2023/03/30

そのままにしておいてください

2023.3.19ミーティング 33:30から

カット:20人あまりの人がオンラインで参加しています。遅れてやってきた人も含めて、あらためてようこそ。オンラインで参加している何人かから挨拶が届いていて、マヤからとても良い質問が届いています。それを読むことから始めたいと思います。

「私は絶えず落ち着かない感じがして、気がつくと、いつも自分のマインドを変える方法へと手を伸ばしています。呼吸のエクササイズ、コーヒー、ティー、機能性飲料、運動など。手元に何か満足できるものやリラックスさせてくれるものがないと、ただその瞬間に座っていることができないと気づきました。その瞬間を認識できるようにマインドの状態を変えたいという思いがいつもあります。それは、私のマインドが私にトリックを仕掛けているのです。そうでないとしたら、私をけしかけているエネルギーは一体何なのでしょう?」

ありがとう。すばらしい描写、すばらしい質問です。この瞬間が十分ではない、意識の中にもっと喜びが欲しいと思わない人がいるでしょうか。今日、トラムの中で若い人たちが絶えずソーシャルメディアをチェックしてそわそわしているのを見ました。あたかも今日のゴミ情報の象徴のような光景でした。

それをはっきりと言ってくれてありがとう。そこから始めたいと思います。ボブ、何か言いたいことがあるでしょう? 初めにどうやってそれにアプローチしますか? それはもう始まっていて、あなた(投稿者)は実際には意識であり、落ちつきのないマインドに気づいていて、さらなる喜び、さらなる興奮、さらなるリラックス、今よりももっと完璧に今にいたいという欲求に気づいているのはすばらしいことです。そこから始めます。(ボブを見て)何か話したいですか?

ボブ:いいえ。誰か他の人に。

カット:(誰か)お願いします。

参加者A:特に何か意見があるわけではなく、気づいただけですが、あらゆる物事には絶えず、非二元性と二元性があります。たとえば、喉が渇いていれば水を必要とするでしょうし、お腹が空けば食べ物を必要とします。私たちにはそうした神経のシステムがあり、生活状態のせいでへとへとになったら、それを休ませ、リラックスさせなくてはいけません。

機能性ドリンクはすばらしい。そして、たぶん、それから逃げるようとすることや、拒絶したり、それが悪いことだと思ったりするより、受け入れることが必要です。何というか、非二元の意識の中にいなくていけません。私はそういう状態ではないですけど(笑い)。実際あなたはそのことに気づいていて、自己管理していることは素晴らしいことであり、必要なことです。

私たちは人間であり、そうした基本的なことが必要だということを受け入れて、そうしたことを自分に許すことだと思います。そうした要求を満たすことは愛を育てるようなものです。そして、アウエアネス(意識)とともに留まることです。

ボブ:あなたの言うとおりです。問題は、私と私以外という思考です。でも、そうした言葉は何も分割してはいません。400年前にシェイクスピアはこう言っています。「何も良いも悪いもない。思考がそうしているだけである」。そして、一本の棒の両端が振動して、良い悪い、快不快、幸不幸となります。でも私たちはそれを、良い悪いと分割して二つにしてしまいます。それは分割です。でもそれは一本の棒の両端のようなものです。

あたかもそれは地球が太陽の周りを回っているようなものです。太陽に面している一方の端には光があたっていて明るく、遠い方の端は真っ暗です。地球は闇や光については何も知らず、光も光については何も知りません。良い悪い、快不快については、何も良くも悪くもなく、思考がそうしているにすぎません。それを修正したり変えたりしようとせず、そのままにしておいてください。

それは巡ってきて、あなたに反対の端を見せるでしょう。分離を続けようとせず、全体を見てください。

カット:(参加者に向かって)あなたの言ったことは素晴らしかった。というのも、ボブの足が下肢静止不能症候群になった時、医者に薬をもらいに行きました。それは必要なことであり、生はそんなふうに行動させるのでしょう。それは誰にもわかりません。他に誰か質問は?

参加者B:私も今の解答について述べたいと思います。というのも、私も最近まで同じようなことがあって、それと戦うことをやめたからです。たとえば、私たちは絶えず、平和な存在、すばらしい仏陀のようでありたいと思うのですが、それはまた別の状態です。落ち着かなくてもいいし、それから逃げ出そうとするかわりに何かを修正する必要もない。たとえそこにあなたがいてもかまいはしない。

それに気づいていて、観察すること。それで十分です。実際にひとたびそれをやると、その強烈さをなくすことができ、その状態になれば、「私は落ち着かない、オーケー」と言って、ほんの一瞬その落ち着きのなさを受け入れると、次のステップへと移ります。そうでなければ、「落ち着かないのは誰?」と自問します。

するとそれは単なるエネルギーであり、それはこんなふうにあるべきではないと思っていますが、それは単なるエネルギーなのです。それが助けになりました。

ボブ:あなたが言ったように、そのままにすることです。

参加者C:私もそれに答えたいと思います。マインドがあなたに告げることを見ること。それは時にはあなたに全く混乱するようなことを言うかもしれませんが、一つのことだけ見ることです。それは、たぶん、「ビーチに寝ころべばもっと幸せだろう」と言います。でも、それを見つめて、それが真実なのかどうか見て、金言を尋ねてみることです。

思考なしで、今なにが問題だろうか? そして、マインドはあなたが今どこにいるかを知るために小さなゴミを提供していると知ることです。

2023/03/29

苦しみを消すことのみが仏教の最終目標

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その54」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

この動画の中で佐々木先生は、「苦しみを消すことのみが仏教の最終目標だ」とおっしゃってみえます。苦しみを消して、そこからさらに幸福を手に入れようとするなら、新たな苦しみを生むことになります。
これは重要なメッセージだと思います。

セイラーボブの教える非二元を理解して起きることは、苦悩の消滅だけであり、それ以上のことは起きません。でも、スピリチュアルの世界で学ぶ多くの人は、何かもっと素晴らしいこと、精神的な変容のようなものが起こって、幸福感に包まれて暮らせるのではないか、と想像しているのではないでしょうか。

また、引き寄せの法則や、思考の現実化が起こって、社会的な成功が手に入るのではないかと思っている人もみえるかもしれません。でも、そうした幸せは、マインドが想像している幻想にすぎません。

誤解を恐れずに書くと、仏教も非二元も、私たちが想像しているような幸福や成功を手に入れるためのものではなく、そうしたものは実体のないものだということに気付くためのものだと思います。

幸せも不幸もマインドの産物にすぎない。そのことに気づくことが大切なのだと思います。

2023/03/28

あなたはもともとそれです

もし、あなたはもともと「それ」であるというところから始めなければ、「それ」に「なろうと」とするでしょう。「何かになる」という考えは、未来や努力の必要性、道筋を生み出します。それはまた、行為者、目標、願望を強めてしまいます。
                                    セイラーボブ

2023/03/27

二元性はフィクションです

二元性はフィクションです。
一つの本質が、うわべ上ではあらゆるものとなって現れているように見えます。
パターン、姿形が振動して二元的となっています。
それが、うわべ上では私たちを「それ」から遠ざけます。
分離した存在という信念、個人、人。
それは信念にすぎません。
                                セイラーボブ

2023/03/26

夢を夢として見つめる

夢が最後まで展開するのに任せなさい。
あなたはどうすることもできない。
でもあなたは、夢を夢として見つめ、現実というスタンプを押すことを拒むことはできる。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/25

苦悩は不要なもの

昨日まで掲載したミーティングでは、最初にヘイマンが「自殺を考えるほど苦悩している」と言ったものだから、あとは全員でよってたかって、「苦悩には実体がない」「あなたは実在しない」と教えていました。優しい人たちですね。

ヘイマンは何か月もミーティングに出ていて、いつもふさぎ込んでいたのですが、その原因がやっとわかりました。難民の人たちがどんな心境なのかは察して余りあるものがあります。

セイラーボブが言う、「私」は実在ではないということは理解できます。でも、苦悩の真っ最中にある人は、それを聞いてもすぐには苦悩から抜け出すことができないのではないでしょうか。ましてや、国を追われ、見知らぬ土地で身寄りも仕事もなく生きて行かなくてはいけないとしたら・・・。

いくらそれはマインドが創作した物語だと言われても、その物語をもっと素晴らしい物語に変えられないかとジタバタします。

素晴らしい物語に変えたとしても、それが物語である以上は実体のないものであり、いつかは消えていくとはわかっていても、できるものなら変えたいと思うもの。

私も過去にはたくさんの苦悩を抱えていました。中には病的なものもあり、普通に暮らしていくことさえかなり苦しい時期がありました。今思うと、何を悩んでいたんだろうと思うのですが、悩みの最中にいるときは、そんなふうに客観的に物事を見ることができませんでした。

多くの場合、苦悩や悩み事は、具体的な問題が解決したわけでもないのに、しばらくすると消えていきます。あきらめたわけでも、受け入れたわけでもないのに、あまり苦悩しなくなります。そうすると、まさにそれは物語にすぎなかったとわかるのですが、しばらくあとにならないとそれがわかりません。

「もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?」というポインターほど強力なものはないのではないでしょうか。これは、問題に目をつむれとか、目をそむけよということではなく、悩む必要はない、すべては思考の産物だと気づけということではないでしょうか。

悩み事があれば解決策を探す。見つからなければそのまま見守る。悩む必要はないということだと思います。今苦悩の最中にいる人には、わかっていても容易なことではないかもしれません。でも、それは単に物語にすぎないということを忘れないでください。

2023/03/24

実在ではないものを、あなたはどうすることもできません。

2023.3.12ミーティング 1:21:35から

ギルバート:(ヘイマンに向かって)基本的に、実在ではないものを、あなたはどうすることもできません。あなたはそれを変えることも修正するもこともできません。なぜならそれは実在ではないからです。それは簡単に理解できるのではないですか。

非実在に対して、あなたはどんな変化を与えることができるでしょうか。できません。そしてまた別の真実は、どうやって実在を変えたり変更したりすることができるでしょうか。実在を変えることはできません。

それは存在し、実在でないものは存在しません。では、どうして実在ではないものを使って実在するものを支えようと奮闘するのですか? そこにあるのは存在するものだけです。すべてはマインドの材料です。物語をフルストップしてください。

もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? それをやるためには、ボブが言うように、思考を一旦止めて、見ることです。そして、そこで認識したものに対して、あなたは何も言うことができません。それが良いとか悪いとか、一言も言うことはできません。それは無/何ものでもないもの(no thing)です。

空(くう)のマインドの本質は、透明で空です。普段、誰もそれに興味を持ちませんが、それを認識することが混乱から抜け出す方法です。あたかも、空(そら)が透明で空(くう)であるのと同じです。雲は現れますが、空(そら)を引っかいたり、ダメージを与えたりすることはありません。

2023/03/23

もしトイレに行くなら、チェーンを引いてあげるよ。

2023.3.12ミーティング 1:09:18

参加者:ヘイマンに一言いたのです。私は何年もひどく苦しみ、精神的に苦しい状態で、あなたが話したような一秒を求めていました。でも、あなたは今ここで座っているという事実を信じてください。それは起こるはずです。ただリラックスしてそれが起こると信じてください。それは起こります。

なぜなら、ここには何人の人がいるか見てください。それほどたくさんの人ではありません。でもあなたはもうここにいるのです。あなたはもうここにいて、その道の上にいます。ある日、何が起こるか見てください。信じて、自分の内側を見てください。苦しんでいてもそれでいいのです。ある日、カチッという音がします。

あなたはもうカチッという音がし始めているのを知っています。もしあなたが本当に絶望していて、その絶望がもっとひどくなって、あなたは火あぶりにあっているような気がしてどうしていいのかわからないかもしれません。でも実際はそれがあなたを、それが何であれ、あなたが最後に得るものへと導いているのです。

ですから、心配しないで。あなたが自殺のことを話したので、本当に絶望していることはわかります。でも、そっちへは行かないで。自分を信じてください。なぜなら、あなたはここにいるのです。あなたがここにいるということが驚くべきことです。

カット:すばらしい。もしあなたがボブの100歳の誕生日を見たいなら、自分をノックアウトしないで、待っていなければいけません。(笑い)

ヘイマン:たぶん、だから待っているのです。ありがとう。分析的な私のマインドにやってくる最大の問題は文化的な違いです。私はイラン人で、2013年に難民としてここへやってきました。私と、ここにいる人たちの間には途方もない違いがあります。言葉の違い、言語プログラミングの問題は別としても、理解よりも誤解の方が大きいのです。

でもここ、ボブには何か根本的なことがあります。それは、そうしたこと全部よりも強力で、それが私を2019年からここへ運んできています。

参加者:あなたもそうですよ。あなたも何の違いもありません。それは単なる脳の泡です。あなたはただストップすることが必要なだけです。ただストップするだけ。そのことを言うことさえ意味がありません。私と彼(ボブを指して)には何の違いもありません。あなたと私にも、他の人にも違いはありません。

ですから、今ストップして。あなたがそこへ行こうとするなら、今ストップするより良いことはありません。あなたは息もたえだえになっています。これは単なる議論です。ボブを楽しんでください。あなたに何も違いはありません。このことについては何も言えません。何の違いもないのです。

カット:すばらしい。

参加者:ストップして、そこにいてください。

カット:すばらしい。それがあらゆる概念や困難、違いから抜け出すこと。というのもそれがトラブルを招いているものだからです。

ボブ:一つの本質がパターンとなり、姿形となり、あらゆるものとなって現れています。ただそれだけです。

ヘイマン:深く感謝しなくてはいけません。私はシンプルな事実を認めなくてはいけません。ボブとあなたたちは、

参加者:いいえ。あなたも。あなたももともとそうなのです。ただそこでストップして、その続きはトイレに流してしまいなさい。その続きを言う必要はありません。あなたはもうすでにそれなのです。

ヘイマン:そのトイレは私の知覚の認識が現在経験しているところです。

参加者:私はそれを放っておけません。

ヘイマン:あなたの言うとおりです。あなたはボブと同じように最上の仕事をしています。でも、ボブより上手にはできません。ボブは50年も人々に向かって、あなたは自分で調べなくてはいけないと話しています。もちろん、問題が実在しているかのように現れています。

あなたが、そこへ行くなと正しく言ったように、私はそこへは行きません。というのは、何か根本的なものが私を捕まえているからです。私は、それは知性だと思っています。私はここにいるぐらい賢い。その上、私は進歩しています。進歩なんてないのですが。(一同笑う)

ギルバート:フルストップ!物語はブルシット(牛の糞)だ。フルストップ!

ボブ:もしトイレに行くなら、チェーンを引いてあげるよ。(一同笑う)

2023/03/22

あなたが進んで無でいようとするなら、そこにどんな危険があるでしょうか?

