エンライトメントは対象物ではないため、達成することはできない。エンライトメントは、「達成すべきものではない」ということのシンプルな理由は、私たちがそのエンライトメントだからである。何かを達成するとか達成しないとかいう問題は、もしその何かが本当の私たちとは違っている場合に起きる。
本当の私たちとは、いかなる対象物でもない永遠の主体、「私」である。
したがって、エンライトメント、光明とは、探求者が探しているものは自分自身であり、実在としては探求者も探求すべきことも探求も存在しないということを理解することである。
この「探求者」「探求すべきこと」「探求」の三つが存在するのは、一時的な観念化の中だけであり、観念化が終われば探求も終わり、そこに残るのは自分自身を認識することもない永遠の主体だけである。
ラメッシ・バルセカールの言葉(カリヤニのFBより)
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「理解」ということについて、もう一度考えてみたいと思います。以前、おたより(2019.9.3)のコーナーでも理解について書いているので、そちらも参考にしてみてください。
理解するとはどういうことなのか? ぶっちゃけた話をすると、私の理解は知的な理解です。文章やボブの発言を聞いて、それを理解するということです。そこには、(自分がいない体験をした)とか、(私がいない世界を一瞥した)という体験はありません。特別な理解や体験ではなく、普通の理解です。もし特別な体験があるなら、それは一瞥体験かエンライトメントということになりますが、そうではありません。
セイラーボブはそうした体験を否定しています。一瞥であれエンライトメントであれ、それが体験であるなら、いつかは去っていきます。それに、たいていの人が体験する一瞥体験は、(そんな感じがした)(あれが一瞥体験に違いない)(自分はそこにいないかった気がした)程度のものであり、マインドの産物にすぎません。それは、非二元とは何の関係もありません。
非二元とは、あらゆるものが「二つではない」と言っているにすぎません。もし、それを体験した自分と、体験していない自分がいるなら、二つの自分がいることになり、非二元ではなくなります。この世界の他に非二元の世界があると体験したなら、その時点で二つの世界があり、非二元ではなくなります。
そして次に来る問いは「おまえは非二元を理解したと言っているが、それは単に『私』は実在ではないと信じているだけではないか?」です。これもぶっちゃけて言うと、そうです。
でも、「信じている」とはどういうことでしょうか。私の場合は、「それが真実であるに違いないと確信しています」。以前、おたよりをいただいた時も、この確信という言葉が問題になりましたが、やはりこの表現が一番適切ではないかと思います。
また地球の例を出しますが、私たちは、地球が丸いと確信しています。でも、ほとんどの人は実際に宇宙空間に行って丸い地球を見たわけではありません。でも、写真や科学の授業で学んで、地球は丸いと確信しています。それと同じ程度に、「私は実在しない」と確信しています。
すると、次に来る問いは、「それが理解するということなら、お前のブログや非二元の人の本を読んでいるたいていの人は、非二元を理解したことになるではないか?」というものです。そのとおりです。非二元で教えていることは全然難しいことではありません。誰でも理解できることです。私の理解もセイラーボブの理解も、これを読んでいただいている人の理解も同じものです。ネット上では、もうたくさんの人がサイトやブログで非二元のことを書いていて、あたりまえに非二元(私は実在ではないということ)を理解しています。
たいていの人は「非二元を理解した」という特別な人になりたいという潜在的な願望を持っています。私もそうでした。でも、理解した人、理解していない人には何の違いもありません。理解していない人は、理解した人は自分が知らない何かを知っている、あるいは体験しているにちがいないと勝手に思っているだけです。でも実際は何の違いもありません。
そして最後に来る問いは、おそらく、「おれはお前のブログを理解したし、他の非二元の人の本も理解した。でも何も変わらない。あいかわらず悩みごとでいっぱいで、苦しいばかりだ」というものです。
非二元の教えを理解することは難しいことではありません。言葉が理解できれば誰でも理解できます。「私は実在しない」と確信することも難しいことではないでしょう。時間をかけて、何度も何度も調べればわかることであり、誰にでもできます。誰にでもできるからセイラーボブは教えているのです。偶発的にしか起きないエンライトメントなら、教えても無駄ということになります。
では、セイラーボブの理解と私の理解、あなたの理解では何が違うのでしょうか? それは、その理解を生きているかどうかだと思います。理解そのものは誰の理解であれ変わりません。
私は、「私は実在ではない」と理解していると思っています。でも、またぶっちゃけた話をすると、実生活の中で、「私がいる」という体験をたくさんします。もし「私は実在ではない」ということが完全に身に染みるとどうなるかというと、体の感覚が消えます。そうすると歩いていても人にぶつかるでしょう。私はいないのですから。私と人の区別がつかなくなって会話もできなくなります。そこまでいってしまうと、社会生活が困難になるので、そこまでなりたいとは言いません。その一歩手前まで、「私は実在ではない」と身に染みた場合は、どういうことが起きるでしょうか?
