連休の初日。毎月恒例の月例会。といっても、一人の友人と会って昼飯を食べるだけです。
この月例会をなんと、30年ぐらい続けています。
私は岐阜県の多治見からJR中央線で。友人は静岡県から新幹線で。
名古屋駅。朝8時半。連休の初日とあって、もうけっこうな人出。
私は最初の勤務地が名古屋駅のすぐ近くだったので、このビル群が全くなかったころからこのあたりを何十年もうろうろしています。
新しいビルができるたびに、名古屋駅前が窮屈な感じになってきて厭だなぁ、と思っています。
左手前の名鉄ビルも再開発で立て直す予定があるし、リニアもやってくるので、ますますごみごみと混みあってきて、情緒がなくなってきて、あ~あ、もう。
別に意味はないけど、通り道に名古屋のシンボルのななちゃんがあるので載せておきます。
名古屋モード学園のビルを見上げるたびに気持ちが悪くなるのは私だけでしょうか?
待ち合わせはいつもドトール。私はドトール大好きです。安いから。
ドトールで小一時間ほどおしゃべり。一か月ぶりとはいえ、毎度おなじみのどうでもいいような話ばかりしてリラックス。
堀川を超えて、広小路通りを歩いて栄へ向かいます。川沿いの桜の木はもう新緑に変わりました。
いつもは広小路通りには中国人がたくさん歩いているのですが、今日はなぜか人通りがありません。中国は5月1日から4連休が始まるはずですが、その前の静けさかもしれません。
秋にはこの通りの木々が見事な黄色に変わります。
広小路から栄方面は、名古屋駅の高島屋・タワーズ群に客を取られて、今のところさびれる一方ですが、昔は圧倒的に栄が名古屋の中心でした。私たちは断固として栄・丸善派です。ブレてはいけません。というか、人が多いのが苦手なだけかも。
栄メルサのダイソーで買い物。
名古屋から栄までは地下鉄で二駅、徒歩30分ぐらい。毎回名古屋から栄まで徒歩で往復するのが定番になっています。
栄の丸善へ。それぞれ別行動で、一時間後に出口に集合です。
私は精神世界、健康、食べ物、自然、伝記、英語のコーナーへ。友人は旅行、鉄道、飛行機、SF、特撮のコーナーへ。
覚醒なんてないということに多くの人が気づき始めています。
集合時間となり、そしてまた歩いて、柳橋にあるJAL CITYへ。
今日の昼食はバイキング。
私は家では厳密な糖質制限食を実施していて、この一年間、米、パン、麺は全く食べていません。炭水化物は食べないようにしていますが、人と会う時はそんなことを言っていると嫌われるので、糖質解禁日にしています。
糖質の少ない料理がたくさんあってうれしい。もちろんおかわりしました。
友人がおいしそうに、パン、スパゲッティ、カレーと次々に糖質たっぷりメニューを平らげるので、とうとう我慢できずにカレーライスとコーンスープを食べました。やっぱり糖質はおいしい!
よせばいいのに、糖質たっぷりのデザートも食べた。おいしい。
お腹いっぱい。もう食べられない。
いつもこんな豪華なランチを食べるわけではありません。
今日はマイル長者の友人が、JALマイルのクーポンでごちそうしてくれました。
栄の東急ホテルのスターバックスまで戻ってお茶しました。
お腹いっぱいなのですが、これが定番のコースなので。
私はスタバはあまり好きではありません。お高くとまっていて、高いから。
ここで二人はたいてい昼寝をします。
ホテルのロビーのキティちゃん。このホテルは韓国人の宿泊客が多いみたいです。
広小路通りを歩いて名駅へ。途中、ヒルトンの地下のヒルトンプラザを歩きます。
意味はないのですが、これがいつも定番コースです。
この地下のお店は入れ替わりが激しくて、店を見ていると、今どんな業種が勢いがあるのかよくわかります。
夕方になって、友人は名古屋駅からセントレア(中部国際空港)に行って、那覇行きのJALに乗るので、名鉄の改札でお見送り。
JALマイラーの友人は、JALの最上級会員を維持するため、用もないのに、しょっちゅう那覇に行ったり、石垣島に行ったりと大変です。
連休の初日。駅のホームにはたくさんの人。
私はまた中央線で家路につきました。
私がしょっちゅう会う友人は3人しかいません。いずれも長い付き合いで、青春をともに過ごした仲です。その友人たちは、私がオーストラリアに行ってセイラーボブに会ったことや、ブログを書いていることは知っていますが、精神世界にはほとんど興味がない人たちで、私が彼らにセイラーボブの話をすることはほとんどありません。
非二元の教えや、セイラーボブの教えに全く興味がない人たちに、そういう話をする必要はまったくないと考えています。
セイラーボブや非二元の教えを知っているから偉いとか、知らないからダメだということもありません。
私の友人たちはいずれも精神的には、はるかに私よりも安定していて大人で、精神世界を必要としていません。
私は高校生の頃から、人間はどうして生きているのか、死んだらどうなるのか、なんてことばかり考えて夜明かしをするような人間でした。
そういう人間にはセイラーボブや非二元の教えは解放をもたらします。でも、必要のない人には本当に必要ない。
私は別の、いつも山に一緒に行く友人に、最近やっと悟りなんてものはないとわかったよ、と言ったところ、今頃やっとわかったの、と言われました。
彼らは非二元が何かは知らないかもしれませんが、体験的に非二元の教えを知っているのです。たぶん。
2019/04/30
2019/04/27
ニサルガダッタ・マハラジ ドキュメンタリー'Tatvamasi' (I am That)
Nisargadatta Maharaj Documentary Clip 'Tatvamasi' (I am That)
我はそれなり
汝それなり
タットバマシ
サットグル以上のものはない!
サットグルは神・・・
サットグルはパラブラフマン!
創造、継続、消滅。
それは存在するものがたどる自然の過程。
しかし、生まれていないものにとって、
誕生は単に誤信 誤信 誤信 作り話 作り話 作り話
自己実現は霊的な訓練の結果ではない。
実はそれは、探求者概念、因果律概念の崩壊の結果である。
たくさんのたくさんの霊的な訓練がありうる。
しかし、霊的探求者は今までもそしてこれからも決して存在しない。
私はしばしば尋ねられる。
人の本質を達成するにはどうしたらよいでしょうかと。
私は彼らにはっきりと言う。
この「達成するという考え」そのものが「束縛」なのだと。
理解しなさい。何かを達成する分離した「あなた」はいないということを。
理解しなさい。達成すべき何かなどないということを。達成すべき「何か他のこと」などないということを。
サットグルの言葉に絶対的な信頼を持ちなさい。
信頼そのものが超越である。
汝それなり 汝それなり タットバマシ
人間もまた体を後にする。その他のすべての生き物と同じように。
理解した者も、愚かな者も体を後にする。
どこに違いがあるのか!!!
愚かな者は自分が死につつあり、永遠に終わりだと確信するだけでなく、完全に不満を抱きながら体を後にする。
この体の記憶は、誕生の前には無かった。
それゆえ、いわゆる「死」の際には再び失われるだろう。
あなたは生まれる前のことは何一つ思い出せなかった。なぜなら、その時「私はいる」という思考が不在だったからだ。
いずれにせよ、現在の記憶はすべて、死とともに破壊される。(「私はいる」という思考が不在のために)
しかし、自己の本質を「理解した」者にとってそれは最も荘厳なものになる。
「理解した者」が肉体を後にする時、自分は無限で、終わりが無く、完全で、豊かさの中へ広がっていくと理解している。
それは、安らぎ、達成、祝福の瞬間。
プラーナが体から去ると、「理解した者」は体を脇へと置く。
彼は純粋な意識(Awareness)として、純粋な意識のまま残り、永遠へと広がっていく。
意識(Awareness)は生まれることもなければ、死ぬこともない。それ自体は変化することのない実在である。
核心を今理解しなさい。
誕生の時、「私はいる」という認識が突然現れ、その「私はいる」認識は、自らを「体」であると誤解する。(それは大きな災難である)
この体は本質ではないと理解する時、自身が自由であるということを発見するだけでなく、束縛も制限も永遠に無かったと理解する。
死の淵にあって、あなたの自分自身(あなたの本質)に対する理解に注意を向けなさい。
いずれにせよ日々の活動はその体とマインドを通じて起こってくる。
あなたが、「私はいる」という認識、グル原理、イシュワラ原理を崇拝する時(自己の本質に留まる時)、全存在物は今までもこれからも、オートマチックモードで起こっているということをあなたは理解する。
あなたはすべてであり、何もあなた以上ではない。
目を覚まし、直感的に理解しなさい。
「理解すること」そのものが自己実現なのだ。
2019/04/24
セイラーボブのホームページ
セイラーボブの現在のホームページはこちら
今年の二月にセイラーボブのホームページが全面改訂されました。(和訳はこちら)
以前のホームページを見ることはできませんが、面影は私が訳したもので見ることができます。
個人的には、以前のホームページの方が良かったと思います。以前のホームページは写真も構成も完成されたものでした。今度のホームページは、何か安っぽいというか、素人が作ったような感じがします。
ホームページはセイラーボブが作っているわけではなく、回りの人がボブの了解を得て作っているのだと思います。前回のホームページの写真が、現在のセイラーボブとずいぶん違って見えるので変更したのかなと勝手に思っています。
前回のホームページには、素晴らしい「入門講話」があったのに、それが無くなって、今回は、あまりできが良いとは言えない spiel が掲載されています。特に良くないと思うのは、「Questions for contemplation (深く考えるための問い)」というコーナーです。
学校の小テストじゃあるまいし、何でこんなものを載せたのかよくわかりません。たぶんこのコーナーは早晩無くなると思うので、参考までにやってみてください。教えの概念化が少しずつ進行しているような気がしてなりません。
こんなことを書くと、セイラーボブはこう言うかもしれません。
Questions for contemplation (深く考えるための問い)
1.あなたはここへ何かを学ぶためか、何かを得るためにきましたか? それは何か新しいものですか? それはまだあなたが持っていないか、まだ達成していない何かですか? それは微妙な事です。
2.ヒンズー教ではそれをサット・チット・アナンダと呼んでいます。存在(本質)、意識(知る働き)、至福(存在する喜び、平静さ)。その場合、
・あなたは自分の存在を否定できますか?(存在を否定してみてください!)
・あなたは意識がありませんか?(無意識)
・あなたは死にたいですか?
・あなたは、もうそれ(サット・チット・アナンダ)なのではありませんか?
3.マハーバキャの大格言、「我はそれなり」は、「それ」が何を表すかを知る上で重要ではありませんか?
・あなたの言語で「それ」とは何ですか?
・「それ」ではないものは何ですか?
4.言葉とは結局何ですか?
・「私」という言葉は何ですか?
・あなたはどんな言葉と一緒に生まれましたか?
・どうやって言葉を習得しましたか?
5.仏教ではそのことを、「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識、他には何もない、ただそれだけ」と言います。あなたは今この瞬間、その存在に気づいていませんか?
・「ただそれだけ。他には何もない」という時、他に何があると思いますか?
6.キリスト教では、偏在、全能、全知と言います。それはどういう意味ですか?
・全能とは完全な力という意味ではありませんか? 高次の力、思考の力、何らかの存在が何かをする余地はありますか?
