もし言葉(言語)が無かったらどうなるでしょうか? 言葉がなくても生きてはいける。動物は言葉が無くても生きているし、私たちの祖先だって、最初は言葉を持たなかったはずです。
言葉が無かったら、他の人とのコミュニケーションは難しくなるが、簡単なことはジェスチャーを使って伝えられる。お腹が空けば、言葉など使わずとも何かを探して食べるだろうし、本能に従って子孫も残す。
でも、市役所へ行って婚姻届けを書いて出すなんてことはできなくなる。そもそも、結婚という言葉が無かったら、二人で一緒に暮らして家庭を持って、法的に保護してもらいましょうということをどうやって相手に伝えたらいいのかわからない。市役所も婚姻届けも、言葉がなかったら成立しない。人間生活の中で起きる複雑なことは、言葉が無かったら成り立たたない。
では、思考はどうか。私たちは、思考の道具として言葉を使っています。ものを考えるとき、言葉が無いとどうなるか。言葉が無い場合でも、思考そのものはある。でも、言葉が無かったら、複雑なことを考えることはできない。おそらく、思考というよりは感覚に近いものだけになってしまうような気がします。
映像の記憶だけでも、思考することは可能だと思います。例えば、将棋の棋士が記憶している棋譜のように、手順を記憶していれば、場面を順に思い出すことはできる。行ったことがある場所への行き方は、映像としての記憶を再現すれば思い出すこともできる。
時間の感覚はどうでしょう。言葉が無くても、太陽が高く昇れば昼だとわかるし、太陽が沈めば夜だとわかる。日々の出来事を将棋の棋譜のように順に思い出していけば、以前のことを思い出せるかもしれない。昨日と一昨日ぐらいまでは区別がつくかもしれないが、一か月前とか一年前の区別がつくだろうか。カレンダーが無かったら、過去の記憶がグチャグチャになってしまうような気がします。私の場合、カレンダーがあってもグチャグチャなのだけど。
時々、クイズ番組で、起こった順に出来事を並べよというのがあるが、自分の記憶がいかにグチャグチャなのかを知って驚くことがあります。私の場合、保育園より前の記憶はほとんどない。それ以前の記憶は、アルバムの写真に置き換わってしまっている。
未来のことを考える場合は、言葉がなくてもその日の夜のことぐらいまでは考えることはできるかもしれないが、それより先のことは、言葉がなくては難しい気がします。
私たちの世界は、多くの部分が言葉でできている。フランス語では、蝶と蛾の区別がなく、どちらの場合もパピオンというらしい。英語ではウッドとツリーを分けるが、日本語では木という。日本語ではお兄さん、弟と一言で上下関係を表現できるが、英語ではブラザーしかない。日本語では牛というが、英語ではカウ、カトル、オックス、ブルといって、何だかよくわからない。
それぞれの言語、あるいは民族が別々の概念を持ち、それに対して言葉をあてている。極端なことを言えば、それぞれの世界はそれぞれの言葉でできている。
ということは、私たちが言語を通して認識いるものが、外界にそのまま存在してるということにはならないということになる。混沌とした世界の一部をその言語体系に即して切り取って定義づけして使っているだけであり、つまりそれはそれぞれの概念の反映と解釈できる。世界は言葉でできている。でも、世界はその言葉どおりには存在していないということになる。
例えば、お金。紙幣でもコインでもいいのですが、それはもともと紙か金属のかたまりにすぎません。その紙か金属のかたまりが、私たちの意識の中で思考となって現れたとたん、紙や金属ではなくなり、金という途方もない欲求の対象に変わる。
それは単なる紙か金属にすぎないのに、時によっては命よりも大事なもに見えてしまいます。それを手に入れようとして奮闘し、手に入れると満足感を味わうのですが、そうした価値観は、自身が思考の中で勝手に構築したものだと気づきません。
「私」という言葉に関してはどうでしょうか。セイラーボブはミーティングで、「私の手、私の足と言うのなら、私と手や足は別のものですか? その私とは一体なんですか?」という話をします。私の手と言うのなら、私と手は別のものとなる。私の心臓、私の脳と言うのなら、私は脳でも心臓でもないということなる。
私の心が痛む、というのなら、私は心ではないということになる。私の魂というのなら、私は魂ではないということになる。では一体、その私とは何なのか、どこにいるのかということになり、それは実体のないものであるという話をする。
全く同じ話が唯識の本にも書かれていて、私などいない、無我(むが)であると説いている。無我は仏教の基本の教え。仏教も非二元も、「私」は存在しないと教えるのに、私たちの心の中は「私」だらけです。
私の手、私の足、私の部屋、私の家、私の車、私の服、私の妻、私の母、私の子、私のお金、私の人生、私の気持ち、私の心。そして、日常生活においても、すべて「私」が中心です。私は起きる、私はごはんを食べる、私は会社へ行く、私はテレビを見る、私は泣く、私は怒っている、私は寝る。
その「私」が何かということを確かめようとしても、それはできません。目が自分の目を見ることができないように、主体が主体を見ることはできないからです。よくある例えで言うなら、月を指さすことはできても、指を指さすことはできないからです。
世界は「私」だらけです。生きていくためには、片時も「私」を忘れることはできません。「私」などいないと言って知らんふりしていても、私のお腹は空きます。「私」などいないと言っていたら、生存競争に取り残されて、生きていくことさえ難しくなります。
でも、よくよく考えると、「私」などというものはない。セイラーボブもそう言っているし、釈尊もそう言っている。私たちは、「私」という言葉があまりにも便利なために「私」という言葉を多用しますが、そこには「私」という言葉があるだけで実体はありません。
「私」がないのなら、何があるのか。初期仏教では、「私」はないが、体と心を構成する要素、五蘊(ごうん)はあるのだと説きました。それが発展して、部派仏教では五位七十五法となり、七十五の構成要素で世界を説明しました。
そして唯識ではさらに細かく分類し、構成要素は百となり、五位百法が説かれました。唯識では、何がこの「私」という思いを引き起こすのかについて、私たちの深層心理の中に、「私」という思いを引き起こすもととなる意識が存在するのだと説きました。それを末那識(まなしき)と言います。末那識についてはまた後日書きます。
参考文献
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
唯識十章
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)