2023.3.12ミーティング 58:54から

ギルバート:分離した自己という考えはどのようにして私に起こったのか。根本的に私は宇宙とは分離してはいない。どうやって、この分離の感覚が根を張ったのか。ボブは彼の最初の本の中で指摘していますが、幼い子供が外の世界の何かを見て、「あれは私ではない」と言います。それが、分離の感覚、傷つきやすさの始まりだとボブは言っています。

物語とともに、あれは私ではないとなります。「あれは私ではない」「あれは私ではない」「全部、私ではない」。どうやって私はこの、私ではないと戦えばいいのか。それはそこら中にある。その物語の中で、「私」というイメージに物事を付け加えて安全にしようとしますが、それは決してうまくいきません。うまくいくはずはありません。なぜなら、それは実在ではないからです。

ボブは深い思いやりから、「私」が実在かどうかを調べるようにと指摘します。「分離、あるいは独立した実体あるものを見つけることができますか?」。それはとても実用的です。私たちの物語や苦悩などが、この分離した自己という信念にぶらさがっています。それを切り離すために調査します。

私はこの「私」を見つけることができるだろうか? 「私」にまつわる物語を永遠に語ってうんざりすることはできます。(笑い)でも、正直な話、誰が私の物語に興味があるでしょうか? もし私でさえ興味がないのなら、他の人には明らかなことです。

これはとても重要なことですが、実際にはあなたがそれを見つけることはできません。でもこれはとても神秘的なことですが、人々はこれをメッセージと呼びます。あなたはメッセージを受け取ることになります。メッセージは様々な形となってやってきます。それはポインターとなってやってくるのですが、それはどれも、無(no thing)を指しています。

形、物事としてやって来ても、無なのです。「私」はその無なのですが、「私」は無なんか欲しくありません。「私」は何かが欲しい。それが苦悩です。それでまた、「私」の物語に引き戻されます。それはまったく必要のないことです。心理的な苦悩はどれも、この自己のイメージ「私」が中心にあります。

それはまったく不要なものなのですが、あなたはそれをただ単に取り除くことはできません。それにエネルギーを注がないこと。その直接性とともに留まり、進んで無でいようとすることです。そうすれば、それがどんなものか見つかります。

ボブ:私が無と言うと、人々はゼロ、真空、空虚のことだと考えますが、そういう意味ではありません。それは無/何ものでもないもの(no thing)です。あれがそれです(天井を指して)。電灯がそれです。この顕現の中にあるすべては(それが)現れているものです。ゼロではありません。顕現の全体は現象としての現れです。

現象の定義は「そのように現れているもの」です。それはすべて見せかけにすぎません。そう見えているだけです。

カット:(ギルバートに向かって)私はあなたが言う、「進んで無でいようとする」という表現が好きです。もし、心の底から真実を望むなら、進んで自己に関するあらゆる観念を脇に置いて、ただ無でいようとすること。そうすれば、その無の中にあらゆるものの可能性があり、それがあなたなのだということが明らかになります。

でも、あなたが、野心的な思考、戦略。ギルバートが言う戦略、世界の中で安全で確かでいようとする戦略。この世は危険な世界なので、それと戦うために、自分に何かを加えて強くなろうとするのですが、それはできません。なぜなら、それはもちろんフィクションだからです。そこには何もないのですが、自身に対して、観念、考え、お金、教育で武装しようとするのですが無駄です。その鎧は役にたちません。

でも、あなたが進んで無でいようとするなら、そこにどんな危険があるでしょうか? どうしてあなたが傷つくことがあるでしょうか? 開かれた空間が、どうやってあなたをおびやかすというのでしょうか? ボブが言うようにそれは何もない状態ではありません。観念にとっては何もない状態ですが、そうではなくて、無/何ものでもないもの(no thing)です。

それは愛、本質、命、振動、輝きです。存在の神秘です。それはマインドにとっては何もないものであり、理解することができません。ゼロです。それをマインドで理解することはできません。マインドはそれを観念化し、それはゴミだ、おもしろくない、私は物が欲しいと言います。それは、脇に置くべきです。

すると、思考を超えた深い認識、悲観念の知る働きがあります。それはどんな猫にも蚊にも、もともとあります。彼らには進行中の物語はありませんが、明らかに彼らには意識があり、あきらかに存在し、意識的です。

あなたが彼らの目を見ると、認識、知覚あるものがそこにあるのがわかります。でも、そこには、「私は小さな人間だ」あるいは「私は子猫だ。この体という檻の中に閉じ込められている。なんとかしなくては」といった解釈はありません。

もちろん、体には何らかの位置の感覚があり、生き残るため、あるいは病気を治すための戦略はあります。でも、それは本当のあなたではなく、本当のあなたである意識の中にあるものです。体、それにまつわる物語、観念や習慣からくる振る舞いなど何であれそれは本当のあなたである認識の中で起こります。

それを見守り、それに魅了されて、それでいてそれに束縛されないでいてください。ええ、なんという夢なのでしょう。

2023/03/21

物語を落としてください

2023.3.12ミーティング 44:44から

ヘイマン:道なき道というのがこの道のことですが、私は自身のことを初心者だと思っています。物事はただ私に起こっていて、混乱したライフスタイルの中で、私は職にも就いておらず、規則正しい時間や方法で規律をもって物事をやってはいません。そしてまた、たくさんの思考にかきたてられ、最近では自殺を考えたりと、そういったたわごとの思考があります。

私があなたに望むたった一つのことがあります。それは100歳、あなたが100歳になった時、100歳を超えて、101歳、102歳、103歳になって欲しいということ。そしてまた、私が今言ったライフスタイルの件は、言いたかったことでも、言おうと思っていたことでもありませんが、言ってしまいました。それは完璧なことでした。ええっと、ありがとう。

ボブ:ありがとう。あなたが言った道なき道は、時間なき時間なのです。では、誰が100歳と言っているのでしょう。

ヘイマン:私です。今この時点で。

ボブ:「あなた」は、終わりのない、時間のない、空間のない今ここにある究極のものの始まりであり、それは自身に対する概念、言葉、思考によるものです。そこにあるのは観念、思考であり、それがあなたです。そこには観念、思考があるだけです。思考がなかったら、今この瞬間、何が問題ですか?

ヘイマン:ほんの一瞬、最大でも一秒の間、それは最高のシナリオです。何も悪くはありません。なぜなら、わずか一秒なら思考を止めることができるからです。でも、多くのことを自身に納得させるにはそれで十分です。

ボブ:ええ、もし一秒しかないのであれば、他の物事はどこで起きるのですか?

ヘイマン:すべてここにあります。

ボブ:その一秒の中に。では、それを分割することはできますか?

ヘイマン:不可能です。

ボブ:では、それとともに留まってください。あなたはそれです。

ヘイマン:それは難しいです。

ボブ:あなたは、今不可能といいましたが、不可能は難しいとは違います。

ヘイマン:これが、あなたが見てのとおりの私です。これが私の明晰さです。これが私のベストです。

ボブ:でも、実際あなたは自分が誰なのかを知っています。あなたは「それ」です。あなたはあらゆるものの本質と同じものです。

ヘイマン:ワオ!

ボブ:受け取ってください。つかんでください。

ヘイマン:できません。

ボブ:もちろん、できます。なぜなら、あなたは存在しているからです。あなたは、自分は存在していないと言うことができますか?

ヘイマン:私は完全に要点(point)を見逃しました。完全に。

ボブ:それほど尖った先(point)ではなかったはずです。(一同笑う)

ヘイマン:抵抗があって・・・

ボブ:リラックスして楽しんでください。

ヘイマン:このミーティングが終わるまではリラックスしていられると思います。

ボブ:あなたはまた観念化しています。それを一瞬脇に置いてください。もし、今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?

ヘイマン:今経験しているように、現在も大きな誤解をしていて、もしそれ以上にあなた言うことを誤解したとしても、私はあなたのところへ来続けるつもりです。私はこれが真実だと知っています。

ボブ:ええ。それはあなたが必要とする場所へと連れてくるでしょう。

ヘイマン:ええ、私が言いたいのは、必要としている以上に、そこにいたいということです。私は必要な場所にいたい。だから、ここにいるのです。

ボブ:では、単にいてください。(一同笑う)愛していますよ。

ヘイマン:あなたは素晴らしい。私もあなたを愛しています。

カット:すばらしい。さて、ターニャから(携帯を読む)。「関係性は存在しません。なぜなら、何、あるいは誰が関係していると言うのか」。とても素晴らしい洞察です。もし、ここに自己がないのなら、他のどこにも自己はありません。

そして、ジュリア。アメリカ人のジュリアが、つい最近彼女の父親を亡くした時に発見したと言った物語のことを思い出しました。彼女が父親について最も愛していたのは、父親がどんなに素晴らしかったかというロマンティックな物語でした。

ジュリア:それは描写です。私はその描写を愛していたのです。私が父のことを考える時、実はあなたが父を思い出させるのです。ボブは優しくて思いやりがあり、紳士的で愉快で、そして賢い。そばいるだけで素晴らしい。こうしたことはすべて描写です。あなたはそうではありませんか? あなたはこの描写ではありませんか?

ボブ:ご期待には沿えないかもしれません。(一同笑い)

ジュリア:それがわかった時、私は物語、描写を愛していたのだとわかりました。それが私の愛していたものなのです。私は父が私の手を取るやり方、触れ方が好きでした。それは形です。でも、彼の体が死んで、生気がなくなると、もはや触れることは楽しいことではありませんでした。死体に触れること、触れることをの喜び。(笑い)

私たちが実際に愛しているのは、それが何であれ、それに生気を与えているものです。今となっては、それは思考ですが、そこで起こっていたのは、物語、描写を愛していたということです。物語を愛していたというのは少しうんざりです。

ボブ:物語はどれも対象物です。あなたが認識するあらゆるものは対象物です。あらゆる思考、あらゆるものが対象物です。主体とともに留まってください。私が分離と言うような、物語を付け加えると、その物語が私たちを重くしてしまいます。

あなたが物語を落として物語から離れると、あなたは純粋な存在意識として残されます。そうしてあなたは軽くなります。そこにあなたのエンライトメントがあります。重しを降ろしてください。

2023/03/20

そこに苦しみがある必要はないのです

その誤った信念、「私」という存在のために、いわゆる人間の苦しみがあるのです。恐れを抱くことができるのは「私」だけです。不安になることができるのは、この「私」だけです。

怒ったり、自己憐憫や不安でいっぱいになったり、ストレスを感じたりすることができるのは、この「私」だけなのです。

それを常に信じていると、それが積み重なり、雪だるま式に増えていき、一見すると圧倒されてしまいます。

しかし、その苦しみがそこにある必要はないのです。
「私」がすべての問題の原因であることを見てください。その結果、ストレス、不安、恐怖、自己憐憫、自責の念、罪悪感、恥辱が生じるのです。
                                    セイラーボブ

2023/03/19

何も私を煩われせはしない

何も私を煩われせはしない。
問題が起きても私は抵抗しない。
それゆえ、問題が長引くことはない。
あなたの側にだけたくさんのトラブルがある。
私の側ではまったくトラブルはない。
私の側へ来なさい。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/18

振り返ってみると

昨日のミーティングの中でディーンは、振り返ってみると、以前のように苦悩している自分はいなくなっていたと言っていました。私も自分の昔を振りかえってみると、随分変わってきたなという実感があります。

以前の私はものすごく神経質で心配性でした。ささいなことでくよくよ悩んだり心配したりしてばかりいました。もちろん今でも悩んだり心配したりすることはありますが、以前と比べると、それほど強烈ではありません。悩んだり心配したりしても、切り替えや回復がずいぶんと早くなりました。

ああ、また「私」が心配している、と客観的に見ることができるようになったのです。その「私」が物語にふけっているのがわかっていて、見方や状況が変わるのを待つだけです。抵抗しなければ、物語は消えていきます。後悔することも減ってきたし、あれこれとジタバタしなくなりました。もう以前のようにどっぷりと病的な苦悩にひたることはないような気がします。

ボブのミーティングに来る人は誰しも苦悩を抱えてやってきます。ギルバートもそうだと言っていたし、カットもそうでした。そして、苦悩は必要のない物語にすぎないということに気づいて解放されます。ボブの教える非二元がもたらす唯一のものは、心理的な苦悩の消滅だけです。そしてその方法は、「私」は実在ではないということを自分で調べることだけです。

以前の私は、精神世界の本のコーナーに通い詰めで、いろんな道や法を求めてジタバタする毎日でした。何を試そうが、どうあがこうが、苦悩の消えない日々でした。それが今では、あれほど足繁く通った精神世界のコーナーにはまったく行かなくなりました。行く必要がなくなってしまったという言い方が正確なのかもしれません。ボブの言っていることは普遍的な真理であり、それ以上の真理はないように思えます。探求は終わったと言うと、ギルバートに叱られます。探求などもともとありはしないのですから。

2023/03/17

それはすべて物語だったのです

2023.3.5ミーティング 1:02:18から

ディーン:これは私のちょっとした話です。ここへ来る時、とてもポインターが聞きたかった。(笑い) スピード違反で捕まったんです。車から出て、「ごめんなさい。ごめんなさい」と言ったのですが、とても変な感じでした。

罰金をもらったのですが、変な感じでした。それはまるで漫画のような感じで、とても奇妙な出来事のようでした。それはまるで、そこには車や全てがあって、私はトラブルの最中でしたが、そこにはどんな問題も心配もありませんでした。それはまるで今日あなたが話したことの再現のような感じで、それをあるがままにして、修正せず、正したりせず、それはまったく修正や正すことのない、あるがままの状態でした。

でも、以前の私はこんなふうではなく、私の人生は地獄でした。それがどんなに違っていたかを全く忘れていました。それはまったく気ちがいじみていて、これは間違っている、こんなことをすべきじゃなかった、これはだめだ、変更して修正しなくてはいけないと言っていました。

そうしたことが去ってしまったのです。それはすべて物語だったのです。それは完全に終わりました。ゾランのことを考えていたのですが、ボブに感謝しています。あらゆることに感謝しています。あらゆることを「それ」が含んでいます。ボブが現象として現れていて、その中に現れています。すべてがその中に現れています。そしてそれは空(くう)です。

その空は「浅い」という意味ではなく、それは一杯です。この空は一杯なのです。それはすばらしいことです。ありがとう。

カット:実際私は彼が警察官と一緒の場面を見ていました。それはまったく信じられないことで、ディーンが歩いてきた時はとても穏やかで落ち着いていました。(一部省略)それは、全体的に見ると不安な状況でしたが、不安になっていたのは警官の方でした。

警官は神経質になっていて、かわいそうなほど神経質に恐縮して言い訳して、ひどい状態でした。ディーンが状況の中をエネルギーに乗って滑空するように状況に対処すると、警官は自分の仕事をしただけで、恐れでいっぱいでした。そして警官は最後には手を振って、良い一日を言ったのです。罰金は払わなくてはいけませんが。もし、誰かこの話に価値があると思う人がいたら、箱の中にいくらか入れてください。それをあてます。(笑い)

2023/03/16

行為者は想像の産物です

2023.3.5ミーティング 51:04から

ギルバート:ええ、仏教徒は経典の中で短い言葉で言っています。あらゆる現象の本質は空(くう)である。もしそれを聞いて印象に残るようなら、それが真実だということを生まれつき知っているということです。

昨日、庭に何匹かの蝶が飛んでいました。彼らは(飛ぶために)努力していませんでした。そこには無努力がありました。あるいは、何らかのはっきりとした努力があったと想像することもできますが、あらゆる現象は空であり、そこには、どんな存在による努力もなされていません。

私たちはそうしたことを想像します。特に何か心地の悪いことが起こっている時には。そこには行為者はいないのです。行為者は想像の産物です。すべては行われ、行われなかったとことも終わっていないことも何もない。物事には始まりも終わりもない。

虹を見てください。虹は現象の良い例えです。虹には実際には位置がありません。子供の頃、虹のふもとには財宝があると聞いたことを覚えています。ある日虹が見えたので、愚かにも私は森を抜けて、虹の一方のふもとを目指したのです。もちろん・・・。
私たちは、財宝を見つけたいのです。

ボブ:それをどうしたのですか?