・あなたの体や宇宙を機能させている何か他の力がありますか?
・あなたは消化したり、体の中の細胞を入れ替えたりしていますか? (あなたにそれをする力がありますか?)
・あなたが見ることや考えることをやっていますか?(どうやって?)
・偏在とは完全な存在のことではありませんか? (あなた)を分割したり、除外したりすることができますか?
・全能とは完全な認識ではありませんか?
7.今まで信じられてきたことは本当でしたか?(例:欲望の思考は罪である。地球は平である。サンタクロースは実在する)あなたがそれを調べてみて、それは真実でしたか?
8.私たちが完全で完璧を求める時、私たちが解放を求める時、それは誰のためですか? 「私たち」とは誰のことですか? 人格を備えた個人が存在していますか?
9.今まで、人は実在しましたか? 「人・persona」という単語の由来は何ですか? それはラテン語でマスクという意味ではありませんか? それは概念上のイメージのマスクという意味ではありませんか?
10.概念上のイメージは、過去に信じていたことに基づいていませんか? それはもう死んだものではありませんか? その新鮮や新しさはどこにありますか?
11.間違ったイメージに関して、あなたが自身を何から解放しようとしているのですか? 悟るとは何ですか? そしてそれは誰が悟るのですか?
12.あなたは、答えはマインドの中にあるとまだ信じていますか?
・あなたがマインドの平和を達成できると思いますか?
・マインドの性質は何ですか? それは反対の極とどのように作用しますか? それ以外の方法で作用しますか?
・ヴァイブレーションが無くなった時、もしくは注意を払わない時、そこには何がありますか?
・もしマインドの中に答えがあるとしたら、どれだけ長く有効ですか? そして、どうして誰もそれを見つけられないのですか?
13.言葉は現実の物ですか? 水という言葉は、あなたを濡らすことができますか? 火という言葉でやけどしますか?
・顕現の中のその他の言葉とはどんな違いがありますか? それらは現実の物ですか?
・それは信じるエネルギー(注意)による夢のような幻影なのではありませんか?
14.顕現の中に、何か永遠もしくは不動のものはありますか? 何か実体のあるものはありますか?
・あなたの体は生まれた時と同じですか?
・精子と卵子が胎児となった原初の細胞は今どこにありますか?
・あなたの両親が食べ物を食べ、プラーナを呼吸してこの細胞作った時にあなたは始まったのですか? それともそれはもっと前ですか?
15.結局、体とは何ですか? それは何でできていますか?
・構成要素(空気、成分(土)、火(体温)、水、空間)を全体から分離できますか?
・あなたは自身を水(体の大半は水です)、空気、熱、空間から分離する(取り除く)ことができますか?
・構成要素を周囲から補充することを止めて、あなたは機能しますか?
16.体は単にエネルギーの振動パターンなのではありませんか? それを分解して構成要素に、さらに小さな粒子、エネルギーの波にすると、それは、いわゆる無ではありませんか? それは現象となって現れている顕現の中のすべての物と同じものではありませんか?
17.「現象」とは何ですか? 辞書はどう説明していますか? それは、「そのように現れるもの」ではありませんか?
18.あなたは体ですか?
・あなたは、「私のコート、車」と言うように、「私の体」と言いませんか?
・体はコートや車のようなものですか?
・あなたが、あなたは体やコートや車の所有者であると言う時、言葉がそれを暗示しているのではありませんか?
・その所有者は誰ですか?
19.あなたはマインドですか?
・あなたは「私のマインド」と言いませんか?
・あなたのマインドを見せてください。
・それは思考とは別のものですか?
・思考とは何ですか? それは精妙な音、もしくはエネルギーの振動ではありませんか?
20.それは赤ちゃんが生まれてから、どのように始まるのですか?
・考える能力と記憶を留める能力が発達する以前に、言葉無しで何を覚えておくことができますか?
・あなたは、自分が人であるということをどうやって学びましたか? 誰が、何が本当のあなたであると言いましたか?
・あなたはそれに何を付け足しましたか? あなたは今この瞬間、「私」を何と関連付けていますか?
・それはすべて過去の出来事に関連しているのではありませんか? でなければ、どうしてあなたは、好きとか嫌いとか知っているのですか?
・その基準点は二元性ではありませんか?
・非二元の中に二元性はありますか?
21.もしエゴが問題なら、あなたはそれを取り除くことができますか? エゴ自身以外で、誰が取り除こうとしますか?
22.エゴというようなものはありますか?
23.良いとか悪いとか、良いことを留めておきたい、悪いことを押しのけたいということに関して、私たちは今葛藤しているのではありませんか? それは抵抗ではありませんか?
・葛藤はあなたを心配、落胆、不安にさせませんか?
・心配は病ではありませんか?
・すべての心理的な苦悩は葛藤、すなわち病ではありませんか?
・もしあなたが物事を基準点「私」に関係付けなかったら、どうなりますか? それはどこへ行きますか?
24.自然はどうですか? それは何かと何かを関連付けしますか? それはどんな葛藤もなく、昼と夜、夏と冬、反対の極へと振動するのではないですか? 沈黙は音と戦いますか?
25.あなたは自然以外の何かですか?
26.調査はどうやってやるのですか? 見てください。あなたは今見ていますか?
・あなたは今朝それを始めようと決心しましたか? それともそれは他の機能と同じように、もうすでにそこにありましたか?
・それは今あなたにある見る働きを同じものですか? 内容は違うものです。でも、見る能力は変わりましたか?
・聞くことも同じではありませんか?
・私の目が私に、「私は見る」と言いますか? それは「これを見て、あれを見て」と言いますか?
・「私は見る」という思考は、一体である見る働き中で、単にマインドが主体、客体の分離を作り出したのではありませんか?
・「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 目を閉じてやってみてください。
・もし目が単なる道具で思考が単に翻訳しているのなら、見ることとは何ですか?
・同様に、「私は聞く」という思考が実際に聞くことができますか?
・「私は意識している」という思考はアウエアネスですか? 「私は選択する」という思考は選択者ですか?
・あなたは思考を選ぶことができますか? あなたが選ぶことができるなら、いままでは不幸な思考ばかりを選んできたのですか?
27.死体はどれだけの思考を持つことができますか? 死体はどれほど見て聞くことができますか?
28.もし電源がオンになっていなかったら、コンピューターからどれだけの情報を得ることができますか?
29.どれほど長い間探求していますか? 間違った場所を探しているのではありませんか?
30.あなたはそれを将来見つけられると思いますか? 何かになると思いますか? 何かになることはbeing(在ること・本質)ですか? もしそれが時間の中で見つかったら、それを信頼できますか? もしそれに始まりがあるならそれは過ぎて行く現象、経験に過ぎないのではないですか? それがあなたの欲しいものですか? 快楽? 至福?
31.時間はマインドではありませんか? あなたが考えなかったら、過去や未来や時間はありますか?
32.そのことを考えなかったら、あなたは誰ですか? あなたの過去無しで、あなたは誰ですか? 概念的な答えはあなたを満足させますか?どれほど長く?
33.もしあなたがそのことを考えなかったら、何が問題ですか?
今年の二月にセイラーボブのホームページが全面改訂されました。(和訳はこちら)
以前のホームページを見ることはできませんが、面影は私が訳したもので見ることができます。
個人的には、以前のホームページの方が良かったと思います。以前のホームページは写真も構成も完成されたものでした。今度のホームページは、何か安っぽいというか、素人が作ったような感じがします。
ホームページはセイラーボブが作っているわけではなく、回りの人がボブの了解を得て作っているのだと思います。前回のホームページの写真が、現在のセイラーボブとずいぶん違って見えるので変更したのかなと勝手に思っています。
前回のホームページには、素晴らしい「入門講話」があったのに、それが無くなって、今回は、あまりできが良いとは言えない spiel が掲載されています。特に良くないと思うのは、「Questions for contemplation (深く考えるための問い)」というコーナーです。
学校の小テストじゃあるまいし、何でこんなものを載せたのかよくわかりません。たぶんこのコーナーは早晩無くなると思うので、参考までにやってみてください。教えの概念化が少しずつ進行しているような気がしてなりません。
こんなことを書くと、セイラーボブはこう言うかもしれません。
信心銘
大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる
だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
でも、誤解を恐れずに言うなら、どんな感想も分け隔てなく、あるがままなのだと思います。
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる
だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
でも、誤解を恐れずに言うなら、どんな感想も分け隔てなく、あるがままなのだと思います。
Questions for contemplation (深く考えるための問い)
1.あなたはここへ何かを学ぶためか、何かを得るためにきましたか? それは何か新しいものですか? それはまだあなたが持っていないか、まだ達成していない何かですか? それは微妙な事です。
2.ヒンズー教ではそれをサット・チット・アナンダと呼んでいます。存在(本質)、意識(知る働き)、至福(存在する喜び、平静さ)。その場合、
・あなたは自分の存在を否定できますか?(存在を否定してみてください!)
・あなたは意識がありませんか?(無意識)
・あなたは死にたいですか?
・あなたは、もうそれ(サット・チット・アナンダ)なのではありませんか?
3.マハーバキャの大格言、「我はそれなり」は、「それ」が何を表すかを知る上で重要ではありませんか?
・あなたの言語で「それ」とは何ですか?
・「それ」ではないものは何ですか?
4.言葉とは結局何ですか?
・「私」という言葉は何ですか?
・あなたはどんな言葉と一緒に生まれましたか?
・どうやって言葉を習得しましたか?
5.仏教ではそのことを、「概念化されない、永遠に新鮮な、今ここにある意識、他には何もない、ただそれだけ」と言います。あなたは今この瞬間、その存在に気づいていませんか?
・「ただそれだけ。他には何もない」という時、他に何があると思いますか?
6.キリスト教では、偏在、全能、全知と言います。それはどういう意味ですか?
・全能とは完全な力という意味ではありませんか? 高次の力、思考の力、何らかの存在が何かをする余地はありますか?
・あなたの体や宇宙を機能させている何か他の力がありますか?
・あなたは消化したり、体の中の細胞を入れ替えたりしていますか? (あなたにそれをする力がありますか?)
・あなたが見ることや考えることをやっていますか?(どうやって?)
・偏在とは完全な存在のことではありませんか? (あなた)を分割したり、除外したりすることができますか?
・全能とは完全な認識ではありませんか?
7.今まで信じられてきたことは本当でしたか?(例:欲望の思考は罪である。地球は平である。サンタクロースは実在する)あなたがそれを調べてみて、それは真実でしたか?
8.私たちが完全で完璧を求める時、私たちが解放を求める時、それは誰のためですか? 「私たち」とは誰のことですか? 人格を備えた個人が存在していますか?
9.今まで、人は実在しましたか? 「人・persona」という単語の由来は何ですか? それはラテン語でマスクという意味ではありませんか? それは概念上のイメージのマスクという意味ではありませんか?
10.概念上のイメージは、過去に信じていたことに基づいていませんか? それはもう死んだものではありませんか? その新鮮や新しさはどこにありますか?
11.間違ったイメージに関して、あなたが自身を何から解放しようとしているのですか? 悟るとは何ですか? そしてそれは誰が悟るのですか?
12.あなたは、答えはマインドの中にあるとまだ信じていますか?
