2021/12/29

正岡子規 言葉と生きる・笑う子規 (ちくま文庫)・ホトトギス俳句季題辞典・角川学芸ブックス 新版 20週俳句入門・エピクロス―教説と手紙

正岡子規 言葉と生きる (岩波新書)

正岡子規の評伝。少年時代から亡くなるまでを、子規が折々に書いた文章を最初に置いて、それにまつわる話を中心に書いてある。

小学生から中学生の頃の子規は、貸本屋から本を借りて筆写するのが趣味だったそうです。筆写は生涯にわたって続けられ、ものすごい量を筆写しています。でも、もっと驚いたのは、子規と同郷の南方熊楠の話。

熊楠も本が好きだったが、なかなか買ってもらえず、友人の家へ行っては本を見せてもらい、それを暗記して帰って家で半紙に筆写して、自分で何冊も本を作る話が出てきます。熊楠は3年かけて江戸時代の百科事典「和漢三才図会」全105冊を絵入りで筆写してしまったそうです。

そればかりでなく、中国の植物学辞典「本草網目」52巻、古本屋から借りた太平記50冊などなども筆写したそうです。そんなことを8、9歳の頃からやっていたそうです。子規よりも、熊楠の話に驚きました。

子規はまだ学生だった22歳の時に結核を発病します。当時は抗生物質などまだない時代でしから、ずっと病気をかかえながら34歳まで生きるわけですが、それでも新聞社に入り、精力的に俳句や文芸作品を生んでいきます。

読んでいてどうもよくわからなかったのは、結核なのに毎日たくさんの人が家にやって来るし、結構病状が悪化するまで自宅でいくつかの句会を毎月主催していて大勢の人がやってきています。私だったら恐ろしくて近寄れないと思いますが。

子規は交友関係が広く、その中には夏目漱石がいて、弟子には碧梧桐や虚子もいます。「坂の上雲」では秋山真之との交友関係も描かれていました。人気があったということでしょうね。

子規は病床で起き上がれなくなっても原稿を書いたり俳句を読んだりと、短い生涯を目いっぱい生きたようです。ますます子規に興味が湧いたので、また別の評伝を読んでみようと思います。

なぜ子規の評伝を読もうと思ったのかというと、私は毎朝ペン習字の手本を1ページだけ筆写することにしていて、その中に子規の「六月をきれいな風の吹くことよ」という句がある。それがいつも気になって、どんな時に詠んだ句なのだろうと思って読むことにしました。

この句は子規27歳、日清戦争から帰って須磨の保養所で病気療養中に作ったものでした。

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笑う子規 (ちくま文庫)

この本は子規の句集。子規は生涯で24000ほどの俳句を読んだそうですが、その中から、笑える句を選んだもの。でも、個人的にはそんなに笑えなかった。いくつか挙げておきます。

内のチュマが隣のタマを待つ夜かな(チョマもタマも猫)

行水や美人住めける裏長屋

金持ちは涼しき家に住みにけり

睾丸をのせて重たき団扇哉(うちわなり)

睾丸の大きな人の昼寝かな

押しかけて余所(よそ)でめしくう秋のくれ

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

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ホトトギス俳句季題辞典

初心者向けの歳時記(季語集)はないかと丸善であれこれ見て買いました。他の歳時記はどれもアカデミックで難しいし、厚い。コンパクトで辞典のように使えるものはないかと検討してこれに決めました。5700語収録。

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俳句を詠めるようになりたいと思って購入。プレバトは見ていないのですが、何か入門書はないかと、YouTubeで夏井先生のサイトで調べたところ、この本を推薦してみえたので、これにしました。とりあえず一通り読んだので、これから20週かけてじっくりと練習するつもり。

この本では、四つの型を覚えることによって、とりあえず俳句が詠めるようになるという。そんなに必死で俳句をやろうとは思っていないけど、どうせやるなら上手な方がいいかと。

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エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロスは紀元前4世紀ごろのギリシャの哲学者。快楽主義を唱えた人です。快楽といっても、みだらな行為にふけるとか、大酒飲んで放蕩するということではありません。エピクロスの言う快楽とは、衣食住が足りて健康という意味。

贅沢なものを食べるということではなく、普通の食事がちゃんととれること。そして体に痛いかゆいがなく健康であることが快楽。
エピクロスの哲学についてはYouTubeのアバタローで見てもらったほうがわかりやすいと思います。

この本の構成は以下の通り。
(目次)
・ヘロドトス宛の手紙:原子論
・ピュクレス宛の手紙:自然観察法
・メノイケウス宛の手紙:哲学
・主要教説
・断片
・エピクロスの生涯と教説

原子論や自然観察法は、二千年以上前のものなので、今読んでもあんまり意味がない。エピクロスの生涯と教説もあまり参考にはならず、主要教説とメノイケウス宛の手紙だけ読めば十分というような構成になっています。

読んでいて思ったのは、言っていることは徒然草と同じじゃないかということ。健康で衣食住足りていれば、それ以上多くを望むのは贅沢というもの。シンプルに生きよということだと思います。
死について書いているところで、ものすごく感銘を受けた一節があるので、転載させていただきます。

p67より

 また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識は、この可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。

なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。それゆえに、死は恐ろしいと言い、死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいものである、と言う人は、愚かである。

なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。

なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。以上引用おわり。

最後の、「われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。」というところがいいですね。

要するに、生きている私たちにとっての死は勝手な想像であり、死んだあとは想像する人もいないのだから、いずれにしても死はない、と言っていると思います。U.G.クリシュナムルティも、「どうして自分が生きているとわかるのか?」と言っていたように、死なんてない。
もう一つ載せておきます

p100より

 すべての欲望にたいし、つぎの質問を提起すべきである、すなわち、その欲望によって求められている目的がもし達成されたならば、どういうことがわたしに起きるであろうか、また、もし達成されなかったならば、どういうことが起きるであろうかと。