ギルバート:あ~、内緒です。(笑い)皆が見ている虹には位置がありません。皆同じ虹を見ているのに、それは同じ虹ではありません。違った角度から違った光が目に入って、そこにあるように見えます。聞いた話ですが、二重の虹を見る時は、確か常に46度から52度の角度で、太陽は後ろにあり、そこにはある種の物理の法則があるのですが、虹はそこにはありません。そこにあるように見えるだけです。

同じことが「私」についても言えます。ボブは言いました。「どこかの大馬鹿者が、『私』はいないと言っているが、彼が正しいか間違っているかは、あなたが自分で調べなくてはいけません」。自身の私生活など何でも調べてみて、そこに『私』がいるかどうか調べてみても、私はいません。というのも『私』はフィクションだからです。でも、それを調べる時、記憶やマインドから、あらゆる種類の物事がやってきます。『私』はいないということを見たくない抵抗があるかもしれません。もし『私』がいなかったら、私は一体何なのだ、私はどうしたらいいんだ、などなど。

でも、ボブが言うように、誰もそれをあなたの代わりにやることはできないし、あなたにそれを与えることもできません。そして私たちには皆、見る働き、知る働きの能力があり、分離していません。それが分離されているはずはありません。視覚的に物事はどこかに現れています。音はどこかに現れています。でも、あなたが音や視覚を分離しようとしてもできません。

それは同じ無(no thing)であり、それには位置がありません。でも私たちは、自己の中心を信じるように教えられました。あなたは個人であり、責任がある。あなたは正しい行いをしなくてはいけない、などなど。そしてあらゆる宗教がある種の罪悪感を人々に植え付けようとします。

でも、いずれにせよ、あらゆる現象の本質は空です。そこには、なされるべき努力はありません。つまり、非現実の中にうわべ上の現実があり、非現実を継続させています。といういのも、その中で『私』という個人がいるからです。私の現実であり、あなたの現実ではありません。でも、現実も非現実も無努力のものであり、どちらも同じ無なのです。

参加者:虹に関して一言付け加えたいと思います。あなたが財宝なのに、財宝を追い求めていました。(一同笑う)あなたはどこか反対の方向をへ走って行った。それはおもしろい話でした。とても感謝しています。

2023/03/15

調べてみることが必要なだけです

2023.3.5ミーティング 0:54から

ボブ:みなさんおはようございます。

一同:おはようございます。

ボブ:一つのもの(one)が、一つのもの(one)を歓迎しています。そこには一つのものがあるだけです。その他には何もありません。それを見るのは悪くない。(笑い)すべてが「それ」です。そした私たちは皆生まれつきそれを知っています。そのことを認識しているのですが、それを区別している唯一のものは言葉です。私たちは、身に着けた言葉によって、あらゆるものにラベルを貼り付けます。言葉は現実ではなく、ラベルにすぎません。(途中省略)

言葉は単なるラベル、描写にすぎません。描写は決して描写されるものそのものではありません。ここで描写しようとしているものは、描写されるものそのものではありませんが、それは、聖典やテキストの中でドヴァイタ、非二元と呼ばれるもののことです。非二元とは、二つではないということを指しています。一つもの(one)の他には何もありません。

他のものは、一つのものにとっては相対的に存在しているにすぎません。相対性は関係性であり、関係性が私たちの問題です。私たちには、うわべ上では一つのものが分割されて分離したもののように見えますが、決して分割されたことも分離されたこともありません。あなたがそれを認識していようといまいと、それがそこにあるすべてなのです。

ほんの少し調べてみるだけでわかるようになります。他に方法はありません。観念化することから抜け出せば、思考のない、永遠に新鮮な存在、思考から自由な意識があります。思考がやってくると、意思がやってきますが、それに構わないでおくと、それは去っていきます。

でも、私たちはそれを構わないでおきません。私たちはそれに固着し、言葉をうわべ上では現実だとしてしまいます。そのため、この顕現の中では、たくさんの苦痛、苦悩や奇妙なことが続いています。言葉や観念、考えを付け加えることなしに、それがいいとか悪いとか言う事ができるか考えてみてください。

「我はそれなり」という偉大なるマントラは、今ここ、今この瞬間があるだけだということを確かに知れという意味であり、ということは、あなたは「それ」に違いありません。ニサルガダッタも言うように、人は実在ではありません。私たちは皆、言葉を学んだ時に、この個人というイメージを身に着けました。

何人かの人はそれを調べてみるように言われ、それが真実ではなかったという者もあれば、引き続き抜け出せずにいる人もいます。でも、それを見破った人たちは、ほんの少し調べてみることが必要なだけだと言います。聖書にあるように、「真実を知れば、真実があなたを自由にするだろう」です。

もし、調べてみて虚偽であるとわかれば、あなたは虚偽から自由になるはずです。

2023/03/14

運命とともにありなさい

運命とともにありなさい。
決して逆らってはいけない。
邪魔してもいけない。
運命が成就するのを許しなさい。
                              ニサルガダッタ・マハラジ

2023/03/13

足ることを知らば

足ることを知らば、貧と言へど富と名づくべし。財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。
                                 往生要集 源信僧都

2023/03/12

あるのは今この瞬間だけです。

存在するとは、何かになることや、過去に存在したこと、未来に存在することではありません。何か、あるいは誰かになるためには時間が必要です。では、時間とは何でしょう? 今すぐ時間というものを見せてもらえますか? 時間はマインドの中にだけ存在します。マインドなしでは時間は存在しません。思考なしでは過去も未来もありません。あるのは今この瞬間だけです。今この瞬間、あなたという存在がすべてなのです。
                                    セイラーボブ

2023/03/11

理解の起こり方

非二元の教えを理解するとはどういうことか、それはどういうふうに起こるのかについてブログに書く時、いつもうまく表現できないと、もどかしく思っていたのですが、昨日のブログのミーティングの中でカットが上手に説明してくれていました。

その中で、ミーティングにやって来た人のほとんどの人は、ボブの話を聞いて、少しずつ理解が根を張るように起こってくると言っていました。たいていの人の理解はそうやって起きるのだと思います。私がボブの教えを明確に理解したと思ったのは、ボブに会ってから4年後のことで、ギルバートやカットの言葉がきっかけになりました。

ギルバートの「それはあなたの普通の意識のことだよ」と言う言葉と、カットの言う「非二元の世界を実際には見ることも体験することもできない」と言う言葉がきっかけになりました。同じ内容の言葉をセイラーボブからも何度も聞いていたのに、それまではよく理解できていませんでした。ある時バスに乗っていて、景色を見ていたら、ギルバートの言葉とカットの言葉が浮かんできて、(ああ、そういうことか)という理解が起きました。

シフトが起こったとか、そういうことではなく、普通の理解です。普通の理解なのですが、今までしっくりこなかったことが、あたりまえのことのように思えた瞬間でした。セイラーボブの言うことが、何の疑問も抵抗もなく、全部あたりまえのことのように思えたのです。

私はこのブログで、「確信」という言葉を何度が使いましたが、確信という言葉には、「信じている」というニュアンスがある気がします。信じているわけではなく、「あたりまえのことのように思える」と言った方が適切なのかもしれません。「地球は丸い」と確信しているわけではなく、それがあたりまえだ思っているのと同じです。

理解の起こり方は人それぞれでいいのだと思います。ジェラルディーンは以前にもミーティングのYouTubeに登場していて、同じような質問をしています。彼女の言う「カチッという音がしない」や「自販機にコインが落ちない」という状態は、私も長らくそうだったので、よくわかります。

意識のどこかに、何か劇的なことが起こるのではないか、何かが変わるべきだ、もっとスッキリした状態になるはずだ、というような思いがあると、なかなかカチッという音がしないのではないかと思います。理解が起きたら何かが起きるはずだと私も長らく思いこんでいました。残念ながら、私が想像していたようなことは何も起こりませんでした。でも、ある意味ではすべてが変わりました。そこには、もう何も探していない自分がいました。以来、「でも」も「もし」も消えました。

私のブログを読んで、セイラーボブの教えをすんなり理解された人は大勢いると思っています。そのために、せっせとこのブログを書いているつもりです。でも中には、「カチッという音がしない」人や「自販機にコインが落ちない」人もみえるかもしれません。でも、あきらめないで、心の片隅にセイラーボブの言葉を置いておいてください。

誰の言葉か忘れましたが、「アドヴァイタに咬まれた人は必ず毒がまわる」とどこかで読んだ記憶があります。やがては全身に毒がまわって、自然に理解が起こってくるはずです。そうなると、自然といろんなものが落ちていきます。

2023/03/10

カチッという音がしません

2023.2.26ミーティング 1:08:58から

ジェラルディーン:あなたがいつも胚(はい:受精直後の胎児のこと)の起源に遡る話をすると心を打たれるのですが、そのたびに、私は何もしたことがなくて、すべては与えられたものであるとわかります。これは正しい言い方ではありませんが、考える能力を自分で発明したわけではありません。それがとても心を打ちます。私の考える能力は、そこにあり、与えられたものです。このことを考えるたび、この話をあなたがするたびに心を打たれるのです。でも、カチッという音がしません(理解が起きないという意味)。(笑う)

カット:なぜなら、あなたは「カチッと」というのがどういうものかという期待を持っているからではないでしょうか? 「カチッと」とはどう意味ですか?

ジェラルディーン:理解したようには思えないのです。ええっと・・・。まだシフト(変化)が起こっていないようなのです。私は単にそれが真実だ、それは明白なことだと理解しただけです。

カット:ええ、そうです。それは真実です。それは明らかなことです。その考えを調べてみてください。というのも、バイロン・ケーティやエックハルト・トール、テリーなど誰それは、大電球が灯った、花火が上がった、解放されたという考えあって、この生命の本質、エネルギーはとても退屈な繰り返しなので、あなたにも同じことが起こらなければいけないという意味ではありません。

例えば、何百という人たちがトニー・パーソンズが歩いた公園がどこの公園だったのかを知りたがっています。なぜなら彼らも同じようにそこを歩きたいからです。(一同笑う)ジェフリー・マーティンの統計によれば、大多数の人にとって理解は、一度きりの大きな解放としてではなく、虚偽の皮をはぐようにして起こっています。

それはマークが言ったように、コインが自販機に落ちるように起きるかもしれませんし、ボブや私の場合のように、大きなシフトのようなものかもしれません。でも、ここにやってきた多くの人たちは、一回の大きなシフトの地点があったわけではありません。あたかもそれは、ただちょっと後ろを振り返って、「ちぇ、もう再びあのナンセンスを信じることはできない」「こいつからはもう解放された」「これも起こっていない」「ああ、サンタは現実にはいない」「地球は平らではない」。

それは神秘です。私が考えているわけではないのに、思考が起きて、ゆっくりゆっくりとその理解が根を張るのです。そしてある地点に来ると、もうそれ(古い条件付け)を信じることはできません。それはある意味徐々に起きて、虚偽が皮をむくように落ちていき、狂信していることが落ちていきます。

私はああいう風にあるべきだ、私はこれが正しいと信じているといったようなことがどんどん適切ではなくなっていきます。そして、生の神秘がますます美しくなり、あなたが言ったように、「オーマイゴッド! これはすべて与えられている。見ることは私のおかげではない、考えることは私のおかげではない。自分をコントロールすることさえ私のせいではない。体重をキープすることもパートナーをキープすることも、私にはできない。なぜなら、それも機械的に条件づけられた行為だからです。私は何も自分のせいにすることはできません。

ジェラルディーン:ええ、それはすべてそこにあるものです・・・

カット:でも。でも、何ですか?

ジェラルディーン:それは明白です。すべてはそこにあります。でも、コインが落ちないのです。(一同笑う)

カット:どうして落ちる必要があるのですか? もし、それがすでに明白なら、そこには人から言われた物語に対する微妙な期待があるということです。それは、これが大きなエンライトメントだ。これが解放だ。これがイエスや仏陀、エホバ、私は在ると同じ存在ということだ。エホバとは「私がその私は在るである」という意味です。「単に私がその私は在るだということはできないのですか?」「いいえ、私は神ではありません」。

こうしたことは人から言われた物語なのです。大きなエンライトメントとはそれだ、それは神のように見える、あなたは神だ。いいえ、それは自然な状態のことです。おしゃべりと同化していない時、それは私たちの中に自然にある状態のことです。その空間にコインが落ちる必要はありません。それは姿形のないものです。

あなたがその開放された空間であるなら、どこにコインを落とす必要があるでしょうか。その意識には境界がなく、限界がなく、空間がなく、時間がありません。その観念を見てください。違う、違う、これが私、ジェラルディーン。まだ私はそれを理解していない。この観念は、アウエアネスにやって来て去っているものです。

コインが落ちなくてはいけないという観念は、そのアウエアネスの中にやって来て去っていきます。でもあなたが、限界があって、コインが落ちる必要のあるジェラルディーンだという観念と同化するのをやめるか無視すると、あなたは自然な状態の中にいて、あなたが自然な状態そのものです。あなたがその開放された意識の空間なのです。観念はやって来ては去っていきます。それは他の思考同様、個人のものではありません。

ジェラルディーン:でもどうしてある人たちには、明晰さがあるのですか。つまり、彼らは私とは違った話し方をします。ええ、私も・・・

参加者:私にはすべての人が違うように話しているように聞こえますよ。

ジェラルディーン:ええ。(笑う)

カット:明晰さというものがあるかどうか調べてみてください。それもまた観念であり、それはとても有益なものとなりえるのですが、混乱のもとになることもあります。というのも、それは永続する状態ではないからです。究極の明晰さには話すことさえ必要ではありません。

私たちは今夢の中にいるということを理解してください。部屋の中いっぱいの人がいる夢ですが、実際には何も起こっていません。何も起きませんでした。ではどうして話すことさえ起こっていないのでしょうか? 夢の中の明晰さという夢を見ているのです。すると、明晰さの度合いというのは何なのですか?

話すことが起こっています。私は女性の体だ。それは明晰さですか? あらゆるコミュニケーション、あらゆる夢の内容が相対的なものです。それはすべて二元的であり、常にそうです。明晰さがある時もあり、それが物語となって泳ぎ回ってマインドが表現する時もあります。

ボブは例えば自身の子供の時のことを素晴らしい明晰さで語ることができます。でもそれは今は、まったく起こっていないし、まったく存在していません。それはまったくマインドの内容物にすぎません。それであなたは、明晰さの基準をどこに置くのですか? それは単に起こっていることなのです。

あなたは空間であり、それがなければ何も起こらないのです。そしてあなたはそれを知っています。なぜならあなたは、現れる形態が自分のせいで現れるのではないと知っているからです。

ラム:立ち止まって、自身に対して、自分はコインが落ちることをどう定義しているのかを尋ねるといいのではないですか? 「カチッと」をどう定義しているのか? そこにはあなたが使っている観念があります。それは何もないところからやってくるわけではなく、そうした観念の後ろには重要なもの、物語があります。たぶん、それを掘り下げて見て、それが何なのかを実際に知る。「カチッと」の意味が何なのか、エンライトメントの意味をどう定義しているのか、コインが落ちるとはどういう意味なのか。

そして立ち止まって、これは単なる物語だということを知る。どんな明晰さが欠けていようと、あなたには明晰さがないと思っていようと、それは全部物語の後ろにあるのです。その物語がそうした言葉に付着して、たとえば「カチッと」となって、あなたの頭の中を泳いでいるのです。

ジェラルディーン:ええ。私は自身のナレーション(物語・語り)が変化することを期待しています。何も変わらないかぎり、何も起こっていないのです。

カット:ええ、良い理解です。よくわかりましたね。「私は自身のナレーションが変化することを期待しています」。その物語(story)は何ですか?