・あなたがマインドの平和を達成できると思いますか?
・マインドの性質は何ですか? それは反対の極とどのように作用しますか? それ以外の方法で作用しますか?
・ヴァイブレーションが無くなった時、もしくは注意を払わない時、そこには何がありますか?
・もしマインドの中に答えがあるとしたら、どれだけ長く有効ですか? そして、どうして誰もそれを見つけられないのですか?
13.言葉は現実の物ですか? 水という言葉は、あなたを濡らすことができますか? 火という言葉でやけどしますか?
・顕現の中のその他の言葉とはどんな違いがありますか? それらは現実の物ですか?
・それは信じるエネルギー(注意)による夢のような幻影なのではありませんか?
14.顕現の中に、何か永遠もしくは不動のものはありますか? 何か実体のあるものはありますか?
・あなたの体は生まれた時と同じですか?
・精子と卵子が胎児となった原初の細胞は今どこにありますか?
・あなたの両親が食べ物を食べ、プラーナを呼吸してこの細胞作った時にあなたは始まったのですか? それともそれはもっと前ですか?
15.結局、体とは何ですか? それは何でできていますか?
・構成要素(空気、成分(土)、火(体温)、水、空間)を全体から分離できますか?
・あなたは自身を水(体の大半は水です)、空気、熱、空間から分離する(取り除く)ことができますか?
・構成要素を周囲から補充することを止めて、あなたは機能しますか?
16.体は単にエネルギーの振動パターンなのではありませんか? それを分解して構成要素に、さらに小さな粒子、エネルギーの波にすると、それは、いわゆる無ではありませんか? それは現象となって現れている顕現の中のすべての物と同じものではありませんか?
17.「現象」とは何ですか? 辞書はどう説明していますか? それは、「そのように現れるもの」ではありませんか?
18.あなたは体ですか?
・あなたは、「私のコート、車」と言うように、「私の体」と言いませんか?
・体はコートや車のようなものですか?
・あなたが、あなたは体やコートや車の所有者であると言う時、言葉がそれを暗示しているのではありませんか?
・その所有者は誰ですか?
19.あなたはマインドですか?
・あなたは「私のマインド」と言いませんか?
・あなたのマインドを見せてください。
・それは思考とは別のものですか?
・思考とは何ですか? それは精妙な音、もしくはエネルギーの振動ではありませんか?
20.それは赤ちゃんが生まれてから、どのように始まるのですか?
・考える能力と記憶を留める能力が発達する以前に、言葉無しで何を覚えておくことができますか?
・あなたは、自分が人であるということをどうやって学びましたか? 誰が、何が本当のあなたであると言いましたか?
・あなたはそれに何を付け足しましたか? あなたは今この瞬間、「私」を何と関連付けていますか?
・それはすべて過去の出来事に関連しているのではありませんか? でなければ、どうしてあなたは、好きとか嫌いとか知っているのですか?
・その基準点は二元性ではありませんか?
・非二元の中に二元性はありますか?
21.もしエゴが問題なら、あなたはそれを取り除くことができますか? エゴ自身以外で、誰が取り除こうとしますか?
22.エゴというようなものはありますか?
23.良いとか悪いとか、良いことを留めておきたい、悪いことを押しのけたいということに関して、私たちは今葛藤しているのではありませんか? それは抵抗ではありませんか?
・葛藤はあなたを心配、落胆、不安にさせませんか?
・心配は病ではありませんか?
・すべての心理的な苦悩は葛藤、すなわち病ではありませんか?
・もしあなたが物事を基準点「私」に関係付けなかったら、どうなりますか? それはどこへ行きますか?
24.自然はどうですか? それは何かと何かを関連付けしますか? それはどんな葛藤もなく、昼と夜、夏と冬、反対の極へと振動するのではないですか? 沈黙は音と戦いますか?
25.あなたは自然以外の何かですか?
26.調査はどうやってやるのですか? 見てください。あなたは今見ていますか?
・あなたは今朝それを始めようと決心しましたか? それともそれは他の機能と同じように、もうすでにそこにありましたか?
・それは今あなたにある見る働きを同じものですか? 内容は違うものです。でも、見る能力は変わりましたか?
・聞くことも同じではありませんか?
・私の目が私に、「私は見る」と言いますか? それは「これを見て、あれを見て」と言いますか?
・「私は見る」という思考は、一体である見る働き中で、単にマインドが主体、客体の分離を作り出したのではありませんか?
・「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 目を閉じてやってみてください。
・もし目が単なる道具で思考が単に翻訳しているのなら、見ることとは何ですか?
・同様に、「私は聞く」という思考が実際に聞くことができますか?
・「私は意識している」という思考はアウエアネスですか? 「私は選択する」という思考は選択者ですか?
・あなたは思考を選ぶことができますか? あなたが選ぶことができるなら、いままでは不幸な思考ばかりを選んできたのですか?
27.死体はどれだけの思考を持つことができますか? 死体はどれほど見て聞くことができますか?
28.もし電源がオンになっていなかったら、コンピューターからどれだけの情報を得ることができますか?
29.どれほど長い間探求していますか? 間違った場所を探しているのではありませんか?
30.あなたはそれを将来見つけられると思いますか? 何かになると思いますか? 何かになることはbeing(在ること・本質)ですか? もしそれが時間の中で見つかったら、それを信頼できますか? もしそれに始まりがあるならそれは過ぎて行く現象、経験に過ぎないのではないですか? それがあなたの欲しいものですか? 快楽? 至福?
31.時間はマインドではありませんか? あなたが考えなかったら、過去や未来や時間はありますか?
32.そのことを考えなかったら、あなたは誰ですか? あなたの過去無しで、あなたは誰ですか? 概念的な答えはあなたを満足させますか?どれほど長く?
33.もしあなたがそのことを考えなかったら、何が問題ですか?
2019/04/18
鳩吹山へ
土曜日に友人に誘われてハイキング。快晴の暖かい日でした。
鳩吹山は岐阜県可児市にある山で、名古屋から近いのと、標高が高くなくて体力のない人でも登れるので人気の山です。
登山口にはカタクリの群生地があって、開花シーズンには大勢の人で賑わうのですが、二週間ほど前が見ごろで、今はチラホラとあるだけでした。
写真ではちょっと不鮮明で見えませんが、遠くに名古屋駅前のビル群が見えます。
可児市の市街。カヤバ工業、大王製紙の工場などがある町です。川は木曽川。
一時間も歩くと山頂です。山頂からは、雪を被った白山、乗鞍岳、御嶽山が見えました。山頂を超えて、愛知県の犬山市までルートは続きますが、今日はまだシーズン初めでそんなに長距離は歩く予定ではなかったので、少し先まで歩いてそこでコーヒーを飲んで引き返しました。
暖かい日で、友人の持参したキットカットがドロドロに溶けていました。
天気が良いせいか、大勢の人出でした。
桜は散り始め。
椿。
三つ葉つつじ。
馬酔木(あせび)
この時期にだけ咲く花が一斉に花を咲かせていました。
誰に習うわけでもなく、季節が来ればほんの一瞬花を咲かせ、そして散っていく。
人の一生も同じ。
自然に生まれ、時が来れば自然に死んでいく。それは自然現象であり、そこに私はいない。
鳩吹山は岐阜県可児市にある山で、名古屋から近いのと、標高が高くなくて体力のない人でも登れるので人気の山です。
登山口にはカタクリの群生地があって、開花シーズンには大勢の人で賑わうのですが、二週間ほど前が見ごろで、今はチラホラとあるだけでした。
写真ではちょっと不鮮明で見えませんが、遠くに名古屋駅前のビル群が見えます。
可児市の市街。カヤバ工業、大王製紙の工場などがある町です。川は木曽川。
一時間も歩くと山頂です。山頂からは、雪を被った白山、乗鞍岳、御嶽山が見えました。山頂を超えて、愛知県の犬山市までルートは続きますが、今日はまだシーズン初めでそんなに長距離は歩く予定ではなかったので、少し先まで歩いてそこでコーヒーを飲んで引き返しました。
暖かい日で、友人の持参したキットカットがドロドロに溶けていました。
天気が良いせいか、大勢の人出でした。
桜は散り始め。
椿。
三つ葉つつじ。
馬酔木(あせび)
この時期にだけ咲く花が一斉に花を咲かせていました。
誰に習うわけでもなく、季節が来ればほんの一瞬花を咲かせ、そして散っていく。
人の一生も同じ。
自然に生まれ、時が来れば自然に死んでいく。それは自然現象であり、そこに私はいない。
2019/04/12
盤珪 永琢(ばんけい ようたく/えいたく)
盤珪(ばんけい)について
セイラーボブは、unborn Buddha mind「不生の仏心」を講話の中でたびたび引用します。
セイラーボブは、unborn Buddha mind「不生の仏心」を講話の中でたびたび引用します。
ボブが引用する場合は、
[ラベル貼りに関しては、十六世紀か十七世紀の日本の盤珪という禅のマスターがわかりやすく述べています。彼は原初の空(くう)のことを、「不生の仏心」と呼びました。そして彼は言っています。「不生の仏心の中では、あらゆることが完全に解決されている。どうして不生の仏心を思考と交換するのか?」](Living Reality)。
そこで、盤珪について書いておきます。
盤珪は江戸時代(1622年-1693年)、姫路市生まれの臨在宗の僧。
儒医(儒学者であり医者でもある人)の家の三男として生まれる。もともと頭が良く、十二歳の時に儒教の基礎経典である「大学」を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして、「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまう。
「明らかな徳」とは何であるかを知るため、17歳の時に出家。「明徳」の答えが得られず、20歳の時に寺を出て諸国行脚へ出発。断食、京の五条橋下での四年間の乞食など命がけ修行をする。24歳の時に寺へ帰るが、答えは見つけられなかったため、帰郷。
故郷に帰り、庵を建て、そこで決死の覚悟で修行に励む。数年間修行の後、大病にかかり、吐血するようになる。七日ほど粥しか食べられない日が続き、もう終わりだと思っていたところ、真っ黒な木の実のような痰を吐く。それをきっかけに、体調が快方に向かい、その途中、26歳の時に「明徳」の意味を理解する。
後世になって、臨在宗の僧として有名なのは、道元、白隠で、盤珪はそれほど有名ではなかったようです。それを掘り出して研究、発表したのが仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)だそうです。鈴木大拙は一時期アメリカに滞在したこともあり、禅や仏教関係の英文書籍も出版しています。
私はセイラーボブに盤珪の出典元を聞いたことはありませんが、おそらく鈴木大拙の本が出典元ではないかと思われます。鈴木大拙には興味はあるのですが、範囲が広すぎて何から読んだらいいのかわからないのと、ちょっとアカデミックすぎるかなあと思って今のところが食指が動いていません。
鈴木大拙 Wikipedia
鈴木大拙の盤珪関連書籍
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)
鈴木大拙全集〈第1巻〉禅思想史研究第一・盤珪の不生禅
参考資料
「ただそれだけ」p.119 l.4
盤珪 永琢(ばんけい ようたく/えいたく)Wikipedia
「明徳」の意味を理解する様子はこのサイトが詳しい。
霊芝山 光雲寺
その教えについては、このサイトがわかりやすかったです。
臨済宗妙心寺派大澤山 龍雲寺 blog
***
お知らせ
今年の一月に Facebook へメッセージを寄せていただいた方へ。
つい最近になって、未読のメッセージがあることに気づき、読ませていただきました。
「ブログを読むのを楽しみにしています」という暖かいメッセージを送っていただきありがとうございました。もう三か月も経過しているので、お返事はどうしたものかと迷っていて、間違って消してしまい、もう見ることも返事することもできません。
返事は送りませんが、この場でお礼を述べさせていただきます。
おたより、質問を送っていただく方は、できれば「連絡フォーム」から送ってください。Facebook でもかもいませんが、見落としてしまうといけませんので。
当サイトはブログなので、コメントを投稿できる設定にすべきなのですが、コメントできる設定にすると、このブログのフォーマットの都合で、続けて何日分か記事を読む場合に邪魔になって記事が読みにくくなってしまうので、コメント欄を設定していません。コメントを受け付けないためにやっているわけではないので、気軽に「連絡フォーム」から送ってください。
質問、コメントに対する回答や返事は翌日このブログ上で回答、返事させていただきます。なお、非公開、個人的に返事を希望される方はその旨記載してください。
質問、コメントをいただいた方のメールアドレスを公開することはありません。
私は回りにセイラーボブの教えを同じ程度に理解している仲間がいるわけではなく、一人で細々とブログを書いております。できれば暖かいコメントをいただけると励みになります。
盤珪は江戸時代(1622年-1693年)、姫路市生まれの臨在宗の僧。
儒医(儒学者であり医者でもある人)の家の三男として生まれる。もともと頭が良く、十二歳の時に儒教の基礎経典である「大学」を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして、「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまう。
「明らかな徳」とは何であるかを知るため、17歳の時に出家。「明徳」の答えが得られず、20歳の時に寺を出て諸国行脚へ出発。断食、京の五条橋下での四年間の乞食など命がけ修行をする。24歳の時に寺へ帰るが、答えは見つけられなかったため、帰郷。
故郷に帰り、庵を建て、そこで決死の覚悟で修行に励む。数年間修行の後、大病にかかり、吐血するようになる。七日ほど粥しか食べられない日が続き、もう終わりだと思っていたところ、真っ黒な木の実のような痰を吐く。それをきっかけに、体調が快方に向かい、その途中、26歳の時に「明徳」の意味を理解する。
後世になって、臨在宗の僧として有名なのは、道元、白隠で、盤珪はそれほど有名ではなかったようです。それを掘り出して研究、発表したのが仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)だそうです。鈴木大拙は一時期アメリカに滞在したこともあり、禅や仏教関係の英文書籍も出版しています。
私はセイラーボブに盤珪の出典元を聞いたことはありませんが、おそらく鈴木大拙の本が出典元ではないかと思われます。鈴木大拙には興味はあるのですが、範囲が広すぎて何から読んだらいいのかわからないのと、ちょっとアカデミックすぎるかなあと思って今のところが食指が動いていません。
鈴木大拙 Wikipedia
鈴木大拙の盤珪関連書籍
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)
鈴木大拙全集〈第1巻〉禅思想史研究第一・盤珪の不生禅
参考資料
「ただそれだけ」p.119 l.4
盤珪 永琢(ばんけい ようたく/えいたく)Wikipedia
「明徳」の意味を理解する様子はこのサイトが詳しい。
霊芝山 光雲寺
その教えについては、このサイトがわかりやすかったです。
臨済宗妙心寺派大澤山 龍雲寺 blog
***
お知らせ
今年の一月に Facebook へメッセージを寄せていただいた方へ。
つい最近になって、未読のメッセージがあることに気づき、読ませていただきました。
「ブログを読むのを楽しみにしています」という暖かいメッセージを送っていただきありがとうございました。もう三か月も経過しているので、お返事はどうしたものかと迷っていて、間違って消してしまい、もう見ることも返事することもできません。
返事は送りませんが、この場でお礼を述べさせていただきます。
おたより、質問を送っていただく方は、できれば「連絡フォーム」から送ってください。Facebook でもかもいませんが、見落としてしまうといけませんので。
