このブログの「物は実在か?」のところで、私たちは本当に物が存在するのかを確かめるすべを持っておらず、心の中の映像を見ているにすぎないと書きました。では、心の外側には物が存在しないのでしょうか?
一個のレモンは、心の中の像でした。その像を別の心が見ています。では、月や夜空の星はどうでしょう。夜空に広がる星々も、心の中の像です。宇宙の果てまで思いをはせたとしても、それは私の心の中の像でしかありません。
私は今、部屋のパソコンの前に座って、コーヒーを飲みながら、このブログを書いています。今、私の世界は、部屋とパソコンと、コーヒー、そして窓ごしに見える向いの家並みと空。それが私の世界であり、他の人の経験している世界とは関係がありません。
今この瞬間には、エジプトのピラミッドもアフガニスタンの人々も、思考を向けないかぎり存在しません。ということは、私の世界は私の視界や思考だけでできているということになります。すなわち、私の世界はすべて、私の意識の中にある、別の言い方をするなら、世界は私の意識の中にしかないということになります。
では、私の意識の外に、エジプトやアフガニスタンは存在しないのでしょうか? それを確かめる方法はありません。なぜなら、私たちは自分の意識の外へ出ることはできないからです。
唯識では、心の外の物の存在を認めません。前回のブログで取り上げた原子という視点に立つなら、唯識では実体としての原子(究極の物質)の存在を認めません。唯だ、識(心)だけが存在するという教えです。それでは私たちが目にしているものは一体何なのだということになります。
私たちが見ている物は心の内側にあるものであったとしても、それをもたらす何らかの外側の実在があるはずだと考えるのは自然なことだと思います。というのも、私たちが認識している世界が、何もないところから現れるはずもなく、なんらかの要因があるはずだと考えざるえないからです。
部派の中には、経量部(きょうりょうぶ)のように、心の外側に見ている対象が実在するという見方をしている部派もありました。つまり、法(構成要素)の実在を外側に認めつつ、認識は心の内部で行われるというのです。唯識派と経量部の間では、激しい論戦が行われたそうです。
個人的には外側に何かがあって、それを心の中で認識しているのだと考える方が自然だと思うのですが、それだと空(くう)を説く大乗仏教の教えではないし、非二元的でもなくなって、普通の考え方になってしまいます。
心の外側には世界はないとするなら、私たちは一体何を見ているのか? 物自体にあたるもの、外側の世界にあたるものはどこにあるのか? あるいは、私たちが見ているものは何なのか? 唯識では、それは阿頼耶識(あらやしき)であると説明します。
阿頼耶識とは、私たちの心の深層深くに存在する意識。その意識は情報倉庫のようなもので、私たちが目にしたり、体験したりすることの情報がそこにある。そこから、私たちが目にしたり、体験したりすることがやってくるのだといいます。阿頼耶識(あらやしき)についてはまた次回詳しく書きます。
もう一度、私たちが物を認識するしくみについて書きます。例えば、一本の木を見ているとします。目が木を認識して、それを何らかの信号に変え、神経系統を経由して脳に伝達します。脳はその信号を何らかの形で木という像に変え、脳はその像を認識して、脳の中にある情報の中の木と照合して、(木が立っている)と判断することになります。
つまり、脳の中で何らかの方法で像として作られたものを意識が見ているということになります。作られた像は意識の上に現れたものであり、それを見ていることになります。言い方を変えると、意識が意識を見ていることになります。
その場合、目が最初に入手する木の情報は外側からくるのではないかと考えますが、唯識では、その最初の情報そのものが阿頼耶識からくるというのです。そして、目も、脳も、木という情報も全部阿頼耶識からくるというのです。
今ふうに言うなら、木も目も脳も情報も、全部が阿頼耶識というヴァーチャルリアリティの中の出来事だというのです。さらに、その阿頼耶識も実在のものとは考えてはいけない、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであるという、おそろしい結末が待っています。
その阿頼耶識から広がったヴァーチャルな世界のことを、心(こころ)と言ってもいいし、意識と言ってもいいのですが、そこに「私」の世界がある。つまり、意識の中で、意識が作り出した木という像を、意識が見ているということになります。
ここで注意しなくてはいけないのは、その意識、心は、一人一人それぞれの意識、心のことであって、集団としての共通のものではないということです。集団としての意識やヴァーチャルな世界があるのではなく、それぞれ一人一人の意識の中で起こっているということ。
これを、人人唯識(にんにんゆいしき)と言います。別の言葉で言うなら、一人一人がそれぞれ別の宇宙(世界)を見ているということです。でもなぜ一人一人が一見同じような共通の世界を見ているのか? なぜ私の世界にもピラミッドがあり、別の人の見ている世界にもピラミッドがあるのか? なぜ私が見ている世界と他の人が見ている世界が同じように見えるのか? 私の世界が地球なら、他の人が見ている世界が、例えば火星や、はたまた天国のような場所であってもいいはずなのに、なぜ他の人も私と同じように地球という世界を見ているのか。
生物にはそれぞれのプラットフォーム(基盤となる環境)があり、人間には人間のプラットフォームがあって、それがそれぞれの阿頼耶識にあるため、同じ情報を持っているのだといいます。猫の世界やライオンの世界にはまたそれぞれ共通のプラットフォームがあって、猫同士で共通の世界を見ているのだといいます。
人間に生まれた場合、同じ世界の情報を阿頼耶識にもっているため、同じ世界をそれぞれの意識の中で見ることになります。それは一見同じものに見えますが、実はそれぞれが別々の世界(宇宙)を見ているということになります。一人一人の宇宙です。
例えていうなら、それぞれの人がヴァーチャルリアリティのゴーグルをつけて、それぞれの世界を見ているような状態です。そして、そのヴァーチャルリアリティの世界の外には何も存在しないというのです。
私たちは、共通の一つの世界に住み、同じ物を見ていると思っていますが、そうではなく、それぞれの世界で、それぞれの阿頼耶識からやってくる世界を見ているということになります。
例えば、三人で一本の木を見ているとします。常識的に考えると、三人の心の外に実在する一本の木を、三人で見ているのだと考えます。しかし、人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、三人が共通の一本の木を見ているのではなく、それぞれ各人の世界(意識)の中で映像としての別々の木を見ているということになります。
その木はどこからやってきたのかというと、三人それぞれの阿頼耶識にある情報からやってきたものであり、一見、同じ一本の木を見ているように見えますが、そうではなく、それぞれがそれぞれの世界の中の木を見ていることになります。ここで一つの疑問がわいてきます。
その木はそれぞれの人の意識の中にあって、その意識の外には実体的な木は存在しないというなら、たとえば誰かが、その木を切ったら、それはその人の意識の中にある木を切っただけで、他の人の意識の中にある木を切ることにはならないのではないか。他の人の見ている木は残っているはずなのに、実際には一人が木を切れば、他の人が見ている木も切られてしまう。これをどう解釈したらよいのか。
これを唯識では、増上縁(ぞうじょうえん)という概念で説明します。増上縁があるために、ある人の行為が縁となって、他の人の世界に影響を及ぼすというのです。
参考文献
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
唯識十章
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)