私たちが自分の外側にあると思っている物を認識する場合を考えてみます。
外側の物の姿が、私たちの網膜に像として映ります。その映った像は何らかの信号に変えられ、神経系統経由で脳へと伝達され、脳はその信号を読み取って、脳の中で像を再構成します。
そうなると、外にある物を直接認識しているのではなく、脳が脳の産物を認識しているにすぎないということになります。つまり、心が作り出した像を心が認識しているということになります。心が心を認識している。この認識する働きを仏教では識(しき)と言います。
仏教では、目を単なる感覚器官としてとらえるのではなく、物を見てそれが何であるかを認識する働きがあるものとしてとらえています。物を見るとき、もちろん目で見るのですが、目だけで物を見ることはできません。目には神経系統がつながっていて、そこから脳へ何らかの信号が伝わり、脳がそれを情報として読み取って再現しています。
また、死体に目や神経や脳があるから物を見ることができるかというと、おそらく見ることはできず、何らかの生命としての作用がないと見ることはできません。そうしたことの全体をさして眼識(げんしき)と呼びます。他の感覚器官も同様に、五感はすべて、こころの作用として、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)と呼ばれます。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のことです。
そして、人間には五感の他にもう一つ認識する道具があります。それは思考、意識です。私たちは、五感以外で物を認識することができます。(昨日会ったあの人はきれいだったなぁ)と思ったとたんに、その人の映像が浮かびます。(あのカレーはおいしかったなぁ)と思ったとたんにおいしい味を思い出します。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの識と意識によって、心は物を認識します。唯識より前の仏教では、認識作用としてこの六識を説いていました。以上の六つの識は私たちが容易に自覚できるものであり、いわば表層心と呼ばれるものです。唯識の人たちは、ヨーガ(瞑想)によって表層心を沈め、自己の心の内面深くを見つめることによって、心の深層には表層心とは別の識があるということに気づきました。
それが末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)です。一言で言うと、末那識とは、「私」がいると思っている自我執着心のこと。阿頼耶識とは、宇宙のあらゆるものがそこからやってくる情報倉庫のことです。
八識
・眼識(げんしき)……視覚
・耳識(にしき)………聴覚
・鼻識(びしき)………嗅覚
・舌識(ぜつしき)……味覚
・身識(しんしき)……触覚
・意識(いしき)………思考
ここまでが表層心(六識)
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ここからが深層心
・末那識(まなしき)………自我執着心
・阿頼耶識(あらやしき)……根本心
末那識(まなしき)
私たちはいつも、「私」が実在であると思っています。このブログを読んでみえる人の中には、いや、「私」は実在ではないと理解していると言う人がたくさんいるとは思いますが、それでも「私」はいるように見えます。
私は会社へ行く、私は悲しい、私は不幸だ。私は~である、私が~する、と私を主語にして考え、思い、主張し、争います。その一方で、私の家、私のお金、私の人生というように、あたかもそこに「私」がいて、何かを所有していると思っています。
一般的に、自我意識には先天的な自我意識と後天的な自我意識との二種類があると言われています。私たちは、生まれるとすぐに母親のお乳にしゃぶりついて、お乳を飲み始めます。本能的な自我があり、お乳を飲まないと生きていけないと知っているからです。
単細胞のゾウリムシが唯一やっていることは、自分とエサを見分けて、エサを食べることだそうです。ということは、どんな生き物にも先天的な自我があるということです。
そして、後天的な自我意識とは、生まれてからの環境によって身についたものです。親から名前を呼ばれ、服を着せられることによって、「私」の名前、「私」の服という概念が身に付き、「私」という概念が身についていきます。
そこには、常に単一の主となる存在、「私」がいると思っています。なぜ私たちは、その思いをなかなか捨て去ることができないのでしょうか。これに対して唯識は、深層に末那識(まなしき)という自我執着心が働いているからだと主張します。
この末那識は深層で働く心であり、眠っている時も働いています。いつもいつも、意識しないのに自我に執着する心があるということです。その「私」や、外の世界にある「物」はどこからやってくるのかというと、阿頼耶識からやってきます。
阿頼耶識(あらやしき)
アラヤシキのアラはサンスクリット語のアーラヤからきていて、蔵・倉庫という意味です。その蔵の中に、私たちが体験する一切が情報として蓄えられています。自分の体、物、山や川などの自然、太陽や月、宇宙。さらには視覚や感触の五感、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、意識、末那識、これらすべてが阿頼耶識にあります。当然、迷いや悟りもそこにあります。
また、私たちの日々の行いもそこに記録されます。その行いは因果の法則によって、やがては結果となって表れてきます。悪い行いが阿頼耶識に記録されないよう、日々正しい行いをしなくてはいけないという教えでもあります。
人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、一人一人の世界なのですが、その世界の中にあるすべてが阿頼耶識からやってきた世界です。逆の言い方をするなら、一人一人はそれぞれの阿頼耶識の中にいるということになります。体も環境も宇宙も、その阿頼耶識の中にあります。ただし、その世界は、前回のブログで書いたように、増上縁(ぞうじょうえん)によって、他の人の世界の影響を受けます。