当サイトはブログなので、コメントを投稿できる設定にすべきなのですが、コメントできる設定にすると、このブログのフォーマットの都合で、続けて何日分か記事を読む場合に邪魔になって記事が読みにくくなってしまうので、コメント欄を設定していません。コメントを受け付けないためにやっているわけではないので、気軽に「連絡フォーム」から送ってください。
質問、コメントに対する回答や返事は翌日このブログ上で回答、返事させていただきます。なお、非公開、個人的に返事を希望される方はその旨記載してください。
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私は回りにセイラーボブの教えを同じ程度に理解している仲間がいるわけではなく、一人で細々とブログを書いております。できれば暖かいコメントをいただけると励みになります。
2019/04/09
信心銘(しんじんめい)Hsing Hsing Ming
セイラーボブの家の玄関に、「信心銘」の英語版のプリントが置いてあった。ボブは講話の中で時々、信心銘の一節を引用する。
信心銘(しんじんめい)とは四言一四六字から成る韻文(漢詩)で、中国、北周・隋代の僧璨(
ボブが引用するのは決まって、"Make the smallest distinction, however and heaven and earth are set infinitely apart."(もしわずかでも区別をすれば、天と地は無限に離れる)という部分です。ただ、この部分以外でも全部を読むと、全くボブの言っていることと同じでびっくりします。和訳は、プロクルステスの寝台というサイトから拝借させていただきました。
それもそのはずで、このもともとの引用元は、デーヴィッド・ゴットマン編 『覚醒の炎 プンジャジの教え』となっています。プンジャジのことは立ち読み程度しか知りませんが、ラマナ・マハリシの弟子なので、アドヴァイタの系列の人ということになると思います。
日本の禅宗関係のお寺のサイトにも中国語からの翻訳版の信心銘を載せているサイトがいくつかあるのですが、それよりもこれが一番セイラーボブの教えに近いと思います。
信心銘
大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる
だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない
一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される
道は大いなる虚空のように完全で
欠けたところも、余分なところもない
ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ
外界に巻きこまれてはならない
空という概念にもとらわれてはならない
一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る
心の活動を止めようと努力しても
その努力がさらなる活動をもたらす
対極の一方を選んでとどまるかぎり
一なるものを知ることはできない
一なるものを知らなければ
静動、正否ともにその自由な働きを失う
物事の現実性を否定すればその現実性を見失い
空の概念にしがみつけば空の原理を見失う
話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものは何もない
根源に帰れば本質を会得する
だが現れを追いかければ源を見失ってしまう
一瞬にして悟れば
現れも空も、ともに超越される
空の世界に起こる変転変化を
無知ゆえに人は実在と呼ぶ
真理を追い求めてはならない
ただ相対的な見方をやめなさい
二元的な分別にとらわれて
現れを追ってはならない
わずかでも是非を区別すれば
心の本質は失われてしまう
すべての二元対立は一元から生じるが
その一元にさえ執着してはならない
心が生じなければ
世界が背くことはない
何も背くことがなければ
すべてはあるがままだ
分別心が起こらなければ、心は存在をやめる
主体である心が消えれば、対象も消え去るように
想いの対象が消えれば、想う主体も消え去る
物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる
心(主体)は物事(対象)が在るためにそのように在る
その二つの相関関係を理解しなさい
その根底にある実在は一つの空なのだ
この空は相対を排斥せず
すべての存在を差別のまま包みこむ
粗雑と精妙を区別せずにいなさい
そうすれば偏見に陥ることはない
大いなる道に生きることは
易しくも難しくもない
だが視野の狭い人は恐れ疑い
急げば急ぐほど遅れてしまう
真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う
すべてを放てば自然となり
来ることも去ることもなくなる
あるがままにまかせなさい
そうすれば悠々自適に生きていける
想いを働かせば、真理は隠され
想いを止めれば、暗く澱んでしまう
有念も無念も徒に精神を疲れさせるばかり
そのどちらを好んでも避けてもならない
一なるものを求めるなら
感覚や思考さえ嫌ってはならない
感覚や思考を完全に受け入れることは
真の悟りと同じなのだ
賢者は目的を求めて努力しない
愚者は目的を求めるために己を縛る
法(存在、現象)は一つであって多数ではない
区別は無知の愛着から生じる
心をもって真理を求めることは
最大の過ちだ
迷えば安心や不安が生じ
悟れば好きも嫌いもなくなる
すべての二元対立は
自己中心の分別から生じる
それらは夢まぼろし、空中の花
つかもうとするだけ愚かなこと
得も失も、是も非も
すべて一度に放り出してしまえ
もし心眼が眠らなければ
すべての夢は自然に止む
心が分別をしなければ
存在は一なるものとしてあるがままに在る
この深遠な神秘を理解すれば
すべてのもつれは解きほどかれる
千差万別の存在が平等に見られれば
あるがままの自然の姿に帰りつく
この原因も関係性もない状態では
比較も類比もできない
動を静と見なし、静の中に動を見なさい
すると動も静も消え去る
二元性が存在しなければ
一なるものも在りえない
この究極の境地には
どんな法も描写もあてはまらない
道と一つになった平等な心に
自己中心的な計らいはない
疑いも恐れも消え
真理を信頼して生きるのだ
束縛を一撃で断ち切り自由になれば
印象はとどまらず、記憶すべきこともない
すべては空、明らかにして自ずと輝き
心を用いることもない
想念、感情、知識で推し量れない
このあるがままの世界には
自己もなければ他己もない
この実在と調和の内に在るには
ただ「不二」と言うがいい
この「不二」の中ですべては等しく
すべては包みこまれる
世界中の賢者たちは
この根源的真理を体得している
真理は時を超え
絶対の今の一念は、そのままで永遠なのだ
ここも空、そこも空
だが無限の宇宙は常にあなたの目の前に在る
極大と極小は異ならない
境界を忘れ去り、区別を消し去れば
存在も非存在も同じこと
そうでなければ真理とはいえず
守るべき価値もない
すべては一つ
一つはすべてだ
このように悟るなら
不完全を思い煩うこともない
この真理を信頼し生きることが不二の道である
不二と信頼は一体なのだから
道は言語に絶している
そこには昨日も明日も今日もないのだ
英訳版
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる
だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない
一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される
道は大いなる虚空のように完全で
欠けたところも、余分なところもない
ただ取捨選択するために
物事の本質を見極められないだけだ
外界に巻きこまれてはならない
空という概念にもとらわれてはならない
一なる境地に帰して、ただ静かにしていなさい
そうすれば誤った見解はひとりでに消え去る
心の活動を止めようと努力しても
その努力がさらなる活動をもたらす
対極の一方を選んでとどまるかぎり
一なるものを知ることはできない
一なるものを知らなければ
静動、正否ともにその自由な働きを失う
物事の現実性を否定すればその現実性を見失い
空の概念にしがみつけば空の原理を見失う
話せば話すほど、考えれば考えるほど
ますます真理から遠ざかるばかり
話すことも考えることもやめなさい
そうすれば知り得ないものは何もない
根源に帰れば本質を会得する
だが現れを追いかければ源を見失ってしまう
一瞬にして悟れば
現れも空も、ともに超越される
空の世界に起こる変転変化を
無知ゆえに人は実在と呼ぶ
真理を追い求めてはならない
ただ相対的な見方をやめなさい
二元的な分別にとらわれて
現れを追ってはならない
わずかでも是非を区別すれば
心の本質は失われてしまう
すべての二元対立は一元から生じるが
その一元にさえ執着してはならない
心が生じなければ
世界が背くことはない
何も背くことがなければ
すべてはあるがままだ
分別心が起こらなければ、心は存在をやめる
主体である心が消えれば、対象も消え去るように
想いの対象が消えれば、想う主体も消え去る
物事(対象)は主体(心)が存在するために対象となる
心(主体)は物事(対象)が在るためにそのように在る
その二つの相関関係を理解しなさい
その根底にある実在は一つの空なのだ
この空は相対を排斥せず
すべての存在を差別のまま包みこむ
粗雑と精妙を区別せずにいなさい
そうすれば偏見に陥ることはない
大いなる道に生きることは
易しくも難しくもない
だが視野の狭い人は恐れ疑い
急げば急ぐほど遅れてしまう
真理に執着すれば度を失い
悟りという概念にさえ囚われて道に迷う
すべてを放てば自然となり
来ることも去ることもなくなる
あるがままにまかせなさい
そうすれば悠々自適に生きていける
想いを働かせば、真理は隠され
想いを止めれば、暗く澱んでしまう
有念も無念も徒に精神を疲れさせるばかり
そのどちらを好んでも避けてもならない
一なるものを求めるなら
感覚や思考さえ嫌ってはならない
感覚や思考を完全に受け入れることは
真の悟りと同じなのだ
賢者は目的を求めて努力しない
愚者は目的を求めるために己を縛る
法(存在、現象)は一つであって多数ではない
区別は無知の愛着から生じる
心をもって真理を求めることは
最大の過ちだ
迷えば安心や不安が生じ
悟れば好きも嫌いもなくなる
すべての二元対立は
自己中心の分別から生じる
それらは夢まぼろし、空中の花
つかもうとするだけ愚かなこと
得も失も、是も非も
すべて一度に放り出してしまえ
もし心眼が眠らなければ
すべての夢は自然に止む
心が分別をしなければ
存在は一なるものとしてあるがままに在る
この深遠な神秘を理解すれば
すべてのもつれは解きほどかれる
千差万別の存在が平等に見られれば
あるがままの自然の姿に帰りつく
この原因も関係性もない状態では
比較も類比もできない
動を静と見なし、静の中に動を見なさい
すると動も静も消え去る
二元性が存在しなければ
一なるものも在りえない
この究極の境地には
どんな法も描写もあてはまらない
道と一つになった平等な心に
自己中心的な計らいはない
疑いも恐れも消え
真理を信頼して生きるのだ
束縛を一撃で断ち切り自由になれば
印象はとどまらず、記憶すべきこともない
すべては空、明らかにして自ずと輝き
心を用いることもない
想念、感情、知識で推し量れない
このあるがままの世界には
自己もなければ他己もない
この実在と調和の内に在るには
ただ「不二」と言うがいい
この「不二」の中ですべては等しく
すべては包みこまれる
世界中の賢者たちは
この根源的真理を体得している
真理は時を超え
絶対の今の一念は、そのままで永遠なのだ
ここも空、そこも空
だが無限の宇宙は常にあなたの目の前に在る
極大と極小は異ならない
境界を忘れ去り、区別を消し去れば
存在も非存在も同じこと
そうでなければ真理とはいえず
守るべき価値もない
すべては一つ
一つはすべてだ
このように悟るなら
不完全を思い煩うこともない
この真理を信頼し生きることが不二の道である
不二と信頼は一体なのだから
道は言語に絶している
そこには昨日も明日も今日もないのだ
英訳版
Hsing Hsing Ming Verses on the Faith Maind By Chien-chih Seng-ta'an(Kanchi Sousan)Third Zen Patriarch translated by Richard B. Clarke
The Great Way is not difficult
for those who have no preferences.
When love and hate are both absent
everything becomes clear and undisguised.
Make the smallest distinction, however
and heaven and earth are set infinitely apart.
If you wish to see the truth
then hold no opinions for or against anything.
To set up what you like against what you dislike
is the disease of the mind.
When the deep meaning of things is not understood
The mind's essential peace is disturbed to no avail.
The Way is perfect like vast space
where nothing is lacking and nothing is in excess.
Indeed, it is due to our choosing to accept or reject
that we do not see the true nature of things.
Live neither in the entanglements of outer things,
nor in inner feelings of emptiness.
Be serene in the oneness of things
and such erroneous views will disappear by themselves.
When you try to stop activity to achieve passivity
your very effort fills you with activity.
As long as you remain in one extreme or the other
you will never know Oneness.
Those who do not live in the single Way
fail in both activity and passivity,
assertion and denial.
To deny the reality of things
is to miss their reality;
to assert the emptiness of things
is to miss their reality.
The more you talk and think about it,
the further astray you wander from the truth.
Stop talking and thinking,
and there is nothing you will not be able to know.
To return to the root is to find the meaning,
but to pursue appearances is to miss the source.
At the moment of inner enlightenment
there is a going beyond appearance and emptiness.
The changes that appear to occur in the empty world
we call real only because of our ignorance.
Do not search for the truth;
only cease to cherish opinions.
Do not remain in the dualistic state
avoid such pursuits carefully.
If there is even a trace
