2022/01/26

死を考える・正岡子規の〈楽しむ力〉・宮尾本平家物語

死を考える 中野孝次 青春出版

著者は、一昔前の人たちの死は身近にあったという。
「死を自宅で迎えなくなって久しい。私の祖父の時代には、人々は自宅で死を迎えたが、今はほとんどの人が死を病院で迎える。そのため、死が人々から隠されてしまい、死というものに対する理解が希薄になった」という。

一昔前の死についての考察に始まり、よりよい死を迎えるためにはどうしたらよいのかと展開していく。現代においては、一日でも長生きすることが良いことだとされているが、そうではなく、より良く生きることこそが、よい死を迎えるためには必要なのだという。

より良く生きるとはどういうことか。それは、今ここを生きること。現代社会を生きる多くの人が、今ここを生きていないという。金、地位、名誉といった、未来のためにあくせく働いて、今を犠牲にして生きているという。

今を生きるためにはどう生きたらよいのか。それは、今になりきること。今になりきるにはどうしたらいいのか。おなじみのセネカ、エピクロスに加え、道元、大拙、盤珪を引用して、今をどう生きるべきかを説いていきます。

そして、「時間や空間は今を生きている人にはない」、なんて、どこかで聞いたようなことが書いてあり、ちょっと驚きました。
「生きているのは今この瞬間であり、そこには昨日も明日も死もありません。それは不生であり、不滅だ」といいます。まったく同じ話しを中野孝次から聞くとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。大拙も同じことを言っています。この本は死についての本ではなく、いかに生きるかの本です。

p96から引用 (「徒然草・吉田兼好」の中野版現代語訳)
 そういうことだ。だから君が死を憎むならば、生を愛するがいい。生きて今あるよろこびを、日々に楽しまないでいてどうしょう。ところが愚かな人は、生きて今あるということの最高の楽しみを忘れて、ご苦労千万にもほかの楽しみを求める。この一番の財を忘れて、わざわざ骨折って他の財をむさぼる。そんなことで心が満たされることのあるはずがないのである。生きているあいだに生を楽しまないでいて、死に臨んで死を恐れるなどと、こんなバカな話はないではないか。大方の人が生を楽しまないのは、心の底から死を恐れていないせいだ。いや、死を恐れないのではない、死が近いということを忘れているからだ。ただし、もしここに自分は生死などということに一切心を労しないという人がいたら、その人は真の悟りを得た人だというべきだろう。 


正岡子規は34歳で亡くなったが、晩年の五年間はほぼ寝たきりだったという。
背中からは膿が出て、毎日一時間かけて妹に包帯を取り換えてもらい、排便も排尿も食事も全部布団の上の生活。

それでも驚くことに、寝たきりのまま新聞の連載を書き、俳句を詠み、絵を描いた。結核からくるカリエスの痛みに苦しみながら、モルヒネを飲みながら生きた。
この本を読むと、子規の闘病生活には微塵も暗さがない。苦しさはある。でも、子規は言っている。

p174
病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない。

寝たきりの部屋で句会を開き、人を集めては和歌を詠み、小説について語り合う。
子規の生き方を読むと、生きるということはどういうことなのか考えさせられる。自分などは曲がりなりにも健康で生きているにもかかわらず、子規のように全力で今ここを生きていないと思い知らされる。

子規は毎日毎日食べたものを記録しているが、病人とは思えないほどの量を毎日食べていた。結核という病気の性格上、精をつけるために食べようとしたのだと思うが、健康な人よりもはるかに食べている。その記録を読むと、痛快ですらある。

病気ということと、生きるということは別個のもののように思えてならない。
子規が死ぬ前の日に詠んだ句。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰意一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき

糸瓜(へちま)の水は結核に効くといわれていて、子規は庭に糸瓜を植えて飲んでいた。
そしてまた子規はこんな言葉を残しています。

禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった。

宮尾本 平家物語 一 青龍之巻 (文春文庫) 一巻~四巻  宮尾登美子

方丈記や徒然草、法然などの本を読むうちに、平安時代のことをもっと知りたいと思うようになり、YouTube で平家物語関連のサイトをあれこれ見た。そして、実際に平家物語を読もうと思い、宮尾登美子の平家物語を読んだ。

おもしろかった~。宮尾本の平家物語は、女性という視点に重きがあって、血のつながりに重点が置かれている。最初のうち、登場人物が多くて、誰が誰だかよくわからなくなり、一度読んだところを読み返したりしていたが、巻末に詳しい系図があるとわかって読むのが楽になった。

その系図は、平家、天皇家、源氏などがあり、複雑にからみあう人間模様がおもしろい。また、宮尾登美子の描く清盛像は、どちらかというと慈悲深い温かい清盛のようで、とても興味深い。一般的に言われている通説とは異なる解釈が随所にある。安徳天皇の最後に関しては、あっと驚く結末が待っている。今度はまた別の人の平家物語を読むつもり。

仏教、方丈記、エピクロス、中野孝次など、「欲望を追わない生き方」の本を読み、その一方で「どっぷりと欲望を追う」平家物語を読む。そして「すべては幻影である」というブログを書いている。そのいずれにも美学がある。そしてそのいずれにも共通の学びがある。