2022/12/31

【第6回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第6回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年12月13日(火)

今回も素晴らしい内容でした。これを聞くと、いかに仏教が非二元の教えであるかがわかります。

横田老師の花園大学での般若心経講義はこれが最終回だそうです。全部通して見られる方は以下の索引からどうぞ。
横田南嶺老師のYouTubeの索引

2022/12/30

彼らの本質は依然としてここにあります。この今ある本質と混じり合っています。

2022.5.1ミーティング 35:18から

(オンライン参加者からの、愛する人の死について何か話して欲しいというリクエストに答えて)

ボブ:当然そこには喪失感があります。そしてそう信じているために大きな困難があります。でも、あなたが、何が生まれたのかを調べてみると、あなたは自身の誕生を覚えていません。パターンが姿形となりまたが、それは束の間のものであり、絶えず崩壊して変化しています。あなたはどこから来ましたか? あなたはあの空間、空(から)の空間からやってきました。あなたも他のものすべても要素から姿形となりました。

そしてあなたはどこへ行くのですか? 空(くう)は形です。形は空に他なりません。あなたはその空(くう)へと帰っていきます。パターンが姿形となったものは崩壊していきますが、本当のあなたである生命の本質は依然としてそこにあります。それが生まれ変わるとかいうことはありません。なぜなら、ひとしずくの水が海に帰った時、同じひとしずくの水を海から汲むことはできないからです。でも、それはそれがどのように作用するかについてのよい例えです。

同じような作用の例えとして、曇った日に外に出て、「太陽が空にない」とあなたは言いますが、太陽は空にあるが、雲によって見えなくなっているだけだということを知っています。そして自身に、何が雲を作るのか尋ねて調べてみると、太陽自身が雲を作るとわかります。太陽は雲のことを何も知りません。太陽光が水を蒸発させ、水が蒸発して冷えて雲を作ります。それが太陽を見えなくします。太陽は輝き続け、雲を吹き飛ばすか、あるいは雨となって降らせます。雨はふたたび海へと帰っていきます。そしてあなたは、同じ水滴を海から汲むことはできません。

もっとたくさんの雲が生まれますが、それもまた同じことです。それはいつも一つの本質へと帰っていきます。パターンが姿形となり、遊びまわって消えていきます。その確実性、あるいは認識、理解、なんと呼んでもいいのですが、そのためにあなたはとても愛する人を失って寂しく思うでしょう。しばらくの間はとても悲しむでしょう。でも、わかってください。彼らの本質は依然としてここにあります。この今ある本質と混じり合っています。

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ボブがクリスマスを楽しむ様子

2022/12/29

あなたは一番大切なことを知っています


2022.12.18ミーティング 48:08から

参加者:私に起こっているのは、例えば、外の世界を見ている感覚と、それから遠ざかって過去や未来へ入り込むこと。そして、この瞬間に留まるということを覚えているということです。でも、それもまた観念です。ですから、それをマインドで理解することはできません。マインドができるのはポインターで示すことだけです。それについて話し、考えることです。それはとてもつかみ所のないことです。というのは、私はこの瞬間にいるべきだということに完全に同意していて、そういったことにとらわれたくないのです。

でも、それもまた観念であり、それが例え良いポンターであっても別の層の観念です。あなたはあなたのままで、たぶんそれに背を向けることも、向かっていくこともないでしょう。でも同時にあなたはそれに背を向け、向かっていって、何でもできることをやるでしょう。それはすべて起こっていることです。それが、今私が思うことです。

カット:いいえ、それは素晴らしいことです。あなたは今一番、そして唯一大切なことを言いました。それは唯一マインドが実際に理解することができて、それが理解されれば、そこからすべてがやってくることです。それは、答えはマインドの中にはないということです。非二元の本質、一つの本質、一つの実在は二元的な思考、振動で理解することはできません。静寂、静止、純粋な可能性は、物語の中の言葉で理解することはできません。それが唯一理解できることです。

信念ではなく、理解です。そしてそれが理解されれば、その物語、マインドがあなたに対して、自身のことを「私」と同化して主導権を握っているのですが、それが身を引きます。それは、「ああ、分かった」と言います。どんなに頭が良くても、何年勉強しようと、何年教育を受けていようと、頭でそれを理解することはできないのです。どれほど長く費やそうと、熟考しようと、もつれをほどこうとしようと、そこには答えはありません。なぜならそれは、直接認識するしかないからです。

その直接認識するやり方は、誰でも100%確実な存在の認識です。誰もが、私達は存在する、私は存在する、あなたは存在すると知っています。たとえもしあなたが、「私は知らない」と言ったとしても、あなたが知らないと言うためには、そこにあなたが存在しなくてはいけません。存在を否定することはできません。つまり、これがそれです。これが実際にそれであり、それ以外のすべては、それを不鮮明にしてしまうものです。

すべての物語、すべての観念、すべての考えは、私たちを存在を直接認識することから遠ざけてしまいます。直接認識するためにハートを使ってください。そして、物語のエンタテインメントを脇に置いてください。それはいつもあなたに、もっと良い何かを見つけることを約束し、もしやりとげれば、将来エンライトメントや至福などが手に入るだろうと約束します。そしてそれは皆に平等に常に起こっている直接の認識から私たちを遠ざけてしまうのです。

2022/12/28

それが、あなたが調べなくてはいけないことです

2022.12.25 (クリスマス)ミーティング

ボブ:みなさん、メリークリスマス! 

(この日は初めての参加者が何名かいて、ボブのスピールの途中で何度か質問をしました)

26:03から

ボブ:信念の定義は、調べもしないで理由もなく何かを受け入れことです。私たちはそれを疑うことも調べることなく、ちらっと見て、両親が言ったように、私は何々であると(受け入れるのです)。私はそれであるという信念を受け入れるのです。もし誰かがあなたに、あなたは何かと尋ねると、私はビリー、あるいはジェーンなど、あなたの名前ですと言います。私たちは調べもしませんでした。何かを理由もなく、調べもしないで受け入れました。正しい知識や証明もなく、言われたことを受け入れました。あなたの信念をテストすると、それが事実ではないなら粉々になります。

参加者G:誰が受け入れているのですか? 信念を受け入れたのは誰なのですか?

ボブ:信じられている存在によってです。うわべ上の人によってです。あなたは、そのペルソナ(外的人格、登場人物)が自分だと信じています。

参加者G:それで、それを信じているのは誰なのですか? あなたが信じていると言う時、それは誰のことですか?

ボブ:うわべ上の人のことです。あなたの名前は?

参加者G:ジェラルディーン。

ボブ:ジェラルディーンが信じているのです。人です。

カット:理解できないかもしれませんが、もしあなたが5年前の自分を思い出してみると、あなたは自分が人だと信じていましたか? 自分のことを何だと信じていましたか? おそらくあなたは今完全に明晰であり、それは素晴らしいことです。おかえりなさい。でも、もしあなたが学校へ通っていたときのことを思い出すと、自分のことを誰だと思っていましたか? あなたは自分のことを幼い少女だと思っていました。あるいは、あなたが初めて職場に行ったとき、初めて恋に落ちたとき、あるいは5年前。あなたは自分のことを誰かだと思っていました。というのも、私たちは誰か人であり、通常は、体かマインドであると条件付けられているからです。

そうやって私たちは子供のころから成長しました。私たちは、自分のことを、この対象物(体を指さして)と同一化することを学びました。この対象物はまた信念を受け入れるよう条件付けされていて、サンタクロースを信じて、季節を信じ、国の名前を信じています。あなたはどこから来たか、あなたの名前を信じています。そうしたこともまたすべては、その想像上の存在がそう考えるようになされた条件付けです。そうしてまさにその存在、想像上の存在が信念を受け入れたのです。それがソフトウエアの一部になっているのです。

ボブ:あなたは自分のことを人間だと信じたのです。

ジェーン:すいません、ボブ。あなたは自分のことを人間だと信じているのですか?

ボブ:ええ。

ジェーン:オーケー。そのとおり。

参加者G : 話を聞きながら、私はそうした思考から自身を引き抜こうとしています。でも、誰が……。ええ、誰がそうした思考から自身を引き抜こうとしているのですか? 誰が?

ボブ:それが、あなたが調べなくてはいけないことです。

カット:その質問をしなくてはいけないのは、あなたに対してではありませんか? あなたは、誰が引き抜こうとしているのか答えなくてはいけません。

参加者A:私も同じ疑問を持っていました。

カット:これは重要なことです。というのも、この質問に対して、私達は、あなたたちが自分自身に尋ねるようにと勧めているのですから。

参加者A:もう一つの思考です。

カット:ええ。それは良い答えです。そのもう一つの思考に気づいているのは誰ですか?

参加者A:(カットの問いには答えずに)そして、どうやってそのもう一つの思考から抜け出したらいいのかというのが私の質問です。

カット:ええ。その質問をしているのは誰ですか? 知りたがっているのは誰ですか?

参加者A:そこに誰もいないのはとてもはっきりしています。でも、それでも私はジェラルディーンが言うように、深く同一化しています。

カット:もしそこに誰もいないのなら、誰が同一化しているのですか?

参加者A:私ははっきりと聞くことができます。鳥が歌っていて、そこには聞くことそのものがあり、聞く人はいないということは理解しています。それでも、自分自身に対して抱いているあらゆるネガティブなことと同化しています。どうしてかはわかりませんが、何かが起きるのを待っています。目覚める人は誰もいません。知的にはそれは落ちました。知的にはそこには誰もいないと知っています。なぜなら、調べて瞑想しても、誰も見つからなかったからです。ジェラルディーン、あなたも同じではないですか?

参加者G:私はいまだにそれを知的に理解しようとしています。

カット:それは不可能です。それはできません。それを知的に理解しようとしているのは、ソフトウエアであり、プログラムです。それは起こったことを物語として語っている壊れたレコードなのです。それには、何をしても、何一つ理解する能力はありません。

参加者A : では、どうやって私たちはそのソフトウエアから外へ出たらいいのですか?

カット:私たちにはできません。なぜならそこには誰も・・・

ジェーン:ボブが話そうとしています。

ボブ:私があなたは誰かと尋ねたら、あなたは、「私は(Iam)」と言うのではありませんか? ではその「私はある(I am-ness)」とは何ですか? それは存在していることに気づいている存在の感覚ではありませんか? ということは、実際のあなたは存在の感覚ということになります。体やマインドではありません。存在の感覚がマインドを通して思考の「私は在る」となって現れています。

参加者A:でも、私は依然として、それを思考で理解したいのです。それがわからないのです。

カット:それは不可能です。

ボブ:それは思考のない永遠に新鮮な存在意識、ただそれだけ、他には何もない。思考はないのです。観念はないのです。思考は観念です。思考とは何ですか? 音、言葉、バイブレーションです。バイブレーションとは何ですか? エネルギーの動きです。体も同じです。あなたは、「私の体」と言います。「私のコート」「私の家」と言うのと同じです。あなたは、あなたがコートではないと知っていますね。

参加者A:単なるエネルギーです。

ボブ:ええ、エネルギーです。アインシュタインは、「そこにあるすべてはエネルギーだ」と言うでしょう

カット:エネルギーが何かを理解できますか? 例えば、それには脳がありますか? もし、その考え、思考が非二元を理解するはずだというなら、その思考が理解するにはどんな方法がありますか? 思考は音、バイブレーションに過ぎません。それには脳がありません。それは何も理解することができません。思考は音です。雷鳴の音が、あなたが探している方法で理解できますか? できません。

参加者A:ええ、その通りです。ではそれを理解したがっているのは誰なのですか?

ジュリア:それが、あなたが自身に尋ねるようにとここで勧められている質問です。(32:53)

(この後も質問者は理解することができず、似たような問答が続きました)

2022/12/27

私たちは催眠術にかけられています

私たちは催眠術をかけられ、自分はこの「私」、一個の分離した存在、個人だと信じ込んでいます。名前や性別、国籍などすべては、何度も何度も強化され、繰り返しによって学習させられました。それが一夜にして消えることはありません。それを見破ることは即座にできますが、古い習慣のパターンは何度も何度もやってきます。というもの、パターンは繰り返しだからです。学習したことの解消も同じように、繰り返し認識することによって行われるはずです。

                                    セイラーボブ

2022/12/26

理解が起きる時

私の場合、セイラーボブの言っていることを心の底から確信を持って理解できるまでに随分と時間がかかりました。言っていることの意味が分からなかったわけではありません。説明の内容も理解していました。でも、それが本当のことだとは思えませんでした。

「行為者の不在」「時間の不存在」「何も起こっていない」「あなたは体でもマインドでもない」「あなたは意識(アウエアネス)である」「過去も未来も存在しない」「あなたは実在ではない」。こういった言葉を真実だと理解するのに随分と時間がかかりました。確信が持てなかったのです。

でも、ギルバートが言った、「アウエアネスとは、あなたの普通の意識のことだ」の一言がきっかけとなって、一気に理解が起こりました。でも、同じことをセイラーボブは『ただそれだけ』の中で何度も似たような表現で説いています。でも、何度読んでもそれが私の意識のことだとわかりませんでした。先入観と言ってしまえばそれまでですが、何か特別な意識があって、それを何かのきっかけで獲得するのだと勝手に思っていました。

このことについても、セイラーボブは、何度も何度も「手に入れるものは何もない」と説いていたにもかかわらず、それをちゃんと理解することができませんでした。言葉の意味の理解ではなく、それが本当だと確信できるのは、ふとしたきっかけなのではないかと思います。

例えばセイラーボブは、行為者の不在について様々な説明をします。(行為者の不在の説明のしかた 2022.12.7ブログ)。でも、それですぐに納得できる人がどれだけいるでしょうか。私の場合は何回も聞いたにもかかわらず、確信が持てませんでした。

セイラーボブの教えの理解は、理屈ではなく、心の底から湧いてくる確信のようなもので、理屈や説明は不要で、かつ説明にしようにも説明できないものだと思います。それがいつ、どんなきっかけで起こってくるのかは人それぞれだと思います。

これはセイラーボブが言っているわけではなく、私が勝手に思うのですが、そうした理解が起きるのは、様々なことを、ああでもない、こうでもないとやってきた後で起こるのではないでしょうか。セイラーボブのまわりにいる人たちは、散々あれこれと探求をしてきた人たちです。

ミーティングを見ても、参加者の平均年齢はかなり高く、高齢者も多い気がします。そのほとんどの人が、ああでもない、こうでもないと探求した挙句にやってきます。そして「エンライトメントなんてない」と言われて、なぜないのかがサッパリ理解できないところから始まります。

盤珪は「不生の仏心」を説いたわけですが、何の修行もしていない人が、「そのままで仏なのだ」と言われても、ハイそうですかとは納得できないのではないでしょうか。当の盤珪でさえ病気になるほどの修行の果てに「不生の仏心」にたどりついたわけであり、何もしなかったわけではありません。

そして、ボブのまわりの人たちは、理解が起きても、contraction が起きると言います。私はこの「contraction 」という単語を上手に表現する日本語を知りません。辞書を引くと、「収縮・短縮・縮小、低下・減退」というような意味が出てきます。ジェームズ・ブラハやカタリーナ(カット)が使うので、精神世界特有の特別な意味があるのかもしれません。

要するに、自分が理解したと思っても、疑いが出てきたりして、確信が揺らぐような状態なのではないかと思います。そういうcontraction が起きるうちは、本当に理解したとはいえないと思います。ましてや、もっと別の人の本をと、あれこれあさっているなら、理解は起こっていないのだと思います。あさらなければ出会えないのだから仕方ないのですが、なかなか一人の師に出会うということは容易なことではないと思います。

でも、続けていけば理解は起きます。その起き方は人様々であり、決まったやり方はないと思います。わかったふりをしないで、地道に続けていくことだと思います。理解している人も理解していない人も、それであることには変わりはありません。

2022/12/25

誰が目覚めるというのですか

2022.5.8ミーティング
41:35から

ジュリア:ボブ、もう少し目覚めについて、目覚めという考え全体について話していただけますか? 

ボブ:存在すること、認識すること。存在することを愛すること。目覚めること・・・

カット:夢から夢の中へと。誰が目覚めるというのか? 誰が目覚めないというのか? (笑う) 

ボブ:今この瞬間、眠っている人はいますか? あなたは今眠っていません。あなたは今目覚めていないわけではありません。そしてその意識、すなわち目覚めた状態が本当のあなたです。そしてそれは眠っていません。それは観念によって不鮮明になり、見失われました。そして私たちはそれを失った、つまり、目覚めていないと考えました。

でも、あなたに意識がない時を見つけてください。私が眠っている時には意識がないとあなたは言うかもしれません。でも、本当にそうですか? それを詳しく調べてみると、あなたが眠っている時、なぜ目が覚めるのですか? あなたはいとも簡単に目を覚まします。そして、よく眠った、深く眠ったとわかります。あなたが眠っていてどうしてそれがわかるのですか? 