唯識派がなぜ阿頼耶識というものを主張しはじめたかというと、それは輪廻思想と関係があります。仏教以前のインド社会はバラモン教であり、バラモン教では我(が:アートマン:私)の存在を認め、それが輪廻すると考えていました。そのため、人々は輪廻するのが当然であると信じていました。
ところが釈尊はそのような我、自分というものはないという無我説を主張して登場しました。私たちの体や心を観察しても、そのような我(私)は発見できません。肉体は日々変化し最後には消えていきます。心やまわりの世界も実体がなく、やがては消えていきます。諸行無常、諸法無我です。
では、我がないとしたら、何が輪廻の主体となるのか。輪廻していくものは何なのか。原始仏教では業(ごう)の相続体が輪廻の主体であると考えました。業とは行為にことで、サンスクリット語のカルマに由来します。自業自得のあの業です。
釈尊の生きた時代には、自分の行為には何ら報い、果報は存在せず、自分の行為には責任を持つ必要はないという考えがまかり通っていたようです。また、無我、私はいないのなら、何をしてもよいということになると思う人も出てきます。
しかし、釈尊は、自分の行為には責任を持つべきだと教えました。この世は主宰神が操っているのでもなく、運命が決まったているのでもない。何をやっても無意味だというのではなく、行為には必ず果報があるのだから、自己の行為が重要なのだと説きました。それが業の思想であり、その業が輪廻の主体であると人々は考えました。
しかし、業の相続体が輪廻の主体であるということを人々はなかなか納得せず、部派仏教の時代になると、それぞれの部派は様々な輪廻の主体を考えて説きましたがうまくゆかず、最終的に唯識派が、輪廻の主体は阿頼耶識であると主張し、一応の決着にいたりました。
阿頼耶識は、過去の業の結果を貯蔵しています。つまり、過去の業も貯蔵していて、それが未来に結果をもたらすというのです。説一切有部のように、過去と未来は存在するという立場に立てば、行為(業)が私たちの見えないような形で実在していて、それが影響力を行使しると考えることも可能ですが、唯識派では過去も未来も実在しないと主張しました。
あるのは現在だけで、過去と未来は存在しないというのが唯識の基本的な立場です。過去が存在しないということは、行為を行ってもそれは消えて無くなり、無に帰するということになります。それでどうして業として未来に結果を招くのでしょうか。
仏教では刹那滅(せつなめつ)を説きます。あるのは現在だけです。すべての現象は刹那に生じ、刹那に消えていく。では、どうしたら業が未来へと保持されるのでしょうか。もし、ある行為をしたときに、それがなんらかの形に変わって、刹那刹那に現れては消えることができれば、未来へと保持されることになります。
つまり、ある行為をしたときに、その行為が何らかの情報のようなものとなって残り、それが刹那刹那を超えていくことができれば、過去は消えてもさしつかえないわけです。体や意識は消えていくため、体や意識が情報を保持していくとは言えません。そこで、阿頼耶識というものが考えだされました。身体や心が死んだとしても、阿頼耶識が情報を運んでいくと考えたのです。
阿頼耶識も当然刹那滅なのですが、前回消滅した時の情報を保持したまま、また生まれてきます。つまり、輪廻の主体となって、業を運んでいくのです。それによって、そこには輪廻する人や魂のようなものはいないにもかかわらず、業の輪廻を説明することが可能となりました。
阿頼耶識には、自分が過去に行った行為が情報となって記録されています。自分の行いだけではなく、ありとあらゆる情報がそこにはあります。先祖が行ったこと、人類が行ったこと、生きとし生けるあらゆるものが行ったことが情報としてそこにあります。
また、私たちが何か行動すれば、それが情報となって阿頼耶識に保存されます。なぜそのようなことが起きるかということについては説明がありません。
阿頼耶識も末那識も不可知なものです。深層深くにあって、私たちが知ることができないものだというのです。これに関連して、阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p41から抜粋させていただきます。
世親が著した『唯識二十論』は、「外界に事物が実在する」と見る他派からの批判に、一つ一つ反論することによって、「すべては唯だ識のみである」という唯識の根本主張を立証した書ですが、この書の最後の「結び」の頌(じゅ)がたいへん大切なので引用しましょう。
「私は自分の能力に応じて唯識性が成立することを論究してきた。しかし、その唯識性の全体は思推されない」
そしてさらに続きます。
「この唯識であることの全体は、私ごときものによっては思推されることはできない。なぜならば、それは概念的思考の対象ではないからである。ではそのすべては、だれの境界であるか。そこで、仏陀の境界であると説く。実に、その唯識であることの全体は仏陀・世尊たちの境界である。なぜなら、仏陀・世尊たちは、なんらの障害もなく、あらゆるあり方、あらゆる知るべきものを知りつくしているからである」
と、世親は述べているのです。
つまり、「唯識」の全体は仏陀、すなわち覚者となってはじめて真に理解できることであり、世親にも理解できないと言っています。もう、ツッコミどころ満載ですが、こらえてください。どうしてそうなっているのかは説明できんけど、そうなのだと言っています。
私は唯識の本を読んで、「ただ識のみがあるだけ」「心が心を見ている」「阿頼耶識からすべてが現れる」と読んだ時、ひどく感動して、ぜひともブログに書きたいと思いました。なぜかというと、唯識の世界観がセイラーボブの描く世界観にとても似ていたからです。
阿頼耶識という言葉を、知性エネルギーという言葉に置き換えてみてください。その世界観があまりにも似ている。どちらも、私たちが知りえるものではなく、言葉で表すこともできない。そしてすべてはそこから現れる。
参考YouYube『佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」』
このYouTubeは、唯識、阿頼耶識について明解に説明されています。
参考文献
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
唯識十章
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)