ラム:ええ、それもまた別の物語です。ナレーションが変化すべきだという。

カット:ええ。そのナレーションはあなたのものでさえありません。それは生物の条件付けです。あなたは自身のアクセントがどうなっているのか知っていますか? あなたはその内容を変えたいと思っているかもしれませんが、それはすべて過去の経験に基づいているものです。あなたが過去に経験したすべての経験が影響しています。

ボブが言うように、体は胎児から成長します。あなたは、自分の体が違ったふうに成長してほしいと思うかもしれません。同様に、あなたの物語も胎児から成長して表現されたものです。それを変えることはできません。それを変える必要も変える理由もありません。

ジェラルディーン:でも、例えばあなたやボブは変わりました。

カット:変わったかどうかはわかりません。

ラム:その点は注意してください。たくさんの人がこの話題を上手に話すことができます。というのも、彼らは長い間この話を聞いていて、この非二元の話題に関するあらゆる観念や考えを吸収していて、彼らは話すことができます。それは・・・

ジェラルディーン:いいえ。そういう意味ではなくボブは・・・

ラム:いや。ボブやカットのことを言っているのではありません。

ジェラルディーン:そうではなくて、ボブの口から出る言葉はある時点で変化しました。

カット:ええ。確かにそれは事実です。あなたは焦点を注意に向けなくてはいけません。エネルギーの焦点を観念ではなく、実在にあててください。あなたはすでに事実を100%確実に理解しています。あなたは自身が存在するということを知っています。それを否定することはできません。存在しないようにとやってみても、それはできません。

やってみて、自身が存在しないと証明しようとしても、存在することを止めることはできず、存在し続けます。ということは、それが最終の真実だということを知っています。それがそれです。そして、物事はその上に起こっていて、あなたはそこに注意を向けているのです。それが認識すべきことであり、リラックスしてそこを出て、存在の真実という我が家へ帰るのです。それはいつも100%確実に存在する場所です。

うわべ上でそれを不鮮明にする物事があります。なぜなら注意は習慣的にそこ、物語へ向かうからです。でも、それを認識してリラックスするたびに存在の確実性へ戻ります。ボブのとても素晴らしい問いかけのように、「あなたは意識していないのか?」、そしてマークが言った、「あなたには意識がないのか?」「あなたは存在しないのか?」。その質問に対する答えが「それ」です。そこには何も言うことはありません。

ジェラルディーン:私は意識がないのか?

カット:ええそれです。

2023/03/09

意識(consciousness)とは何か?

2023.2.26ミーティング 1:03:51から

ラム:マーク、ニサルガダッタがあなたに告げた意識に関するポインターについて話してもらえますか? 彼があなたに「意識(consciousness)とは何か?」と聞いた時のことです。

マーク:私とボブが初めてか二度目にロフト(最上階の部屋)に行った時のことです。ニサルガダッタはもちろん英語を話さないので、通訳がいました。ニサルガダッタはまるでワシのようで、いくぶん荒々しく見えましたが、そうではありませんでした。彼は恐れ知らずの人で、それで荒々しく見えたのです。

彼は私とボブを指さし、「おまえ、おまえに意識(consciousness)はあるか?」と言いました。私はもちろんロフトの部屋に座っていたので、意識はありました。(意識のない人は)誰もおらず、それは当然のことと思っていました。当然、二つ目の質問がきましたが、その質問で私は投げやりになってしまいました。というのも、私は普段向こう(遠方を指して)を見ていたのです。ここを(足元を指して)見ているのではありません。ここには何もないから、向こうを見ていたのです。

そして二番目の質問は、「その意識とは何か?」でした。そんなことは考えたこともありませんでした。私はグルの敬虔な信者として献身していて、ちゃんとしたやつでしたが、自分が誰なのかは知りませんでした。二番目の質問は、その意識とは何かでしたが、何らかの理由、おそらくムクタナンダのもとで二年間マントラを献身的に詠唱したせいで、体が浄化されていたのだと思います。そして質問は、その意識とは何かでした。

私は目を閉じて内省し、それが何なのかを見ました。「なんてこった、想像することもできない。ただそこにあるぞ」と言いました。それには始まりがなく、誰もが持つ宝庫で、ある意味で光が差して、やっとわかった瞬間(penny drop:自販機にコインが落ちた)でした。そこには、見る働きがあり、探求は終わった。なぜなら、もともと私はそこにいたからです。

でも、その時点ではまだ未解決の事柄がたくさんあり、たわごとは数年後までやってきました。でも、それが基本的な理解でした。意識(consciousness)があなたの神性なのです。もしあなたに意識とはと尋ねたら、「何だって?」と言いますが、それがすべてなのです。

彼はまた、「体は木片のようなもので生命のないものだ。体はそれ自体で輝くことができるか、答えはノーだ。意識がなくては輝くことはできない。意識を脇に置くと、体は単なる死体だ。私の車、私の家という言い方をするが、ということは、『私』はそのどれでもないということだ。私とは根本的には意識なのだ。おまえも同じだ。それがわからないのか?」と言いました。それが彼の言ったことです。

参加者:その後、彼は何と言ったのですか?

マーク:彼の質問は「意識とは何か?」でした。私は、「それは想像することもできない。それはただそこにある」と言いました。すると彼は、「そのとおりだ。それをお前は観念で想像しようとしたり、理解しようとしたりしているのではないか。それはおまえがムクタナンダのアシュラムでやっていることだ。お前はあそこで時間を浪費してきた(一同笑う)。それが人々の話すやり方で、お前の感情など恐れてはいない」。私はあそこで精力的にやったが、それはそれほど重要ではなかったのです。

カット:ありがとう。

2023/03/08

知る働きがすべてなのです

2023.2.26ミーティング 40:04から

カット:今、ザンティから質問が届いています。「果てしなくおしゃべりを続けるマインドをどうしたらいいでしょうか?」

ボブ:フルストップ! マインドに入っていかないで。もし、思考を停止すると何が問題でしょうか? そうすると、それが良いとか悪いとか、つらいとか言うことはできません。でも、あなたは呼吸を止めません。心臓も鼓動を止めません。生は続いていて、それは思考以前にあるものです。それが意味することは、あなたはマインド以前に存在するということです。
あなたは二歳か二歳半になるまで言葉を持っていませんでした。ということは、あなたはマインド以前に存在していました。

参加者:でも、フルストップと言っても、停止しない時もあります。その場合、マインドをあれと提携させろと言われるのですか?

ボブ:もしマインドが停止しない時は、そこに何があるのか気づいてください。そこには依然として見る働きがあり、聞く働きがあり、思考より前に空間があります。思考より前に、アウエアネス(意識)、すなわち存在、あらゆる知る働きがあります。その感じをつかんでください。

参加者:あなたは以前、アウエアネス、何と呼んでもよいのですが、それとマインドを連携させなさいと言われたことがありますが、それがあなたの言われる連携ということですか?

ボブ:ある思考は連携して一層よく、理解・反響します。というのも、現れる思考はすべて観念的なものだからです。というわけで、(ボブ、言葉が出てこず言葉につまる)

カット:非観念的な意識?

(ボブ言葉が出ずに笑う)

(一部省略)

ボブ:言葉が思いつかない。離れる。「離れる」です(思考から)。

参加者:マインドで行うどんな行為も、マインドを作り出すことになります。私、あるいはマインドのどんな行為もそうです。

ボブ:人の事実として、今もしあなたに意識がないのではないなら、意識があるということです。思考がやってくるやいなや、あなたはそれに物語を付け加えます。その物語がどんどんを成長して思考とともに展開していくことになります。もし、その思考から離れて、ただそのままにしておき、それに固着しないでいると、その思考は、ふたたび背景にある純粋なアウエアネス(意識)の中へと落ちていきます。なぜあなたは物語を付け加えるのですか? すべての物語には始まり、途中、終わりがあります。それは先へ先へと続いていきます。

参加者:あなたが話しているマインドの持つ傾向として、私たちが(このことを)やり遂げるのは私たちの条件づけに反することです。それをやることは、私たちの性分、条件づけに合いません。

カット:ええ。専念することです。私たちは非二元の魅力を見つけ、ボブが言うように、物事が起こって私たちをここへ連れてきました。物事が探求に駆り立て、時々は人生、答え、信念などに対して苦悩や不満をもたらします。それは、表面下でマインドが明け渡す準備をさせるために起こっているのか、あるいはマインドが調査を始めるために好奇心をもたらすためにやっているのかのどちらかです。

というのも、調査は最初、単なる道具であり、あたかもそれはマインドがマインドを掘り下げているようなものです。でも、時がたつにつれて、存在が際立つようになり、前に出てきて、注意が直接に根底にあるスクリーンへと向かうようになります。それは無、あるいは空(くう)であり、注意全体がリラックスしておしゃべりから抜け出します。(携帯を見ながら)そして、これはザンティが、「果てしなくおしゃべりを続けるマインドをどうしたらいいでしょうか?」と聞いたことです。

究極の自由は、おしゃべりであろうと静かであろうと、気にしないでいることです。波ではなく、深海の海の静けさでいることです。おしゃべりと同化してしまうこと、おしゃべりを信じてしまうことが問題なのです。ボブが言うように、どうして物語がそれほど魅力的なのか、どうして物語に同化してしまうのか。もし、アウエアネス、存在、根底にあるスクリーンがなかったら、物語すら起こってはこないということを私たちは完全に忘れています。

生の神秘、エネルギーと比べて、物語がどれほど重要だというのでしょうか。(物語の)内容の魅力が減っていき、くつろぎがマインドから存在の愛の本質であるハートへと戻っていきます。それがポインターを通して起こります。「フルストップ」がポインターの一つです。リラックスはまた別のポンターです・・・。ええっと、ギルバート、何かありますか?

ギルバート:(あなたの)話が終わってからでいいよ。

カット:いいえ。私たちは皆同じことを話しています。(笑い)

ギルバート:いくつかのポインターは、とても有益な道具としてもたらされます。私にインパクトを与えたすばらしいポインターの一つは、「マインドを見つめ、それがどのように起こるのか、何が続いていくのかを見なさい」です。それはとても強力です。最初にマインドを見つめて、それが何を拠り所にしているのかを見なくてはいけません。

なぜなら、何が起こっているのかを観察しないかぎり、決してマインドを理解することはできないからです。要するに、あたかもマインドの目撃者のようになることです。でも、その目撃者にはどんな形態もありません。それは基本的には単に知る働きの活動なのです。ボブがすでに言ったとおり、すべてはエネルギーであり、それが振動してこうしたパターンとなっています。

でも、知る働きは振動してパターンとなることはありません。それは物ではないもの/無(no thing)です。マインドを見つめ始めると、それは非個人的で偏りのない目撃を使って何が起こっているのかを見ているようなもので、そこから多くの洞察がやってきます。「私」という思考は単なる思考、イメージ、記憶のかたまりに過ぎないということがわかりますが、この知る働きは記憶の中に蓄えておくことはできないのです。

それは永遠に新鮮で永遠に新しいものであり、記憶の中に蓄えておくことはできません。そのため、記憶の中へ入っていくことには意味がありません。というのも、記憶を信頼することはできないからです。あなたが何かを思いだすだびに、どこかが何か微妙に変化しています。これはしばしば法廷の証人が認識を変えてしまう時に見られることです。

認識は見る働き、あるいは知る働きではないということを理解しなくてはいけません。認識とは、ひとたびマインドが印象を処理するとそれが何かを作り出して記憶となります。でも、直接の見る働きは自発的に起こっていることです。そしてそれは、認知、すなわち知る働きと分離してはいません。それはどちらも物ではないもの/無です。

マインドを見つめることによって、マインドは実際には何も分割していないとわかります。ラベルを貼って名前、区別をつけることによって、分割しているように見えるだけです。あなたはあれやこれやと区別をしますが、そうした物は何か独立したものとして存在しているでしょうか? 知る働きがすべてなのです。私たちが知覚するものすべて、あらゆるエネルギーの動きは知る働きです。

それは個人的なことではなく、非個人的なことです。あなたは「マインドがぶっ飛んだ」と言いますが、マインドなどというものはないのです。マインドは単なる活動でありラベルにすぎません。私たちはマインドを責めたり、良いマインドだとか言ったりしますが、それはどれも物語です。

マインドを見つめることに戻ると、その知る働き、その認知活動はまったく非個人的なもの、包括的なものであり、それには始まりも終わりもありません。そのため、朝起きて、見る働きを始めるぞと言うことはできません。知る働きを始めるぞ、ラムのように、頭が働く前にコーヒーを一杯と言うことはできません。(笑い)ラムごめんなさい。マインドとは何か? それがどのように機能するのか見てください。

2023/03/07

AIはやがて自我を持つようになるのですか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その47」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

「AIはやがて自我を持つようになるのですか?」
この問いに対する仏教AIの回答がよかったですね。

2023/03/06

大いなる完成に何を付け足すことができるでしょうか?

あなたがその完全性なのです。そして、あなたに何かを付け足すことも取り去るこもできません。それゆえそれは「究極のもの」「大いなる完成」と呼ばれているのです。大いなる完成に何を付け足すことができるでしょうか? 何も。
                                   セイラーボブ

2023/03/05

そこであなたと会いましょう

Out beyond ideas of wrongdoing and rightdoing, there is a field.
I will meet you there.
When the soul lies down in that grass, the world is too full to talk about.
Language, ideas, even the phrase "each other" has no meaning.

善悪の行いという観念を超えたこところにある場所。
そこであなたと会いましょう。
魂がその草むらに横たわると、世界は語りつくせないほど満たされる。
言語や思考、「互い」という言葉さえ意味をなさない。
                              ルーミー

2023/03/04

探求などなかった

ギルバートはしばしばミーティングの中で、「探求などなかった」と発言しています。それはとても深い言葉だなといつも感心します。

私は長い間、自分は探求をしていると思っていました。探求を続けていけば、覚醒が起きて、すべての苦悩から解放されると思い、半分イカれた頭を抱えて精神世界をあちこちと探求してきたつもりでした。

でも、セイラーボブと出会って、自分は一歩も元の場所を動いていないということを知りました。そして、20年以上にわたって精神世界に費やした時間や労力、お金のことを考えて、随分と後悔もしました。でも、ギルバートの、「探求などなかった」という言葉を聞いて救われた気がしました。

自分では探求しているつもりでも、自分は北極点にいて北極点を目指している探検家のようなもので、どこへも行く必要はなく、ただそうやって自己満足してきただけだったと知ったからです。

精神世界の旅人の多くは、自分は何か尊いことをやっているという幻想に取り付かれています。でも、精神世界の本をどれだけ読もうと、何人のグルに会おうと、どれほど瞑想しようと、本質的には何も変わりはしないのです。なぜなら、もともと「私」は完全なものだからです。

探求を続ければ何かになるだろう、何かを手に入れるだろうというのは幻想です。探求者は幻想の中で探求ごっこをして遊んでいるにすぎず、それが尊いとかそうでないということは少しもありません。お金儲けや娯楽に懸命になるのと少しも変わりません。

私がこのブログを書く目的の一つは、一人でも多くの人が探求という幻想から抜け出して、あるがままの自分にくつろいで欲しいからです。そして、それをやり遂げる唯一の方法は自分で調べて、「私」は実在ではないということを知ることです。

たくさん本を読む必要も、グルに会う必要も瞑想する必要もありません。セイラーボブもギルバートもあなたのかわりにそれをやってくれはしません。自分で調べるしかないのです。そして、それを知った時、探求などなかったと知って、くつろぐことができます。

2023/03/03

誰も束縛されてはいません

2023.2.19ミーティング 1:22:29から

ギルバート:初めてここに来た時、たしか2000年だったと思いますが、その時はたくさんの人がミーティング来ていて、たくさんの人が苦悩していました。彼らも私も苦悩を抱えてここにいました。彼らは出口を探して様々なことで苦悩していました。

どこで、いつ探求が始まったのでしょうか? 探求は実際には一度も始まっていません。それは想像上の物語にすぎません。そしてここにいる私たちは皆、何かを手に入れることを期待してここにいるのかもしれません。それが探求の形なのですが、メッセージは、あなたはもともとそれなのだということです。

つまり、探求は想像上のキャラクター、「私」にまつわるフィクションなのです。それが「私」「自分」という衣装を着ているのです。物語が自身を生み出し続けているのですが、それは単なる顕現にすぎません。そこには出口はありません。なぜなら、あなたは束縛されてはいないからです。誰も解放される人はいません。束縛されてはいないのです。
それは空(から)のブロックのようなものです。私たちは常に複雑なものや問題を積み上げています。

ジェーン:それは自然なことです。

ギルバート:(ジェーンに向かって)特にあなた。(笑い)そして、取り壊し屋(ボブを指して)に会う。

参加者:しばしば人々は出口を探しているように見えます。あたかも何かがあなたをそこから出してくれるかのように思っているのですが、実際には何もそこから出ません。誰もそこから出ません。それは鳥かごの中の鳥の話に似ています。鳥はかごの中にいて、戸が開いているのを見て外に出ることを考え、最後には外に出てまた戻り、そしてまた外に出て戻る。最後には部屋の中を飛び回り、もうかごの中へは戻らない。そして、かごなどなかったことに気づくのです。

