釈尊の説いた教えは、自我を含めて対象への執着を離れよ、ということでした。自我への執着がむなしいことを示すために、五蘊無我説(ごうんむがせつ:個体を構成する五つの要素の上に我(私)は仮に有るとみなされているだけで、本当には存在しない)が説かれました。
釈尊が亡くなって百年ほどたつと、教団が分裂して部派仏教がおこります。そのなかでも有力だったのが説一切有部(せついっさいうぶ)でした。説一切有部は、我(が)は空(くう)であるが、法(ほう)は有るという教えをとなえました。我とは「私」のことで、法とは、構成要素としての物のことです。
部派仏教が経典の研究に明け暮れ、民衆と遊離していく一方で、人間は誰でも釈尊のような仏になることができるという大乗仏教が現れます。大乗仏教として、まず最初に「般若経」にもとづく、空(くう)の思想が起こります。
続いて、ナーガルジュナ(龍樹)に代表される中観派(ちゅうがんは)が起こり、もう一つ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)が起こります。唯識派は正式には唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)もしくは瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)と呼ばれます。
瑜伽(ゆが)とはサンスクリット語でヨーガの意味であり、ヨーガ、すなわち瞑想によって真理を体得しようとするもので、唯識(ゆいしき)とは、ただ識(しき:こころ、意識)のみがあるという意味です。
中観派も唯識派も、どちらも空を説き、我も法も空であると説きましたが、唯識派は、とりあえず識(こころ)だけはあるという教えです。中観派は、言葉の誤謬や縁起によって空を説きましたが、唯識派はまた別のやり方で空を説きました。
般若の空の思想では、空があまりに強調され、ともすれば虚無主義におちいる可能性がありました。そのため、ヨーガを実践する人たちによって、少なくとも識(こころ)はあるという思想を起こしたのが瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきは)です。瑜伽行とはヨーガのこと。彼らはヨーガを実践することによって、心の奥深くに私たちが通常は気がつかない意識があるということを発見し、新しい思想を打ち立てました。
唯識思想では、般若の空思想が否定した部派仏教の諸概念を再び採り入れ、それをさらに発展させて独自の思想を形成し、五世紀頃、無著(むじゃく)と世親(せしん)によって体系化されました。
無著と世親は、インドの人で、インド名では無著はアサンガ、世親はヴァスバンドゥで、二人は実の兄弟です。二人とも、ガンダーラ(現在のパキスタンのペシャワール)の出身。その地方で有力だった部派は説一切有部であったため、二人とも最初は説一切有部で部派仏教を学びましたが、あとになって二人とも唯識派に転向します。世親はこのブログの部派仏教のところで書いた阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)の著者でもあります。
無著の代表作は「摂大乗論:しょうだいじょうろん」であり、この書によって唯識説がほぼ組織的にまとめあげられました。世親はこれを受けて、「唯識二十論:ゆいしきにじゅうろん」、「唯識三十頌:ゆいしきさんじゅうじゅ」を書きました。
唯識を理解するためには、無著、世親の書いた原典を読まないといけないのですが、私は漢文もサンスクリット語も読めないので、学者が書いた市販の本を読むしかありません。学術書を読むのは難しく、一般向けに書かれたものだけが対象となりますが、そうした本はそほど多くありません。私が読んだ唯識関係の本は入門書であり、参考文献として掲載したものがすべてです。そうした本をもとにしてこのブログを書いています。
それも、唯識の世界観や思想に関する部分のみであり、修行やヨーガの実践によって段階的に達成する方法については書きません。なぜかというと、それはこのブログの趣旨ではないからです。唯識三年俱舎八年を、入門書を何冊か読んだだけで理解するのは無理な話で、唯識や俱舎の内容の全体を理解しているわけではなく、あくまでも非二元的な部分についてのみです。
インドでは、イスラム国家の成立により、仏教そのものが消滅してしまいますが、唯識の教えは玄奘(げんじょう)などの三蔵法師(三蔵法師とは仏教を中国へ伝えた人々のこと)によって中国へ伝えられ、玄奘の弟子が法相宗を起こします。しかし、中国での唯識も、百年もしないうちに事実上消滅します。
日本へは、玄奘から直接唯識を学んだ遣唐使たちによってもたらされ、奈良時代には、興福寺、薬師寺、元興寺、法隆寺などで、さかんに研究されました。今日でも興福寺、薬師寺は法相宗の大本山となっています。そして、日本に伝えられた唯識思想は、仏教の基本学として宗派を超えて脈々と学ばれ続け、現在に至っています。
さて、唯識とは、読んで字のごとく、「ただ識のみ」ということです。それは、私たちがふつうあると思っている「私」や物は無い、ただ識(心)のみがあるということです。
仏教は、インド古来の思想である梵我一如の思想、つまり、ブラフマン(宇宙の本体)とアートマン(自己の本体)が一つであるという思想を明確に否定し、アートマンなどない、「私」などいない、無我であると主張して登場しました。
大乗仏教では、主体的存在(我)も、客体的存在(法)も、一切、空であると説きます。つまり一切の実体を認めません。唯識では、我、法の実体を否定して、唯だ識のみ、と主張します。
私たちは、ふつう、自分のまわりに、変わらない存在としての「物」があると思っています。(このブログを読んでいただいている方の多くは、物も「私」も実在ではないということはもうすでに理解されていると思いますが、唯識の思想を説明するために、一般論として書きますので、そのつもりで読んでください)
身のまわりを見渡すと、コップ、机、椅子など、壊れないかぎり、ずっとそこにある物にとり囲まれていて、変わらない「物」があると漠然と考えています。一方で、生まれてからずっと、変わらずに「私」がいると思っています。
体は成長とともに変化していきますが、どこかに変わらない私、魂のようなものが存在していると信じています。そこには、不変、不滅の実体がいると思っていて、それにしがみついています。
私たちは、そうした「私」や物が実体のあるものであると考え、それに執着し、たくさんの物や、より良い「私」を手に入れようとします。唯識では、そのような「私」も、物もない、あるのは、ただ識だけだと主張します。その識も、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであり、言うならば、空なるものとしての識だというのです。
釈尊のもともとの教えは、「私」や物に対する執着、煩悩を断つということでした。「スッタニパータ」に出てくるように、煩悩の激流を渡れ、ということでした。
物に執着していると、物を求めて物に振り回されて生きることになります。物を手に入れることに一喜一憂し、心が物にとれつかれて、平穏な心が失われます。「私」に執着すれば、同じように、他人より優れた「私」を手にいれようとして、葛藤の日々を送ることになります。
実体としての「私」や物に対する執着を捨てるということは、そうした執着によって失われた自由を回復するということです。それが仏教の目的であり、唯識の目的でもあります。
繰り返しになりますが、仏教では、「私」のことを我(が)と言い、物のことを法(ほう)と言います。この場合の法とは、構成要素として物質という意味です。そして、「私」に対する執着を我執(がしゅう)と言い、法に対する執着を法執(ほっしゅう)と言います。
唯識では、我も法も本来、存在しないということを示して、我執・法執からの解放を説きます。実体としての我、法は存在せず、唯だ識だけがあると教えるのが唯識です。
参考サイト
心の時代へようこそ
「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」「唯識の思想」の著者である立教大学名誉教授 横山紘一先生が、NHKのこころの時代という番組に出演された時の書き起こしがあるサイトです。少し長いので読むのは大変ですが、参考にはなります。766回から771回までの6回のシリーズになっています。
参考文献
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
唯識十章
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)