of this and that, of right and wrong,
the Mind-essence will be lost in confusion.
Although all dualities come from the One,
do not be attached even to this One.
When the mind exists undisturbed in the Way,
nothing in the world can offend,
and when a thing can no longer offend,
it ceases to exist in the old way.
When no discriminating thoughts arise,
the old mind ceases to exist.
When thought objects vanish,
the thinking-subject vanishes,
as when the mind vanishes, objects vanish.
Things are objects because of the subject (mind);
the mind (subject) is such because of things (object).
Understand the relativity of these two
and the basic reality: the unity of emptiness.
In this Emptiness the two are indistinguishable
and each contains in itself the whole world.
If you do not discriminate between coarse and fine
you will not be tempted to prejudice and opinion.
To live in the Great Way
is neither easy nor difficult,
but those with limited views
and fearful and irresolute:
the faster they hurry, the slower they go,
and clinging (attachment) cannot be limited;
even to be attached to the idea of enlightenment
is to go astray.
Just let things be in their own way
and there will be neither coming nor going.
Obey the nature of things (your own nature),
and you will walk freely and undisturbed.
When thought is in bondage the truth is hidden,
for everything is murky and unclear,
and the burdensome practice of judging
brings annoyance and weariness.
What benefit can be derived
from distinctions and separations?
if you wish to move in the One Way
do not dislike even the world of senses and ideas.
Indeed, to accept them fully
is identical with true Enlightenment.
The wise man strives to no goals
but the foolish man fetters himself.
This is one Dharma, not many:
distinctions arise
from the clinging needs of the ignorant.
To seek Mind with the (discriminating) mind
is the greatest of all mistakes.
Rest and unrest derive from illusion;
with enlightenment there is no liking and disliking.
All dualities come from ignorant inference.
The are like dreams of flowers in the air:
foolish to try to grasp them.
Gain and loss, right and wrong:
such thoughts must finally be abolished at once.
If the eye never sleeps,
all dreams will naturally cease.
If the mind makes no discriminations,
the ten thousand things
are as they are, of single essence.
To understand the mystery of this On -essence
is to be release from all entanglements.
When all things are seen equally
the timeless Self-essence is reached.
No comparisons or analogies are possible
in this causeless, relationless state.
Consider movement stationary
and the stationary in motion,
both movement and rest disappear.
When such dualities cease to exist
Oneness itself cannot exist.
To this ultimate finality
no law or description applies.
For the unified mind in accord with the Way
all self-centered straining ceases.
Doubles and irresolution's vanish
and life in true faith is possible.
With a single stroke we are freed from bondage;
nothing clings to us and we hold to nothing.
All is empty , clear, self-illuminating,
with no exertion of the mind's power.
Here thought, feeling, knowledge, and imagination
are of no value.
In this world of Suchness
there is neither self nor other-than-self.
To come directly into harmony with this reality
just simply say when doubt arises, `Not two.'
In this `no two' nothing is separate,
nothing excluded.
No matter when or where,
enlightenment means entering this truth.
And this truth is beyond extension or
diminution in time or space;
in it a single thought is ten thousand years.
Emptiness here, Emptiness there,
but the infinite universe stands
always before your eyes.
Infinitely large and infinitely small;
no difference, for definitions have vanished
and no boundaries are seen.
So too with Being and non-Being.
Don't waste time in doubts and arguments
that have nothing to do with this.
One thing, all things:
move among and intermingle,
without distinction.
To live in this realization
is to be without anxiety about non-perfection.
To live in this faith is the road to non-duality,
Because the non-dual is one with the trusting mind.
Words!
The Way is beyond language,
for in it there is
no yesterday
no tomorrow
no today.
for those who have no preferences.
When love and hate are both absent
everything becomes clear and undisguised.
Make the smallest distinction, however
and heaven and earth are set infinitely apart.
If you wish to see the truth
then hold no opinions for or against anything.
To set up what you like against what you dislike
is the disease of the mind.
When the deep meaning of things is not understood
The mind's essential peace is disturbed to no avail.
The Way is perfect like vast space
where nothing is lacking and nothing is in excess.
Indeed, it is due to our choosing to accept or reject
that we do not see the true nature of things.
Live neither in the entanglements of outer things,
nor in inner feelings of emptiness.
Be serene in the oneness of things
and such erroneous views will disappear by themselves.
When you try to stop activity to achieve passivity
your very effort fills you with activity.
As long as you remain in one extreme or the other
you will never know Oneness.
Those who do not live in the single Way
fail in both activity and passivity,
assertion and denial.
To deny the reality of things
is to miss their reality;
to assert the emptiness of things
is to miss their reality.
The more you talk and think about it,
the further astray you wander from the truth.
Stop talking and thinking,
and there is nothing you will not be able to know.
To return to the root is to find the meaning,
but to pursue appearances is to miss the source.
At the moment of inner enlightenment
there is a going beyond appearance and emptiness.
The changes that appear to occur in the empty world
we call real only because of our ignorance.
Do not search for the truth;
only cease to cherish opinions.
Do not remain in the dualistic state
avoid such pursuits carefully.
If there is even a trace
of this and that, of right and wrong,
the Mind-essence will be lost in confusion.
Although all dualities come from the One,
do not be attached even to this One.
When the mind exists undisturbed in the Way,
nothing in the world can offend,
and when a thing can no longer offend,
it ceases to exist in the old way.
When no discriminating thoughts arise,
the old mind ceases to exist.
When thought objects vanish,
the thinking-subject vanishes,
as when the mind vanishes, objects vanish.
Things are objects because of the subject (mind);
the mind (subject) is such because of things (object).
Understand the relativity of these two
and the basic reality: the unity of emptiness.
In this Emptiness the two are indistinguishable
and each contains in itself the whole world.
If you do not discriminate between coarse and fine
you will not be tempted to prejudice and opinion.
To live in the Great Way
is neither easy nor difficult,
but those with limited views
and fearful and irresolute:
the faster they hurry, the slower they go,
and clinging (attachment) cannot be limited;
even to be attached to the idea of enlightenment
is to go astray.