ギルバート:ええっと、何て言ったか、確か、ストックホルム症候群。拘束された人が拘束した人とずっと一緒にいると、その人に好意を持ち始める。私たち皆がそうなります。それはしばしばそこから出るだけのことです。あなたが理解して距離を置いて見ると、それはたわ言だとわかります。私は何をしているのだろうと思うのですが、あなたがやっているのではありません。

2023/03/02

物事は起こり、行為は行われるが、そこには個人としての行為者はいない

2023.2.19ミーティング 1:17:55から

ギルバート:あなたに会う以前、インドに行った時、あなたのことをクリス・デールから聞きました。ボンベイのラメッシ・バルセカールに会いに行った時のことです。私たちはランチに行こうと通りを歩いていました。彼は私のオーストラリア訛りに気づいていました。

ランチに行こうと通りを歩いていた時、オレンジの大きな看板があって、そこでオレンジ売りがオレンジを売っていたのをはっきりと覚えています。そして彼はかたわらにいて、「セイラー・ボブの名を聞いたことは?」と言いました。私たちは非二元の話をしていた時で、セイラー・ボブって何だろうと思いました。

「彼はニサルガダッタよりわかりやすくて、メルボルンでミーティングをやっている」と言いました。なんだって!気難しいインド人にはるばる会いにやってきたというのに、そいつはメルボルンにいるのか!と思ったものです。当時私はシドニーに住んでいました。

ラメッシがほとんど毎日言った言葉があります。それはたぶん仏陀からの引用ではないかと思うのですが、「物事は起こり、行為は行われるが、そこには個人としての行為者はいない」です。それはつまり、行為者というのは実際にはフィクションだということです。あらゆることは、意識あるいは認識、好きなように呼べばいいのですが、それによってなされるということです。

行為者がいないととわかれば、行為者にまつわるあらゆる苦悩はどうなるのか。どこに問題があって、誰が問題を持つというのか? 数年前にある男がボブに会いにきた時のことを思い出しました。彼はじっと聞いていて最後に理解して私にこう言ったものです。「もしあなたが問題を想像したら、あなたが問題を手に入れたということだ」。(笑い)そうやって(その言葉)が私に戻ってきたのです。

2023/03/01

みんな集って一緒に歌いましょう

2023.2.19ミーティング 58:43から

カット:(携帯を見ながら)トレーシーから質問が来ています。「どうやったら人は『私』を手放すことができるでしょう? 私はもう50年以上「私」と同化しています」。

ボブ:止めなさい。(一同笑う)

カット:(携帯を見ながら)イギリスのジュリアが(ジェーンの歌に対して)ありがとう、素晴らしかった。ジョナサンから、ありがとう、よかった。

ジェーン:質問の中に答えがあるということを言いたいです。「どうやって『私』を手放すか」という質問の中に、「私」とその人(手放す人)との分離があります。その人というのは「私」の別名のことです。ということは、その「私」はあなたの記憶にほかなりません。それは本当のあなたではありません。それはナレーション、すなわちあなたの記憶です。ですから、ボブやギルバートが言うように、今ここでその「私」が見つかるかどうかを調べてみることです。

ギルバート:そしてまた、「私」を落としたいと思っている私を見つけることができるかどうかです。それは単なる物語です。

参加者A:それはあたかも、偽物の自己が偽物の自己を取り除くことができるかということです。そんなことは起こり得ません。それは偽物だからです。ただありのままで在ることです。「私」という思考を解放することです。

参加者B:思考がやってきました。問題は夢の一部を愛し、一部を愛さないこと。夢の全部を愛すか、全部を愛しないかのどちらかです。それはあたかもあなたのマインドがどこかへ向かうのを止めるようなもので、そうすると、あなたは何もすることができず、全部を愛するかまったく愛さないかのいずれかです。

参加者C:ええ、マインドを働かせないことです。

ギルバート:高速道路の大きな赤い標識で、「止まれ、戻れ、あなたは間違った方向へ向かっている」というのがあります。私はあれが好きです。そこには正しい道も間違った道もない。

参加者D:今日のボブの話の中で私にとって印象に残ったのは、出口はないということです。全部を愛するか、まったく愛さないかのどちらかです。このことについて多くの人と話をして思うのは、そこには非二元的な見方や話し方があって、もしそれから外れると拒絶されます。違う!(笑い)それは違う。すべてがそれです。(そうでなくて)どうやって、我はそれなりと知ることができるでしょうか。それが印象に残ったことです。

ジェーン:ええ、少し付け足したいのですが、多くの人があれこれを言い、まだ(それを)手に入れていない、まだそれを理解していないと言います。彼らは皆頭の中にいて、まだ手に入れていないとか理解していないと言いますが、あなたは既にそれなのです。それなのにどうして誰それはそれではないと言うことができるでしょうか? それは皮肉な話です。

ギルバート:私は何年か前に参加者が言った言葉を思い出しました。「すべては一つであるということはわかった。でもギルバートだけは違う」(一同笑う)

********
ここからカビーシャがギターを出して、スーフィーの詩人ハーフェズの詩の歌を歌いました。彼女の歌はすばらしいです。ぜひ聞いてみてください。1:03:10から

「善悪の思考を超えたところにある場所
 そこには美しい場所がある
 そこであなたと会いましょう
 みんな集って一緒に歌いましょう」

2023/02/28

雨が止んだ今、視界は良好さ

2023.2.19ミーティング 51:08から

(何かシェアする人はいますか?とカットが聞いたあと)

ギルバート:どうやったら、「私」が(あなたの)トークを生き延びることができるでしょうか?(一同笑う)どうやったら生き延びることが可能か?

ボブ:私はそれを試みて見つけなくてはいけません。

ギルバート:そのとおりです。何年にもわたるあなたのトークで際立っている点、たとえば、たびたびここで持ち出されるのは、マインドを見つめて、それがどうように働くのを見なさいということです。あなたは何時間も話すことができるのですが、その結果は平易な言葉のとてもシンプルなポインターです。このマインドの働きと「私」という信念、それにまつわることを見抜くことが鍵なのです。

でも、私たちは物語を好みます。そこで物語を一つ語ると、ずっと昔、私はある企業の株を買いました。それは「私」と呼ばれています。そして私は何年にもわたってこの企業にどんどんと資金や物事を注ぎ続けました。そしてそれは私に多くのトラブルをもたらしました。そこからあまり利益は得られず、ちょっとだけ幸せでしたが、多くの心理的な苦しみがありました。

そして、私はその男に会いました。その男は、「その『私』に実体があって独立したものかどうかを調べてみたらどうか?」と言いました。でも、やりたくなかったのでやりませんでした。でも、予想もしない時に自然にそれは起こったのです。意識に質問がやってきて、私は実際に「私」の物語やすべては偽物の企業だとわかったのです。

そしてまた、あなたが言う別のポインターは、「何かが偽物だと知ったなら、それを信じることは二度とできない、信じたくても信じることができない」です。それはあたかも子供がサンタクロースは実在ではないとわかるようなもので、もう二度とサンタを信じることはできません。

子供はサンタが架空のキャラクターだと知ったからといって、それを回りの人に、サンタクロースはいない、と言って触れてまわることはしません。そこには知性があって、幼い子供がファンタジーに耽るのを許すのです。でも、私たちは今や大人で、心理的な苦悩は不要です。これは何年も前にボブから聞いた言葉です。それはとても適切で、心理的苦悩は不要です。

心理的苦悩は不要なので、なぜこの心理的苦悩が続いているのかを調べるのです。それは蜃気楼の中の水のようなものであり、そこには何もありません。あなたのトークにたくさんのポインターがあって、(苦悩を)大幅に減らしています。あたかもそういった会社がやってきて、大きな鉄球ですべてを破壊しているようなものです。そして余分なものを取り除くのです。

マインドの本質は澄んでいて空(くう)です。あなたが言うように、言葉や思考のない意識(アウエアネス)、非観念の意識(アウエアネス)、マインドの本質は澄んでいて空です。マインドに何が現れようと、それはその空の中に現れているのです。そしてそれ(アウエアネス)は変化することはありません。

人々は、これはとても澄んでいるとか、これはそうではないとか言いますが、清浄さは宇宙の性質のようなもので、行ったり来たりはしません。やって来て去っていくのは、分離した自己という信念です。うわべ上では程度の違いがあって、ある時あなたはとてもひどい日があって、別の日にはよく見えます。

でも、空(そら)を見上げると、何も空には貼り付いていない。雲が多い日もあれば、無い日もある。60年代にいい歌があった。「雨が止んだ今、視界は良好さ」(この歌は、「I can see clearly now」)。私たちの文化の中にも私たちの言語でいくつもポインターがあります。そして、シェイクスピアもまたすばらしい。それが私が感じていることです。

*********
ここからジェーンが、関連した歌として、「On a Clear Day」を歌いました。


すてきな歌詞なので、リンクさせていただきました。

2023/02/27

バイロン・ケイティ

昨日のブログには載せませんでしたが、別の場面でカットは、以前はバイロン・ケイティのアドヴァイス通りに思考を書き出して、それが真実かどうかをチェックしていた時もあったが、今はやっていない、いずれにしても、それは単なる思考にすぎない、と片付けて終わりにしていると言っています。

またカットは、普段の生活で余計な思考がやってくると、「はい、次どうぞ」と言ってその思考をやり過ごすそうです。私の場合はどうか。私も依然として嫌な思考がたくさんやってきます。嫌な思い出、忘れたいこと、人からの批判、後悔、人との比較、嫌いな奴のこと、恥をかいたこと、異常な妄想、私を傷つけた人のこと、私が傷つけた人のこと。ありとあらゆるネガティブな思考がやってきます。

ひどい時などは、気が付くと毒づいて独り言を言っている時があります。昔はそういった思考がどっかりと居座ってしまって頭を離れない時があると、たいていは酒で紛らわしていました。今は家で一人で酒を飲むということはまったくなくなりました。飲みたいとも思いません。

そうした思考は単なる思考であって、実態のないものだということが身についてきたのだと思います。昔はたくさんの気晴らしが必要でした。人に会ったり、おいしいものを食べたり、飲んだり歌ったり旅をしたり。でも、今そうしたことがあまり必要ではなくなってきて、興味が向かなくなってきました。いいのか悪いのかわかりませんが。

今回、バイロン・ケイティの本を読もうかと思ったのですが、「今そのことを考えなかったら、何が問題ですか」というボブのポインターを知っていれば十分な気がして、読む気が起きませんでした。(ネットやアマゾンで読む限りでは、バイロン・ケイティはすばらしことを言っていると思います)

「思考は実体がないものであり、それが世界が形成している」という真実を学ぶことこそが、非二元を学ぶ鍵だと思います。

2023/02/26

浄化は本当に必要ないのですか?

2023.2.12ミーティング 1:00:00から

ジョシュア:あなたがおっしゃったことの繰り返しになるかもしれませんが、それは、自身が抱いている信念を放棄、あるいは手放すという明確なプロセスではないのですか? 自身を認識するということは、信念を放棄するということにかかっていますか? それがあなたのおっしゃったことですか? ええと、つまり、自己を認識することは、探求、すなわち浄化のプロセスにかかっていますか? うまく説明できているか自信ありませんが……。

ボブ:私が話して指摘したことは、それは既にそうなのだということです。では、何を浄化する必要がありますか? それは単に認識するということです。

カット:ナーガルジュナは、マインドを浄化することはマインドを汚すことだと言っていたと思います。それはとても重要な言葉だと思います。「私」は夢を見ます。「私」は今や行為者だ。「私」には何かができる。そのことにのめり込む姿が目に浮かびます。ええ、「私」は真実をぜひ手に入れたい。「私」は自分のマインドを浄化する。一つ一つの信念を調べて、それを解放する。

そうやってますます力を注いでいきます。「私」はそれができる。「私」はそうした信念を放棄する。「私」は他の信念を選択することができる。「私」は自身のマインドをもっと望ましいものにする。ええ、スピリチュアルな成長とかそういったことは素晴らしい夢です。それがあなたの中で起こっていることです。

ボブ:「私」は体ですか? 「私」はマインドですか? 調べてください。その真実を知れば、そこには体もマインドも人もいません。では、何を浄化しようというのですか?

カット:それは、マインドを超越するということです。マインドが純粋だとか汚れているというのは認識です。純粋、訓練されている、訓練されていない、汚れている、汚いマインド、おかしなマインド、狂ったマインド、どんな形となって現れていようと、それは本当のあなたである認識の上に現れています。

ええ、それはしばしばそのようなやり方で起こります。ああ、スピリチュアルな私、スピリチュアルなエゴ。私は座って瞑想する、私は自身の信念を調べる、私はあれこれをする。それはまた、生がダンスをするやり方であって、それが良いとか悪いとかいうことではないのです。それが必要だとか不要だということではなく、そのように展開しているにすぎません。

ボブは瞑想していました。私も瞑想をしていました。バイロン・ケイティの言う、信念に対する質問に対する答えを書き出しました。それが助けになったか? それはわかりません。なぜなら、それをやらなかったらどうなっていたかはわからないからです。二つの人生を比べることはできません。それが生が展開するやり方です。

そして、スピリチュアルな体験のまったくない人や、どんなワークもやったことがない人もいます。それはすべて、生がどうやって自己を組み立てるかによります。「私は在る」が自己であるということが信念であると認識することでさえ、その認識はマインドを超えたところからやってきます。あるいは、私はジョシュア、私は誰々である、それはすべてマインドを超えたところからやってきます。

この質問がマインドで起こるのか、そしてそこから移行が起きるのか、それはすべて生にかかっています。それが良いとか悪いとかはありません。なぜなら、生には良いも悪いもないからです。

ボブ:私は誰か?

カット:誰が私なのか? 私とは誰か?

ボブ:ええ。

カット:ええ。あの存在の感覚とは何か? 私とは何か?

ボブ:それを知りたいと思っているのは「私」です。

カット:誰が質問しているのか? ええ。もしあなたが何らかのワークをやりたい気がするなら、やってみてください。でも、それが本当に必要でしょうか? まわりを見渡してみると、それが皆に必要でしたか? 誰かが、自分はマインドであるという思考から自由になりましたか? いいえ。

それが起こるのは、例えば「奇跡のコース」では、あなたにできるのは希望することだけで、最後の一歩は神、宇宙、スピリット、呼びたければ何と呼んでもかまいませんが、その完全性からやってくると言っています。存在者は何もすることはできません。存在者は歌を歌うこと、信念を調べること、座って瞑想することなど、船を揺らすことしかできません。(笑い)

しかし、最後の一歩、理解は純粋で開放的な意識のフィールドからやってきます。そこから認識の展望が起こると、それがマインドを見ます。マインドが何をやっていようと、くるくる回っているのを、超えた観点から見るのです。一方で、たとえば良い行いをするのは良いことです。なんと素敵なことでしょう。時間を割いてボランティアで貧しい人たちに食べ物を与えること。素晴らしい。それはあなたのハートを開きます。何も悪いことではありません。ええ、生がみんなをそのように駆り立てるなら、私たちは天国に住むことになるでしょう。

ジョシュア:それで、浄化に関しては気にする必要はないのですか?

カット:ええ、まったくありません。

2023/02/25

おすすめの本を教えてください。

2023.2.12ミーティング 53:41から

カット:(オンライン参加者の質問を読みながら)トレーシーからです。ボブの素晴らしい本意外で、情報源として推薦できるような本はありますか?(ボブを見て)あなたの本以外で、情報源として何か推薦していただけますか?

(ボブ、首を横に振る)

参加者:カットの本が素晴らしいです。

カット:ああ、ありがとう(笑う)。(ボブに向かって)あなたの素晴らしい本と私の素晴らしい本以外の情報源として何かありますか(笑い)?