ということは、認識している、あるいは気づいている何者かがそこにいることを意味します。そしてそれがあなたに呼吸させ、鼓動させています。あなたが眠っている時に、すべての機能が止まりましたか? いいえ。自然の機能が続いていました。あたかも自然の機能が、あなたの人生の最初の二、三年の間、あなたが言葉も知らない時にやったように。そこには言葉も思考も感情もありませんでしたが、それでもあなたは存在していました。

そしてあなたは夜の夢から目覚めます。もし夜に夢を見ても、あなたは何が起こっていたかわかっています。朝起きて、見た目の上では、前夜終わったところから生活が続いていきます。もしそれが見た目の上で前日終わったところから続くのであれば、深く眠ったからといって、あなたが終わってしまったわけではありません。なぜなら、あなたは目覚めて生活が続いていくからです。

知る働きは全く壊れておらず、そのまま依然としてそこにあります。生きること、呼吸をすることは起こっています。そしてそれは、永遠に新鮮な今ここにある目覚めた状態と呼ばれます。それは常に存在し、永遠に新鮮です。つまりあなたは今目覚めていて、目覚めていないわけではありません。見た目の上では不鮮明になっていますが、調査して見破ってください。そして不鮮明さは事実ではないということを知ってください。あなたは依然として「それ」です。

2022/12/24

それは、あなたの普通の意識のことです

それは、あなたの普通の意識のことです。パドマサンババの『裸の意識で見ることによる自己解放』というシンプルで素晴らしい古文書があります。彼はそれを人々が何と呼ぶか、たくさんの名前を挙げています。マインド、アートマン、自己、自己の不在、タターガタ(如来)、その他多くのサンスクリット語の名前を挙げ、最後に、「普通の意識」と呼ぶ人もいると述べています。

                                   セイラー・ボブ

2022/12/23

命(life)自体は永遠に新鮮なものです

2022.12.11ミーティング
40:17から

参加者:あなたの言葉で何か心に触れたものがあって、それで以前考えたことがあるのですが、私たちはサット・チット・アナンダです。私たちは毎朝夢の中へと目覚めます。目覚めると、自己のイメージと体が組み立てられます。存在することの喜びは体の中にある自己のイメージを愛することが可能です。でも、私たちは歳を取ると、体のあちこちが衰え始め、痛みや、がんなどを経験し始めます。その、存在することの喜びは、どうやってそうしたことと折り合いをつけているのでしょうか? というのも、少なくとも私のマインドは、それを拒絶したがり、痛みを止めたがり、それを実在とは切り離されたもの、あの自己とは切り離されたものとして見たがります。たとえば、私はこれが嫌い、私はこれは欲しくない。それでも、それは「一つ」の中に入っています。

ボブ:ええ、それもまた観念のイメージです。そしてそれが痛みを癒そうとします。その痛みや苦しみはどれも体にはよくない。それでそれを治すために何かしなければいけない。あなたを生きている命がそれ自身で生きているというのに、何があなたを癒すというのですか? あなたが切り傷や骨折、背骨に痛みなどがあるとき、縫合がそれを治すのですか? いいえ。それはただ縫い合わせるだけです。折れた骨は繋ぐために吊られるだけです。すると、体自身が自分でそれを治すのです。体が自分で世話をするのです。

そして今や私たちには科学があり、それを使っています。それはとても役に立つものです。でも最悪なのは心理的な物事です。体は歳を取って死に、無くなります。でも、その命(life)自体は永遠に新鮮で永遠に自由であり、決して腐ることもなければ汚染されることもありません。パターンが姿形となってそれを通して表現したものとしては、決してそうなりません。それはまた空(くう)へと帰っていきます。死体はどこへいきますか? 棺に入れられ、土に埋められるか、あるいは燃やされます。

そして、いわゆる観念上の時間がまた過ぎて、分解されます。灰から灰に、塵から塵に。全部が塵、すなわち土に戻ります。そして最終的には海へ入ります。海は水です。それは太陽によって蒸発します。しかし、木や植物、種などすべて、あなたが食べる食べ物などが、さらなる命を運んできます。命から、あなたの両親から、命は命からやってきます。そして、形作られた命は、同じ命として戻ってくることはありません。しかし、可能性はたくさんあります。あらゆるパターンが姿形となり、それを続けます。自然に努力なく一人でに。

2022/12/22

どうやって決断したらいいのですか?

2022.5.15ミーティング
33:09から

参加者:また素晴らしい話をありがとう、ボブ。ボブが話をすると、私の体がライトアップされたようになって、深く共鳴するのを感じます。そして私は、選択の余地のない実在のようなものを感じることができます。私の人生で起こる多くのことには選択の余地はないということを知り、理解していると感じています。でも同時に私は、ある意味、決断することと格闘しています。いつ決断するのか、それどころか私が決断するのか、それをどう理解したらいいのか。

私が話しているのは特に今関連のある関係性のことや以前の関係性に関することなどで難しい決断をしなくてはいけない時です。私の一部は、選択はできないのだから、そのままにしておいて起こるに任せておこうという方へ傾き、言い訳をしているように感じる一方で、何かをするようにと決断を迫られていると感じている時に、どうやって決断をしたらいいのかわからず、この選択の余地がないという観念と、どう調和させたらいいのかわからないのです。

ボブ:決断はなされ、選択はなされます。でもそこには選択者はいません。決断がやってくると、あなたは「私が決断をした」と言います。あなたはそれを分離した存在がやったことにしたのです。でも、あなたの次の思考は何ですか? あなたは次の思考が何なのかを言うことができません。でもあなたは「私が考えた」と言うでしょう。あなたが「私が考えた」と言うやいなや、あなたは主体、思考者を作り出したのです。そして「私がこの思考を考えている」と言います。その思考が思考と思考者となります。

でも、思考することなしに思考者がいますか? いません。考えることなしに思考がありますか? ありません。選ぶことなしに選択がありますか? 選ぶことなしに選択者がいますか? うわべ上では私が選択をしたり、決断をしたりしているように見えます。でも、それをやっている「私」はあなたではなく、生命の本質そのものがそれをやっていて、それが翻訳されて思考の「私は在る」になるのです。あなたはその命、実在、実在性、敬神、もしそういう言葉を使いたければ。存在意識。

「私」は本当に究極のものです。そこにいるすべては究極のものです。究極のものに何を付け足すことができますか? 付け足すことは何もありません。それから何を取り去ることができますか? 何もありません。それはただ単に究極のものなのです。あなたはいかなる言葉も持って生まれませんでした。あなたが二歳か二歳半の頃に両親から言葉を学んだ時、あなたは「私は在る」という言葉を学びました。それが存在の意識です。それがマインドによって翻訳され、思考の「私は在る」になりました。

しかし、その思考は本当のあなたではありません。それは翻訳にすぎません。ニサルガダッタが「私は在るとともに留まりなさい」と言ったとき、それはその思考と一緒に留まりなさいと言ったのではありません。彼はあなたに、それが表すものと一緒に留まりなさいと言ったのです。それは、この存在意識のことです。それが本当のあなたです。あなたは今意識していませんか? あなたは存在しています。あなたは今この瞬間存在しています。あなたは意識であり、あなたが存在することは幸福であり、何かになることや、何かを見つける必要はありません。それはもともとそうなのです。それは常にそうでした。

でも、私たちは言葉を通じてそれを見失いました。シェイクスピアは400年前に言いました。「何も良くも悪くもない。思考がそうしているにすぎない」。ニサルガダッタは「あなたの想像以外、何もあなたを苦しめはしない」と言いました。今、その想像(imagination)という言葉を、image(イメージ)とin(入る)に分解してみてください。それが私たち皆がやっていることだと理解してください。私たちは心理的なイメージ、すなわち観念を創造し、それが実在だと思っているのです。

私たちはその観念の中で道に迷います。一つの本質がパターンとなり、姿形となり、あらゆるものとなって現れています。一つのものがあるだけです。それは常に一つです。私たちはそれを、いわゆる個人、「私」と結びつけます。そしてそれには何らかの実体があり、それ自身に何らかの独立した性質があると思っています。でも、その究極のものが、それ自体で何ができるでしょうか? 何もできません。すると、何が起きるでしょうか。

それはそれ自身を体験して表現するためにパターンを形成し、姿形を作ります。その姿形となった生が、うわべ上では分離したものに見えます。それにはこの体があり、例えば脳や神経などがあります。でも、それ(生)なしで、どうやって体は言葉を発することができるでしょうか? それが、内在する知性が機能するやり方です。それがすべてを行い、体やこの顕現全体を形づくります。それは一つの本質です。

私があなたに話したように、聖典では、ブラフマンから草むらまでと言います。あるいは、シヴァーシャクティです。シヴァが静的な面であり、その配偶者であるシャクティが女性的な面として振動しています。シャクティが振動して世界が現れます。つまり、すべては振動するエネルギーなのですが、それでもその本質は一つです。シヴァとシャクティは分離してはいません。私たちが分離させた分離という観念上のイメージは問題となります。

カット:ちょっと付け足したいと思います。というのも、決断を下すというのは重要な問題だからです。私たちは認識する能力を持っているため、異なるシナリオを予想します。そのために、考えがぐらぐらと揺れ動きがちになり、不確かになり、何そすべきか、何をすべきではないかと迷います。動物には通常そういう問題はありません。

もし、あなたに断つべき関係性があるなら、何をすべきか確信が起こり、行動が起こります。自然な状態にとどまるための最良の方法は、ボブの言う「私は在る」のハートの状態、無思考の非観念の空間にとどまることです。そして、決断が完全になされ、それが明確になるまで待つのです。というのも、そうした決断はうわべ上では毎日の生活の中でやっていることだからです。コーヒーにしようか紅茶にしようか? そして、とても明確な決断がやってきて、ああ、これだと感じる。

もちろん、コーヒーにしようか紅茶にしようかと決断しているのは「私」ではありません。体とマインドが衝動、直観に従うのです。同じことすべてが人生でも起こります。どうやって私たちが苦しみを減らすのかは、思考の中でぐらぐらと揺れ動かないことです。まだ明らかに決断に従うほど決断が明確でない時はまだ決断する時ではないのです。それはまだはっきりしていません。それはまだやってきていません。それがやって来る前、ええっと、私もそうでした。その時はすでに観念上では強く理解していました。私は「助けてください。これは重要なことです。私のために決断してください」とインドのグルに叫んだのを思い出します。そして彼はただ笑い続けるだけでした。笑ってしまいます。実際あれがどれほど重要だったのか。

何が起きようと、人生、夢がどのような道に進もうと、あなたがとどまろうが行こうが、あれやこれやが起きようと、それは夢の内容の違いでしかありません。でも本当に大切なことは、内容にかかわらず、あなたの本性を理解することです。あれが起きようが、これが起きようが、何が起きようが、自由で完全で成就した存在でいることが可能です。なぜなら、まだ知らないシナリオがあるかもしれないからです。

2022/12/21

それはすべて自然に起こっているのです

クリシュナムルティはこのことを簡潔に、「選択なきアウエアネス(意識)」と言いました。あなたは今意識がありますか? その時、自然に選択がやってきます。選択はなされ、行為は行われますが、そこに行為者はいません。それはすべて自然に起こっているのです。
                                     セイラーボブ

2022/12/20

どうやって自身をマインドと分離するのですか?

2022.5.15ミーティング
51:25から

参加者:(一見インド系の男性)ナマステ、ボブ。これはばかげた質問かもしれませんが、ニサルガダッタ・マハラジは、「物事が起きるのを、目撃者として見なさい。すべてはマーヤーとして起こります」と言いました。彼が目撃しなさいと言う時、私はマインドと知性を使っています。私はそうした機能を使っていますが、どうやって自分自身をマインドや知性を目撃することから分離したらいいのですか? 

ジュリア:(質問は)どうやって自身をマインドと分離するのかということですか?

参加者:マハラジが、「自身を起こっていることと同化させないように。あなたはマインドや知性とは分離している」と言っていることを私は理解しました。私は体とマインドの複合体ではないということは、マインドで理解することができます。でも、マハラジは「すべてを目撃しなさい。あなたはそこにはいない。あなたは目撃そのものにすぎない」と言うのですが、私は自分のマインドと知性を使ってしか目撃できません。どうやったらいいのですか?

ジュリア:あなたはマインドであり、同時にすべてです。そうでしょ? 私は彼(ボブ)の、知性エネルギーというポインターが好きです。その知性エネルギーは思考であり、マインドであり、知性であり、目撃であり、すべてです。あなたが自身のことを何かだと思っていても、そのエネルギーが思考を起こし、すべてをやっているのです。それにすべてが含まれているのです。それがあなたに起こっているのです。それが含んでいるのです。

ボブ:思考なしで、それでも依然としてあなたは見ていますね? あなたは今この瞬間、見ていますね。そして聞いていますね。思考なしで、それは純粋な目撃そのものです。でもそれにラベルを貼って、言葉、観念を付け足すのです。私たちはそれを付け加えます。

(ボブが質問者の発言を聞き取れずにカットを見る)
カット:ええ、それはいい。彼は、(ボブの言葉が)とてもシンプルで今分かったと言っています。(質問者に向かって)ええ、それはとてもシンプルすぎて、私たちはそれを見逃すのです。そのシンプルさゆえに、あまりにも明白すぎるのです。それはもともと起こっています。あなたは目撃する実在です。あなたの中に世界全体が現れます。それはとてもシンプルで明白です。議論の余地はありません。

あなたが目を閉じれば世界が消えるのがわかるでしょう。目を開ければ世界が現れます。あなたが実在、目撃そのもの、存在意識であり、そこへすべてがやってきて去っていきます。つまり、ジュリアが言うようにマーヤーの全体が振動して(現れて)いるのです。これはマインドにはシンプルすぎるのです。マインドはそれを複雑にします。「オー、どうやって私自身をあれやこれやから分離したらいいのか?などなど」。それが問題を作り出すのです。直接の経験なら、「オー! そうだ。もちろん簡単だ!」。それが、動物が経験するやり方であり、赤ちゃんの経験するやり方です。彼らはもともとそれなのです。

2022/12/19

自由意志はどこにあるのですか?

2022.5.15ミーティング
1:26:07から

参加者:話は少し戻りますが、「私たちは行為者ではない」とあなたは言いました。そうでしょ。誰かがすべてを計画しています。宇宙がすべてを計画しています。私がすべてを計画しています。その場合、どこに自由意志があるのですか? もし誰かがやっているのなら、それがどんな存在や力であろうと、自由意志はどこにあるのですか? 私はヴァガバット・ギータの中でも読みました。クリシュナが言いました。「あなたは私が望むことをやりなさい。そうすればあなたの望むことはついてくる」。その場合、自由意志はどこにあるのですか? 私たちは考えることを止めて流れとともに行くべきですか、それとも何が起こるかとストレスを溜めこむべきですか? それで、どうしたらいいのかという疑問が湧いてきました。混乱しています。これに答えがでれば、たくさんの問題が解決されるかもしれません。

ボブ:誰が質問者ですか? それを知りたがっているのは誰ですか? その質問はただ別の思考がやってきたにすぎません。

カット:そこにはうわべ上の自由意志があります。うわべ上の選択があり、うわべ上の行為者がいます。マーヤーの素晴らしさは全く説得力があります。あたかもそこには小さな小人がいて、決定をして、自由意志があるように見えます。そこには誰かがいて、バスを運転しているように感じます。誰かが心臓の鼓動を打っているように感じます。でも、心臓を打っている人は見つかりません。ですから、明らかにそこには自由意志はありません。

でも、うわべ上では自由意志があるように見えて、瞑想をしようとか、しないとかをやっているように見えます。これをしようとか、あれを選択しょうとか、そこにはうわべ上の選択があります。うわべ上の選択は、流れとともに行こうとか、流れに逆らおうとします。でも、あなたは、あなたの次の思考が何なのかわかりますか? わかりません。次の思考は、宇宙のあらゆる力の共同作業によって起こります。それは、天気、あなたの両親、あなたの食事、子供の頃のトラウマの影響などによって起こります。

そうしたあらゆることが、あなたの次の思考を形成します。つまり、私たちは、「ええ、私はその思考に従うかやめるかの自由意志がある」と言うことはできます。でも、それでさえも一つの思考なのです。つまり、基本的には自由意志を持つ分離した自己、分離した魂、というとても強力で持続的な幻想があったとしても、あなたが実際にそれを深く調べると、あらゆる選択は条件づけられたものだということがわかります。それには宇宙全体の共同作業という前提条件があるのです。

