2022/09/10

自由意志はあるのか?

以前このブログで、ベンジャミン・リベット博士の実験のことを書きました。

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳
「死ぬのが怖い」とはどういうことか
マインド・タイム

「指を動かそうと思う0.35秒前に、脳から指を動かせという指令が出ている」というのがリベットの実験結果です。それで、果たして人間に自由意志はあるのか・ないのかが問題となりました。そのことについて考えてみます。

確かセイラーボブは動画の中で「自由意志でもないし、運命論でもない」と言っていたように記憶しています。ボブがこの類の話をするたびに、じゃぁ一体どっちなんだと思ったものです。

私としては、「あるのはこの瞬間だけである」ため、自由意志を考えたとたんに未来を思考として持ち込むことになり、自由意志のある・なしを考えることそのものがナンセンスだということで納得していました。運命論も同じで、運命を持ち出したとたんに時間という観念を持ち込むことになります。もし、時間などないのなら、自由意志も運命論も考えることそのものがナンセンスです。

問題は、私たちのマインドは「自由意志がある・ない」、「運命は決まっている・いない」と、二元的に割り切ろうとするところにあると思います。要するに、そうした思考はマインドの餌でしかないのです。

最近になって、佐々木閑先生のYouTubeで、なるほどなぁという説明に出会ったので、もう一度載せておきます。佐々木先生曰く、「世界に実体はあるのか?」という問いそのものが誤りであるというのです。「世界に実体はあるのか?」と聞いたとたんに、その前提として、何かの存在を前提としています。その問いに答えること自体が、その存在の有無を容認してしまっているというのです。

そもそも非二元の教え(仏教においても同様)では、自由意志や運命論の主体となる「私」はいないのですから、自由意志や運命論の有無を問うこと自体がナンセンスなのです。それを問うた瞬間に、「私」という存在を前提としてしまっているのです。
セイラーボブも同じようなことを言っていて、「質問が質問者であり、質問がなければ質問者は消える」と言っています。

自由意志があるのか・ないのかを議論すること自体がナンセンスなのです。
この説明は、「死後の世界はあるのか?」「エンライトメントはあるのか?」など、あらゆる問いの答えとしても有効です。もともと「私」は実在でなく、生きてさえいないのですから、死後の世界があるのか、エンライトメントがあるのかと問うこと自体が間違いなのです。

世界に実体はあるのか? 佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その16」

問いが間違っている。(11分ぐらいまでは我慢して聞いてください。そこからが本題)