Just let things be in their own way
and there will be neither coming nor going.
Obey the nature of things (your own nature),
and you will walk freely and undisturbed.
When thought is in bondage the truth is hidden,
for everything is murky and unclear,
and the burdensome practice of judging
brings annoyance and weariness.
What benefit can be derived
from distinctions and separations?
if you wish to move in the One Way
do not dislike even the world of senses and ideas.
Indeed, to accept them fully
is identical with true Enlightenment.
The wise man strives to no goals
but the foolish man fetters himself.
This is one Dharma, not many:
distinctions arise
from the clinging needs of the ignorant.
To seek Mind with the (discriminating) mind
is the greatest of all mistakes.
Rest and unrest derive from illusion;
with enlightenment there is no liking and disliking.
All dualities come from ignorant inference.
The are like dreams of flowers in the air:
foolish to try to grasp them.
Gain and loss, right and wrong:
such thoughts must finally be abolished at once.
If the eye never sleeps,
all dreams will naturally cease.
If the mind makes no discriminations,
the ten thousand things
are as they are, of single essence.
To understand the mystery of this On -essence
is to be release from all entanglements.
When all things are seen equally
the timeless Self-essence is reached.
No comparisons or analogies are possible
in this causeless, relationless state.
Consider movement stationary
and the stationary in motion,
both movement and rest disappear.
When such dualities cease to exist
Oneness itself cannot exist.
To this ultimate finality
no law or description applies.
For the unified mind in accord with the Way
all self-centered straining ceases.
Doubles and irresolution's vanish
and life in true faith is possible.
With a single stroke we are freed from bondage;
nothing clings to us and we hold to nothing.
All is empty , clear, self-illuminating,
with no exertion of the mind's power.
Here thought, feeling, knowledge, and imagination
are of no value.
In this world of Suchness
there is neither self nor other-than-self.
To come directly into harmony with this reality
just simply say when doubt arises, `Not two.'
In this `no two' nothing is separate,
nothing excluded.
No matter when or where,
enlightenment means entering this truth.
And this truth is beyond extension or
diminution in time or space;
in it a single thought is ten thousand years.
Emptiness here, Emptiness there,
but the infinite universe stands
always before your eyes.
Infinitely large and infinitely small;
no difference, for definitions have vanished
and no boundaries are seen.
So too with Being and non-Being.
Don't waste time in doubts and arguments
that have nothing to do with this.
One thing, all things:
move among and intermingle,
without distinction.
To live in this realization
is to be without anxiety about non-perfection.
To live in this faith is the road to non-duality,
Because the non-dual is one with the trusting mind.
Words!
The Way is beyond language,
for in it there is
no yesterday
no tomorrow
no today.
2019/04/08
禅・Buddhism 目次
禅・Buddhismは、仏教の中にある非二元性に焦点をあてて書いた一連のシリーズとなっています。仏教関連の単発の記事は「仏教その他」「拓のひとりごと」にあります。
目次
部派仏教(アビダルマ)倶舎論①
部派仏教(アビダルマ)倶舎論②
大乗仏教
般若心経
ナーガルジュナ(龍樹)①
ナーガルジュナ(龍樹)②
唯識① 唯識(ゆいしき)とは
唯識② 世界は言葉でできている。
唯識③ 量子力学
唯識④ 人人唯識(にんにんゆいしき)
唯識⑤ 阿頼耶識 末那識(あらやしき まなしき)
部派仏教(アビダルマ)倶舎論②
大乗仏教
般若心経
ナーガルジュナ(龍樹)①
ナーガルジュナ(龍樹)②
唯識① 唯識(ゆいしき)とは
唯識② 世界は言葉でできている。
唯識③ 量子力学
唯識④ 人人唯識(にんにんゆいしき)
唯識⑤ 阿頼耶識 末那識(あらやしき まなしき)
参考:ぜひ見ていただきたいYouTube
霊魂のような不変の実体はどこにもない(特におすすめ)
生きている限り、「私」を消すことはできない(特におすすめ)
仏教の認識論 私とは何か?(特におすすめ)
私は体でも心でもない(特におすすめ)
「いのち」は実在しない(特におすすめ)
「仏教その他」には、良質な非二元関連(仏教の中にある非二元)のYouTubeがたくさんあるので、ぜひ見てください。私の下手な説明よりもよくわかると思います。
また、佐々木閑先生の以下のYouTubeは、仏教の中にある非二元を理解する助けになると思います。
2019/04/06
ニサルガダッタ・マハラジ 1979フィルム
The Lost Satsang Sri Nisargadatta Maharaj Archival Film 1979
「ザ・ロスト・サットサング」シュリ・ニサルガダッタ・マハラジ 記録フィルム1979
(画面に表示された英語字幕のみ翻訳しています)
****
2007年1月、シュリ・ニサルガダッタ・マハラジの初期の通訳の一人であるムラパータンが私たちに、この歴史的な記録を収めた一本の古いVHSテープを提供してくれました。
私たちはこのフィルムの存在を知りませんでしたが、このフィルムをみなさんとシェアできる栄誉を光栄に思います。
翻訳の正確さを期するため、私たちは三通りの異なる翻訳バージョンを作って編集しました。メインとなっているのは、モハン・ガイトンデ(マハラジの夕方のパートタイム通訳)によるものです。
オリジナルフィルムの信憑性を保つため、フィルムの映像には手を加えていません。
私たちは、この歴史的記録を作成した人たちを見つけ出そうとしましたが、うまくいきませんでした。
彼らのマハラジへの誠実な献身を高く評価するとともに、心より感謝いたします。
****
マハラジの家の入口。1979年頃、インド、ムンバイ。
マハラジの部屋の窓。
初期の通訳の一人であるムラパータン。
ニサルガダッタ・マハラジの息子。
(訪問者)私はSelf(自己・本質)です。
みなさんは、Self(Consciousness・意識)について話すが、言葉は実際のそのものを表していない。
言葉はobject(物・客体)ではないものを object として表すが、Self(意識)は object ではない。
宗教上の慣行は、人を体とマインドを超えて、自己愛(Consciousness意識)へと導くかもしれない。そのやり方で、あなたの自己愛をなだめることはできる。それが礼拝の目的だ。
あなたは、あなたの体と同化しているが、実際にはあなたは体ではない。形の無いものである。
(訪問者)すべての欲求は意識(Consciousness)から起きるのではありませんか?
私の言うとおりにしなさい。あなたの質問は全部、あなたが体に同化していることから起こっている。内側に入って行きなさい。すべての望みや欲求は、Self(Conscious・意識)のためにあるべきだ。Self のみを渇望しなさい。
愛とは単に言葉ではない。それは「私はいる」という認識。その認識を探求すべきである。私たちが切望すべきことは、「私はいる」を理解することだ。
あなたは体に執着している。すべての世俗の活動と苦悩が、体を永続させることを目的としている。
誰でも、体が存在することは時間を意味することだと知っているが、それでも苦悩は続く。私は愛して・・・。
この究極の愛はブラフマンと呼ばれる。それは行き渡る意識だ。それは行き渡る愛だ。
この世界の顕現全体は同じ意識(Conscious)が現れ出たもので、それがあなただ。あなたは「あなた自身」の顕現であり、同じ愛が現れたものだ。
でも、自己への愛はすべての動機となる。あなたは、意識よりも体を愛している。あなたは、存在することを愛している。
あなたは、あなたの本質、意識(Conscious)以外のものを愛すべきではない。
強い欲求、強い期待。どうしてそうしたものが愛でありえるだろうか?
あなたは何が欲しい?
あなたの一番の欲求は何だ?
体と同化しているがゆえに、物に魅かれるのだ。
それが欲求を生み、あなたはそれに優先権を与えている。
Self (自己・本質)を理解することだけが最優先事項だ。愛(意識・Consciousness)に執着しなさい。
あなたは、すべての物の中に存在する意識(Consciousness)を理解しなければいけない。
あなたの本質を探究しなさい。
あなたの本質を探索しなさい。
本当のあなたを見つけなさい。
「私はいる」の源泉を発見しなさい。
意識(Consciousness)を探索しなさい。
あなたは至福の海だ。でも、あなたが海に着くまではそのことを理解できない。
あなたの肉体的欲求はあなたをどこへも導かない。
でも、Self (意識)だけを強く望めば、あなたを理解へと導くだろう。
このことを以前に聞いたことは?
神は存在するかもしれない。でもそれは、それを理解する「私」がいる時だけだ。
それを理解する「私」がいなければ、誰がその存在を裏付けるのだ? 「私」が神を作り出しているのだ。
私は「私はいる」を知る者、マハ・リンガである。
もしあなたが「私はいる」を理解できないなら、どうしてその他のことを理解できるのか?
(通訳)マハラジは性器のことを言っているのではありません。彼は決してセックスについては語りません。マハラジは、「私はマハ・リンガ、Self (自己・本質)である」と言ったのです。セックスのことを言っているのではありません。
リンガの垂直の部分はイシュワラ(Ishware・意識)を表している。そしてそれはマーヤー(幻影)に囲まれている。イシュワラが見えている間、マーヤーは隠れている。そんなふうには見えないかもしれないが、マーヤーが意識を覆い隠している。
あなたはそれを、こういうやり方で考えたことはあるか?
意識、イシュワラは世界、顕現に囲まれている。
あなたの中の神を認識するのを許さないのはマーヤーだ。意識はマーヤーによって覆い隠されている。
でもあなたがリンガの形だけを見るなら、あなたはそれを別の意味に取る。
私たちは皆マーヤーを見ることができる。でも、根本となる原理は意識だ。
この線香は燃えている。でも、その本質が燃えているのか? いいや。私たちは燃えているものしか見ない。
線香の材料は燃えている。でも、本質は残っている。本質は影響を受けるのか?
このことを理解するために、線香の例え話を受け入れなさい。
顕現に現れた Self (意識)は燃えているように見えるが、Self が燃えることはない。
物事は現われては消えている。でもそれは形が変わるだけだ。
火花が消えたらそれは死んだということか? あなたにそれが見えないと、それは死んだということか?
あるのは愛だけだ。
意識の中に留まることが本当の宗教である。
意識の中には宗教も無宗教もない。宗教は人間の知性の産物である。
人間の脳による計略がある。人間の脳が宗教を作り出した。
宗教では神を表すシンボルとして石を使う。
どうして石が神を表すことができるのか?
どうして石が意識を表すことができるのか?
Self (自己・本質)はそれ自身を知っているのか?
(質問者)すべての個人のbeing(存在・本質)のことですか? 私(my being)、あなた(your being)、彼(his being)?
一つの意識があるだけだ。
この形としての顕現として現れる前、私は存在(being)でも非存在(no being)でもなかった。
意識はこの形になって現れる。だから、この形は意識であると認識できる。
意識の中に現れるものはすべて意識の中に消えていく。でも、意識はずっと存在する。
あなたは、「私」が現れた後にしか世界を知覚することができない。
形が現れ、世界を知覚する。でも誰がこの顕現を知覚しているのか?
(通訳)彼は「もし私の気が狂っても、自分の本質を認識することはできるか?」と聞いています。
建物が建っていようと取り壊されていようと、空間はずっと存在する。
私が目を開けると、空間が形となる。その時だけ空間は形となる。
空間はマハラジ原理(究極)の上に成り立っている。マハラジ原理が空間の上に成り立っているのではない。
(通訳)これはポインターです。
それは言葉では説明できない。どうして言葉で言葉がやってきたもとを説明できるのか?