そしてそれが、そこには分離はないというもう一つの証明です。あなたは、あなたに影響を与えるそうしたすべての力とは分離していないのです。実際、あらゆる力は、あなたの存在の中で起こっています。あなたの体、マインド、次の思考、あらゆる思考は、あなたの存在の中で起こっています。自由意志という幻想も、あなたの存在の中で起こっています。正しい行いや悪い行いは物語です。私たちは物語に従うように条件付けられています。

私たちには、良い人でいて、悪い人にはならないようにしようという道徳律があります。私はそれを変えるとことができますか? 私にはそれを止める自由意志がありますか? 例えば、オーケー、この世界全体は幻想だ。よし、行って盗んでレイプでもなんでもするぞ。いいえ、私はそれをすることができません。なぜなら、その思考、その体は条件づけられていて、行動を創造するようにはできていません。それは共鳴しません。でも、それでもそれは、私は選択することができると感じています。

でも、そうでしょうか? それはどんな行為も生み出すことはできません。でも、この質問はとても有意義な質問です。多くの人が、そこに自己がいて、自由意志があると思ってもがいています。イエスは、「私たちには自由意志がある」と言いました。クリシュナも「私たちには自由意志がある」と言いました。ええ、それがあなたの伝えるやり方です。夢の中であなたは家族を選び、仕事へ行くこと、悪いことよりはむしろ良いことを選んでいるように見えます。それは夢の中の出来事です。たとえ真実を知っていたとしても、夢の中では、分離した体があるように、私たちは自由意志を持っています。

2022/12/18

そこには選択者も決定者もいません

物事は自然に起こり、決定や選択がなされますが、そこには選択者も決定者もいません。もしあなたが自身の思考を決めることができるというのなら、なぜ不幸や、みじめな思考を選ぶのですか? 至福に満ちた思考を選ぶか、全く無思考でいるのではないですか?
                               セイラーボブ

2022/12/17

不幸な人は他の人も不幸にします

2022.5.22ミーティング
37:05から

参加者:こんにちは。あなたの言った、コントロールや意思を持っているというのは幻想だということに興味があります。たとえばあなたの目的や責任はどうなるのか? それは顕現であり、コントロールできないのか? それともそれは流れているようなものなのか? あなたがそれをやりたくない時はやらず、やりたい時はやるのか? そのあたりを詳しく説明してください。

カット:ええ、もちろん。非二元の基本的な前提は、何かしたり選んだり行動したりする「あなた」はいないということです。もし何かをやりたくなければ、行動はそのエネルギーからやってくるでしょう。もし何かをやりたければ、行動はそのエネルギーからやってくるでしょう。でも、そこに想像上の「私」、(胸を指して)誰か小人がいて、選んだり決断したりしているという考えに関しては、そこには誰も見つかりませんでした。

私たちが想像する自己は、いままでに一度見つかっていません。非二元の基本的な状況は、そこには自己というものはないということです。(頭を指さして)神経科学によれば、私達には初期設定のネットワークがあり、それは時間の中にいる自己という幻覚を感じるそうです。そこには想像された自己がいて、それは若くて良くて、年老いていて……、でも、それは基本的には想像されたものであり、高周波の特別なヘルメットをかぶるか、特別なドラッグをやると、その想像された自己は消えてなくなるそうです。

想像以外にはそれは存在しないのです。では、決断や選択の責任は誰にあるのでしょうか? もし、そこには分離した自己はおらず、エネルギーが条件づけされた体とマインドを通過しているだけだったとしたら。例えば、もし、その体とマインドがひどいトラウマを持っていたら、それは条件づけされたように反応するでしょう。それは何か偏執的な反応をするかもしれません。しかし、内側に自己がいて、何か正しいことや悪いことをした責任があるという考えには根拠がありません。

私たちも、そして科学も、何も見つけることができません。私たちが、うわべ上で分離した存在を示すために、「私」、「あなた」と言うのは、社会の慣例にすぎません。でも、真実を知ったなら、これは命(life)がそのエネルギーを表現していて、そのエネルギーが望み、動き、責任があるかのように行動しているにすぎないと知ったなら、それがすべてです。もしあなたが家族によって育てられ、その家族がそうしたふるまいに重きをおいたなら、おそらくあなたもそうしたことが重要であると条件付けられたはずです。そしてそうしたことに重きを置く自己がいるという考えは根本的に不要であるとして放棄されたはずです。

生はもっとシンプルな言葉で理解することができます。すると、想像上の自己、それには罪がある、間違っている、不完全だ、恐れている、そして信じられないほどの苦悩を生み出す、といったことはどれも軽く飛び越えることができます。(ボブにマイクを向けて)もっと簡単に表現してください。

ボブ:それはあたかも、地球が太陽のまわりを回っているようなものです。季節がやって来ては去っていき、潮が満ちては引く。それを誰がやっていますか? (笑い) それと同じことです。それがあなたにも広がっています。同じ本質があなたの心臓を鼓動させています。それはすべて同じ一つの本質、一つの命、私が「知性エネルギー」という言葉で呼ぶものです。もし使いたければ、神という言葉でもいいし、どんなラベルでもかまいません。

私は神という言葉を使うのを好みません。というのも、神とは何か、神とはどんなものかについて、私達にはあまりにも多くの考え、伝統、宗教があるからです。それによって様々なことが起こりました。それを私たちより上にいるものと考えるのです。でも、私はすべてが完全なものであると言います。もし、あなたが完全なものなら、あなたより上に誰かいますか? 誰かがあなたより劣っていますか? そしてあなたは、他の人から何が欲しいのですか? すべてが完全なものだったして、あなたは他の人から何が欲しいですか? 

カット:ええ。あなたは人を殺すことも盗むこともレイプすることもないでしょう。そうしたことは、私は完全ではないから自身に何かを付け加えなくてはいけないという不足の感覚から起こります。もしあなたが、誰にも劣っても優ってもいない、そして分離もしていないと理解したら、すべてがあるがままであり、そこには欲望はないということを発見するでしょう。

参加者:つまり、不安感から例えばジムへ行き、筋肉をつける。あるいは、例えば、独立すること。たぶん条件づけられた欲求があって、たとえば、日常生活では、一生親と同居するか、家を出て……。どうしますか?(笑い)

ボブ:機能は自然にひとりでに努力なく起こっています。自然には自己、自己の意思がありません。自然は、あれをしよう、これをしようとはしません。それは自然に起こって……

参加者:(マイクなしで何かしゃべる)

カット:いいえ。それは要点ではありません。あなたが親の家を出て独立することもあれば、生涯ずっと親と一緒にいる多くの人がいることも私は知っています。それは自然が展開するやりかたです。もっとも容易で役にたつことは……、というのも、私たちは自然な状態について話していて、その状態は自然にあることすべてを反映しているのです。惑星は何をしていますか? 動物は何をしていますか? 動物は通常、大人になると、親との関係を絶って出ていって、自分で生活します。そうしない動物もいます。重い病気にかかって他の動物に襲われてしまうかもしれない。自然は気にしません。それが自然な状態です。

私たちの中にも自然があり、その自然があなたをとどまらせるか、出て行かせるかします。あるいは、ジムへ行くとか、行かないとかします。それが自然な状態です。心理的な苦しみの原因は、エネルギーによって何かをする自然な行動の上に、私たちは物語を持ち出し、それがドラマを創造するからです。そして、その想像によってできた自己は条件づけられていて、自分は劣っていると感じたり、十分ではない、愛されるに値しないと感じ、常に、自分のやっていることは最適なことではないと疑うのです。

そして、自分は人生を浪費している、間違ったことをやっている、人を傷つけている、私には価値がないと思うのです。そしてそれが、多くの混乱や不幸をもたらします。そして、不幸な人は他の人も不幸にします。たとえば、病んだ犬は誰にでも吠えて噛みつきます。その犬が幸せで健康な時は、日光浴をして、人を見つければ尾を振ります。人間も同じす。物語や、植え付けられた罪の意識や不完全感のせいで私たちは不幸になり、その結果他の人も不幸にしてしまいます。

つまり、物語を捨てて、見て、生(life)を信頼しなおすことです。私はそれをするように突き動かされた。それが起こっていることです。それが現実となったことです。そしてあなたは、次の思考が何なのか、次の行動が何なのかを、どれほど知らないかを知ることができます。あなたは、それがあなたが気づきもしない全宇宙の数えきれないほどの影響のダンスの結果であることを知ることができます。

2022/12/16

「私」は存在しますか?

2022.12.4ミーティング
46:31から

ジョー(女性):これは以前も話したことがあります。ボブ、私はあなたの言ったことが好きですが、私はそれと格闘していて、私が死ぬ日まで15年から17年続きそうです。アハハ。(大笑いする)

ボブ:話を始める前に打ち負かされていますね?

ジョー:ええ、だめですか? 「私」は存在しますか? 「私」はいる? その「私」をどうしたらいいですか? 

ボブ:「私」を見せてください。あなたの「私」を見せてください。

ジョー:それはパターンです。それはパターンの「私」です。

ボブ:では、そのパターンを見せてください。

ジョー:それは絶えずあります。そのパターンは、いつでもパターンが起きる時に起きます。そのパターンがやって来たいと思う時はいつでもパターンがやってきます。そこに「私」がいます。

ボブ:それはいつもありますか? それがやって来るということは(聞き取り不能)だということを意味します。

ジョー:ん~ん。深い! あははは(笑い)。 でも、私はその「私」を調べなくてはいけません。「私」を否定することはできません。それを調べなくてはいけません。それを解体しなくてはいけません。

ボブ:あなたは私にパターンを見せることができません。では、そのパターンはどんなものですか? 四角? 丸? 高い? 低い? パターンと言いましたね? それはあなたの頭の中にある観念にすぎません。

ジョー:いいえ。それは観念ではなく、事実に基づいています。

カット:感情的なものかもしれませんね?

ジョー:かもしれません。事実です。それを否定することはできません。それはそこにあります。

ボブ:どこに?

ジョー:やめて! いじめないでください! アハハハ(一同笑う)!

カット:あなたは感情を否定することはできません。それは真実です。

ジョー:そのとおり。オーケー。感情を否定することはできません。それを調べなくては。

カット:そうです。

ジョー:それを調べてもうまくいかないのです。それは問題ではありません。そこには「私」はいません。それは起こっていません。そこにあるのは感情。

カット:ええ、そうです。それを「私」とは呼ばずに、その感情を調べることができます。

ジョー:あ~、オーケー。終了。それで終わりです。というのは、以前も話したと思うのですが、私の女友達がこのことで少し奮闘していて、ひどい怒りで悩んでいました。そして昨日彼女が私に、「非二元は私の怒りにどのように役に立つのか」と言ったのです。もし私が(今やったことを)知っていたら……、私は説明することはできませんが、あなたは今終わらせました。それは良かった。

参加者:彼女が怒りを所有していたのですか?

ジョー:私たちは怒りを調べなくてはいけなかったのです。

ジュリア:何がそれを調べていたの?

ジョー:誰か、あるいは何かがそれを調べなくてはいけなかったのです。

ジュリア:それは誰ですか?

ジョー:誰か、あるいは何かです。その名前を呼ぶことはできませんが。あなたの言うことはわかります。でも、正確に説明することはできません。基本的な言葉で言うことができるだけです。

ジュリア:いいえ、そこにはただ単に調査があるだけです。

ジョー:そのとおりです。

ジュリア:調べてみてください。実際に何かを調べている何かが見つかるかを。(主体となって調べている人が)見つかるか調べてみてください。見てください。それが見つかるなら、それはいいこと。それはいい。それはある意味正しい答えです。オーケー。もしあなたが調べてみて、何も見つからないのなら、ビンゴ! (笑い)そうでしょ?

ジョー:イエー!(笑い)

ジュリア:調べてみてください。感情を見ている何か、気づいている何かを見つけることができるかを。

ジョー:オーケー。あなたの言っていることがわかりました。よくわかったわ。あなたは上手にやりました! とても感銘を受けました。あなたの(やり方を)採用するかもしれません。あなたの言うことを聞いて、その件は終わったみたいです。でも、あなたは毎回調査して終わらせているのですか?

ジュリア:ええそうです! 

ジョー:つまり、外に出て、(頭を指さして)またガヤガヤとそれがやってきたら、また調査してそれを終わりにするのですか?

ジュリア:そうです。それが要点。虚偽は調査には耐え得ないのです。それが調査をする唯一の理由です。そうやってあなたはたわ言を見抜いて、おお!どうして私はまたこんなことをしたのかとなるでしょう。わからない。たぶんそれは習慣。でも、あなたはそうしなかったかもしれません。それはうわべ上で起こっているだけで……

ジョー:つまり、誰の責任でもない。

ジュリア:ええ。それは何ですか? あなたは何もすることはできません。調べてみてください。そしてまた、すべては調査する機会となります。そしてあなたが調査して、見て、もう一度やって、またもう一度やって、それは同じだけど、見るたびにそれが(調査する)機会となります。私はつい昨日友達と話していましたが、私達は歩いて話をしていて、その男の人が引用した言葉がとても好きです。

彼は、「問題は人々が(怒りの)ボタンを押す環境にあるんじゃなくて、ボタンがたくさんありすぎることなんだ」と言ったのです。そうでしょ? 私はその引用が好きです。あなたにはボタンがある。そうでしょ? ボタンがある。何か本当にムカつく。明らかにあなたは私が持っているのと同じボタンを持っていない。みんなボタンをもっている。どちらにしても、それは一つの機会。もし、ボタンが押せば、あなたはムカつく。そして、調査することによってそれが落ちていくのを見ることができる。そうでしょ?

これは私が経験した古い話ですけど、いずれにしても、私が観察したところ、私が調査するたびに、たわごとを見抜いて、見破って、それは落ちていく。そして、それと同じ量は戻ってこない。そして、しばらくはまったく戻ってこない。私は人と接する時にそれをやるのが好きです。そうした行動は、あなたを普段ムカつかせたり、困惑させたりするようなことに対処すのにとても役にたちます。

あなたは、それがただ落ちていくのを見るべきです。そうして、またその同じムカつくことは、あなたが調査するための機会なのです。あなたはまた調査します。そしてしばらく後で、たぶん、考える時です。それがまた起きないという意味ではありません。そして、今一度言いますが、それをやっているのはあなたではありません。誰が何をやるというのですか? 誰もそれをやってはいません。それは見破られたのです。

ジョー:あなたの言うことをしっかり聞いているとは思いません。ごめんなさい。あなたが、そこには誰ももいないという時、誰がそこでそれをやっているのかで、少し混乱しています。あなたが調査する必要があることを忘れないでと言う時、何か、あるいは誰かが調査しています。

クリフ:ええ、それは大きな問題ですね。でも、誰がその調査をしているのかというと、何が「私」を観察していようと、怒りや何かと同化していようと、その調査をしている根本のもの、あらゆる現象を見ているものは、意識(アウエアネス)そのものではありませんか? そしてあなたはその意識でこうした感情や経験をして、それを「私」と呼んで同化しています。そしてそれがあれやこれやをするイメージとなっていますが、実際には意識があらわれてくるものすべての調査をやっています。あなたがこうしたイメージと同化していようと、調査する人や目撃そのものと同化していようと。

ジェーン:あるいは(現在進行形の)目撃です。ボブが言っているのは、固着なき意識(unfixated awareness)です。それが本当のあなたです。ボブが言うように、あなたが二歳の頃言葉を覚え、人はあなたに、「あなたはジョーよ」「あなたはいい女の子」「あなたは悪い女の子」「あなたはおてんば」と言います。あなたは、あれ、これ、あれ、これ。そしてこれが何年も何年も続きます。そしてボブがやってきて、「『あなた』はいない」と言います。

その「私」、ジョー、分離したあなたという固着は、間違って植え付けられたパターンです。それとともに、病気(disease)がやってきます。ジュリアが言った、あるゆる見るための機会は、クリフが言ったように、あなたがどこから見ているかを知る機会です。あなたは記憶から見ているのではありません。記憶は見ることができません。そして、その「私」が住んでいるのは記憶の中です。それはあなたの記憶にすぎません。それはあなたが自身に対して抱いているイメージです。イメージが何かをすることができますか? いいえ。オーケー。それは、ジョーについての物語です。ジョーの物語を見ているのは何ですか? 

