中村元先生は、その著書、龍樹 (講談社学術文庫) 中で、中論の中心思想は縁起(えんぎ)であると書いてみえます。p160から引用させていただきます。
縁起を説く帰敬序
さらに『中論』自体について検討してみよう。
ナーガルジュナは『中論』の冒頭において次のようにいう。
「不滅・不生・不断・不常・不一義・不意義・不来・不出であり、戯論(けろん)が寂滅(寂滅)して吉祥(きちじょう)である縁起を説いた正覚者(しょうがくしゃ)を、諸(もろもろ)の説法者の中で最も勝れた人として稽首(けいしゅ)する」
とあり、この冒頭の立言(帰敬序:きけいじょ)が『中論』全体の要旨である。
右の詩の趣旨を解説しつつ翻訳すると、次のようになる。
「(宇宙においては)何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうごう)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることなく、何ものも[われらに向かって]来ることもなく、[われらから]去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」
ではその縁起とは何でしょうか。縁起説にもいろいろありますが、小乗仏教(部派仏教)の説く縁起の一つに十二縁起(十二因縁)があります。それは時間的な流れに関係する縁起であり、人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということを考察したものです。
十二因縁(十二紙支縁起)
十二因縁は十二支縁起のことであり、初期仏教のところで書いたので、ここでは簡単にまとめておきます。
十二因縁は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二です。最初に無明があります。私たちの根本には無明、無知がある。無知ゆえに識を形成する働き、行ができる。そのために識、意識の識別作用が現れる。それにもとづき、主観と客観の対立ができる。それにもとづいて対象に働きかける「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六つの働く場(六所)が考えられる。それがあるために、接触、触が起きる。接触のゆえに受、感受作用が起こる。それによって盲目的、衝動的な妄執の愛が起きる。愛ゆえに執着の取がおこる。それにもとづいて有、生存が起こる。そして生まれ、老いて死ぬ。これが原始仏教の説く十二縁起です。(参考:ブッダの生涯 6(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ))
仏教は我(が、アートマン)の存在を認めません。でも、無明(無知)ゆえに自身があるように錯覚し、輪廻するように見える。刹那滅という視点に立つならば、輪廻する主体は実在ではないのですが、それでも輪廻する主体は何なのかという矛盾をかかえることになります。
大乗仏教(ナーガルジュナ)の説く縁起
初期の縁起思想がさらに発展して、一般にもろもろの事物が成立する相互の関係を縁起と呼ぶようになりました。縁起というのは、他のものとの関係が縁となって起きること。つまり、すべての現象は無数の原因や条件が相互に関係しあって成立しているということです。
それを、相依性(そうえしょう:相互依存)の縁起といいます。互いに依存して存在しているのであり、独立した主体としてのものは存在しないということです。
たとえば、行為は行為する主体がなければ存在しない。私は私以外がなければ存在しない。有は無がなければ存在しない。あらゆるものごとは、相互に依存して成り立っていて、どちらかが欠けると成り立たなくなります。
セイラーボブの言葉でいうなら、「あなたの体から水を取り除いてみてください。あなたの体を空間の外に出してみてください。できますか?」です。体は、体単体で存在しているわけではなく、いろんなものに依存して存在しています。空間、水、熱、ありとあらゆるものに依存しています。そうした関係がなかったら、体は存在することができません。
また、別のボブの表現で言うなら、「主体がいなければ客体もない」「見るものがいなければ、見られるものもいない」。そして、セイラー・ボブがよく例に出す、「昼の後には夜が来る」「潮が満ち、潮が引く」など、自然は相反するペアの間で移動するというのも、一種の縁起の思想です。
また、これは中村元先生が YouTubeで語ってみえたことですが、私という個人存在を考えた場合、父がいて母がいる。祖父がいて祖母がいる。そうやって先祖を、たとえば何万年もたどっていくと、おびただしい数の人がかかわっていて、その中の誰かひとりでも欠けると自分は存在しない。自己というのはそれほどかけがえのないものだというようなことを語ってみえました。これも一種の縁起だと思います。
そう考えていくと、たとえば地球の裏側にいる誰かと自分が無縁の存在だとは言えない。それなら、動物とは、小さな虫一匹とはどうだろう。そして、海、山、世界、宇宙と自分との関係においても、同じことが言えるのではないでしょうか。すべては互いに依存していると言えるのではないでしょうか。ちょっと飛躍させると、万物は一つのものなのではないでしょうか。
ちょっと飛躍しすぎたので、縁起の話にもどります。
なぜ、この縁起の思想が重要であるかというと、縁起ゆえに空だからです。般若心経でいうところの、「色即是空」の色(しき:もの)は、そのもの単体では存在することができず、自性(じしょう)がない。だから空だというのです。
空(くう)という場合、何も物がないから空だと考えがちですが、ここでいう空とは、物がないから空なのではなく、自性がない、実在ではないから空だというのです。物は互いに関係しあって存在するから、それぞれが別々のものではなく、一体のものである。何一つ単体で存在するものはない。だから空だというのです。
また、セイラーボブはこうも言います。「実在という言葉の意味は何ですか? 辞書で調べてみてください。実在とは永遠に変化しないもののことです。永遠に変化しないものが、この世界にありますか?」
永遠に変化しないものなどありません。だから空なのです。
セイラーボブの家の居間の椅子をセイラーボブが指さして、「それは何ですか?」と尋ねた時、私はなぜその椅子が実在ではないのかわかりませんでした。でも今はなぜそれが実在ではないのかはっきりわかります。この世界に実在のもの、自性のあるものは存在しません。すべてが空なのです。
参考サイト
縁起(Wikipedia)
十二因縁(Wkipedia)
輪廻(Wikipedia)
中観派(Wikipedia)
参考文献
龍樹 (講談社学術文庫)
インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)
空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏教入門 (岩波新書)