中野孝次が読書について書いたエッセイ集。清貧の思想以来、中野孝次の本を飽きもせず読んでいる。この本には彼が今までにどんな本を読んできたのかということが書いてある。
中野孝次が勧めているのは古典が中心。特に印象に残ったものだけ書いておきます。
「パルムの僧院」スタンダール
「スタンダール」アラン・大岡昇平
「坊ちゃん」漱石
「源氏物語」
「バルザック」アラン
「方丈記」
「パルムの僧院」スタンダール
「スタンダール」アラン・大岡昇平
「坊ちゃん」漱石
「源氏物語」
「バルザック」アラン
「方丈記」
「徒然草」
「平家物語」
「平家物語」
「愚管抄」
「吾妻鏡」
「更科日記」
日本の古典に関しては原典を読んでいる。私も読んでみたいけど、原典は読めない。中野さんは最初からスラスラと読めたかというと、そうではないらしい。解説書を読みながら、少しずつ理解して全部が読めるようになって、そのあと何回も読んだという。私などはYouTubeで見てしまうのだけれど、古典は原典で読まないと良さがわからないのだそうだ。
「正法眼蔵」などの仏教関連になると、道元が作った言葉がたくさん出てくるので、解説なくしては読めないのだという。古典が読めるようになりたいという思いはあるが、戦前の学者が書いたものでもお手上げの私の場合、ちょっと手が出ない。
本物の生き方―人間の真実の生とは何か 中野孝次
中野孝次のエッセイ集。中野さんのエッセイに流れている中心思想は、「清貧の思想」と同じ。金や地位を追うのではなく、人として恥ない生き方をするということ。そういう一生を生きた人たちにまつわるエッセイ。
書に関して書いてあるところでは、熊谷守一と中川一政の書がお気に入りだとあった。二人とも画家なので、絵の方は知っているが書の方は良く知らなかった。ネットで二人の書を検索してみて驚いた。
中野孝次さんは、美術や芸術を鑑賞する場合には、自分の中にある審美眼だけを基準として、人の言うことは全く気にしないという。それってものすごく大事だと思う。
調べてみると、熊谷守一も「欲望を追及しない生き方」をした人だとわかった。暖かくなったら、熊谷守一の絵や書を見に行きたい。
岡潔の名前を初めて知ったのは、佐々木閑先生のYouTubeの中です。社会的な地位や金を追及しない人の話の中で出てきたと記憶しています。そしてアバタローの岡潔を見て、ぜひ本を読みたいと思って読みました。
これは岡潔が毎日新聞に書いたエッセイが中心になっているようです。初版は1963年。岡潔は数学の学者ですが、教育で一番大切なことは情緒を養うことだと言っています。情緒を育てるためには、人の気持ちを考えること、人を助けること、そういったことを親や社会が教えること。
この本が書かれたのは60年前で、敗戦から日本が立ち直って高度経済成長の真っただ中のころです。このエッセイでは、戦前の教育を受けた人なら誰もが知っているような神話の話や天皇、論語、仏教の話が引き合いに出されますが、私にはピンとこないような話が多かったです。
戦前の日本の教育では、神話、古事記、日本書紀、論語、天皇、仏教といったことを親や周りの人が子供に教えたと思うのですが、戦後の教育では、そうしたことを教えるのが一種のタブーになっていて、子供をどう教育したらいいのかわからなくなってきているような気がします。
1962年に起きた三河島惨事(死者160人を出した鉄道事故)を引き合いに出して、それは教育上の問題であると言ってみえます。この事故は、脱線の事故処理を手間取る間に、電車から降りて歩いていた乗客を別の列車がはねて、多数の死傷者を出した事故です。
自分の頭でどうしたらよいかを考えるような教育がなされていないのが原因、自分の頭で考えないような教育がなされている、その一因としては、テレビ、雑誌、映画の影響が大きく、そういったものに感情を支配される結果、知覚作用が働かなくなっていると、言ってみえます。(p112)
今から60年前に書かれたことです。前回の東京オリンピックが1964年ですから、テレビもそれほど普及していない頃に書かれたものです。それが60年後の今はどうでしょうか。人々は携帯で映画やテレビを見ている時代です。
状況は当時と比べてどうでしょうか? 人々の意識は当時の何倍も情緒から遠いものになっているような気がします。人々は必要以上に金を求め、テレビ、雑誌、映画どころではなく、四六時中携帯をのぞき込んでいます。
人が困っていても、助けようとはせず、SNSで見せびらかし競争に明け暮れています。これは人のことは言えない。岡潔のエッセイを読んで、情緒とは何なのか考えさせられました。ネットに費やす時間を大いに減らそうと思う今日この頃です。