ジョー:わかりません。何ものでもないもの/無(no thing)です。

ジェーン:ええ、何ものでもないもの/無。それが本当のあなたです。それが私が得たすべてです。

2022/12/15

セイラー・ボブ・アダムソンの近況⑥

現在、セイラーボブは毎週日曜日にグループミーティングをやり、他に週三回ズームによるグループミーティング(無料)をやっています。詳しくはセイラーボブのホームページで確認してください。

四諦八正道③ 世界のどこにも我はない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その17」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)
正しく見ることが一番大切。間違ったものの見方をしないこと。

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その18」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)
「私という概念はあとから生まれたものである。」
「すべての人が持っている間違ったものの見方を八正道で正せということです」
という言葉が印象に残りました。改めて仏教の深さ、素晴らしさを感じました。

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その19」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その20」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)
十八界のどこにも我はない。

佐々木先生の動画を今後も続けて見たいという方は、佐々木閑 仏教講義8「阿含経の教え」で見てください。

2022/12/14

四諦八正道② 八正道

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その15」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その16」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) 

人間は誤ったものの見方をするものだという話はおおいに納得できます。

2022/12/13

四諦八正道① 総論

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その13」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その14」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)
 

2022/12/12

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第17回 (2022年12月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第17回 (2022年12月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

座禅についてのくだりが特に素晴らしい。

2022/12/11

宗教の本性: 誰が「私」を救うのか

宗教の本性: 誰が「私」を救うのか (NHK出版新書 656) 佐々木閑

この本は佐々木先生が、NHK文化センター京都教室で宗教について語った特別講座をもとに、「仏教者の立場から見る、新たな宗教世界の展望」について書いたもの。

最初に、宗教はどのようにして起こったか、宗教とはどういうものかを、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史(上・下)』(河出書房新社)を引用しながら説明。

続いて、がんで死期が一年余りと余命宣告を受けた物理学者の戸塚洋二氏から面接を求められ、釈迦の教えていた仏教とはどういうものだったかを尋ねられて説明した話。

そして第五講で、「仏教は自分で自分を救う教え」と説いてみえます。
(第五講要約)
苦しみから逃れるには二つの方法がある。
1、「私の願いをかなえてください。もっと幸せにしてください」と何かにお願いして、「何か」の力を信じて生きる。これはキリスト教やイスラム教的な教えであるが、人間の苦しみである老・病・死を救うことはできない。
2、欲望の充足ではなく、欲望そのものを消すこと。諸行無常・諸法無我を理解すること。
p168から引用
すべての物事や事象は因縁(原因)によって生じるのであって、「私」というもの自体は存在しておらず、因縁によって一瞬現れる刹那的現象の連続体にすぎないと考える。
(以上引用終わり)
そして、欲望を消す方法として、四諦八正道が説明してある。

最後に宗教に接する時の注意事項が述べられている。

**************

この本の中で佐々木先生は、釈迦の直接の教えについて語ってみえるので、(大乗仏教的な説き方ではなく)初期仏教(原始仏教)の教えに従って、「私」は存在しないと説いてみえます。

私は、「欲望を消す」という思想に魅かれます。「消す」とまではいかなくても、「欲望を追わない」という姿勢こそが、幸福の近道ではないかと思います。かつては私も、上記の1のような思想に魅かれた時期があって、いわゆる「引き寄せの法則」や「思考は現実化する」といったたぐいの本を随分読みました。

でも、結局それでは幸せにはなれないと思いました。一つ例をあげるなら、いくら願っても永遠に生きていることはできません。いつかは必ず死にます。そして私が最終的に行き着いたのは、セイラーボブが教える非二元の教えです。

セイラーボブは、「欲望を捨てよ」とか、「欲望を持つな」とは言いません。でも、「私」は実在ではないという教えは、欲望の帰結元である「私」がいないのですから、結局は欲望が落ちていくことになるのではないでしょうか。

仏教が言うように、積極的に欲望を落とすとまではいかなくても、過度に欲望にとらわれない生き方こそが重要なのではないでしょうか。セイラーボブの教えとは少しそれるかもしれませんが、佐々木先生は「四諦八正道」についてYouTubeで説明されるようですので、今後もこのブログで取り上げていきたいと思います。(あまりに仏教に入り込んでしまうようならやめます)

2022/12/10

あなたは今認識しています

2022.11.27ミーティング
41:20から

参加者:ボブ、こんにちは。しばらくの間、あなたに会いたいと思っていたので、ここへ来れたことをとても喜んでいます。私は全くバカなので、ゆっくり教えてください。このことをあるゆる角度から調べましたが、まったく理解できないようです。何か根本的に間違ったことをやっているのか、何かにはまってしまっているのかよくわかりません。とてもイライラしたので、ここへあなたに会いにきたのです。

私は観察する段階を超えていくことができないようです。物事がやって来るのを感じることはできます。物事が現れた時、思考がどこからやってきたのかと感覚器官を遡ってみても、それがどこからやってきたのかはわかりません。それでも、そこには依然として、分離した見る働きがあります。

もしそのことを考えなかったら、そこには分離の理由はありません。理由がないということは分離したものはないということです。でも、そこに観察行為があるということは、見ているものから分離した何かがあるということを意味します。

それで、どうしたらいいのかわかりません。他の調査の方法があるのか? 何か別の方法で座ったらいいのか、わかりません。何か指導していただけるといいのですが。

ボブ:それをやろうとしている「私」を落としてください。それでもあなたには見る働きがあります。あなたはそれです。(笑い)

参加者:ええ、そうすべきだと思います。私はそれと一体になろうとは思ってはいないのですが、そこには絶えず一つの視点があるのです。私の場合それは常に視覚的なものです。目を開けていても閉じていても、それは、ある視点から見ています。私はその視点を落とせるようには思えないのです。

また別の例をあげると、私を絶えず悩ますナレーションが続いています。あらゆる時にそれがあるのです。人は私に思考の合間を見ろというのですが、私の場合は思考が絶えずつながっていて、合間はどこにもないように見えます。まるで私の頭の中で言葉の下痢がずっと続いているような感じです。そこでもまた分離しているように思えますが、何も見つかりません。

ボブ:ええ、何も見つかりません。ニサルガダッタは言いました。「あなたがそれを観念で理解しようとする失敗する。あなたは必ず失敗する。なぜならそれは、非観念の意識だからだ」。その意識を観念で置き換えないでください。あなたは自分が存在するということを否定することはできません。あなたは、「私はいない」ということはできません。でもそれが何かと言うこともまたできません。なぜなら、そうするとそれは観念になってしまうからです。

参加者:でも、何かをする時、何かを言ったり感じたりする時、論理的に考えたりする時、時々は分離がそこにあることを忘れます。私が体験していることに対しては、分離しているという理由が見つかりません。それがどうしてなのか理解できません。

ボブ:なぜそれが見つからないかといえば、分離はないからです。

参加者:でも、私は分離があると認めている気がします。あるいは、分離を創り出しているか、あるいは起こっていうように見えます。そこにそれがあるべきではないという理由がありません。何か別の見方があるのですか? 何か別の方法で感じるやり方がありますか? わからないのです。何かヒントか秘訣を教えてもらえないでしょうか? 提案していただけるといいのですが。

カット:ボブはそれを、自然な状態と呼びます。自然な状態とは、自然の中のような状態という意味です。木のことを考えてみてください。風を感じる木は、風を感じない木と何の違いもありません。そこの二匹の猫を見ると、彼らも特別な目から見ています。認識は常に直接のものです。空間の中では、自然全体が機能するためには、どこかに感覚を感じる場所が必要であり、それがなくなることはありません。

かつてここに、古代の文書を研究しいる男の人がいて、その人は、誰も、ボブもいわゆるエンライトメントしていないと確信していました。なぜなら、ボブは壁にぶつかることなく、ドアのあるところを通るからです。明らかにボブには体の位置の感覚があるからドアを通ることができるのです。

彼は期待していました。突然彼の脳が活動を止めて、目も活動を止めて、彼は回りのものと同質なものとして輪郭が消え、音も聞こえず、見ることもできなくなると期待していました。人々は時々こんな質問をします。「どうして私はニューヨークの雪を見る事ができないのでしょうか?」。それが体の機能だからです。

命は分割できないのです。私の命、ボブの命、木の命は一つのエネルギーです。(天井を指さして)電球のエネルギーが一つの電気であるのと同じようなものです。でも、この電球はこの方角を照らし、あの電球はあっちの方角を照らしています。そしてそれは決して変わりません。

ですから、見破ることによってすべては変わるが、同時に何も変わらないと言うのです。なぜなら、もともとそうだからです。もしそれがもともとそうであるなら、あなたはもともとその角度から見ているのです。そして私はこの角度から見ています。それが意味することは、20年前、30年前、もともとそうだったということです。

自己はもともと想像されたものです。もしその自己が想像されたものだったとしても、見る事はそれでも同じように起こっています。視覚に何かが起こるはずだという理解しがたい期待があります。それは奇跡と呼ばれる時もあれば、ビジョンと呼ばれる時もあります。ビジョンはあなたが分離を見通すことを可能にします。

でも、あなたの体が分離して現れないということではありません。でも、私たちは、これは顕現であると知っています。それは、あなたが夜見る夢のようなものです。そこで体は空間の中で分離しています。その他のものも空間の中で分離しています。でも、夢が終わると、あなたは、そこには分離はなかったと気づきます。

それは単に一つのイメージが起こったのでした。そして、これも(この世界も)また分離しているように現れていますが、本質として、それは真実を知る働きであり、それはすべて振動です。それが振動して体となり、音となり、光の粒子となり、それが、この機械(頭を指して)、コンピューターによって翻訳されます。それはすべて分割することができないものです。

あの猫も同じです。犬も木もそうです。それが自然な状態です。しばしば、エンライトメント、明晰さ、目覚めという言葉が、あまりにも多くの混乱をもたらしました。それは私の場合もそうでした。私はエンライトメントを追い求めていました。私はハイになりたい。24時間ハイになりたい。恍惚として至福に満たされたい。絶え間のない快楽に優るものはありません。

もちろんそれは、いわゆるエゴが手に入れたいと思っている夢です。なぜなら、そのメカニズムがエゴと呼ばれるものであり、エゴなんてないからです。それはそういう物語と同化しています。その物語と同化したアイデンティティがやる仕事は、もっと快楽を見つけて、痛みを避けることです。それが、不可能なことを拡大化させて、エンライトメントは絶え間のないエクスタシーやオーガズムや何かだと想像しているのです。

でも、それはまた、あれやこれやという思考であり、コントロールできないプログラムにすぎないのです。あなたがソフトウェアを調べたら、もちろん笑うはずです。それは快楽を追い求めています。(後ろを指さして)向こうでシャクティが猫にエサを与えていますが、猫は一つ一つのエサを追い求めて楽しんでいます。それが好きなのです。それが楽しいのです。それが機械が働くやり方です。

でも、彼らには物語がありません。お腹が一杯になると、追い求めるのを止めます。私達には物語があり、それは常により多くを欲しがるように設計されています。でも、その明解さは、ボブが言うように、私たちはもともとそれであり、私たちはもともと自分がそうであるということを知っています。

他にも、私達が知っていることで、退けていることがあります。例えば、ここへよく来ていた男の人のように、もしビジョンを達成したら、世界が完全に消えるだろうということ。ええそうです。体が完全に死んだ時にそれが起こるでしょう。(笑い)それか、深い眠りの時にそれが起きるでしょう。

でも、今この瞬間、聞くことや、見ることがある特定の方角から起こっているなら、それがそれなのです。それはもともとそうなのです。それとは違ったようにあるべきだと思っているのは思考にすぎません。この瞬間は完全ではない、それは何かになるべきだ、例えば、私は、エンライトメントすべきだ、もっとこの瞬間が快感であるべきだ。いいえ、これがそれです。これ以外に本当に何もないのです。

2022/12/09

執着と一切皆苦

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その10」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

仏教では、執着しないこと、執着を捨てること教えます。私はその考え方が好きです。地位や財産や名声を追い求めない。そういうものに執着しないで生きていきたいと思います。

以前は欠かさず買っていたジャンボ宝くじも買わなくなりました。お金はとりあえず暮らしていけるだけあればいいかと。でも、べつに貧乏や清貧に執着しているわけでもありません。無いものねだりしないだけです。

セイラーボブは、地位や財産や名誉に執着するなとか、金を追い求めるなとか、そういうことは言いません。でも、「私は実在しない」と教える非二元の教えは、執着するなと教えているのと同じではないでしょうか。金や地位や名声を持つ「私」がいないということは、執着元がないということではないでしょうか。

仏教では「一切皆苦」といって、生きることは苦しみだと説きますが、セイラーボブは、生の背景にあるのは至福だと説きます。これは一見仏教で教えていることと違うように思えます。

でも、仏教で人生は苦しみだという理由は、諸行無常だからです。すべては去ってしまうから、苦しみだと言っています。それだったら、非二元も同じことを教えているのではないでしょうか。仏教も、その教えを理解した先にあるのは涅槃です。盤珪が言うように、もともと不生ならば、至福の状態にいるといってもいいのではないでしょうか。

2022/12/08

雲の後ろに空がある

;第692回「心を師とせざれ」2022/11/29【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

これが禅の神髄。ほとんどセイラーボブの話と同じです。

2022/12/07

行為者の不在の説明のしかた

昨日のブログ中のカットの説明はとても興味深いものでした。行為者の不在を説明するために、仏教で言うところの縁起と同じ理屈で説明していました。縁起という言葉は使いませんでしたが、その説明はまさしく縁起でした。セイラーボブが今までにああいうふうに行為者の不在を説明するのを聞いた記憶はありません。

そこで、今日はセイラーボブがどういうふうに行為者の不在を説明するのか書いておきます。ここで言う「行為者の不在」とは、「『私』は実在ではない」「『あなた』実在ではない」という意味です。

セイラーボブは二通りの説明をします。一つ目は、「実在の定義は何ですか?」から始まって、「実在とは永遠不変のものです」、「体は永遠不変ではありません」と言います。そして、「あなたの体は土・水・火・空気・空間という要素でできています。体から火を取り除くことはできますか? 体から水を取り除くことはできますか? 体を空間と切り離すことはできますか? できません!」と説明します。

この要素(元素)の考え方は原始仏教の中にもあるし、古代インド哲学の中にもあります。体から要素を切り離すことはできないという説明は一種の縁起です。そして、この場合、体という存在を認めています。体は永遠不変のものではないとしても、とりあえずは存在すると認めた上で、それは永遠不変のものではないから実在ではないと説きます。また、まわりのものとは切り離せず一体のものだから実在ではないと説きます。

そしてもう一つの説明は、具体的な説明はなく、例え話によるものです。例え話はたいてい鏡か映画のスクリーンです。「鏡に映る像はそこにあるように見えても何もない。あるのは鏡だけ」「映画のスクリーンには世界が広がっているが、映画が終わればそこにはスクリーンがあるだけ」。この場合、体は幻影であるとして、その存在を認めません。セイラーボブの説明はたいていこの二通りです。量子力学を持ち出して説明するときもありますが、それほど頻繁ではありません。

不思議なことに、無我という言葉で行為者の不在を説く仏教においても二通りの説明があり、その説明はセイラーボブの説明とほとんど同じです。一つ目は縁起による説明。これは初期仏教で用いられます。すべての物事は縁起によって起こるのであり、そこには「私」はおらず、私を構成する五蘊(ごうん)があるだけであると説きます。この場合も、一応体はあると認めます。

そしてもう一つの説明は大乗仏教で登場した空(くう)の思想です。唯識では、体も何もない、一切は空だと説きます。佐々木閑先生はスクリーンと鏡の説明を使ってみえました。この鏡の説明は、おそらくヴェーダから来ているものであり、仏教でも使われます。大乗仏教による「空」の説明は他にもいろいろあるのですが、ここでは書ききれないので、興味のある方はこのブログにある龍樹や唯識のところを読んでみてください。なお、仏教(アビダルマ)にも粒子論的なものがあります。興味のある方は仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでみてください。

セイラーボブの教える非二元も、佐々木閑先生や横田南嶺老師の説く仏教も、同じような説明をしているのはとても興味深いことです。私は、この行為者の不在が腑に落ちるまでずいぶんと時間がかかりました。最初の頃は、特別な理解が起きて、自分が消えるような体験が起きるのではないかというトンデモな想像をしていて、さっぱり理解できませんでした。

セイラーボブの教える非二元は、極端なことを言えば、「行為者の不在」と「時間の不存在」が腑に落ちれば理解すべきことはそれで終わりです。ただ、それが理解できたからといって、心理的な苦しみが即座に全部消えるわけではないことは言うまでもありません。

私はセイラーボブの説くやり方も、佐々木閑先生や横田南嶺老師の説くやり方も素晴らしいものだと思っています。それで十分納得できますが、個人的には唯識のところで書いた説明が一番しっくりきています。さらに、以前このブログで取り上げた前野隆二先生の説明(脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)も好きです。

「行為者の不在」の理解の仕方は人それぞれでいいと思います。極端なことを言えば、「直観でそう思う」というのでもかまいませんし、「私は一瞥した」とうのでもかまいません。本人が心底納得すればいいだけの話です。なぜなら、どこまで突き詰めても、今のところ科学的な証明は不可能ですし、それを実際に体験することはできないからです。

一番大切なことは、自分で調べて納得することであり、それには説明や理屈は不要です。説明や理屈は、あくまでもマインドのための補助的な材料でしかありません。

2022/12/06

どうやったら行為者なしで行為をすることができますか?