いくつか例をあげると、まず、人と自分を差別することがなくなるはずです。私はいないのですから、他の人もいません。そうなると差別が消えて、他の人も私も、一つの物語の登場人物がスクリーンに映っているにすぎないと思うようになるでしょう。
でも、私の場合、依然として人を差別している自分がいます。無意識に肌の色や国籍で人を差別している自分がいます。もちろん、そうしたことは以前より減ってきてはいます。でも、依然として、後進国の人や、アフリカの人を見るとき、自分を基準に据えて差別している自分がいます。
また、コンプレックスも依然としてあります。人と比べる自分がいるのです。もし「私」がいないのなら、優越感も劣等感もなくなるはずです。でも私は依然として、劣等感も優越感もあるし、人と比較している私がいます。もちろん、それは実体のないものだといことは十分理解しています。
自分にまつわる物語についても同じことが言えます。「私は実在ではない」のなら、自分にまつわる物語は消え、過去を後悔することも、未来を不安に思うこともないはずです。でも実際には完全にそうなってはいません。もちろん、これも、以前よりは随分減ってきています。
また、「私は実在ではない」のなら、金に対する欲望も消えていくはずです。それを所有する「私」はいないのですから。財産、地位、名誉に対する執着、欲望も同様に消えていくはずです。これは随分となくなりました。お金はとりあえず暮らしていけるだけあればいいし、何かが欲しいという欲望は随分減りました。これを消すのはそれほど難しくはありません。我慢すればそのうち消えていきます。
何が問題なのかというと、非二元を理解することと、それを生きることとは別だということです。理解の度合いが違うという表現を使うとまた誤解を招くので使いませんが、心底理解したら、差別やコンプレックスや欲望、自己にまつわる物語、心理的な苦悩は消えていくはずです。それが帰属する「私」がいないのですから。
セイラーボブを実際に横で見ていると、そういった差別やコンプレックス、欲望、自己の物語、心理的な苦しみが私より少ない、あるいはほとんどないように思えます。同じように非二元を理解していても、それを生きているかどうかが違うように思えます。
セイラーボブの教えを理解すると、しばらくは調子の良い時期が続きます。でも、ハネムーン期間が過ぎると、やがてまた「私」が戻ってきます。そしてまた調べて、また調子の良い時期が続き、また「私」が戻ってきます。この繰り返しです。
私個人のことを言えば、以前と比べて随分と楽になりました。「もう何も悪くはない」です。そして、それは年々ますます楽になっていく感覚があり、理解が深まっているのだと思っています。でも、実際には理解に深いも浅いもなく、ある種の修練ではないかと思います。セイラーボブもニサルガダッタの家を出てから、古い思考(私)が戻って来て、そのたびに(私は実在しない)と調べたと言っています。
長い間に身についた条件づけや「私」を消し去るには、やはりそれなりの時間がかかるのだと思います。
何度「私は実在しない」と調べても、依然として「私」は戻ってきます。それはこの体がある以上、ずっと続くのだと思います。
「私」は実在のように見える、という説明の佐々木閑先生紹介の図形を見るのが好きなので、またこの動画を載せておきます。
佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)