ボブ:出会うことができる本すべてにおいて、それがあなたの注意を引くかを見てください。

カット:ええ、トレーシー、これは素晴らしい答えです。先ほどボブがジョシュアに言ったように、試して、生があなたをどこへ導くかを見てください。生はあなたを読むこと聴くこと、探求を続けること、あるいは他の話し手や言語へと導くかもしれません。でも、私たちのところへやって来て、エックハルト・トールがこう言ったのはどういう意味ですか?とか、ムージが言ったのはどういう意味ですか?と聞かないで、彼らに聞いてください。(笑い)

というのも、以前はそうした質問をしょっちゅう受けたからです。今や人々はそうしたグループに参加するうちに、いくぶん以前より明晰になり、成熟して理解も進んだようで、グルめぐりや、そうした名前に関心を向けるのではなく、(自己の内側の)調査に専念するようになってきたようです。それはとても素晴らしことです。

でも、もしあなたが、それをやることに気持ちを動かされたなら、つまり、誰があなたに何をどうやってあなたの人生を生きろということができるでしょうか?

(ここから別の人のコメントを3分ほど省略)

57:42から

(カット、携帯のコメントを読む)
カット:ナッツからです。ボブの本が究極のベストです。そしてキャシーから。ニサルガダッタの『I Am That』が良い情報源です。ヴィベックはラマナ・マハシリの本。(カット笑う)誰でも5~10冊の(お気に入り)本があるのは知っています。でも、その話題に入っていってもよいのかわかりません。

というのも、ボブにも5~10冊のお気に入りの本がありますが、ボブはそれを言おうとしません。それは個人的な助言となるからです。

ボブ:ええ、あなたがそれらを全部調べると、何かがピンとくるかもしれません。たった一言が物事の方向を変えてしまうのに十分かもしれません。

カット:あるいは静かに座って、鳥が森へと飛ぶ音、風の音。それもまたメッセージを運んでくるかもしれません。

ボブ:「我はそれなり」というような単純な一言。私たちは皆それを聞いたことがあります。でも、彼はグルのところへ行って真実を教えて欲しいと言い、「それはもう聞きました」と言ったのです。(カット笑う)(ここで話ているのは、「汝それなり」と聞いて、グルのもとで12年間ウシの糞を片付け続けた男の話)

何年も経ってから、彼は本当にそれを聞いたのです(意味を理解したということ)。私も何年も前にそれを聞いたのですが、ニサルガダッタに会うまでは、本当には聞いていませんでした。

カット:でも、あなたはスコップで12年も牛の片付けをしなくてもよかった。

ボブ:いいえ。それまで17年かかっています。

(一同笑う)

2023/02/24

訓練は必要ですか?

2023.2.12ミーティング 47:39から

ジョシュア:お尋ねしたいのですが、日々の訓練(practice)についてです。訓練は実際のところ必要ですか?

ボブ:訓練が必要だと感じるのですか?

ジョシュア:何らかの形で役に立つのではないかと思っています。

ボブ:では試してみてください。

ジョシュア:やってみます。

ボブ:試してみれば、何らかの結果が得られるでしょう。

ジョシュア:はい。ありがとう。

カット:試してみるというのは素晴らしい答えですね。もし、シェフになりたいのなら訓練が必要です。泥棒になりたい場合も訓練が必要です(笑い)。あなたがそうした活動が好きで、スキルを手に入れたいなら、訓練が必要です。もし、従順で集中力があるマインドが欲しいのなら、訓練が必要です。

もし生があなたにスキルをもたらそうとするなら、スケートやパラシュートなど、なんでも訓練が必要です。でも、あなたは存在すること(being)を訓練することはできません。なぜなら、それをやめることはできないからです。それはあなたが始めたり止めたりできることではないからです。何かのスキルのためのあらゆる訓練には始まりと終わりがあります。

存在することは、生まれつき自然に常にそこにあるものです。あなたが実際に目にすることができるのは、その存在、実在の意識(アウエアネス)を不鮮明にするものだけです。もしあなたが、一日のうちのいつか、特定のやり方で自身でそれを調査するようにするなら、それは良いことです。

ジョシュア:ありがとう。

カット:そして、アンドリアンのコメントが素晴らしい。それは素晴らしい洞察です。最初にタイラーやピーターが言ったこともそうですが、誰も好んでスピリチュアルの探求者になったわけではありません。不完全な感覚、達成感の不足、欠乏の感覚、愛されていないという思いなどでじっとしていられなくて、苦悩の解決を求めて探求の苦境へと駆り立てたのです。

そして突然わかり始めると、あなたが最初に気づくのは、おや! もう何もつらくないぞ。関係性もつらくない。物事はもう何も深刻ではない。それは実在を見つめること。ロスが言ったように、体はぶつぶつ言うかもしれない。でも、自己同化を離れて、実在を見つめると、物事をはるかに軽いものに変えます。

最後には、内容物としての物事は起こっても全く気にならない。優勢になってくるのは背景にある感謝の感覚、喜び、驚き、感嘆の感覚です。そしてももちろん、そこにはあらゆるものがやって来て去っていきます。苦しみと喜び。飢えや寒さなどすべて。しかし、驚嘆の質は無くなりません。

2023/02/23

Chat GPTと正見


 

 この話は直接仏教とは関係ないのですが、おもしろかったので転載させていただきました。
すごい時代ですね。

2023/02/22

「私」は宇宙のどこにも存在しない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その39」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

正見。正しく見ること。
正しく見るとは、宇宙のどこにも「私」はいないということを理解すること。それが一番大切な基本。

2023/02/21

空間の広大さ

2023.2.5ミーティング 41:21から

(何かシェアするように求められて)

参加者:自身の物語がとてもリアルに見えるため、まったく距離を置くことができずにそれに巻き込まれてしまった場合でも、それは幻想の一部なのです。あなたが、あたかもそれが信念であるかのように物語にしがみついてしまったら、その執着、物語は問題となります。

この、ミーティング、非二元に関することの要点は、物語から離れて空間を作ることです。どんな物語であろうと、物語だということを知ることです。そうした固着がゆるむと、空間の広大さに対する感覚がやってきます。あなたは問題の源へとたどり着きます。

あなたがその空間の広大さを体験すると、非二元を体験し始めます。そこには一つのもがあるだけ。そこには一つの意識があるだけ。そして、現実と物語にしがみつくことが落ち始めます。それは素晴らしいことです。

2023/02/20

それは誰に起こっていますか?

2023.2.5ミーティング 44:38から

参加者:私の質問は、先ほどの女性が言ったバイロン・ケイティの言葉に関係することですが…

カビーシャ:もし私が私の物語(ストーリー)ではなかったら。

参加者:ええ。その物語と一体(attach)になるには、

ジェーン:一体になる(attach)? 分離する(detach)?  どっち?

参加者:ごめんなさい。分離する、でした。その物語から離れるためには?

ジェーン:あなたは物語ではないわ。

参加者:どうやって自身は物語ではないと知ったらいいのですか?

カビーシャ:感じることです。質問を自身に尋ねて感じることです。それが正しい答えか間違っている答えかを考えるのではなく、質問を尋ねて、どんな感覚が体に現れるのかを感じるのです。もしあなたが物語ではなかったら何ですか? もし私が物語ではなかったら何なのかを感じるのです。そこには何がありますか。

カット:ボブの言葉で、「今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?」があります。

ボブ:それは誰に起こっていますか?

ジェーン:その答えは「私」です。そしてその「私」、あなたが自分だと思っているものには物語があります。それは単なる思考にすぎません。その思考は、本当のあなたである存在の上に現れます。その思考は、ボブが言うように「私」を引き起こすものです。それを調べてみてください。その「私」はどこにありますか? 見つけることができるか調べてみてください。深呼吸して、自分が始まった地点、終わった地点を見つけてみてください。あなたが本気で調べれば、そんなものはないとわかるでしょう。

参加者:でも、人は習慣的に、自分はこれだと深く信じています。なぜなら、自分の歴史、あらゆるドラマや出来事がどこか背景にあって、潜在意識のレベルではあたかも独立した存在が生活しているようで、それを毎日感じています。そして無意識のうちに自分だと信じているものを思い出しています。それで私が尋ねているのは、その認識からいつも抜け出しているには、また本当の自分を思い出しているにはどうしたらいいのかということです。

カビーシャ:訓練です。

参加者:どんな?

ボブ:自身の信念を疑うことです。

ジェーン:信念とは何か話してもらえますか?

ボブ:調べもしないで理由なく何かを受け入れることです。あなたはそれを調べもしなかったという意味です。

参加者:でも、それを裏付けるような事実が得られれば、

カット:(事実は)それについて考えた時だけあります。あなたがハートにいるとき、事実はありません。事実は、あなたが頭の中にいるときだけあります。あなたが思考に囚われているときだけあるのです。あなたが思考の中にいる時を見てください。「おおこれが私だ」「世界は私に関係している」「私が宇宙の中心だ」「私が重要だ」「これは個人的だ」。あなたが自身のハートの中に入っていって、まわりを見回し、耳を澄まして、見て、触れて、自身の体を感じるとき、あなたは完全に存在しています。あなたは単なる頭の中の思考として存在するのではなく、体として完全に存在しています。

その瞬間、あなたは過去の物語に入り込む代わりに、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこととなって存在しています。その瞬間、あなたは目覚めていて、完全に存在しています。そしてそれが認識の瞬間です。というのも、今この瞬間、「ああ、これが実在。私は今目覚めている」。あれが私に起こった、これが私に起こって……、こういったことは全部白日夢なのです。

参加者:ええ、私が言っているのは、そうした話のことではないのです。どこか私のマインドの後ろでいつもぶらぶらしている自身のアイデンティティの感覚のことを言っているのです。

ボブ:あなたはそれに気づいています。それは(思考の)対象物です。

カット:それ(質問者の表現)は素晴らしい表現でした。

参加者:で、私はどうしたら、

カット:気づいていてください。気づき続けていたください。

参加者:あなたがオンラインの参加者にしたアドバイスと同じようにですか?

カット:ええ、それに気づいていることです。

参加者:それですね。

カット:ええ。というのも、あなたがそれを、あなたが言うように、どこか背景にある対象物だと認識すると、どこか背景で自己のアイデンティティとして覆われているものは本当のあなたではないとハートでわかるからです。それはある種のマスク、衣装か何かです。

参加者:それが私が尋ねていたことです。あなたは要点を理解してくれました。

ジェーン:一言付け足したいのですが、あなたが背景で自分だと想像しているものは記憶の中でしか生きられません。それは今この瞬間を生きることはできません。そして、あらゆるポインターを超えたポインターは、「今もしそのことを考えなかったら、何が問題ですか?」です。もし、思考は依然として動いていても、それはペアとなる反対の極に向かって動くだけです。喜びと苦しみ、幸せと不幸、あなたと私、昨日と明日、それがマインドの性質です。私と言われるもののおしゃべりやナレーションは、過去か未来に関するものです。

そしてそれは何の上に現れているのか。それは本当のあなたである存在の上に現れています。空(そら)にある雲は常に動いています。本当のあなたである存在は、それは常に、雲のうしろにあります。雲は常に動いています。おしゃべりの中でどんなことが起こっても、ボブが指摘したように、あなたは物語ではありません。そしてカビーシャが言ったように、その空(そら)が本当のあなたなのです。あなたは何もない空(そら)です。

2023/02/19

バイロン・ケイティ

2023.2.5ミーティング 40:57から

(何かシェアすることがあるかを聞かれて)

カビーシャ:リマインダー(思い出させるもの)として、バイロン・ケイティの言葉があります。「もし私たちが、私たちの物語でないとしたら、何なのでしょう」。それだけ。シンプルです。もし私たちが物語でなかったら。それはとても深淵なものです。

********
バイロン・ケイティという人の名は初めて聞きました。ネットで検索したら、以下のサイトが出てきたのでリンクしておきます。

2023/02/18

習慣に気づくこと

2023.2.5ミーティング 33:40から

カット:(ネット上のコメントを携帯で読みながら)質問がきています。「こんにちは。初めてボブの本を読んだときから好きになりました。私はいまだに、自身は犠牲者であるという物語の中毒になっています。たくさんのラベルがあり、自閉症、トラウマ、CPDST(複雑性心的外傷後ストレス障害)、虐待、無力、不安など、多くの苦悩がラベルとして貼り付いています。でも、いまだにそれを落とすことができません。理論のすべてを理解し、何十年にもわたって読み、探求して学び、頭の中は知識で一杯です。でも、それを生きた経験がないのです。もしそれが重要であるとしても」。

(ボブに向かって)答えてもらえますか?

ボブ:何ですか? もう一度。(一同笑う)

カット:(笑う)たぶん、補聴器を付けた方がいいですね。(ボブが補聴器を付ける)

参加者:私たちももう一度聞く必要があるわ。ボブ、気にしないで。

カット:これは、しつこい苦悩に関する発言です。彼女は今でも苦しんでいます。苦悩しているのです。彼女は観念としてはすべてわかっています。でも、いまだに障害、自閉症、CPDSTなど、内側には闇があります。闇を掘り起こせば掘り起こすほど闇がやってくるのは明らかです。苦悩したことがない人に会ったことがありますか? 肉体的、感情的、あるいは何らかの形で虐待を受けたことがない人がいますか? 自分が完璧だという人に会ったことは? その典型的な驚く例を見たことがありますが、それは拒食症の人たちです。彼らは自身の体を嫌っています。

私は、肉体的、感情的に虐待された人やそうでない人たちに会った経験がありますが、彼らは主観的な体験の中でひどく苦悩するのです。つまり、自身の苦しみ、苦悩に焦点を合わせて掘り下げていくと……。ええ、これは昨日の体験を言い換えたものですが、昨日私たちは、コロナ期間以外では、年に一度のイベントに出席しました。そこにはなつかしい人たちが130人いて、その人たちと考えをシェアすることができました。

その人たちは、AA(断酒会)の本をよく理解していました。アルコールが問題なのではありません。自己中心主義、自己の欲求、自己への執着、それが私たちの苦悩の対象です。アルコールは一種の解決法です。継続することはできませんが。あらゆるドラッグやセラピー、あるいはダーツやショッピング、セックスでさえ、その深い根を本当には癒すことはできません。

(携帯に目をやり)トレシー・ルイスから。「あなたは、自身の犠牲者としての物語に中毒になっています」。つまり、あなたはよく気づいています。あなたは、自身が自己に執着してしまうという習慣にとても意識的になっています。注意が絶えず、かわいそうな私、私は病気、私は自閉症、私は虐待された、私は、私は、と絶えず焦点をあてていることにはっきりと気づくことは、初めとしてはとても素晴らしいことです。

これを調べたい人は誰でも、偏った(自己)認証、心理的な現象を見つけることになります。私たちは、苦悩する人たちができるだけそれに気づくように働きかけています。質問にもどると、あなたは今、注意を向ける習慣が、犠牲者の物語に向かうということを知りました。それは、すばらしい始まりです。どれほどそれが向かうのか見てください。それがどれほど深く関わっているのか見てください。

というのも、あなたが自己を観察者という視点から観察するなら、自己に執着するする習慣を学ぶことになるからです。ええ、その過去の体験はもちろんとてもつらいことです。その過去、条件づけが、世界に対するあなたの反応を変えてしまいました。あたかも虐待された動物がおびえて行動するように、それがあなたを追い込みました。「これはたわごとだ、考えなくていい、捨て去れ」と言っているわけではありません。それはよくわかっています。

でも、それが実際どの程度あなたが世界を体験するやり方を変えたのかを見てください。あなたが世界を見るパターン、フィルターを学ぶとき、あなたがそれを学んでいる場所はパターンを超えた地点にあります。それは、純粋な意識の開かれたフィールドからその習慣を見ているのです。それが啓示の場所、苦悩を超えた場所です。

それがどれほどやってくるのかに興味を持ち、「ああ、私は十分ではない」「私には障害があるから」「私は病気だから」「私は自閉症だから」「私は虐待されたから」と、どれほどそれがやってくるのか、どれほど強いのか、子供のような好奇心で見てください。そうすると、それは非個人的なこととなります。それが非個人的なこととなると、あなたを傷つけたり痛めたりする力を失います。

あなたがそのパターンを、特定の食べ物や匂いに引かれる時と同じように見るなら、「ああ、この体はそれに引かれている。わかっている」となり、体、注意がそれに引かれているとわかります。それは冒険となり突然魅力的なものになります。

(投稿者に向けて)質問していただき、あなたが正直であったことに感謝します。告白するにはガッツが要ったはずです。傷つきやすさ、成熟性が必要だったはずです。ありがとう。あなたの犠牲者物語中毒を認めるほどの正直さに感謝します。あなたはそれではありません。それは単なる注意です。あなたはそれではありません。あなたは自由で無垢で完全で純粋なものです。

あなたはそれを知らないかもしれませんが、それは事実です。ボブが言うように、「あなたはもともとそれです」。(ボブに向かって)何か話しますか?