2022.6.5ミーティング
1:02:00から

参加者:私が繰り返し思うのは、もし行為が起こっていても、それをやっていると信じている私がいて、自由意志はないという観念を受け入れることができません。私は行為者が私を存在することから連れ出してしまうと信じています。それで、(質問は)どうやったら自由意志なしで、また、行為者なしで行為をすることができるのかということです。

ボブ:ただ、やってみてください。(一同笑い) それがうまくいくかやってみてください。それがあなたのやることです。

カット:そのプロセスが起こるのを実際に目撃していると、たくさんの信じられない発見があります。選択や決定を見守るとき、そこに決断したり選択したりする私がいると決めてかからないで、周囲の状況を認識することなく、ただ空(から)のマインド、空の空間でいると、どうやって選択が起きるのかを発見する喜びが起こります。

たとえばレストランへ行ってピザかサラダかを選択する時、どうやってそれがやって来るのか。興味を持って、それがやって来るの待ちます。そして何が起きるのか見ます。二つの思考が浮かんできます。一つは感情に訴えるもの。それは唾液が出てきて、もう一方は出ないかもしれません。その時、誰が決定を下しますか? 

どうやってその思考は意識のフィールドに現れますか? それが起こるのを見る時、実際に命が瞬間瞬間行為なしで、行為者なしで、奇跡のように起こるのを見て、あなたは本当に驚くでしょう。どうして体はどうしたらよいのか知っているのか? どのように決定は起きるのか? どのように思考は起こるのか? どのようにあなたは生かされているのか? どのようにあなたの髪の毛は伸びているのか? 

どうやってあなたの心臓は鼓動しているのか? 意識の中で、どうやってあなたの行動は起こるのか? そしてこれは、私は無であり、自身の人生を選択することはできない、ここで私は一体何をしているのか、私は死にたいといったような、力を奪ってしまう抑圧的な考えを許すということではありません。

今あなたは、その力やパワーはその背後で互いに依存しあっているということを発見します。例えば、ピザにするかサラダにするかの選択は宇宙全体が関係しています。ムード、生理、あるいはホルモンのレベル、あなたの育ち、子供の頃、一年生の時誰かがいじめたこと。天気、季節、宇宙のあるゆることが関係しているのです。

その全能のもの。全能。あなたが本当に完全に行為者という考えを落とすと、あなたはその全能のものから分離してはいないということを理解します。実際、それが本当のあなたなのです。あなたが宇宙です。あなたが星や太陽をめぐらせいて、あなたは細胞やすべてです。そしてそれは力を奪うのではなく、完全に力を与えているのです。なぜなら、(あなたは)すべてとして存在すること、そして無として存在することだからです。それは同じ一つのものです。

なぜなら、そこには存在があり、そこには実在があり、あなたがそれであるということを否定することはできないからです。そしてその存在は何からも分離していません。そのため、あなたは「私は無である」と言うことはできないのです。誰がそう言っているのですか? そう言う時でさえ、そこには何かがあります。あなたは個人の体の中の個人の行為者ではありません。

あなたはあらゆる行為の背後にある命なのです。全能、偏在。あなたは体を通して一つの体の存在を体験することができます。というのも感覚器官があるから。あなたはここに(自分の体を触って)皮膚を感じます。(猫に触って)ここに皮膚を感じます。でもそれは単なる見本です。なぜなら、実在は体験できるものではないからです。実在は純粋な可能性です。

体の中で、それは認識されます。体の外にも、実在は存在します。それは現実化、あるいは認識されないだけです。最初、「私には自由意志がない」というのは悪い知らせです。でも、究極的にはそれは、何か悪い行為の束縛や罪悪感からの解放なのです。なぜなら、ひどい人たちが他の人を傷つけたとしても、それもまた全宇宙が同じように彼らを創造したのです。彼らは心の奥底からそれ以上の良いやり方を知りません。彼らは何か他のやり方でやることはできなかったのです。

もし彼らが別の国、別の母親のもとに生まれ、たとえそれがヒットラーやその他の人たちのもとであっても、彼らはそれをやらなかったでしょう。なぜなら、彼らは行為者ではないからです。それはまたグッドニュースです。もし私が行為者ではないなら、誰も行為者ではありません。もし誰かが私に唾を吐いても、私をいじめても、彼らは行為者ではないのです。私は彼らを悪く思うことはできません。

私はただエネルギーの領域を見つめ、戦争、愛、喜び、悲しみの中でダンスをするのです。そしてもしそれが非個人的なことであっても、それでももちろん体は痛みより喜びを好みます。体は空腹よりもお腹が満たされることを、寒さより暖かさを好みます。でもそれは、そのようにできているからにすぎません。それが、世界全体が続いていくようにしているやり方であり、学習するやり方であり、世界で生き残っていくやりかたです。

それが私たちが心配しなくて済むようにするやり方です。なぜならそれはもともと自身の世話をするようにプログラムされているからです。もちろん、うまくいかない時もあります。短期的には間違った判断も正しい判断もあります。というのは、このコンピューター(頭を指して)はそのデータベースを経験によって絶えずアップデートしているからです。でも、それが非個人的である時、それは本当に衝撃的です。それを見ていることは楽しみです。たとえそれが、昼と夜、喜びと痛み、冬と夏、上と下などすべてであったとしても。

でもその質問は本当にすばらしい質問です。行為者。最初に、認めるべきことは正しく認めるというのは良い訓練です。私たちは訓練を勧めているわけではありません。なぜなら誰も訓練する人はいないからです。でもそれは認識する一つのやり方です。オーケー、これが起こった。この体が誰かに仕返しをした。誰かを蹴った。あるいはガラスを割った。この時、認めるべきは、どこに行為者がいるかです。生が生じる事の、あるいは起こる事の全体を仕組んだのです。

ボブ:クリシュナムルティはこのことを簡潔に、「選択なきアウエアネス(意識)」と言いました。あなたは今意識がありますか? その時、自然に選択がやってきます。選択はなされ、行為は行われますが、そこに行為者はいません。それはすべて自然に起こっているのです。

2022/12/05

無知から苦しみが生まれる

第680回「無知から苦しみが生まれる」2022/11/17【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

 

「無知から苦しみが生まれる」というフレーズは、セイラーボブと同じです。
仏教では、無知を無明といいます。無明とは、「私は実在ではない」ということを知らないことです。

2022/12/04

正念(マインドフル)

昨日の佐々木先生のYouTubeには驚きました。私はマインドフルネス瞑想が仏教から来たものだということを全く知りませんでした。そして、正しいヴィパサナ瞑想や座禅とはどういうものかということを初めて知りました。

私は仏教が説く修行の話は避けてきましたが、自分の理解がいかに浅かったかを思い知らされました。昨日も書きましたが、座禅やヴィパサナ瞑想は、あくまで仏教の教え(諸行無常・諸法無我)とセットになっていることだとわかりました。


Wikipediaで調べると、マインドフルネスはパーリ語の仏教用語サンマ・サティ(漢語:正念)のサティ(念)の英訳とあります。
では、その「念」とは何かというと、昨日の佐々木先生の話では、念とは、身・受・心・法であり、もっとわかりやすく言うと体・感じたもの・マインド・万物です。

佐々木先生の説明では、仏教で教えているのは、正念と正知がセットになっているということ。正念とは何かというと、念を正しく見ること。正しく見るとは、体・感じたもの・マインド・万物は、永遠不変の実在ではないということを知ること。つまり、諸行無常・諸法無我であるということをしっかりと知ること。

そして正知とは、あらゆる行為を片時も逃さず観察すること。要するに正念・正知とは、体や万物は実在ではないということに反するような考え方や行動をとっていないかを片時も忘れずに観察、あるいは気づいているということです。

私が今までやってきた瞑想は、正知ではあっても、正念が欠けていました。非二元的に言うならば、「あらゆるものが実在ではない」や、「『私』は実在ではない」ということをしっかり理解した上で、それを片時も忘れずに体や呼吸や思考を観察、あるいは気づいているということだと思います。

「ただそれだけ」のp105には、「間断なき瞑想ならざる瞑想」という瞑想が出てきますが、これはゾクチェン(チベット仏教)の瞑想ですから、おそらく同じことを言っているのではないでしょうか。

私はセイラーボブの教えている非二元は正確に理解したつもりです。でも、自身の生活が、その教えに則してしているかというと、そうではありません。「私」はたびたび登場するし、怒ったり、落ち込んだり、人と比べたりする「私」がいます。そのたびに「私」はいないと確かめています。

非二元の教えもマインドフルネスと同じで、身につくまではある種のトレーニングが必要だと思います。「私は理解した」で終わっていたら、何も変わらない。いつも、自分は正しく理解しているか、自分の考え方や行動は非二元の教えにのっとっているかを絶えず観察していく必要があるのではないでしょうか。

逆に、人を憎んだり差別したりしている自分に気づいたら、自分はまだまだ非二元の教えがちゃんと身についていないとわかるのではないでしょうか。いくら非二元の教えを正しく理解していても、心理的な苦しみがなくならず、周りの人を差別したり苦しめたりするなら、それでは何のために非二元を学んでいるのかということになります。

私がセイラーボブの教える非二元を学んでいる第一の理由は、心理的な苦しみから解放されたいからです。随分と解放されました。そして、人と争ったり、人を傷つけたり、人を憎むようなことはもうたくさんだと思うからです。そういう思いや行動が少しでもあるうちは、まだまだ学ぶ必要があると思っています。

そして、できるだけ多くの人にセイラーボブの教えを知ってもらいたいと思っています。私はセイラーボブの非二元しか知らないので、非二元全体のことをこのブログで語っているつもりはありません。あくまでもセイラーボブの教える非二元だけです。

「正念」という言葉が気に入ったので、机の上のいつも見るところに小さな文字で書いておきました。いつも「正念」を忘れないでいようと思います。

2022/12/03

マインドフルネスの本来の意味

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その9」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

私はマインドフルネスの本来の意味を知りませんでした。過去に何度か佐々木先生がマインドフルネスの話をされたことはありましたが、その本来の意味を詳細に説明されたのは今回が始めてです。

マインドフルネスという言葉そのものは、もうずっと以前から知っていました。私の今までの解釈では、マインドフルネス瞑想は、自分の身体、呼吸、思考などを見つめる瞑想というものでした。技法的にはヴィパサナや座禅と同じものだと思っていました。

でも、今回の佐々木先生の説明を聞いて、もともとは仏教の技法であり、単なる瞑想ではなく、その前提として、「私は体ではない」「諸行無常・諸法無我」ということを理解した上で、自分の考えや行動がそこから外れてはいないかと確かめる技法だということを知りました。

Wikipediaでマインドフルネスを調べたら、ちゃんとそう書いてある。もともとは仏教の技法だったものを、仏教的な教えを取っ払い、アレンジして瞑想だけに焦点を当てた技法として西洋社会で広まったもののようです。なんともったいない。一番大切な非二元的な部分を取っ払って、単なるストレス解消法になってしまっている。

私は、マインドフルネス瞑想と似たような瞑想をさんざんやってきたので、もう瞑想は卒業だと思っていましたが、その前提として無我や諸行無常を知った上でやる瞑想だと知った今、話が全然違ってきました。そういうことなら、私は24時間、一種のマインドフルネス瞑想をやっているつもりです。

また、座禅に対する認識も変わりました。禅僧たちは、日ごろ仏教を学んでいて、当然、諸行無常・諸法無我という仏教の教えを学び、そのかたわらで座禅をしているわけです。座禅は、あくまでも仏教の教えとセットになっているのであり、仏教の教えていることを理解して座禅することが大切だとわかりました。

2022/12/02

生の初期設定

盤珪の言う「不生の仏心」や、セイラーボブの言う「自然な状態」というのは、言うならば生まれたままの状態ということですよね。だとすると、人間の初期設定は何なのだろうかと考えます。さらに、人生、人間も含め命の初期設定は何のでしょうか?

私が考えるに、生の初期設定はポジティブなもの、善、良、喜び、光なのではないかと思います。それは、言うならば、ネガティブの反対としてのポジティブではなく、反対のないポジティブ。悪の反対ではない善、良。悲しみの反対ではない喜び。闇の反対ではない光ではないでしょうか。

もし、そうでないなら、「不生の仏心」や「自然な状態」でいる意味はなく、頑張って、善、良、喜び、光の存在になるべく努力しなくはいけません。もちろん、「不生の仏心」や「自然な状態」であるためにだって努力が要ると思いますが、それはまた別の努力になると思います。

私たちは本来、仏心一つで生まれ、自然な状態にいたはずです。それが、社会や環境の条件づけによって、「不生の仏心」や「自然な状態」が見えなくなります。それを見えなくしてしまうのが「私」であり、「私」にまつわる欲望です。

生の初期設定がポジティブなものだと思う理由は、TVやネットで動物の動画を見ている時です。動物には人間のような高度な思考はないはずですから、過去のことをあれこれと思い出したり、明日のことを思い煩ったりしないはずです。でも、何の不自由もなく生きています。

動物の親は誰に教わらなくてもちゃんと子供を育て、仲間を助けます。ウミガメは生まれた瞬間に海の方角へわき目もふらずに歩いていきます。人間も同じです。生まれた瞬間に自分で空気を吸って呼吸を始めます。乳首をあてがってやれば、お乳を飲み始めます。

生存のための本能は、誰に習うこともなく、自然に働くような初期設定になっています。そして、その初期設定は、人生を通して働いているのではないでしょうか。その初期設定を見えなくしてしまうのが、「私」です。「私」があれこれ考え、悩み、条件づけが植え付けられ、初期設定を見えなくしてしまう。

ウミガメは産卵の時期がくれば砂浜に戻ってきます。サケも戻ってきます。人間も、生存のための本能は、利用可能な情報と照らし合わせた上で、最良の答えを選択するように初期設定されているのではないでしょうか。

動物には条件付けが全くないかというと、そうとは言えないと思います。虐待されたペットを見ると、怯えていたり、反抗的であったりします。でも、そうしたペットも、もともとはそうではなかったと思うのです。その初期設定は肯定的なものではないでしょうか。

私達には、見えなくなった初期設定を再認識すること、条件付けの解除が必要です。でも、難しく考えないで、日常的に非二元の教えを学ぶ一方で、何か迷った時は、自然な直観、フィーリングを信頼して行動すればいいのではないでしょうか。何か気が進まない時は止めておくとか、思考はこっちを選びたがっているけど、フィーリングはこっちという場合は迷わずフィーリングに従うという態度が大事な気がします。

恋人になったり、友達になったりする時は、相手を理由づけして選ぶなんてことしませんよね。なんの理由もなく人を好きになるし、なんとなく気の合う人と友達になる。何かの理由で人に近づいても、あんまり良い人間関係は作れません。それと同じで、日々の行動や選択も、初期設定を信頼して自然に任せればいいのではないでしょうか。

そうして選択したら、後であれこれジャッジしないこと。もし直観やフィーリングに従って行動して失敗しても、それがベストな結果なのかもしれません。生の初期設定を信頼して生きることが大切なのではないでしょうか。

2022/12/01

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第16回 (2022年11月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第16回 (2022年11月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

鏡の例えがまた出てきました。

2022/11/30

病気で苦しい時に平気でいられるか

昨日のブログの佐々木閑先生の話で、病気の苦しみを精神的な苦しみにしないという話がありました。それはとても大切な話だと思うのですが、自分はどうなのだろうかと考えると、そう簡単ではない気がします。

少し前に、市の定期健康診断があって、肝臓の数値が基準値を超えていて再検査となりました。再検査をして、その結果が出るまでの日々、結構あれこれと心配して落ち込みました。ネットで肝臓の病気をあれこれ調べたり、人に相談してみたり。再検査の結果は異状なしでしたが、もし重病だったら、とても平然としてはいられなかっただろうと思います。

昨日の話を聞いて、篠沢秀夫さんのことを思い出しました。篠沢秀夫さんは元学習院大学の教授で、テレビのクイズダービーでも活躍された方です。ある時テレビを見ていたら、篠沢さんがテレビに映っていて、ベッドで呼吸器のようなものを付けて奥さんに冗談を言いながらにこやかに会話されていました。

それで、篠沢さんが筋萎縮性側索硬化症 (ALS) を患っていると知りました。ALSという病気は、徐々に体が動かせなくなっていく病気です。でも、その時点の篠沢さんは、クイズダービーに出演していた頃と同じように、にこやかに笑いながら楽しく奥さんと話をしていました。

その後、自力呼吸が困難になり、喉を切開して呼吸の器械を装着したため声を出すことができなくなりました。それでも、パソコンを使って、時には講演もされていたようです。数年の闘病生活の末、2017年に亡くなられました。

