2021/12/22

幸福の原理・人生の短さについて・読書について

幸福の原理―「無い」ことのゆたかさを見つめ直す15章 中野孝次
中野孝次のエッセー集

本の帯より
空(から)だから充実するということ。物のゆたかさだけでは心は満たされない! 「からっぽ」「空腹」「無為」「捨てること「闇」「沈黙」など、<無いこと><からであること>に新たな価値を見い出し、真に落ち着きと安らぎのある暮らしとは何かを問う21世紀の幸福論!!

無に近く、つねに無を意識しているからこそ、なんでもない一日一日の生が輝くのである。もうじき死ぬと考えているから、今年の花が、これを見るは今年限りかと、特別にありがたく眺められる。/人生が無限につづくように思っていた若い時分にはなかった、そういう一刻一日をありがたい贈り物のように感じる心持ちが、老年の日々を充実させるのだといえる。無が有を輝かせるのである。闇が光をありがたいものにするのである。

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この本は20年前に出版された本ですが、その中で著者は、最近のテレビは食い物のことばかりやっていて、おもしろくないからほとんど見ないと書いている。

あれから20年たって、その傾向はもっとひどくなってきている。私はこの本を読む以前からそう感じていて、最近のテレビは食い物のことばかりやっていておもしろくないと思い、ほとんど見なくなった。

私が不満なのは、なぜテレビのこちら側にいる私が食べることができないものを、これみよがしに放送するのかということ。私は基本的には自分で作ったものが一番おいしいと思っている。好きな材料で好きな味付けで好きな温度で食べるのが一番だと思っていて、人の食べているものにはあんまり興味がない。それなのにテレビは毎日のように食い物番組を垂れ流す。

あ、本の内容とかけ離れてきました。この本は老師やマイスター・エックハルトなどが引用してあって、本当の幸せは物への執着にはないということが書いてあります。
紹介のため、本からちょっと引用させてもらいます。

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土をこねてひとつの器を作る
中がくりぬかれて うつろになっている
うつろな部分があってはじめて
器は役に立つ
中までつまっていたら なんのつかい道もない
家の部屋というものは当たりまえのことだが
なかに空間があるから有用なのであり
そこがぎっしり詰まっていたら使いものにならない
その空間 その空虚が その部屋の有用性なのだ
我々が役立つと思っているものの内側に
空(から)のスペースがあり
この何もない虚のスペースが本当の有用さなのだ
                     「伊那谷の老子」加島祥造の中の老子の言葉

物でも知識でも、名声でも、何でも、とにかく欲しがる心をすべて捨て去って、何もいらぬという心ばかりひっさげて、自分のためには何一つ用意することなく、ただ無役無用の者になりきって、わが一生を終えよういう志を立てられるがよい。悟りを得て仏になって何になろう、仏道を達成して何になろうと思われるがよい。とにかく、私の欲する心は、すべてもたぬことが肝心です。           「明恵上人の言葉」

幸せが、生活の快適さに拠るのであれば、中世に生きた私たちの先祖は現代人よりも不幸であったと信じられよう。だが、もし幸せが、生と対峙する態度に拠るのであれば、超俗的な信念を持っていたその時代の人びとは、現代人以上に幸福感、控え目にみても内的な安らぎと心の安定に接していたと考えることができるのである。「中世ヨーロッパの生活」ドークール

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人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)
古代ローマの哲学者、セネカが書いたもの。
内容としては、次の三篇が一冊の本に入っている。
・人生の短さについて
・母ヘルウィアへのなぐさめ
・心の安定について

セネカってどんな人?

・人生の短さについて
これは、セネカがパウリヌスという人にあてて書いたもの。パウリヌスは穀物管理の役人として働いている。セネカは、パウリヌスに対して、人生で本当に大切なことは何かを考えて、今すぐ自分のすべきことをやるようにと諭します。「すべての時間を自分のためにだけ使え」「毎日を人生最後の日のように生きよう」
p66から
「真の閑暇は、過去の鉄人に学び、英知を求める生活の中にある。すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。」(閑暇:仕事から解放されていること)
p71
「われわれは、よくこう言うーわれわれは、だれを自分の親にするかを選べなかった。親は偶然によって与えられたものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望みどおりの親の子として生まれることも許されのだ。きわめて貴な天才たちには、[学派という]それぞれの家がある。どの家の子になりたいか選びなさい。あなたは、たんに家の名だけではなく、財産も受け継ぐことになるだろう」

これは何を言っているかというと、いにしえの賢人から学びなさいということです。

・母ヘルウィアへのなぐさめ
セネカは8年間、コルシカ島へ島流しにあいます。そこから、母ヘルウィアあてて自分はちっとも不幸ではない、安心してくださいと手紙を書きます。さらに、元気に生きるためには学問をするとよいと言って、学ぶことを勧めます。これはまあ、住めば都と言っているわけですが、結構考えさせられるものがあって、はたから見て不幸に見えても、当時者はそうでもないということは結構あるのではないかと思いました。
それと、学ぶことを喜びとすることの大切さ。人は老年になると無為に過ごしてしまうもの。でももし学ぶ喜びに目覚めたなら、老後でも時間が足りない。私も大いに学んでいこうと思っています。

・心の安定について
ここでは、なるべく質素な生活をしよう、自分の手足を使おう、なんて、鴨長明と同じようなことを言っています。

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読書について (光文社古典新訳文庫)
ショーペンハウアー著


内容は三篇のエッセー
・自分の頭で考える
・著述と文体について
・読書について

・自分の頭で考える
読書は人の頭で考えることであり、めったやたらと多読をすると、くだらない人の思想で汚染されてしまうので、多読をするのではなく、良いものを少し読んで、自分の頭で考えることが大切であると言っています。なんか、身につまされました。

・著述と文体について
書くテーマをしっかり持っている人だけがちゃんとした文章を書ける。稼ぐために書いているやつはけしからんと言っています。できるだけ原著を読むべきであり、その解説本や提灯持ちの書いた本を読むべきではない。また、書き手は読み手が理解できないようなものを書いて煙にまくべきではなく、ちゃんと理解できる言葉で書くべきである。(賛成)

・読書について
自分の頭で考えないで、読書ばかりしていると馬鹿になる。
反芻し、じっくり考えたことだけが栄養になる。
ひっきりなしに次々と本を読み、あとで考えずにいると、せっかく読んだものがしっかり根を下ろさず、ほとんど失われてしまう。
大衆受けする本に手を出すな。悪書を読むな。
偉大な人物について書いたものではなく、偉大な人物が書いたものを読め。
重要な本は続けて二回読め。

まとめると、時代の試練を乗り越えてきた古典を読みなさいということ。特にギリシャ・ローマ時代の古典にはずれがないそうです。

私などは世間が騒ぐ本にすぐに飛びついて洗脳されてばかりいるくちなので、耳の痛い話ばかり。なんたら賞を取った作家のほとんどが数年後には消えていく現実を見れば、やはり古典に親しむ方が有益なのかもしれません。また、精神世界の本も、時代とともにどんどん入れ替わる現実を見ると、本当に時代の試練を越えていく教えは、ほんの一握りだということがわかります。まだセイラー・ボブなの、なんて言われる時がくるのかなぁ。