仏教でおさらいしてみると、仏陀は、体はあると言った。初期仏教の阿含経(ニカーヤ)でも体はあると説いた。体はあっても、それは構成要素(五蘊)にすぎず、そこに実体のある「私」はいないと説いた。そして大乗仏教が登場し、唯識の教えが現れると、体もない、すべては無であり、空であると説いた。初期仏教の阿含経でも、唯識でも、実体のある「私」はいないと説いている。

セイラーボブはどうか。セイラーボブは、阿含経の時もあるし、唯識の時もある。例えば、「実在の定義とは永遠に変わらないものです。体もやがては消えていく。実在ではない」と説く時もあれば、鏡や映画のスクリーンを例に出して、「あるように見えているにすぎない」という時もある。私は、初期の段階では、じゃあ一体、セイラーボブは、体はあると言っているのかないと言っているのかどっちなんだと思ったものです。

現象の世界にある体は存在していて、やがて消えていくけれど、実在の世界ではもともと体は存在しないというのが非二元的な説明なのでしょうけど、こんな説明は何かダブルスタンダードな気がします。

現代の科学は、どちらかというと、唯識に近い方向、そこには物質はないという方向に向かっています。私個人はどう思っているかというと、世界(物や体)は人間が勝手に脳の中で構築しているものにすぎないと思っていますが、その真偽は確かめようがないと思っています。

どこまで突き詰めて考えたとしても、私たち人間は、五感と意識という道具でしか世界を認識できません。五感も意識もなくて、そこには何があるのか? 先日掲載したミーティングの質問にもありましたが、地球上から意識のある生物が消えたら、そこに世界はあるのか? それは、誰にも確かめようがないことです。もし、五感も意識もなしで確かめようと思ったら、体の外に出て、外から五感以外の方法で確かめなくてはいけないのですが、それは誰にもできません。

ピラミッドが実在かどうかは、誰にも確かめようがないことです。私たちは、五感と意識で世界を認識しています。もし、私たちが視覚を失ったら、ピラミッドは見えません。でも、手で触れば石があるのがわかるじゃないか、と言うかもしれません。では触覚を失ったらどうですか? いや、視覚も触覚もなくても、見たり触ったりできないだけで、ピラミッドはあるだろう、と言うかもしれません。

でも、ピラミッドがあるだろうと推定しているのは意識です。その意識も失くした時に、そこにピラミッドはあるでしょうか。視覚も触覚も意識もなくても、ピラミッドはあるだろうと言うかもしれません。でも、あるだろうと想像しているのは、あなたの今ある意識です。その今ある意識がなかったら、どうですか?

それでもそこには何かがあると言われる方は、量子力学のYouTubeでも本でもかじってみれば、私たちが意識でイメージしているような物は存在しないと知って驚くに違いありません。あのピラミッドは、私たちが石や空というものを知っていて、それを脳の中で組み立てているにすぎません。極端なことを言えば、一人一人のピラミッドはそれぞれ別々のものなのです。

あの三角推の、石でできたピラミッドは、私たちの意識の中にしかありません。そして、そこにあるものが本当はどういうものなのか知る方法は、今のところありません。確かめようがないのです。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

唯識の教えが、脳科学や量子力学などの現代科学、そして非二元の教えと同じことを説いているのは驚くべきことです。昨日の佐々木先生のYouTubeは、非二元を理解する上でも非常に重要なところだと思います。非二元の世界を見た人は誰もいません。阿頼耶識を証明できないのと同じです。

物は実在か。それは誰にも確かめようがありません。でもそれは「行為者の不在」、「私は実在か」を知るうえでは、あえて言うなら、どちらでもいいことです。物が実在であろうとなかろうと、体が実在であろうとなかろうと、「私」が実在ではないことに変わりはありません。「私」が実在ではないということを理解することが最も重要なことです。