ボブ:いや、少しフラフラするのです。

カット:フラフラする? 昨日、帰りがとても遅くてあまり寝てないからですね。何か必要なものはありますか? 水は?

ボブ:(笑って)話しを続けてください。

カット:ええ、おしゃべりを続けることにします。

2023/02/17

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師


とうとう終わってしまいました。
毎度のことながら、話の内容がセイラーボブの話と驚くほど似ています。
全部通して見られる方はこちらからどうぞ。

2023/02/16

知的な理解

昨日のブログと矛盾するかもしれませんが、私がボブに、「私は知的には理解しました。でも……」と言った時ボブは「知的な理解の他にどんな理解がありますか? 2+2は4でしょう?」と言いました。

では、カットの言う知的な理解と、本当の理解は何が違うのか? これはボブやカットが言っていることではなく、私が勝手に思っていることですが、その違いは「揺るぎない確信」があるかないかだと思います。確信がないと、but (でも)や If (もし)がやって来て、contraction(収縮、減退、後退)と彼らが呼ぶ状態が起こります。

この、but や if がまったくやって来ない状態が本当の理解なのだと思います。ボブの教えていることが、まったく当たり前のこととして思えるとき。私の場合、その確信が持てるようになったのは、ボブに会ってから四年後のことでした。そして、「それ」はいつも思考の背後にあると知っています。一番身近な体験で言うなら、熟睡したあとの朝、思考がやってくる前のほんの一瞬、「それ」を鮮明に感じることができます。そしてそれは、日中もずっとそこにあることを私は知っています。

昨日のブログのカットの発言を読んだ人は、「私の理解は知的な理解で、ハートの理解ではない。これではだめだ」と思うかもしれません。でも、その理解は決してエンライトメントのようなものではありません。セイラーボブだって、ニサルガダッタの家から一歩出ると、古い思考が戻って来たと言っています。ちなみに、ボブがニサルガダッタの家へ通ったのは12か月間です(二週間おきに数日ずつ)。そのどこかで何かが起きたのではなく、何度もニサルガダッタとやりあいながら、少しづつ理解していったはずです。そしてまたバーバラもボブと一緒にマハラジと会い、比較的短期間でマハラジの教えを理解しています。

カットの発言はあくまで比喩的なものであり、心から本当に理解していない人は、確信がなくて、まだ何か足りないと思っているということだと思います。2023.2.12の当ブログを読んでいいただければ、わかることです。
私たちは、知的な理解とかハートの理解とか言われると、難しく考えてしまいます。揺るぎない確信があるかどうかを自分に問うてみてください。揺るぎない確信があるか、まだ何かを探しているかどうかを「本当の理解」の判断基準にするといいと思います。私はもう何も探してはいません。

2023/02/15

本当の理解

2023.1.29ミーティング 1:31:02から

(ミーティングの最後にオンラインからのコメントを読みながら)

カット:エイドリアンが以前ここでミーティングに参加した時、彼は素晴らしい洞察を得ました。彼は言います。「いわゆるマインドレベルでの成就、目覚めですべてが明確になったとしても、それは実際には完全ではない」。そして私は言うのです。それは完全ではないばかりではなく、何の価値もないことです。それはゴミです。

それは想像したものです。あなたが知っていると想像したもの、あるいは知的に理解したと想像しているものは何であれ、でたらめです。あなたが認知症になれば消えます。酔っぱらったら消えます。あなたが眠れば消えます。目覚めは、ハートと愛の完全な統合のレベルのものであり、そこでは分離は消えてなくなります。

知的(レベルでは)には、「私は理解した。私とグラスは一つだ」と言う人がここには大勢来ました。本当? それは経験的な認識ですか? お気の毒ですが、それは違います。知的な理解は単なるゴミです。それは単なるたわごとです。みんなたわごとを暗唱しているのです。

本当の目覚めは、あなたが実際に考えることをとめた時、そしてそれは、その自然な状態の体験そのものの時、何も悪くない時、何も変える必要のない時です。生は神秘であり、奇跡です。あなたはそれをそうした言葉で翻訳する必要はありません。そしてこれは瞬間瞬間に可能なことです。ミリヤンが言うように、これをうわべ上でできるのは自分だけであり、他の誰かができることではありません。それは認識、成就、見る事です。

2023/02/14

不生の仏心

人々皆親のうみ附てたもったは仏心ひとつで よのものはひとつも うみ附はしませぬわひの

                                        盤珪

2023/02/13

生は自己の中心なしで機能し続けます

太陽自身が雲を起こし、太陽自身が雲を吹き飛ばしているということをあなたは理解しました。ということは、やって来る思考は知性エネルギーの活動に他ならないということがわかるでしょう。それはどこにも貼り付いてはいません。その真実を知れば、それは去っていきます。
生は自己の中心の活動なしに機能し続けます。
                                   セイラーボブ

2023/02/12

私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか?

2023.1.29ミーティング 38:38から

サロージャ:ええっと、最終的に私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか? 私は準備ができています。私はアウエアネスの中にいたいのです。でも、私がそこにいることを妨げているのは何なのでしょうか? 私はそれを試みるのではなく、ただそこにいたいのです。最終的に私をそれから妨げているものは何なのでしょうか?

カット:ええ、あなたはそうではないと思っているのですね。ボブどうぞ。

ボブ:あなたには今意識がありませんか?(Are you unaware right now?)

サロージャ:私には意識があります。(I am aware.)

ボブ:では、それで在りなさい。私は意識があるとかないとか言って離れることなく、そのアウエアネス(意識)で在りなさい。アウエアネスは起こり続けていますが、それは「私は在る」へと翻訳されます。

カット:あなたが(自分は既にそうであるという)考えを持っていない時、この古い言葉を考えてみてください。「エンライトメントした人とエンライトメントしていない人の唯一の違いは、エンライトメントしていない人は、そこには何か違いがあるはずだと信じているにすぎない」。実際には何も違いはないのです。違うのは思考だけです。あなたとボブの違いは、そこには違いあるはずだというあなたの信念だけです。というのも、ボブは自分が存在していてそこに存在意識があるということを完全に鋭敏に知っていて、あなたの中にも同様に存在意識があると知っているからです。

でも、あなたはその余分に、何かが去らなければいけない、何かがシフトしなければいけない、何かが変わらなくてはいけない、何かが停止しなければいけない、何かが起きなければいけないと考えています。でも、実際に起きなくてはいけないのは、そこにある思考がただリラックスすることだけなのです。なぜなら、もしあなたが考えなかったら、何があなたの存在の完全なアウエアネスを邪魔しているのですか? ボブはあなたに、あなたに意識がないのかと尋ね、あなたは、あると言いました。でも、今それでは十分ではありませんね。

というのも、マインドがやって来てこう言うからです。「ええ、それでは十分ではない。私には意識がある。それでどうなる? エンライトメントはどこにある? 至福はどこにある?」。いいですか。マインドがやってきて、何かが変わるべきだというのは観念、思考なのです。

ボブはあなたに、「あなたは既にそれである」と言い、マインドは「いいえ、私はそうではありません」と言います。「私には花火か雷鳴のような何かが起きる必要があります」と言います。でも、真実は、あなたは本当にもともとそれなのです。おしゃべりなマインドだけが、あなたはそうではないと言っているにすぎません。

マインドがやすらいでリラックスした時、美しい夕日を見た時、美味しいチョコレートケーキを食べた時、猫を撫でた時、あるいは、その物語を脇によけるような何かをした時、それが「何も悪くはない」という瞬間のことです。(その瞬間)何も悪くはなく、生はあるがままで素晴らしく、容易なものです。それが、私たちが「自然な状態」と呼ぶものです。

人々はやって来て言います。「何かこれは違う。エンライトメントは何かもっと大きいもの。その言葉はもっと激しいもの」。でも、自然な状態は私たちが自然の中にいるような状態です。あらゆることに対してただリラックスしてくつろいだ存在。体が空腹を訴えれば食べ、オシッコがしたくなればトイレに行き、マインドが楽しみを必要とすれば音楽をかけ、それを問題にする人は誰もそこにはいない。

でも、いつもこの観念上の私、カタリーナ、サロージャは、これでは足りないと言います。私はもっと喜びが欲しい。私はもっと至福が欲しい。私はもっと愛が欲しい。私はもっと、もっと、もっと何か、これではないものが欲しい。この瞬間は良くない。これは間違っていて、こうあるべきではない。そうした観念のかたまりがこう言うのです。神は愚かだ、彼はすべて間違ったことをやった、私はもっとよく知っていて、この瞬間はこうあるべきではない。神は愚かだ。

この瞬間を創造しているこの現実、こんなやり方は間違っている。「私」、この創造された自己はもっと上手にやる。もっと喜びがあって、もっと至福に満ちて、もっと愛があって。その声、その自己は作られたもので、それは習慣からくるものです。私たちがどうやって話すかを学んでいたころ、ボブが言うように、あなたが二歳か三歳のころ、言葉を収集して学び、頭の中で下稽古して、OK、何と言おうか、そうだ、OK、赤ちゃんは喉が渇いた、赤ちゃんはあれが欲しい、これが欲しい。

その声に非常に慣れ親しんだため、ある時点で変化が起きて、これが「私だ」となり、「私はお腹が空いた」「私はアイスクリームが欲しい」と言い始めます。その声が内側のものとなり、この声が私であるとなります。そしてその声が今や、「これはよくない。これは間違っている」と言います。そして今や、これが私だ。私がそう言っている。この「私」という信念をどうしたらいいのか? この「私」を取り除くにはどうしたらいいのか?

それは不可能です。そんなことは起こりません。想像された自己は、ありもしない想像上の自己を取り除くことはできません。認識は想像された自己を超えたところからやってきます。すると、この仕組み全体が、いかにして幻想の複雑なまやかしのゲームに巻き込まれていったかがわかるでしょう。思考がなければ、何も問題はないとわかるでしょう。自然な状態には何も悪いことはありません。

思考がやって来て、いいえ、私はエンライトメントしていない、私はそれではない、私は明確ではないと言います。そしてドラマが始まります。ですから、実際には思考なのです。それを信じること、信頼することを止めるべきです。開いた意識の中でくつろいで認識してください。「私」という思考がある時もあれば、ない時もあります。でも、実在(being)はいつもそこにあります。

ですから、そこに「私」がある時は、それは意識のフィールドにただ起こっているということを理解してください。その「私」が本当の私だと信じる必要はないのです。それは単に、時々はそこにあり、時々はありません。あなたが眠る時、何も悪いことはありません。またあなたが、何かとてもハイになるバイブレーションにさらされたり、愛や至福を感じる時も、何も悪いことではありません。

でも、その時、渇きが起こり、私はハートの奥底ではもっと何かがあると知っていて、私はそれを持っていない、それが欲しい、それを渇望する、私のハートはその達成観を欲しがっているとなります。それが今や人生の物語になって、私はそれを探さなくてはいけない、それを見つけるために打ち込まなくてはいけないとなります。でも、それは決して隠されてはいません。

ジェーン:ちょっと話していいですか?

カット:ええもちろん。

ジェーン:(サロージャに向かって)あなたの質問は、なぜ……、あなたの質問は何でしたか? もう一度言って。

サロージャ:私は……

ジェーン:何が私を妨げているのか。妨げているのか? 何が私を妨げているのか。それがあなたの質問でした。今何があなたを妨げているのか。そこには分離があります。そこには分離があると知ってください。あなたはアウエアネス(意識)です。それは事実です。ボブはあなたに今存在しているか尋ね、あなたはイエスと答えました。それがアウエアネスです。そうでしょ。そしてあなたは、何が「私」を妨げているのか、と言いました。

つまり、その「私」は、あなたの記憶の中にだけあるものです。記憶のあなたが、ただ在ることからあなたを妨げているのです。つまり、その「私」は今この瞬間にここに生きることはできないのです。「私」とは、あなたの記憶です。つまり、あなたのマインドの中で、あなたとアウエアネスが分離しているのです。でも、あなたはその(マインドの中の)アウエアネスではなくて、常にアウエアネスなのです。そこにマインドが現れているにすぎません。マインドがその上に現れるのです。(ジェーンがサロージャに手を差し出して握手する)

カット:すばらしい。すばらしいですね。

2023/02/11

あなたは幸せでも不幸でもない

成功も失敗も、あなたのマインドが思っていることにすぎない。
良いも悪いもマインドが思っていることにすぎない。
あなたはマインドではない。
あなたは幸せでも不幸でもない。

2023/02/10

想像をやめること

私が想像するのを止めるようにと言っているのは、あなたが生まれ、両親がいて、体があって、やがて死ぬ、そういったことだ。
やってみなさい。思っているほど難しいことではない。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/02/09

本当のあなた

「今」というこの瞬間が始まるのはいつですか? 今。そして、それが始まった時、それはもうすでに終わっていて、持続時間はありません。仏教徒はそれを「不生」と呼びます。「不生」とは、まだ始まっていないということです。それには始まりがないということです。それには始まりも終わりもありません。それには時間がないのです。それには空間がありません。それには体がありません。それにはマインドがありません。それは物ではありません。にもかかわらず、それはすべてが現れては消える本質です。それが本当のあなたです。
                                    セイラーボブ

2023/02/08

足るを知る

足ることを知っている者はすべてを持っているのだ。欲深く多くを求める者はどんなに多くのものを得てもまだ足りないと思うのである。
                               アンゲルス・ジレジウス

2023/02/07

あなたの本質

あなたの本質は自ら輝く純粋な知性です。輝くという観念は動きを暗示させます。動きはエネルギーです。私はそれを「純粋な知性エネルギー」と呼びます。それはあなたの目を通して輝きます。あなたはそれが何なのかを言うことはできませんし、否定することもできません。
                                    セイラーボブ

2023/02/06

あなたの想像以外、何もあなたを傷つけはしない。

                                   ニサルガダッタ

2023/02/05

神はあなたの中に

自分自身にひざまずき、自分自身に頭を下げ、自分自身という存在に敬意を払い崇拝しなさい。神はあなたの中にあなたとして宿っている。
                                   ムクタナンダ

2023/02/04

やがては去っていく

あなたが自身の感情に「恐れ」や「悲しみ」というラベルを貼らなければ、それは単なる感情にすぎず、やがては去っていく。

2023/02/03

誰が探求するというのですか?