それを知覚するためには、「私」が必要だ。でも、言葉でそれを表すことはできない。言葉は、それでなないものを表すことができるだけだ。
あなたは究極のものを言い表すことはできない。それは描写することも、影響されることも、分解されることも、破壊されることもない。
あなたはこのことに賛成するかもしれないし、賛成しないかもしれないが、あなたの意見がこの事実を変えることはない。
パラブラフマン、究極のものはマーヤーの形となる。それは幻影である。
マーヤーは私たちのためにすべてのものに名前を与える。マーヤーが無ければ、「私はいる」という思考は消える。
すべてはパラブラフマンが創造するために起こってくる。起きること、眠ること、私はいるという感覚、そして三つのグナ。
あなたが誕生と呼ぶものはこの三つの状態の現われにすぎない。起きていること、寝ること、そして「私はいる」こと。あなたはその他に何か経験したか?
彼は何と言った?
(通訳)誕生とは体を認識することですか?
それはあとになってからだ。最初はこの三つの状態として現れる。
死んだ人は眠れるのか? 彼か彼女に意識はあるのか?
この三つの状態が現れる以前の、あなたは何だった?
あなたが存在するという感覚が一番大きな幻影だ。それは子宮の中で作られた。
あなたはここに座っている意識だ。いつ、どこで、あなたの意識は最初に現れたのか?
あなたの母親の子宮の中だ。
(通訳)子宮より前に存在しましたか?
あなたは何歳だ?
(通訳)43歳。
43年の最初の日があなたの受け渡し日だ。そうだろ?
あなたの母親の子宮の中で、この「私はいる」が形作られるまでに9か月かかる。あなたは今までこのことを考えたことがあるか?
確かにそれは、10か月目にあなたが生まれた日ではないが、あなたはそれを一日目と言う。わかったか?
(通訳)子宮の中で「私はいる」という感覚を認識するのですか?
それは子宮の中で現れる。
(通訳)子宮の前には存在しないのですか?
存在しない。
いわゆるあなたの誕生から、二年から三年の間は「私はいる」という感覚は不在だ。
あなたの体の中の意識があなたの排泄、排尿の世話をしている。
一年たって、あなたの母親があなたの名前を読んだ時初めて、あなたは自分が分離していることを理解する。
(通訳)一、二年後にやって来る「私はいる」という感覚は、表面的なことですか?
いいや。まったく表面的なことではない。子供は木のようなものだ。両方とも種から始まる。小さな種が芽を出し、自然に成長して大きな木となる。マンゴーの種は、初めは苦いが、やがて甘い実となる。同様に、「私はいる」も自然に現れる。それは誰かによって作られるわけではない。
人間の場合、ジュースすなわち知識が若い成人となるには25年かかる。誰がこれを知っているというのか? その頃それはピークに達し、そこから下り始める。
あなたはいつも誰か人のことを言っている。いつも何か新しいものを学び、どこか他を探している。でも、あなたの本当の正体は何だ? それを最初に理解しようとしなさい。
私たちの存在の感覚は持続期間を含んでいる。時間が終わる時、あなたはそれを死と呼ぶ。
(通訳)私たちは「私はいる」という感覚には多くを期待できません。
それが私が言っていることだ。意識 (Consciousness) だけを渇望し、切望しなさい。
彼に伝えなさい。欲望に影響されない者が真のマハラジ原理であると。
(通訳)私は彼にマハラジャとは何かを説明しています。
私たちは知識を伝えるために言葉を使う。でもあなたはあなたのできる範囲でしか理解できない。
「私はいる」は子宮の内容物だ。
私はあなたが英国出身だと感じる。そんな感じで子宮の中の胎児も知覚する。
私はあなたが昨日来ると思っていたが、かわりに今日やってきた。
思考は対象物として現われるが、それ自体は対象物ではない。
質問は?
ここまでで、あなたは何を理解した?
あなたはこれからどんな人間でありたい?
自身のアイデンティティーに執着することをやめなさい。それはやがて消えて無くなる。
これはとても重要なことだ。みんなが理解すべきことだ。
(通訳)大きな質問は、アイデンティティーについてです。
もし彼がこれまで理解したことに満足ならそれでいい。
聞こえない。
不完全な発言だ。
例えば母親が、自分の息子が結婚すると幸せを感じるのと同じような幸せをあなたが感じるなら、あなたの満足は対象物に依存している。
マハラジ原理は何にも依存していない。満足と幸福は何かに依存している。
私は言葉を使っている。もしあなたが言葉に満足しているなら、あなたは決して対象のない(理解)には到達しない。
(通訳)これを概念的に理解することはできますか?
あなたが理解できた時、あなたはもうここへは帰ってこない。あなたが帰ってくるということは、まだ本当の理解が起こっていないということだ。
マーヤーは意識の広告のようなものだ。でも私たちは広告が意識そのものだと混同する。
あなたはイシュワラのイシュワラだ。あなたの存在の感覚が、あなたの中に意識があるということを示している。
私はあなたを挑発している。さあ、始めよう。さあ。
あなたは言葉以前に存在する。
すべてのことがあなたの形に依存している。でもあなたは形の無いものだ。シバのシンボル、リンガは単なる石ではない。それは意識を表している。
リンガムは「私はいる」だ。単なる滑らかな一個の石ではない。それは力強い。それは命だ。でも、私たちはそれをセックスのシンボルとして言及する。
私に現実的な質問をしないでほしい。私はそういうことを話せない。私は決して肉体個人レベルの話はしない。「私はいる」に留まる。それがすべきことのすべてだ。
(通訳)私はただやり方を・・・。
いいや。それはやり方のことではない。執着しないでいなさい。「私はいる」に留まりなさい。現実的な質問をしないで。
意識は議論しない。マーヤーは議論する。そしてそれは食べ物によって維持される。
食べ物が無ければ死ぬ。そして「私はいる」は消える。意識はどんな観念も超えている。
私は一つの原理について話している。それはこの宇宙のどんなものにも影響を受けない。
それは「私はいる」という顕現以前にある。私たちのすべての行動は、「私はいる」という感覚の現われ出たものだが、それは実在ではない。それは幻影だ。究極のものは影響を受けない。
知る働き無しで、あなたは誰なのだ?
どうやって超えて行けるのだ?
もしあなたが存在しないなら、誰が超えて行くのだ?
最初に自分の存在を証明しなさい。それからやってみなさい。
排尿は自然に起こってくるプロセスだ。あなたはそれさえコントロールできない。あなたはどんなものも捨てる能力を持っていない。
時々排尿したいと思ってもできない時がある。あなたは医者に走って行き、医者があなたに注射すると排尿できる。それでもまだ私たちはその行為者だと思っている。
超えて行くことについて話す前に「私はいる」に留まり、それを維持しなさい。
ありふれた日常のことやスピリチュアルな活動が自然に起こってくるが、私たちは自分でそれをやっていると思い込んでいる。でもそれは私たちが不在の時でさえ起こってくる。
(通訳)何か興奮するようなことが起こっていました。ある男が彼自身に芽生えた善悪の認識を保持しようと決心しました。そしてその線に沿って旅をしました。誰かがやって来てその男に一緒に過ごす女が欲しいかと聞きました。そしてその男は自制心をすべて無くし、その男に従いました。
あなたの「私はいる」はやってきて、それをあなたは経験した。あなたは出来事が起きるのをただ見ていることしかできない。あなたは、何かをしたりしなかったりするために意識(Consciousness)を使うことはできない。
あなたの体との同化は、しっかりはまったネジのようなものだ。自分が個人であるというあなたの観念はネジのようなものだ。あなたはそれを緩めなくてはならない。
自分が人間であると信ずること・・・それはネジではないのか? それを手放しなさい。
個人としてのアイデンティティーを手放しなさい。そうすればネジは必要なだけ緩む。
あなたの本質は体でもマインドでもないと一旦理解したら、どんな進歩をあなたは見ることができると思うのか?
あなたを前進される理解を期待するな。肉体レベルから自分を切り離しなさい。そうすれば進歩が見える。
蟻は遅く、蛇は速い。どっちが進歩しているのだ? 前進とは何だ?
蛇は皮で覆われている。あなたの本当の形を包んでいるのは何だ?
あなたはどんな物質でできているのか?
体は概念だ。すべての形は概念だ。意識(Consciousness)には形が無い。
私はあなたに、子宮にいた9か月間に集中するよう求めている。10か月目のことは忘れなさい。
子宮の中にいた時のあなたのアイデンティティーは何だ?
あなたは一滴によって受胎された。そしてその9か月間は今の状態のもととなっている。
あなたは概念でいっぱいだ。あなたがこの世にやって来たこともまた概念だ。
あなたは今何を言っている?
あなたの体のネジはとても強く締まっている。
それを緩めなければならない。このことは昨日もあなたに言ったはずだ。
物事は起こってくる・・・。あなたの体との同化ネジはとても締まっている。あなたはそれを緩めなくてはいけない。
あなたは、どうやって幻影からあなたのマインドを自由にするだろうか?
あなたは、あなたの概念からどうやって自由になるだろうか?
私は、人間は進歩に関しては同じ問題に直面していることを理解し、自分でそれを切り抜けた。
彼は知識を集め、それをよく締まったネジのように保持している。
彼の生と死に関する知識は今この時点での彼の理解としては正しい。
あなたが何を理解しようと、ある一定の状態でそれは正しい。それは間違ってはいない。
でもそれは、その瞬間においてのみ正しく、ある時は肯定的に反応して成長し、ある時は停滞する。
私たちの間に違いが無いのなら、見せてみろ。
あなたは変わらないアイデンティティーを持っているのか?
あなたは概念でいっぱいだ。
私が言う通りにしなさい。
あなたのマインドはぐるぐる回り、想像する。もしあなたが自分の知性を利用したいと思うなら、子宮にいた9か月間のことを熟考しなさい。
あなたは思考ではない。
あなたは思考の産物に過ぎない。
(通訳)私は欲望を持たないことを望むことができますか?
できない。あなたは、あなたが欲望を望むことを望まざるえない。
本当のあなたが何なのかを説明するために、本当のあなたではないものは何なのかを示している。
本当のあなたは何であるかを示すためにできることは、本当のあなたではないものを実際に示すことだけだ。
私はあなたに、本当の物事を示している。あなたがそれをどう感じようが構わない。
世界を経験することは普遍的なものだ。それは私的な経験ではない。それは個人の経験ではない。それはみんなのためのものだ。
たった一つの意識(Consciousness)があるだけだ。
何も分離していない。
私はこの世界の五つの構成要素と一緒に存在している。そしてそれは私の中にもある。
五つの構成要素が経験することは何であれ、私も経験する。
それで、どうして個人の経験がありえるのだ?
五つの構成要素はその役割を果たしている。個人はやって来ては去って行く。
あなたもその一つだ。あなたは誰なのだ?
誰かであることを止めなさい。あなたは自分が五つの構成要素と分離していると思っているのか?
あなたは何か物なのか?