私は、テレビで見た篠沢さんの平然とにこやかにされていた態度に驚きました。篠沢さんが亡くなられた時、奥さんが、喪失感が激しいとコメントされた記憶があります。勝手な想像ですが、病床にあっても決して傍らで介護する奥さんにあたったりせずに、にこやかに精一杯生きられたのではないかと思います。

非二元や仏教で教えていることは、病気や困難な時こそ平然と生きていける道を教えているのではないでしょうか。「体は私ではない」ということを深く理解したなら、病気の受け止め方も違うのではないでしょうか。

セイラーボブはロスリバーウイルス感染症に苦しみながらも「だいじょうぶ、万事うまくいくだろうという明瞭な感覚があった」と言っています。また、「どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があった」とも言っています。(『ただそれだけ』p66)

病気や、困難な状況にある時こそ、自分が本当に非二元の教えを理解しているかどうかが試される時なのではないでしょうか? 病気や困難に心まで負けないようにして、周りの人に明るく接し、希望を捨てず、平然と生きていきたいものです。

正岡子規は結核に倒れ、34歳で亡くなりました。寝たきりになりながらも、薬で痛みを散らしながら、死の直前まで創作活動を続けました。そして、こう書き残しました。

「私は今迄いわゆる悟りという事を誤解していた。
悟りという事は、いかなる場合にも、平気で死ねる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きている事であった」 正岡子規「病床六尺」より

2022/11/29

肉体的な苦しみを心の苦しみにしない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その8」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」という言葉を思い出しました。

2022/11/28

不生の物心とは

【曝涼展:生誕四百年を迎えて、改めて盤珪禅師に学ぶ】臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下

これもすばらしい。

2022/11/27

佐々木閑先生のYouTubeの索引

当ブログに掲載させていただいた佐々木閑先生のYouTubeの索引を作りました。このYouTubeを通して見ていただくと、仏教の中にある非二元がよくわかると思います。

「禅・Buddhismni」に掲載したもの

「仏教その他」に掲載したもの(☆印は特におすすめ)

この索引は随時追加の上、「禅・Buddhism」にリンクを掲載します。

2022/11/26

横田南嶺老師のYouTubeの索引

当ブログに掲載させていただいた横田南嶺老師のYouTubeの索引を作りました。(☆印は特におすすめ)

般若心経に学ぶ 花園大学総長 横田南嶺 全六回☆☆☆

この索引は随時追加の上、「禅・Buddhism」にリンクを掲載します。

【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年11月8日(火)

これはもうまるっきる非二元の話です。「二元的世界」「量子力学」という言葉も出てきます。ぜひ見てください。まったくすばらしい。

2022/11/25

仏教のどこに非二元があるのか

仏教と言っても、釈尊誕生以来二千数百年の歴史があり、その全部が非二元の教えだと言ってしまうのはちょっと乱暴なので、具体的に仏教のどこに非二元が鮮明にあるのかについてまとめてみたいと思います。

今現在世界で残っている仏教を大きく分けると、南伝仏教と北伝仏教ということになります。南伝仏教は、スリランカ、タイ、ミヤンマーなど東南アジアに伝わった仏教であり、北伝仏教は三蔵法師などによって、中国、韓国、日本へ伝わった仏教です。

南伝仏教と北伝仏教では、その成立年代と内容が異なります。二千数百年前に釈尊が亡くなるとすぐに、弟子たちの手によって、経典の編纂(最初は口承)が始まります。そうしてできた一連の経典を阿含経(あごんきょう)と言い、それはそのまま釈尊が説いた教えです。阿含経のことをニカーヤとも呼び、それがスリランカ、タイ、ミヤンマーなどへと伝わり、今日でも生きています。この時代の仏教を初期仏教とも言います。

それから数百年後、紀元前後になると、仏教は変異して、インドで大乗仏教が起こります。それがどのようにして起こったかはあまりはっきりわかっていません。もともと一つの教えだった仏教が様々な教えの仏教へと変異し、その総称を大乗仏教と呼びます。

やがてインドでは大乗仏教が主流となっていきます。その後、大乗仏教は三蔵法師などの手によって中国へと伝わり、さらに韓国、日本へと伝わって今日でも生きていますが、インドではヒンドゥー教の台頭やイスラム勢力の侵入により十世紀ごろに消滅しました。

非二元という視点に立って、南伝仏教と北伝仏教の違いについて書きます。ここからは、南伝仏教は阿含経がメインなので、阿含経と呼び、北伝仏教は大乗仏教なので、大乗仏教と呼ぶことにします。阿含経は釈尊の説いた教えです。大乗仏教は突然変異して登場した仏教なので、釈尊の教えそのままではありません。

阿含経では体の存在を認めます。つまり、体は実体があるものとして存在することを認めます。でもそれは五蘊(ごうん)といって、「私」を構成する構成要素の一つにすぎないと説き、「私」は構成要素の集まりであり、そこに実体のある「私」はいないと説きます。要するに、体は存在するが、「私」は存在しない。

大乗仏教では、体も存在しないと説き、体も「私」も実在ではないと説きます。これは、そこには何もないという「空」の思想です。体の実在を認めるかどうかの違いはあるものの、阿含経も大乗仏教も、「私」は実在ではないと説きます。それを「無我」と言います。仏教の根本教説は、無我です。無我とはつまり、「私はいない」ということです。

日本に伝わった仏教は、密教の一部を除くと全て大乗仏教です。当然その教えは無我の教えということになります。

では仏教のどこにその無我の教えが具体的に説かれているかというと、まずは阿含経です。そして大乗経典です。大乗経典の代表は般若心経です。そして、大乗仏教の中のキーワードを挙げるなら、龍樹(りゅうじゅ)、唯識(ゆいしき)、禅です。唯識の中では世親(せしん)であり、禅の中では盤珪(ばんけい)です。

私は、なんとかしてそうした仏教関係の書籍から学べないかと、あれこれの本を読んで、禅・Buddhismを書きました。たしかにそこには非二元の教えがありました。でも、この作業はけっこう大変でした。どれも原典を自分で読めるわけではないので、学者か僧侶の方が書かれた解説本を読むことになりますが、それでも難しい。

仏教の中にある非二元を詳しく学ぼうと思われる方は、禅・Buddhism と、仏教その他 の中にあるYouTubeで学ばれることをお勧めします。それを見たうえで、わからないところを自分で調べるという方法が一番近道だと思います。

仏教の「無我」と非二元の「行為者の不在」を一緒にするなと言われる方もみえるかもしれません。でも、私は同じことを言っていると思っています。これは私だけでなく、セイラーボブをはじめ、多くの欧米の非二元の語り部たちが仏教を引き合いに出して語り始めていることからも明らかではないでしょうか。

セイラーボブは「行為者の不在」を自分で調べて確かめなさいと言います。自分で調べなさいという人はまだ良心的ですが、たいていの人は何の説明もなく「私はいない」と繰り返すか、「私は体験した」の一点張りです。ある意味、説明に深みがありません。

そこへいくと仏教は、たくさんの説明を持っています。その時代や経典によって説明は様々で、深みがあり、納得できるものが多い。私は、非二元の説き方の潮流は仏教をベースにしたものに移っていくのではないかと思っています。

2022/11/24

行動は自然に起こっている

2022年7月10日ミーティング
45:18から

(参加者の男性、ジョゼフが自然な状態ついて質問します。質問の要旨は、もし、結婚相手の女性に魅力を感じなかったら、自分自身に正直でいることと、結婚生活を維持するということは相容れない。自然な状態とはどういう状態なのか混乱しているというもの。次にマイクを取った女性が、思考以前に意識や認識は起こっているという発言をします。そして、次に別の男性、ラッキーがマイクと取って発言します)

50:36から

ラッキー:ちょっと付け足したいと思います。たぶん10年ほど前、こうしたことに興味を抱く前の記憶がひらめたのですが、その頃私は何かを理解しようとしていました。脳のどこでニューロンが始動するのかに関する心理学の本を読んでいました。その本では、もし人が行動を起こそうとする時、あるいは、誰かがあなたに対して行動を起こす時、脳の中の行動を指示するパートが最初に始動して、そして次に脳の一部の前頭葉が思考を生むそうです。

つまり、行動が起きたあとで思考がやって来て、言葉によって、自分がなぜそれをやったかを説明するのだそうです。それを読んでも納得することができませんでした。というのも、行動の後で思考がやってくるということに驚いたからです。そして、そのことは、思考は
理論的に独立してあるのではないということを発見したのだと理解しました。それは文字通り肉体的な事実なのです。

思考は後でやってきて、自分が何をしたかを説明したり、自分が存在することや、自分が知っていることを説明したります。それはまるで誰か他の人が行為を行い、その後で脳の一部がやって来て、これは私がやった。あれやこれやの理由で私がやったと言うようなものです。でも実際は、行動は起こり、その行動の後でそれを説明し、その説明を真実だと思っているのです。そのことが突然はっきりとわかりました。10年前には納得できなかったことです。なぜだかわかりませんが。

(他の人の発言 省略)

59:00から

カット:何人かからコメントが届いています。アマナから。静寂と愛の言語には言葉はない。ラムから。時間を超えた意識を現象と置き換えるのは無知、幻想、マーヤーの誕生だ。JBから。すばらしい発言だった。思考が起きる前の認識はとてもシンプルなため見逃されてしまう。キャリンから。エゴは実際には見つからない。発見者もいない。(コメントおわり)

みなさんがジョゼフの質問に既に答えましたが、私も一言付け加えます。しばしば人々は、非二元とは何だろう、非二元の道徳的立場は何だろう、その特別な宗教は何と言うのだろうと、こっそりとのぞき見しようとここへやって来ます。というのも、あなたはキリスト教へ行き、一夫一婦制でいなさい、同性に興味を持つな、というようなことを言われるからです。イスラム教へ行けば、奥さんは4人までと言われるでしょう。どんな社会も、あなたがどういうふうに生きるべきかという異なる概念を持っています。

でも、非二元では「すべき」だという言葉は使いませんし、「すべき」だとも言いません。なぜなら、その「すべき」に従うあなたはいないからです。私が書いた本のアマゾンのレビューで見つけたのですが、私が倫理的、あるいは道徳的な事柄について書いてないというものがありました。それは不利な点かもしれません。

話は戻りますが、非二元は本質的に、どのように生きるべきかということをあなたに言いません。なぜなら、根本的な理解として、あなたがあなたの人生を生きているのではないからです。生(life)があなたを生きているのです。生があなたを条件づけて、あなたは例えば同性愛などに魅かれます。それはおそらく、条件付けであり、例えば母親が妊娠中のことかもしれず、社会に出てからのことではないかもしれません。集合的な影響です。

それとも、あなたは生まれつき一夫多妻なのか、あるいはその他の何かかもしれません。それが何であろうと、生があなたを通して、認識や行動として表現しているのです。そこで、社会的、文化的条件づけのうわべによって、ラッキーが言ったあの有名なリベットの実験の解釈をもたらします。実際あの実験は多くの大学において繰り返され、行動の約0.5秒後に物語がやってくることが明らかになっています。

今もし、条件づけが、あなたは罪人だと告げたとします。なぜなら、二人以上の女性に魅かれるからです。でも、誰にわかるでしょうか? それは生がそれ自身の物語を表現するやり方の一部なのです。そのせいであなたはそれに溺れるかもしれないし、ひどく苦しむかもしれません。その苦しみのせいで刑務所に入れられ、あなたの母親が悲しむかもしれません。

そして、どこかでさざ波効果が起きて、意識が対応するでしょう。というのも、他の人があなたと交流するでしょうから。あるいは、あなたが明晰さを持つようになり、思考が何と言おうと、それは思考が言っているにすぎないと気づくでしょう。体は条件付けられたように行動します。でもそれは、マインドが、オーケー、どこへでも好きなところへ行って、何でも好きなことをしろ、という意味ではありません。

自由にどこかへ行って人を殺したりレイプしたりしてもいいということではありません。なぜなら、それもまたあなたができることではないからです。なぜなら、自由にどこかへ行って人を殺したりレイプをするあなたはいないからです。あなたが愛、充足感、完全性の感覚を経験する時、もはやあなたは欠乏を感じることはなく、あなたは不完全な可哀そうな私ではなく、自身を修正する必要もありません。

誰かがまちがっていると証明したいとか、誰かから何かを盗まなくていけないとか、誰かを傷つけなくてはいけないという感じは消えてなくなります。なぜなら、そうした衝動はすべて、不完全さと自己の中心からやってくるからです。それは完全なものにならなければいけないという思いからやってくるからです。もしあなたに欲望がなかったら、どうして人の物を盗むでしょうか? 

つまり、非二元の道徳的側面は明晰さがやって来た時は自明のこととなります。そしてそれは即座に起きることではありません。というのも、明晰さは少しずつ現れてくるからです。そして人を傷つけるという古い条件付けが依然として残っています。あるいは、明晰さは一回の爆発で起こるかもしれません。でも、身体とマインドという装置の再条件づけを定着させるにはしばしば時間がかかるものです。どんな物語が現れれようと、どんな状況も新鮮で新しいものです。

でも、もしあなたが、その状況で私はどうすべきか、何が適切かという非二元的スタンスや意見を探しているなら、あなたがそれをここで見つけることはありません。なぜなら、私達はうわべ上の社会的な条件付けや道徳上の教え、宗教のようなものを教えているわけではないからです。私たちはそうしたことを超えた真実を見つけ、その人為的ではない単一性の真実の中でくつろぐのです。そこでのあなたはもはや体でもマインドでもありません。

そして、あなたは自分が意識すなわち空間であると認識し、体とマインドの活動は、副次的なものになります。その意識の空間からの行動はより非個人的なものとなります。自己判断や自己嫌悪、罪悪感という重荷は軽くなります。それによって、あきらかに傷つかなくなり、重荷からより解放されます。そして、もしあなたがパートナーをだましているなら、自身がパートナーをだましていることに気づくでしょう。でも、たとえあなたの体が条件付けや観念から行動したとしても、本当のあなたは空間のような意識なのです。ある時は観念から、ある時は条件づけから行動したとしても、それは同じものの二つの側面です。

2022/11/23

それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です

あなたに必要なのは、その普通の目覚めた状態で座ることだけです。それはそこにあります。それは一番近くにあります。どんな観念化もされず、今まさにあなたと共にあります。それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です。私たちは、それとともに座るのではなく、マインドでそれを理解しようとします。

                        ーセイラーボブー

2022/11/22

すべてがそれなのです

2022年7月31日ミーティング
53:28から

(思っていることを一人一人が順番にシェアしていく中で)

ギルバート:もしすべてのものがそれであるなら、他には何もない。ただ一つのものがあるだけで、他には何もない。この、自己の中心という考えは実際にはフィクションです。それならそういうふうに見えなくてはいけないのですが、自己の中心が存在するという信念のために、すべてのものが分離しているように見えます。そしてそれは言葉やラベルなどによって分割されています。

そしてその自己の中心という信念は、たとえそれがフィクションであっても、うわべ上の限界、自己の中心が保持しているでっちあげた考えや言葉に依存しています。たとえもしそれが実在ではなかったとしても、現れ続けます。つまり、それは見せかけです。そして、見せかけはマーヤーです。つまり、見せかけは実在ではありません。顕現は見せかけです。そして、非顕現が実在です。実在は決して現れません。そのため、自己と呼ばれるもの、すなわち「私」を見つけることができないのです。

「私」を探しても、物語や記憶しか見つからないのです。そして記憶は全く信頼できません。(一同笑う)記憶は過去です。この「私」という考えは、他の人の描写や意見、私に対して考えていることなどに依存しています。物事の常として、この「私」を本当に見つけることができるかを調査することが不可欠です。そして、もし、見つからなかったら、何回調査しなくてはいけないのか? それが実在でないと確実にわかるまでです。

そしてこの分離、分離しているという信念は、精神的な苦悩の原因です。心理的な苦悩は不要です。そして私は誰もどこにも精神的苦悩を歓迎する人を知りません。おそらく、どこかのバカが(苦悩)しようとするでしょうが、それは不必要です。ボブは指摘しています。それは知性エネルギー。知性エネルギーがすべてを行っていると。それが単一性として自身を表現していると言うことができます。

そしてすべてのものは、たとえ限界でさえも知性エネルギーなのです。それがパターンとなって現れています。自己の中心の限界は、エンライトメントしようとすることや、自己を束縛から解放しようとすることなども幻想の一部だということです。なぜなら、もともとそれは最初から存在していないから。どうしてそれを解放することができるでしょうか? 