正しい時が来ると、五つの構成要素はあなたの中に私という感覚が、「あなた」となって現れる。
あなたが自分のことをどう思おうと、あなたは五つの構成要素から切り離すことはできない。
あなたは、自分は何だと思っている?
(通訳)私たちがやることはすべて、五つの構成要素とともにする遊びなのですか?
そうだ。でもあなたと一緒に実際に遊ぶのは五つの構成要素だ。
あなたが選択しているという考えを捨てなさい。そうして初めて、あなたは自由になるだろう。
あなたは他者を非難し判断している。自分だけを見つめ、自分が何なのかを自問しなさい。
それはあなたをどこへも導かないだろう。
まず、自分が何なのかを考えなさい。
周りを見回しなさい。あなたは自分が普遍的な存在であるとわかるだろう。
あなたは普遍的なものだ。空気、エーテル、土、水、火は普遍的であり、あなたもそれである。
人々はポットにある水は自分の水だと言うが、どうしてそうだと言える? すべての構成要素は普遍的なものだ。あなたもまた普遍的なものだ。
すべてのものは普遍的なものだ。そして私もそうである。私が言っているのは、あなたは意識(Consciousness)であり、肉体ではないということだ。
あなたは体の中に表現された意識だ。
もしあなたがすべてなら、どうして質問がやって来たり去ったりできようか?
(通訳)彼は尋ねています。もし誰かが彼に「一緒に行くか?」と聞いたら何て言えばいいのかと。
その時にあなたが感じたことが何であれ、そう言えばいい。
自分が思う通りにして言えばいい。私が誰に向かって言っていると思っている? あなたは普遍的なものだ。
(この部分の映像はダメージを受けています)という字幕
私は顕現と、あまねく広がりだけについて話している。あなたはそこから、個人であるあなたという断片だけを取り出すことはできない。
私たちは皆、宇宙の一部分だけを切り取っているに過ぎない。この段階であなたが何を理解しようと。それはあなたの理解する能力による。
このような馬鹿げた質問の答えに私との会話を使おうとは、あなたは何と愚かだ。
起きることは何であれ起きる。どうしてあなたは五つの構成要素について、また私は普遍的なものであり皆もそうであると話す必要があるのか?
あなたは普遍的な意識(Consciousness)だ。
あなたは being(本質・存在)にすぎない。誰を説得しようとしているのか?
あなたは留まることもできるし、立ち去ることもできる。どうしてあなたはこのことについて話したいのだ?
個人がいる限り質問、幸福と不幸がある。
(通訳)こうした質問はいつか無くなりますか?
どの質問だ? 質問は、あなたが体、もしくは一人の個人だと思った時にだけ存在する。
あなたは誰だ? もしあなたがそれを知らなければ、あなたは道に迷う。
私が言っていることはシンプルだ。死は避けられないのだから、どうして賢人たちが言うことが本当かどうか調べないのだ?
どうして彼らに耳を傾け、それが正しいか調べないのだ?
死がやって来る前に賢人かグルに従うことが必要だ。もしこの体とマインドが消えて無くなってしまうのなら、どうしてあなたはそれがあるうちに使わないのだ?
それはすべて消えて行く。
あなたは起きて、寝て、そして知識は消えていく。知っているだろ?
どうしてそれがあるうちに本当の自分を見つけないのだ?
偉大なる賢人(カビール)は言った。「もし内側で駆り立てるものがあるなら、真実を探しなさい。そうしないと道に迷う」
カビールだ。
もしあなたに興味がなければ、道に迷う。
あなたは無知の中で生きたいのか?
もしそうでないのなら、あなたのサットグルが言ったようにしなさい。
もしあなたがあなたのサットグルに従えば、あなた自身が完全は意識であるということを理解するだろう。
あなたは私の言うことを聞くか立ち去るかだ・・・。
あなたは留まるか立ち去ることができる。
私は概念を超えている。条件付けも非条件付けも超えている。
私には、良い悪いの概念はない。
それはどちらも同じだ。
私たちは熱い砂に住む虫のようなものだ。いつも助けを必要とする。
でも私は虫ではない。私は顕現であり、非顕現だ。
死は単に意識(Consciousness)と肉体の分離にすぎない。どうして恐れるのだ?
知っている人にとって、顕現と非顕現の間に分離はない。
死は起こる。もし、理解が常にあるなら、あなたにとって何も問題とはならない。
人間ではなく、聖者に従いなさい。
私は世俗的なアドヴァイスを当てにしていない。
過去も未来も今も当てにしていない。
世俗的なアドヴァイスは私には役に立たない。
あなたは私の会いに来ることもできるし、そうしないこともできる。
生命維持に不可欠な呼吸が体を去る時、マインドもまた去る。
食べ物の本質が無ければ「私はいる」は消えて、人々は私が死んだと言うだろう。
それはパラドックスではないか?
どうしてあなたは本当の自分を探さないのだ?
どうしてあなたは「私はいる」という知識を調べないのだ?
あなたの現在の状態で本当に永遠にあるものは何だ?
このことについて、あなたは以前に考えたことはあるか?
どうしてあなたは私が始めることを期待するのだ?
私に、あなたのために何をして欲しいと思っているのだ?
私たちは自分の体と完全に同化しているために男女の区別をする。しかし私にとってそれはどうでもよいことだ。
何も私に影響しない。
何も私に起こらない。
どんなアドヴァイスも私を乱すことはない。何もそれを乱すことはない。それは全体(普遍的なもの)だ。
あなたは、あなたから何も取り除くことはできない。
あなたは、あなたの体のごく一部を取り出すことができるだろうか?
あなたは何も取り出すことはできない。
たとえそれがどんなに好きなものでも、あなたはそれを後にしなければならない。
本当の自分は誰なのか見つけようとしなさい。
あなたは自分が成し遂げたことを考えている。
あなたは、あたかも自分が生まれたように考えている。
子宮の中の9か月間のことをよく考えなさい。
子宮の中にいた時、あなたは何だったのか?
今あなたはその体を持っていて、自分があれだこれだと考えている。
以前あなたは何だったのか?
あなたが子宮の中にいた時、あなたは、あなたとあなたの母親の違いを知らなかった。
あなたが母親の子宮にいた時、そのことに気づいていたのか?
あなたは自分が男の子か女の子か知っていたのか?
子宮の中で起こったことと、今起こっていることは何の違いもない。
私は知識としての「私はいる」ではない。
Gnaniでもない。
いずれにせよ、知識とは何なのだ?
知識とは食べ物のエッセンスにすぎない。
それが命の真実だ
私は砂糖ではない。どうして私が甘みであることができようか?
食べ物のエッセンスはあなたの体に特性を与える。
あなたは、あなたの体が好きかもしれないが、その形は食べ物のエッセンスにすぎない。
父親のルーツは何だ? それは子供だ。
でも、あなたは今までに、子供のルーツは何か理解しようとしたことはあるか?
体が終わる時、すべては消える。「私はある」という概念も消える。
見る者も見られる物も消える。そして何も意味をなさない。
私たちはどうすべきか?
知る働きの原理を理解し、人生を進んで行きなさい。
渦巻に巻き込まれた泳ぐ人のように川底まで潜らなければならない。
そしてそこから、渦の表面まで泳がなければならない。
そして初めて彼は自由になる。
ある人達は生まれ変わりについて話す。
どうしてそんなことが可能なのか?
誕生は知らない間に起きる。
自分が誕生したことを理解するのに数年かかる。
(通訳)それはアストラル体ゆえに起こります。
誕生は水から起きるのではないか?(液体?)
液体は出生に不可欠ではないのか?
両親の他に誰が液体を供給するのだ?
あなたは液体無しで、どうやって生まれ変わるのだ?
両親無しで、どうやって生まれるのだ?
あなたは、あなたを生んでくれたことを両親に感謝しなさい。
サティヤ・サイ・ババのような偉大な聖人はあなたに不足している知識を与えるために生まれた。
もしあなたにもっと良い考えがあるなら、私は脇によけるだろう。
男と女無しで誕生が起きるだろうか?
彼は「ブラフマン」を達成するためにここにる。
もしあなたが、だれか個人の写真を撮ると、それはどんなふうに見える?
それはどんなふうに見える?
それは、彼もしくは彼女のパラブラフマンの写真だ。
それはどう意味か言うことができるか?
それは、サティヤ・サイ・ババや、他の偉大な聖人たちと同じだ。彼ら全部と。
彼らはすべて、パラブラフマンだ。
色もデザインもない。
あなたは私の言っていることを理解しているか?
私が話しているのは、パラブラフマンについてだ。(究極)
私が自分の本質(being)に気づいてない時、私が作り話に従わない時、そこには思い違いはない。そこには錯覚はない。
それがパラブラフマンだ。
あなたが本質を超えるか、本質ではない時、それがパラブラフマンだ。
80年前、私は何だった? 80、83年前、私はブラフマン(Consciousness)だった。私は完全なブラフマンだった。私は父という概念を理解しなかった。私は、どこからこの同世代が生まれたのかを知らなかった。私は存在、非存在の意識がなかった。今私はブラフマン(意識)の意味を理解し、それが私を囲んでいるのがわかる。しかし、この幻影には安定性がない。私は83年前知識が無かった。原初の錯覚が父、祖父などという概念と一緒に生まれた。人が誰かを出生させると父となる。誰がこの観念を創造したのだ? マーヤー。誰かが生まれると、その子供は誰かの父となる。繰り返し、繰り返し。
それはまるで夢の中を生きているようなものだ。
奇妙な夢。
私は幻影に騙され続けてきた。でも私のグルが間違った信念を終わらせてくれた。私のグルはパラブラフマン(究極のもの)だ。個人ではない。
人はその究極の状態へグルの助けのみによって到達することができる。
彼だけがあなたが頼ることができる財産だ。
グルはパラブラフマン(究極のもの)だ。それてパラブラフマンは私たちの永遠の財産だ。
私のサットサングは純粋なパラブラフマンだ。永遠だ。
彼は質問があるか?
私のグルのグルは呼吸が彼の肉体を離れようとした時に手を叩いた。
どうだ?
彼は死ぬことを恐れなかった。
(通訳)彼は、自分は数年前からそのようなことを言っていると言っています。
それで?
(通訳)彼はそれが本当か、彼が言ったことは正しいかと聞いています。
あなたが今まで聞いたことは正しいか?
あなたがこれまで聞いたことは間違ってないか?
ではどうして聞くのだ?
自信がないのか?
あなたは十分に成熟していない。
あなたの言葉はあなた自身のものではない。
あなたは、あなたが読んだことを言っているに過ぎない。
あなたが誰かに教える時は、あなたは完璧は言葉を使わなければならない。そうしないと意味が変わってしまう。
教えるためには、あなたは成熟しなくてはいけない。そうでなければそれはうまくいかない。
公式文書はきちんとサインされなければならない。
そうだろ?
公式文書は権威を持って、きちんとサインされなければならない。
そうでなければそれは無効だ。あなたにその権威があるか?
あなたにそれをする権威が持てた時、話すがいい。
人々は誰かの話を聞いて真似しようとする。
「ゴヴィンダ、ゴヴィンダ」人々は神の名を歌う。でも、彼らは神のことを知っているのか?
****
(参考:セイラーボブがニサルガダッタ・マハラジのもとに滞在したのは1976年です。それから3年後の1979年にこのフィルムが制作されたことになります)