あなたが実際には入ってない牢屋から外にでることはできないのです。あなたは刑務所の設計図を持っていて、それを調べてトンネルを掘ろうとするかもしれません。私はあの物語が好きです。あの名前は何だったか……。モンテクリスト伯。彼は刑務所の中にいて、ある独房から地面を掘って、別の独房に出てしまい、最終的にはその男が死ぬのを待って、その男が体を包んで海に投げ捨てられたあとで、その死体を引き上げて自分の独房に入れて、穴を戻したあとで自分を包んで海に飛び込んだ。そうやって自由になった。

それは全く複雑だった。でもそれが私に希望を与えた。もし、私がすべてを整えたら、私は解放されると。でも、自己の中心はフィクションです。それは、あらゆる種類の限界を持っているように見える。でももしその限界を調べてみると、それはフィクションです。というのも、それはすべて空想上のキャラクターだからです。つまり、すべてがそれなのです。

私がそれなのです。そしてすべの顕現が自然の中の美しいものとなって現れているのです。例えば、昆虫や鳥などを調べてみると、それはすばらしいものです。でも、彼らには心理的な苦悩がありません。鳥や動物。そこにいる猫。それには心理的苦悩がありません。それは単なる存在で、心地良く動いたりしていて、いわゆる人間的な心理的苦悩がありません。ええと、永久に(話を)続けられそうですが……。

参加者:続けて(笑い)

ギルバート:どうぞ続けてと言われても、もうない。(笑い)最初、ボブの最初の本で、最初の一行は、「もはや今以外に神はいない」だったと思います。そしてそれをタイプしている時、それはとても興味深いことだと思いましたが、それ以上はもうありませんでした。私たちは、もっと欲しがります。私たちは少なくではなく、もっと欲しい。自分をもっと安全で安心するようにもっと欲しい。でもそれはフィクションです。もし本当にそれが実在ではないとうすうす感じたり、味見をしたりして、重荷が降りたような感じがしても、それでもドラマは起こってくるのです。あらゆる種類のドラマが続きます。それは心理的な苦悩です。

2022/11/21

そこには選択者はいません

選択肢が現れ、選択や好みがそこにあるかもしれませんが、そこには選択者はいません。決定は下されますが、その決定を下している存在はいません。
                                                                          -セイラーボブー

2022/11/20

【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年10月11日(火)


今回も素晴らしい内容でした。海と泡の例えは非二元の話を聞いているようでした。

2022/11/19

「あなた」は虚構のキャラクター

2022年8月7日ミーティング
1:07:28から

(一人一人が考えていることを順番にシェアしていく中で)

ギルバート:人が認識できる一つのことは、見ること、見る活動は自然に起こっているということです。そして、「私」は何もしていません。そこには見ることをやっている人はいない。ただ自然に起こっているだけ。それは知る働きにも同じことが言える。認識活動は自然に起こっている。そしてこれを認識すると、ものごとはそのように起こっているとわかる。生そのものが自然に起こっている。

そして私たちはそれに意味を与え、組み立て、個人の物事を付け加える。でも、私がかつて最初の瞬間とよく呼んでいた瞬間は、自然の見ること、知ることがあるだけで、そこには何も存在しない。最初の自然な動きの中には何か存在がいるという観念はない。そして、社会や他の人と接触することによって「私」という考えが生まれる。でも、役に立つ質問は、私はどこから見ているかというもの。実際に私はどこから見ているのか? 

そして、「私」はフィクション、物語だということがわかる。物語は何も見ることはできない。言葉は何も見ることはできない。考えは何も見ることはできない。つまり、「私」は何も見ることはできない。でも、物事の性質上、「私」は見ることを借りてきて、生き残るために自身の物語を組み立てる。というのも、人生は外の世界ではジャングルのようなものだから。でも、自然に起こる現象の性質に立ち返ると、それをやっているのは私ではない。そこにはそれをやっている「私」はいない。それはフィクション。

あなたは何もすることができない。それが、それの現れるやり方。そして、それに逆らうのは意味がない。でも、あなたはそれをあるがままに見ることはできる。すると、そこには解放感がある。というのも、あなたはたいてい選択できるから。あなたは「私」の思考に従う必要はない。というのも、それはいつもトラブルやドラマへと導くから。「私」は生き残らなくていけない。

たとえば、トイレットペーパーのパニックを覚えているでしょう。なんと奇妙なことだったことか。誰もかれもがあらゆるトイレットペーパーを買いあさった。それはとても奇妙な生き残り競争だった。人々は自分の尻を拭かなくてはいけない。それが最も大切なこと。(別の参加者が何かジョークを言うが聞き取れず)。いずれにしても、どこから私が見ているのか、それは本当に役にたつ質問です。そしてあなたは実際にはそれに答えることはできない。でも、見ることは起こっている。

参加者:私はあなたが例えとして使うミッキーマウスが好きよ。物語上のキャラクターについての話。

ギルバート:私が子供の頃、随分昔。私が子供だった頃。ミッキーマウスは漫画の大きな存在だった。映画を見にいくといつもミッキーマウスの漫画だった。グッフィや他もいた。ミッキーマウスは虚構のキャラクターだ。それは「私」のようなもの。「私」も虚構のキャラクター。でも、あなたは漫画を見ることができる。ミッキーマウスがスクリーンを飛び出して、あなたのアイスクリームやポップコーンをつまむことはない。そんなことは起きない。つまり、ミッキーマウスはキャラクターだ。「自己」というイメージも同じ。

自己というイメージも、固定された永遠にあるというものではない。それは絶えず変化している。そしてそれはとてももろい。誰か他の人がそのイメージに何か意義を唱えたり侮辱したりしただけで大騒ぎになる。「私」は単なるミッキーマウスにすぎないと理解するのはいいことだ。ウオルト・ディズニー。ディズニーランドは巨大だ。たくさんのものがある。何を求めてディズニーランドに行くのか。ミッキーマウスの衣装を着た人が歩いていさえする。それは子供たちにとってはすごいこと。でも、大人になったら……。

参加者:コスチュームパーティ。

2022/11/18

探求が終わっても古い頑固な習慣が消えるわけではない

2022年11月6日ミーティング
1:01:38から

(ある女性『サロジャ』が、ボブの話を聞いて楽になる時はあるが、ハートのあたりに重苦しい感じがあって、それがどうしても去らないと質問します。それに対して周りの人があれこれコメントしたあとでカットが発言しました)

カット:みなさん素晴らしいコメントをありがとう。サロジャ、一言だけボブがいつも強調して言うことをもう一度繰り返して言いたいと思います。私たちはもともと存在しているものを理解します。その時、何の障害もなく、思考の雲もなく、重苦しい感じもありません。それは自然な状態ですが、その自然な状態は時々何かが注意のフィールドに入ってきて邪魔をして不鮮明となります。それはひょっとすると肉体的な重苦しい感覚かもしれません。

もしそれが、物語を伴わない感覚にすぎないのなら、医療関係の専門家に診てもらうというのは良い考えかもしれません。それが何か肉体的なものかどうかは誰にもわかりません。というのは、通常、感覚がやってきた時、それは体の中で何かが注意を要求しています。それは調べてみる価値があることかもしれません。もしそれが肉体的なものでないなら、思考がやっています。たとえば、「私には価値がない」「私は自身の可能性を浪費している」「私はそれを手に入れられないだろう」。

そうした思考があなたの魂を押しつぶし、ハートを閉じさせているのです。私の人生もほとんどそういう状態だったからわかるのです。そしてそれがひどい重苦しさを生み出すのです。でも、それは思考です。そしてその思考は、存在意識の静寂の側から認識されるのです。あなたは、重苦しさを、重苦しさを超えた地点から認識しているのです。あなたはそれを一個の物として描写します。あなたは思考を一つの対象物として描写します。そしてあなたは純粋な主体性です。

実のところあなたは、たとえひどく押しつぶされそうな苦悩のさ中であっても、それを平安な場所から見ているのです。そして、もともといつも存在する場所へ戻り続けるだけでいいのです。なぜなら、もともとあなたはその自然な状態であり、それはもともと存在するものだからです。それは誰も判断しない解放された空間であり、そこには好き嫌いはありません。空間はすべてを含んでいて、すべてを歓迎し、すべてを愛しています。それが本当のあなたです。それはもともとここにあります(自分の胸を指さす)。

その中のその重苦しさは、やって来て去っていきます。幸運にもそれを聞けて私は嬉しいです。それはやって来て、去っていき、小休止が訪れます。あなたのハート全部、注意力全部を、その小休止の瞬間を見抜くために注いでください。何が、そしてどうやってそれが不鮮明にしているのかを見てください。最初にボブが重要なアドバイスをしました。そこには私がいるように見えて、それが行為をやっているように見えますが、そうではありません。それは単に共鳴しているにすぎません。

マインドを見つめて、それがどのように機能するか、何をしているかを見てください。何がそれを引き起こしているのか? 興味を持ってください。それは、現象として現れた生の本質が形となって現れていて、それが唯一のやり方なのです。あなたの体が一番近くにあるものであり、それがあなたの乗り物なのです。それがあなたに見るための目を提供しているのです。それが唯一密接に知っているものです。そのプロセスを楽しんでください。というのは、あなたがその調査に全力でハートを注げば、それはいとも簡単に明らかになるからです。

私の場合もボブの場合も他の人の場合も、それはとても大きな瞬間(ではなく)、それは一回の花火の爆発のようなものではありません。というのも、それは何かが突然あなたに付け足されるような瞬間ではありません。それは単に重しが落ちるようなものです。それは突然雷に打たれてショックを受けて、解放されて、神聖になるといったそういうものではありません。全然そんなことはありません。

それはまるで何か重荷を下ろすようなものです。大多数の人にとって、それは徐々に起こります。そうした瞬間が少しづつ頻繁に起こるようになり、思考ももっとしばしば認識されるようになります。たとえボブや私が、うわべ上の自己、構築物は即座のものであると見破ったあとも、思考は依然としてやってきました。思考は依然としてしばらくはぶらついています。何年も経つ間に、ぶらつきは減っていきます。なぜなら、思考はエネルギーから燃料を得るからです。思考は注意を引かなくなり、エネルギーを得ることは減っていきます。

もし、イメージの解体が即座ではなかったとしても、行動や反応のパターンは崩れて消えていきます。7年前、私は依然として狂信的にヴィーガンを信じていました。それは真実(だと思っていました)。もちろんそうではありませんでした。もしあなたが誰かにその考えは真実かと聞けば、ノーと言うでしょう。でも私はそれを疑問に思いませんでした。今でもそれを疑問に思ったことはありませんが、今はその信念が不在なのです。もうそれはありません。そうした生きた例が真実として働きます。ジェーンが言ったように・・・・真実が嘘を食べ尽くすのです。それはある意味、石や障害物を取り除くようなものです。それは自然な光を邪魔しているヴェールを取るようなものです。

ジェーン:一言添えたいのですが、カット。かつて私は「アイ・アム・ザット」を読んで、ボブの話を聞き始めました。私はその時点で自身の探求が終わったことを知りました。というのも、私は見破ることができたからです。あなたが言ったように、私は、「私」、仮定の私の物語を見抜くことができたからです。でもそれは、頑固な古い習慣が消えたということではないのです。そこには、二歳半ごろから続いている分離した自己に対するたくさんの自己同化がありました。つまり、自己の探求は終わったと知ったにもかかわらず、古い習慣がしつこく続くというシナリオが確かにあったのです。でもひとたびボブ(の言葉)と本当に共鳴したら、彼が本当のことを言っていると知りました。なぜなら、あなたが言ったように、私たちはもともとそのことを知っていたからです。私たちは皆そうした瞬間があります。なぜなら、もともと一度も分離したことはなかったからです。

カット:まさしく。すばらしい言葉でした。その点を見てください。とても上手に言葉にしました。「おー、私はエンライトメントを達成した」と言う代わりに。そこには達成する私はいません。でも、探求は落ちていきます。終わったのです。探すものは何もありません。なぜ? なぜならそこには何かを探す誰かはいないからです。それが解放です。そこに、何か違うものを欲しがる人はいません。そこには、違ったものになるようにと、頭に髪の毛が一本欲しい人は誰もいないのです(ボブの頭をなでる)。このあごひげ。(一同笑う)。違ったものになる必要は何もないのです。なぜなら、そこには、この完璧な瞬間、今この瞬間に対して抵抗する人は誰もいないからです。それが歯痛であろうと、老齢であろうと、すべて。それに抵抗する人はいないのです。それが解放です。それが自己からの解放です。でも、それは自己のためではありません。そこには解放される自己はいないのです。

2022/11/17

佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します

昨日の横田南嶺老師のYouTubeはまことにありがたいものでした。私は、仏教関係者の方たちが、悟りをどういうものと思っているのか、もっと詳しく知りたいと常々思っていました。仏教学者の方たちが悟りをどうとらえてみえるのかは、過去にこのブログで書きました。(参照:悟り

学者の方たちは、悟りとは、いわゆる突然至福に包まれるようなエンライトメント、覚醒のようなものではない、とおっしゃっているのは知っていました。仏教関係の本を読んでも、学者の方で、いわゆる突然のエンライトメントや覚醒を悟りととらえて書いてみえる人はいないように思います。

ところが、ある時ネット上で、ある僧の説く座禅のことを読んだところ、その僧が言うには、座禅は必ず悟り体験をした人から学べというのです。それを読んだ時、「この人は何もわかっとらん」と思ったものです。でも、ひょっとすると、悟りをそうした突然の体験ととらえている僧がたくさんいるのではないかと思うようになりました。

それ以来、僧侶の人たちは悟りをどういうものと考えているのだろうと思うようになりました。それが、昨日の横田老師の話を聞いてスッキリしました。円覚寺は臨済宗のお寺であり、座禅を教えていて、かつては鈴木大拙も参禅したほどの名刹です。その由緒正しい円覚寺の管長から、はっきりした言葉をいただいて、やはり悟り体験などないと納得しました。

仏教の中に非二元の教えがあると聞いてから、仏教関係の本を読み始め、確かに初期仏教や唯識の中には非二元と同じ教えがあるとわかりました。そうした本を書いてみえる学者も僧侶もたくさんあります。諸法無我、私は実在ではないという教えです。それで、そうした本を題材に禅・Buddhismをブログに書いていきましたが、なかなか非二元的なくだりに行き着けず時間ばかり過ぎて苦労しました。

そのうちに佐々木閑先生のYouTubeを見るようになり、そこには非二元の教えがわかりやすく説明されていると知りました。もちろん佐々木先生は非二元なんて言葉は使いません。でも、内容は非二元そのものです。最初から佐々木先生のYouTubeを知っていたら、禅・Buddhismを書くことはなかったと思います。

そこで、改めて仏教その他というラベルを作って佐々木先生のYouTubeをたくさん載せるようにしました。その関係で横田南嶺老師を知り、老師のYouTubeを見てまた驚きました。老師は盤珪や般若心経を題材にして無我を教えてみえて、それがまたわかりやすい。お二人とも、コロナのせいで講義や法話ができずにYouTubeを始められたそうです。私はお二人のYouTubeがなかったら、仏教の中にある非二元をこれほどクリアには理解できなかったと思います。

改めて佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します。おかげで、仏教の中にある非二元を深く知ることができました。佐々木先生のYouTubeは全部見ていますし、今でもフォローしています。老師のYouTubeも毎日見ています。

佐々木先生や横田老師のYouTubeからは、どうしても私のブログに載せた方がいいだろうと思われるものだけを載せているのですが、本当はもっとたくさん載せたいと思っています。例えば、佐々木先生のYouTubeは、私が最後にブログに載せたもの(佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その4」)からもうすでに二回分新しいものが公開されています。

その二回分のどちらも、見ようによっては非二元の教えに通じるもので、ブログに載せようか迷った挙句、止めました。というのも、あまり仏教のYouTubeばかり載せても、興味のない人は見てくれないような気がするのと、セイラーボブの非二元についてのブログが、仏教のブログになってしまいそうに思えたからです。

今後は、どうしても載せるべきだと思うものに限って載せていくことにします。横田老師のブログにも、載せようか迷ってやめたものがたくさんあります。仏教に興味のある人はぜひご自分でフォローしてください。きっともっと仏教に対する理解が深まると思います。

2022/11/16

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

15:09から抜粋

(現実の世界は夢であるという話に続いて)

夢の中で気がついたと言っても、それもまた夢の悟りにしかすぎない。本当の悟りというのは、夢の中で悟ったというんじゃなくて、その夢の終りでございます。自分自身を悟った!と、そんなことを言う人が、こうよくあります。

座禅の修行をするとよくございます。私はどこどこで悟りを開いた、見性したと。だいたいそういうのは夢の中で夢を悟っているようなもんでございまして、そういうことは、そういう夢が一切終わりを告げると、悟ったの悟らないの、うんぬんということは全く言わない、そんな沙汰が止んだ時こそが真の安らぎなのでございましょうけれども、夢の中でどこかで座禅して、見性した悟ったと、それもまた空の悟り。

空の悟りだとわかればまだいいのでありますが、本当に悟ったと思っているんですね。それでまた苦しみを生み出します。お前は悟ってないからダメだ、なんてことを言い出すのでございまして、なかなか人間というのは難しいもんでございます。

***************

いや~、よくおっしゃって下さいました! 一瞥体験や悟り体験を自慢げに説くどこかのクソ坊主に聞かせたい。(格調高いブログを目指しているのに、つい汚い言葉を使ってしまって申し訳ありません。あまりに痛快だったものですから)
今回もまったくすばらしい内容でした。

日本にはこんなにも素晴らしい非二元の教えがあるのに、学ばない手はないと思います。私たちは、外来の非二元だけではなく、仏教から学ぶべきではないでしょうか。ある意味、その方がわかりやすく、近道だと思います。仏教なら何でもいいわけではありません。おすすめは佐々木閑先生と横田南嶺老師です(私はそれしか知りません)。この二人の教えはセイラーボブの説く非二元の教えと何ら矛盾しておらず、根本的には同じことを説いています。

2022/11/15

世界(十二処)のどこにも「私」はいない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その4」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)


この話は一見非二元とは関係ないように思えますが、「執着」「すべてのものをプレーンに見る」といったフレーズは、非二元と大いに関係がある気がします。

私も執着のかたまりです。ドリアンはそれほど好きではないのですが、パパイヤは大好き。
いくら信心銘で「区別はいかん!」と言われても、区別してしまうし、セイラーボブが「好きとか嫌いのラベルを貼るな」と言っても好き嫌いもある。現象の世界にいるんだから、まあ、しょうがないですね。

2022/11/14

物は実在か

昨日のブログの佐々木閑先生のYouTubeはとても有意義な内容でした。そこで、物は実在かということについてもう一度考えてみたいと思います。今までこのブログで何度も書いてきたことと重複しますが、重要なところですので、どうぞお付き合いください。

私は、初めてセイラーボブのミーティングに出たころ、エジプトのピラミッドは本当にあるのかと、よく考えていました。それは私の意識の中にしかないのなら、実在しないことになる。でも、私がピラミッドのことを考えたとたんにピラミッドは出現するし、飛行機に乗って見に行けばちゃんとある。じゃあ、私が寝ている時はどうなのか。そんなことを考えて混乱していたのを思い出します。このあたりが、非二元の教えが一般の人に敬遠される原因なのではないでしょうか。

体は実在か。この問いを、佐々木閑先生の説く仏教でおさらいしてみると、仏陀は、体はあると言った。初期仏教の阿含経(ニカーヤ)でも体はあると説いた。体はあっても、それは構成要素(五蘊)にすぎず、そこに実体のある「私」はいないと説いた。そして大乗仏教が登場し、唯識の教えが現れると、体もない、すべては無であり、空であると説いた。初期仏教の阿含経でも、唯識でも、実体のある「私」はいないと説いている。

セイラーボブはどうか。セイラーボブは、阿含経の時もあるし、唯識の時もある。例えば、「実在の定義とは永遠に変わらないものです。体もやがては消えていく。実在ではない」と説く時もあれば、鏡や映画のスクリーンを例に出して、「あるように見えているにすぎない」という時もある。私は、初期の段階では、じゃあ一体、セイラーボブは、体はあると言っているのかないと言っているのかどっちなんだと思ったものです。

現象の世界にある体は存在していて、やがて消えていくけれど、実在の世界ではもともと体は存在しないというのが非二元的な説明なのでしょうけど、こんな説明は何かダブルスタンダードな気がします。

現代の科学は、どちらかというと、唯識に近い方向、そこには物質はないという方向に向かっています。私個人はどう思っているかというと、世界(物や体)は人間が勝手に脳の中で構築しているものにすぎないと思っていますが、その真偽は確かめようがないと思っています。

どこまで突き詰めて考えたとしても、私たち人間は、五感と意識という道具でしか世界を認識できません。五感も意識もなくて、そこには何があるのか? 先日掲載したミーティングの質問にもありましたが、地球上から意識のある生物が消えたら、そこに世界はあるのか? それは、誰にも確かめようがないことです。もし、五感も意識もなしで確かめようと思ったら、体の外に出て、外から五感以外の方法で確かめなくてはいけないのですが、それは誰にもできません。

ピラミッドが実在かどうかは、誰にも確かめようがないことです。私たちは、五感と意識で世界を認識しています。もし、私たちが視覚を失ったら、ピラミッドは見えません。でも、手で触れば石があるのがわかるじゃないか、と言うかもしれません。では触覚を失ったらどうですか? いや、視覚も触覚もなくても、見たり触ったりできないだけで、ピラミッドはあるだろう、と言うかもしれません。

でも、ピラミッドがあるだろうと推定しているのは意識です。その意識も失くした時に、そこにピラミッドはあるでしょうか。視覚も触覚も意識もなくても、ピラミッドはあるだろうと言うかもしれません。でも、あるだろうと想像しているのは、あなたの今ある意識です。その今ある意識がなかったら、どうですか?

それでもそこには何かがあると言われる方は、量子力学のYouTubeでも本でもかじってみれば、私たちが意識でイメージしているような物は存在しないと知って驚くに違いありません。あのピラミッドは、私たちが石や空というものを知っていて、それを脳の中で組み立てているにすぎません。極端なことを言えば、一人一人のピラミッドはそれぞれ別々のものなのです。

あの三角推の、石でできたピラミッドは、私たちの意識の中にしかありません。そして、そこにあるものが本当はどういうものなのか知る方法は、今のところありません。確かめようがないのです。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

唯識の教えが、脳科学や量子力学などの現代科学、そして非二元の教えと同じことを説いているのは驚くべきことです。昨日の佐々木先生のYouTubeは、非二元を理解する上でも非常に重要なところだと思います。非二元の世界を見た人は誰もいません。阿頼耶識を証明できないのと同じです。

物は実在か。それは誰にも確かめようがありません。でもそれは「行為者の不在」、「私は実在か」を知るうえでは、あえて言うなら、どちらでもいいことです。物が実在であろうとなかろうと、体が実在であろうとなかろうと、「私」が実在ではないことに変わりはありません。「私」が実在ではないということを理解することが最も重要なことです。

2022/11/13

「私」とは予想にすぎない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木先生が唯識の教えを説明するのに、「(世界)全体が映画のスクリーンのようなもので、終わってしまえばそこにはスクリーンしかない」と言って、世界を映画のスクリーンに例えられたのには驚きました。

非二元の教えは唯識の教えに近いのですが、それでも最終的には予測が残ります。非二元も、詰まるところは、それを見ることも体験することもできません。ただ、そこに至る思考の過程はセイラーボブの教える非二元も佐々木先生の教える仏教もよく似ていておもしろいです。
このYouTubeは殿堂入りです。今まで私が仏教について書いてきたエッセンスがここにある。すばらしい!

2022/11/12

私(我)はどのように生まれるか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その2」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

仏教では、我(私)はどこにもないということを説明するために、五蘊や十二処を使うという説明が印象深かったです。これも素晴らしい話でした。

仏教の話はあまり載せないでおこうと思ったのですが、この際、佐々木先生の素晴らしい話が続く間は載せていこうと思います。仏教における「行為者の不在」の説明は、非二元論者の通り一遍の説明と違って、深くて論理的な気がします。

2022/11/11

十二処・人はどのように世界を認識しているのか

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その1」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)


諸法無我(私は実在ではない)の論理的説明です。
この話は、現代の脳科学に近いものがあり、かつそれよりも論理的な気がします。
個人的には、行為者の不在の説明は、非二元やアドヴァイタよりも、佐々木先生の教える仏教の方がはるかに論理的で納得できる気がします。

2022/11/10

どうしたら、あなたが見ているものを見ることができますか?

2022年8月21日ミーティング
34:44から

ボブ:これくらいで(spiel:講話は)十分ですね。カットのところへ質問が来ていると思います。そして、みなさんも、もし質問や疑問があったら、言うことをためらわないでください。あなたが掴んだことや理解したことを言うことをためらわないでください。みなさんは全員、しばらくはここへ通っている人です。もしみなさん全員がちゃんと理解したなら、もう戻っては来ないはずです。それで、あなたたちは一体何をしにここに来ているのですか!(一同爆笑)

参加者:あなたを愛しているからです!(一同笑う)

ボブ:自分を愛してください(笑う)。とにかく、始めましょう。

カット:今日は20人がオンラインで参加していますが、質問は来ていません。今日のミーティングは(ここにいる)あなたたちのものです。

途中省略 50:04から

参加者:私はいまだに実現することが難しいのです。私はあなたの言うことを理解しました。私はこのことをあなたに言ったのですが、私はその状態に入って行くことを(いつまでも)やり続けたくはないのですが、未だに……。私はそれを感じたい。私はそれを実現したい。でも、私は未だに、その実現、その感覚に入っていくのが難しいのです。私はやりたくないのですが、私のやっていることの何が間違っているのでしょうか? 私は間違ったことは何もやろうとしてはいないのです。サットサングなどを聞いている時はとても良い状態です。でも、そこから出て、他の家事をやる時、もうそこには私は全くいなくて、家事にかかりきりになってしまいます。でも、私はそこにいたいのです。私はあなたが見ているものを見たいのです。私はあなたがいる場所にいたいのです。どうやって……。私の何が間違っているのでしょうか?

ボブ:(それを)やろうとすることです。(一同笑う)

カット:ええ、素晴らしい。

ボブ:たとえば、あなたがそのことを考えている間、呼吸を止めましたか? 

参加者:呼吸はしています。

ボブ:感じることを止めましたか? あらゆる知覚は働き続けています。でも、あなたはそれを、想像上の個人の感覚、私に結びつけています。あなたは依然として見て、聞いています。食物は消化されています。それは外の自然のようなものです。地球は太陽のまわりを回っています。

地球は、自分が太陽のまわりを回っていることについて何か知っていますか? 知りません。それは回り続けています。そして太陽は地球のことを何も知りません。自発的な自然の機能が起こり続けているのです。それは自発的な自然の命なのです。それがあなたであり、そこで生きているのです。

でも、言葉を学んだ時、私たちは観念や考えを手に入れ、それが現実だと思ったのです。それを、ありのままに見てください。もしそのことを考えなかったら、今何が問題ですか? それでも、試みなければ、思考を止めることさえできません。あなたは考えることを止めようとしますが、できません。でもあなたは、止めようとわずらう必要はなく、そのままにしておけばいいのです。

作為のない単一性の中に休止させておけばいいのです。地球が依然として太陽の周りを回っているように、あなたの心臓は依然として鼓動し続け、髪の毛や爪も依然として伸び続けています。あらゆる命が自然に動き続けています。観念や考えをそれに固着させないで。その状態になろうという考え、この存在、すなわち個人が何かになる必要があるという考えに囚われないで。その存在とは何ですか? あなたは誰ですか? 

参加者:私はそれです。

ボブ:それ。その通りです。その中へ入っていくと、それは何ですか?

参加者:それは無です。

ボブ:それは無であり、すべてです。あれは椅子。あれはカーペット。あれは私。この部屋にいるすべての人がそれです。木や花、全部がそれです。自身がそれであるとわかりますか? そして何が起こるのか見てください。その中へと落ち着いてください。あなたの顔にも笑顔がやってきました。(笑う)

カット:そしてまた探求者に一般的な特徴として、時々私はそれとともにいて、連れ出されたあとは、それとともにはいない、家事で忙しい時、それは去ってしまうというものがあります。残念なことにそこには信念があって、それは、私が瞑想している時は成し遂げていて、心地良い感覚があるのに、皿洗いをしている時、そこには心地よい感覚がないというものです。

でもそれは、その心地良い感覚や喜びや光を見つけてキープしなくてはいけないというものではないのです。それは、命は意識の解放的な空間であり、常にあるということを理解するということなのです。それは、あなたが忙しかろうと、座っていて何かを体験していようと、常にあるものです。それはあらゆる体験以前にあるものです。あなたは、ボブが見ているものを見て感じたいと言いましが、私たちが指し示しいるものは、ボブが体験している感覚的な体験以前にあるもののことです。

それは、心地良いとか心地よくない以前にあるものです。この生き生きとしたもの、この存在。ボブがあなたに、「今、意識がありますか?」と聞く時、あなたには常に意識があります。でも時々は、より意識的であり、時々は意識的ではないかもしれませんが、意識が本当のあなたです。そして、マインドが見ているとかいないとかしているものは、それではありません。

それは、根底にある空間にくつろいで入っていくということなのです。ボブが言うように、「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」。何も問題ではありません。その根底にあるものは常にそこにあるのです。でも、探求するマインドは言います。「でも、今はまだその状態にない」。でも、今あなたがその状態にないのなら、あなたは死体です。それはそこにあります。

それがあなたの心臓で鼓動しています。それが、いつも、ずっとそこにいて呼吸しています。でもマインドはイメージを持っていて、「いいえ、それはエンライトメントではない。それは自由ではない。私は笑っていない。私は幸せではない」と言います。ええ、いいでしょう。それはそこにあります。でも、それ以外の場所はどうですか? そこには何か別のものがあります。そこには微妙な考えがあります。

これは良くない。これは十分ではない。私はボブが言うような状態にならなくてはいけない。私は何か別のものにならなくてはいけない。これはいつもそこにあるのです。あれもいつもそこにあるのです。その上で、いいえ、これでは十分ではない。まだ私は到達していない。ここにはまだ「私」がいる。私はそれを取り除かなくていけない。私はあれこれをしなくてはいけない。そうしたことは心理的なおしゃべりなのです。それは内側のトークです。

そしてボブが「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」と言うように、あなたが考えなかったら、おしゃべりはどこかへ行き、私はまだそこに到達していない、ボブは私とは違う何かを見ているという考えは消えます。そこにはそういった考えはありません。すると今、ふ~。そのリラックスの瞬間、あ~。それです。でもマインドは言うでしょう。「いや、それはそれではない。私はまだ至福を経験していない。それはそれではない」。

でも、それなのです。そのように、ハートの本質に、ある意味でなること、あ~、となることがもっとも大切なことであり、マインドが言うことが大切なのではありません。生き生きとしたものを直接体験することが成熟してきます。というのも、マインドは空全体を覆いたいのですが、マインドのあちこちの小さな割れ目から輝きがもれ始めて、小さな裂け目ができて、輝いて開き始めるからです。

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この動画の最後で、ズームによるミーティングは無料ですというアナウンスがあります。参加希望の方はボブのホームページで確認してください。

2022/11/09

そうかもしれないし、そうではないかもしれない

2022年10月30日ミーティング
56:35ぐらいから

参加者:ボブ、あの話をしていただけないかと考えていたところです。人生がどのように人を行くべき場所へと導いていくかという話です。ある男とケガをした息子のあの話をしていただけないかと。もし覚えてみるなら。

カット:中国の占いの人に関するもののことですか?

参加者:ええ、あれは素晴らしい話です。

ボブ:とてもシンプルです。中国の話です。ある農夫が一頭の馬を持っていました。近所の馬を持っていない貧しい農夫がやって来て言いました。「あなたは馬を持っている。素晴らしい。あれやこれやをすることができる」。農夫は答えました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。

二、三日すると、馬が囲いから逃げて姿を消しました。すると人々がやって来て同情して言いました。「あなたは馬を失った。それはとても不幸なことだ」。すると農夫は、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と言いました。

数日後、逃げた馬が数頭の馬を連れて戻ってきました。すると人々は、「今や馬が4、5頭になった。これはすごいことになる」と言いました。すると農夫は、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と言いました。

農夫の息子が馬を馴らそうと馬に乗って投げ出され、足の骨を折りました。人々はやってきて同情し、「これはひどいことになった。息子さんは足の骨を折って、あなたを手伝うことはできないだろう」と言いました。そうして話は続きます。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。

数日後、戦争中の兵士が徴兵にやって来て、人々を軍へと連行しました。村人たちの子供たち全員を連れていきましたが、足の骨を折っていた彼の息子は連行されませんでした。人々は「あなたは幸運だ」と言いました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。そういう話です。この話ですか?

参加者:ええ、そうです。(一同笑う)

カット:素晴らしい話です。みんなや私のそれぞれの人生で起こる好例です。もし何かが悲劇のように見えても、それが素晴らしい贈り物に変わる。それは解釈にすぎないのです。

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セイラーボブが「塞翁が馬」の話をミーティングでしたのを聞いたのはこれが初めてです。LIVING REALITY の中では出てきたと記憶しています。

この故事は、たいていの場合、「人生は何が起こるかわからない」とか、「災い転じて福となす」と解釈されているようです。でも、そうではなくて、「良いとか悪いとか判断するな」というのが本来の意味ではないでしょうか。少なくともボブはそういう意味で使っているようです。何かが起こって、それを良いことだ、悪いことだと判断しているのはマインドにすぎません。良いとか悪いとかラベル貼りをしなければ、それはあるがままであり、そのまま過ぎていく出来事にすぎません。