2023.1.23ミーティング 0:49から

ボブ:みなさんおはようございます。会えてうれしいです。みなさんがもうすでに知っているいつもと同じおなじみのこと、いわゆる非二元についてです。非二元とは、二つではない、他には何もない一つのものという意味です。それはただ一つの本質、すなわち知性エネルギー、あるいは、貼りたければどんなラベルを貼ってもかまいません。それを神と呼びたければそう呼んでもいいし、何と呼んでもかまいませんが、それが存在するすべてです。

私はそれを五つの要素で表現しようと思います。サット・チット・アナンダ・ナーパ・ルーパです。存在・意識・至福・名前・形です。今、存在していない人はいますか? いいえ、あなたたちは皆存在しています。意識のない人、気づいていない人は? あなたは気づいていて意識があることを知っています。存在することがうれしくない人、ここに存在したくない人は? みなさんはどこか他ではなくて、ここにいたいのでしょう。

そしてみなさんがそれであり、それがすべてであるなら、あなたはすでにそれであるに違いありません。では、探求とは一体何なのですか? 誰が探求しているのですか? その探求の中で、あなたは何かになろうとします。もともとそうであるものになることは不可能だということを理解してください。私たちは個人、人、分離した存在であるという信念を身に着けました。

偉大なマントラ、「I am that(我はそれなり)」を理解してください。そして私たちは皆、「I am(私は在る:私は存在する)」と知っています。その「私は在る」は、体のことでもマインドのことでもありません。それが体に生気を与え、地球に太陽のまわりを回らせ、季節をめぐらせ、潮を満ち引きさせ、呼吸をさせ、髪の毛を伸ばし、爪を伸ばし、食べ物を消化させています。その一つの本質がパターンとなり、姿形となって、あらゆるものとなって現れています。

あなたはもともと、あなたが探しているものなのです。ですから、探求することが問題だということを理解しなくてはいけません。私たちは、調査して理解しなくてはいけません。私とはこの体なのか? 私とはこのマインドなのか? 私とはこの人なのか? 私たちは皆、「I am(私は在る)」と言います。その「私は在る」は思考です。あなたはいくつの思考を持って生まれましたか? いくつの言葉、すなわち思考を持って生まれたか思い出してみてください。

二歳か二歳半になるまでは言葉や思考を身に着けませんでした。他の人より幼かった人、賢かった人、軽かった人もいるでしょう。でも、「私は在る」という言葉を学ぶ以前、どうやってあなたは自分が存在したということができますか? 言葉を学ぶまでの最初の二、三年の間、あなたは言葉なしで暮らしていました。言葉、すなわち思考、私たちがマインドと呼ぶもの以前に、あなたは存在したということになりませんか。

マインドは思考に他なりません。つまり、あなたは思考以前にあるものです。でも私たちは、自身はこのマインド、人であると信じています。その人(person)という言葉はどこから来ましたか? それはラテンの語の仮面(persona)に由来します。それは、私たちが観念上のイメージ、仮面をつけたと言っているのです。それが私たちだと信じているのです。

こうした言葉を調べてみてください。言葉は物ではないとわかるでしょう。水という言葉を考えてみてください。その言葉を飲むこと、その中で泳ぐこと、洗濯をしてみてください。できません。火という言葉はどうですか? それで料理したり、やけどしたり、自身を温めたりできますか? 私という言葉はどうですか? それが本当の私ですか? 自身の体とマインドのことだと思うかもしれませんが、あなたはこの体ですか? あなたはマインドですか?  

あなたはもともと自分が体ではないということを知っています。なぜならあなたは「私の体」「私の体」と言うからです。「私のコート」「私の車」と言う時、あなたは自身をコートや車ではないと知っています。ということは、おそらくあなたも体ではないのではないですか? 人々は自分が仮面、広大な観念のイメージであるのか、それともこの体とマインドであるのかを調べて理解するほど賢明ではありませんでした。この体とマインドに起こっていることを見てください。あなたの問題はすべて、この体とマインドに起こります。

2023/02/02

誕生

忘れようとしても忘れられないはずなのに、なぜあなたは誕生の瞬間を覚えていないのか?

2023/02/01

欲なければ一切足り、求むるありて万事窮す

                                        良寛

2023/01/31

「在る」と「なる」

探求そのものが罠なのです。なぜなら、探求とはそこに何かになる必要がある実体が存在することを意味するからです。
そして、「なる」ことは未来の時間を意味します。それは、「在る」ことではありません。
何かになることは、「在る」ことではありません。私が話しているのは、「在る」ことです。
                                   セイラーボブ

2023/01/30

マインドでそれを理解することは決してできません

私達が持っている唯一の道具はマインドです。そして、マインドでそれを理解することは決してできないということを理解しなくてはいけません。なぜなら、それはマインドを含んでいて、マインドがそれを含むことはありえないからです。
                                   セイラーボブ

2023/01/29

あなた以外誰もあなたを傷つけはしない

「傷つけられた」と考えた瞬間に、あなたは傷つけられたことになる。
あなた以外に誰もあなたを傷つけはしない。

2023/01/28

メッセンジャーではなくメッセージ

最近のミーティングでのボブは、スピールの時は元気に話していますが、質疑応答になるとあまり話さず、カットが答える場面が多いです。ボブの体調が悪いのかなとも思うのですが、facebookの写真を見るかぎりでは、パーティに出たり散歩に出たりもしているようです。

大きな理由の一つは、ボブの耳がかなり遠くなって、質問者の質問がよく聞き取れず、細かいニュアンスが聞き取れないということがあるようです。ボブはたいてい、余計な口出しをしないで、カットが自由に話すのを横で見ています。

カットは早口でまくし立てるようにたくさん話すのですが、聞き取りやすい英語で話すので、こちらとしてはありがたいと思っています。ボブが黙ってカットの話すのを聞いているということには大きな意味があると思います。

それは、大切なのはメッセージであって、メッセンジャーではないということです。カットはボブの教えをよく理解しています。よく理解していさえすれば、それが誰の口から語られようが問題ではないということです。

もしこれが、エンライトメントしたマスターだったら、おそらくカットは信奉者に袋叩きにあって追い出されていることでしょう。参加者の皆がカットの話に耳をかたむけ、参加者同士もお互いの話に耳をかたむけて意見を交換し、互いの理解を確認したりシェアしたりするのはすばらしいことですね。

ボブの教えていることは、特別の人にしか起きない何かではなく、調べてみれば誰にでも理解できることだということの証に他なりません。

それにしても、次から次へと新しい人がやってきて、「知的には理解しましたが、本当の理解が起きるのにはどうしたらいいでしょうか?」「それを生きるにはどうしたらいいでしょうか?」と繰り返し同じような質問をするのは実に興味深いことです。かつては私もその一人でした。

2023/01/27

実際にそれを生きるのが難しいのですが?

2023.1.15ミーティング 1:21:23から

参加者A:ええ、このワンネス(一体性)、この非二元性はとても神秘的です。私たちはボブの言う二元性の見せかけとして現れている世界に暮らしています。私たちがマインドの中にいる時は二元性の中にいます。なぜなら、マインドは生き残るために、物事を解決しようとしたり、物事を理解しようとしたりしてラベル貼りをします。するとそこには観念としてのワンネス(一体性)があります。

そして、ボブが言うように、ラベルを無くせば、マインドの妄想や恐怖の欲求から解放されます。でも、私たち皆が知っているように、ワンネスとして存在するように変わっていくというのはとても難しいことです。それで私は苦労しているのです。私はもう長い間、観念上ではワンネスということを理解しています。でも、実際にそれを生きること、あるいは、それとして存在することは、私にはとてもとても難しいのです。

参加者B:あなたは何もする必要はないですよ。

参加者C:ええ、何もしなくてもいい。(一同笑い)

カット:ミーティング終了まであと十分ですが、議論するのは好きです。その質問は良い質問で、すばらしい質問です。とても明確です。私自身の経験した例と結びつけられたらと思うのですが、私はかつて、「私は十分でない」という考えは真実だと狂信的に信じていました。それが現実だと思っていました。私は十分ではないという思考が頭の中にあり、それは私の思考であり、個人的なものでした。それを信じた結果、その思考は苦しみ、もがき、社会的な苦悩などの多くの結果をもたらしました。

今、同じ思考がマインドにやって来て、もしそれに対する反応があるとすると、それは笑いとなります。(笑う)なぜなら・・・、なんと馬鹿げた考えでしょう。つまり、それは一つの考えに過ぎないという意味です。それは空間の本質、アウエアネスに影響を及ぼすことは絶対にできません。でも、私はそのイメージを信じている存在・人である、それが私で現実である、という思考を信じると、それが苦悩となり、分離を生みます。

そうした思考は起こってくるのですが、もしそれをシリアスに受け取らず、それを信じないで、それが本当は何なのかを知れば、それはアウエアネス(意識)の中の単なるバイブレーションにすぎません。それは単なる文章のセリフであり、それぞれマインドが思考をどう加工するかによるもので、音を聞く人もあれば、セリフを見る人もあります。それは重要ではありません。それは単なる内容物であり、常にそこにあるわけではありません。それは真実ではありません。どんな思考も決して真実ではありえません。

私に対するどんな思考も違います。私は女、生まれた時から女。いいえ、そうではありません。私は小さな赤ちゃん、あるいは少女でしたが、それでさえありませんでした。といういのも、体は小さな赤ちゃん、少女でした。体は私の乗り物です。体はアウエアネスが外を見るための衣装です。そうでなければ、見ることができません。それには目や耳が必要なのです。体に何が起ころうと、体に感覚が起ころうと、どんな物語が体に起ころうと、それはハードウエアであり、もちろんマインドがソフトウエアです。

体験や表現するための乗り物である体に何が起ころうと、アウエアネスには起こりません。その意識、認識の広大なフィールドの中に、体とマインドという認識があります。ということは、私は体やマインドではありえません。なぜなら、目は目自身を見ることができないからです。ええ、あなたは観念上では知っています。でも、現実的な問題としてはっきりさせることはとても良いことです。ええ、私は地球が平らだと信じている、サンタクロースは実在する、私はいる、それは実在する、そしてその私は自己を超越できるはずだ。

でも、その自己を超越することはできません。なぜなら、その自己は実在ではないからです。私が、超越すべき私だとしたら、それは決して起こりません。ボブが時々引き合いに出す盤珪いわく、「エゴを取り除こうとするのは、血で血を洗い流そうとするようなものだ。それでも血は残る」。あなたがエゴを取り除く。あなたがエゴを殺す。それで、誰が残るのですか? 

それは実際には認識の問題、シンプルな認識です。サンタクロースは実在しない。サンタクロースは決して実在したことがない。この私。この思考。私は重要だ。私は重要ではない。オーストラリア人。ポーランド人女性。そうしたものは、まったく無邪気に習慣的に信じてきた観念の束にすぎません。なぜなら、他の人やママ、パパ、先生、グル、首相、皆がそれを真実だと決めてかかっていたからです。もちろん、それを信じることは罪のないことです。でも、それは単なるコスチュームだということを調べてみるように招待しているのです。

2023/01/26

肝心なことを理解しなさい

肝心なことを理解しなさい。
世界とあなたは一つのものであり、完全なものだ。
あなたの態度だけが間違っていて正す必要がある。
                              ニサルガダッタ・マハラジ

2023/01/25

自由意志はあるのかと問うてはならない

もし、「自由意志はある」と答えれば、そこには自由意志を持つ「私」がいることになり、「自由意志はない」と答えれば、そこには自由意志を持たない「私」がいることになる。自由意志を持つ「私」も、自由意志を持たない「私」も実在ではない。

2023/01/24

あなたはそれです

人々は何かを達成して、そこに留まらなければいけないと考えます。あなたは一時もそこを去ったことはなかったということを理解してください。それに努力はいりません。試み、奮闘してそれを手に入れ、持ち続ける必要はありません。あなたはそれです。
                                   セイラーボブ
                                   

2023/01/23

今そのことを考えなかったら、何が問題ですか?

                                    セイラーボブ

2023/01/22

求めることの最も少ない者が、困窮することの最も少ない者である。

                                    セネカ

2023/01/21

それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?

2022.3.13ミーティング 1:03:12から

参加者:もし……もし……、我慢してください。質問するのに慣れていないものですから。もしそれが目覚めること、非分離、私たちはすべてであるということを理解するということなら、あなたはバイブレーションという言葉をよく使いますが、私にはとてもよく共鳴しています。

そして、完全な目覚めというのは理解ではないように思えます。それは観念的なことではないため、私たちは自分の意思でそれを起こすことができません。では、それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?

カット:素晴らしいですね。ボブ。

ボブ:それはいつもそれであり、もともとずっとそうでしたが、私たちが言葉を学んだ時にそれは不鮮明になりました。そして、学校、社会、両親がそうした言葉を強化します。そして私たちは毎日毎日自分自身を強化します。それが、習慣のパターンによって、見かけの上では実在となります。それは単に習慣を認識して打ち破るだけのことです。いいですか。今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 

もしあなたが自身にその質問をして、思考なしでそこに何があるかを見てみてみると、あなたは消えず、思考はなく、言葉もなく、そこには静寂と沈黙、平和の味わいがあるとわかるはずです。でも、あなたがそれを引き起こすことはできません。それはひとりでに起こっています。理解、認識の中では、そうした観念に対する思考、すなわち信念が問題を起こすのです。

カット:そして、初めてのスピールを聞いて、あなたは観念的にそれをやることはできず、自分の意思でやることもできないと理解したのは素晴らしいことです。なぜなら、想像上の自己は目覚めることはできないからです。それは想像上の自己が目覚めるようなもので、誰も、何も目覚めはしません。それは、幻想が消えるか、見破られるということです。

そして、ええ、誰もそれをやることはできません。もし想像上のサンタクロースが何かやろうとしても、突然風が吹いてパット(消えて)……。やろうとしても意味のないことで、何の違いももたらしません。それは認識することであり、いわゆる非二元の状態の一つのものは常にもともとここにあり、利用可能なものです。それにベールをかぶせたり、うわべ上で不鮮明にしたりしているのは想像上の自己であり、想像上の自己が抱いている世界との関係性です。

想像上の自己と想像上の世界との関係性という上張りを見抜くということは、観念上の上張りに注意を払うのをやめて、注意をくつろがせるということです。マインドから出てリラックスしてくつろぐと、あ~、何も見つからない。なぜなら、何も失くしてはいないからです。それはただ単に、夢によって不鮮明になっていたにすぎません。誰も目覚めたりしません。ええ、でもあなたは、どんなに深く考え、分析したとしても、マインドの中で答えを見つけることはありません。それはあなたをどこへも導きません。

でも、それがわかったということは、観念で理解すべきことをあなたはすでに全部理解しています。ええ、それはここでは(頭を指す)起こりません。それ以外に一般的な方法で理解すべきことは何もありません。それは、正しい理解と呼ばれています。それはある意味でパラダイムのシフトです。私たちが世界を見るやり方は、個人という存在が世界とつながりや関係を持っているというものです。そして、シフトしてパラダイムの外に出ると、突然、命が流れ始めます。

それには位置がありません。そのような命はなく、依然として両目から世界を見て、唇や喉や口などから話しますが、それには位置がありません。それは体の中にはありません。そして、体の死、体の動き、体の喜び・楽しみ・悲しみといった問題は単に起こっていることです。それは体に起こっていますが、私、命に対してではありません。あるいは、私、命、みんなに対して、木々すべて、雲すべてに対して起こっています。

バイブレーションに対しても起こり、あらゆるバイブレーションが振動して音になり、それが命に対しても起こっていると言うことができます。なぜなら、命と分離した何かに起こっているわけではなく、それは命と一体のものだからです。それはあたかも、命が音となって現れ、物、波、すべてとなって現れているようなものだからです。

これを表現し始めると、とても複雑な哲学になってしまいますが、ひとたび停止して深呼吸をふ~として思考を追い出すと、それはもともとそこにあります。それは常にずっとそこにあります。それはまったく複雑なことではありません。実際それはとてもシンプルです。それを言葉にしようとすると、それから離れてしまい、表現することができません。

単純なことです。誰も皆、もともと存在していて、もともと意識です。皆と言うときでさえ、多くの人のことを話しているように思えますが、それは一つのものであり、それは自己が自己に話しているのであり、永遠がただダンスをしているにすぎません。でも、良い質問でした。

2023/01/20

胡蝶の夢

かつて私は蝶になった夢を見たが、それを私だと気づかなかった。すぐに目が覚め、そこには私自身がいた。今では自分が蝶になった夢を見た人間だったのか、それとも今は人間であるという夢を見ている蝶なのかわからない。
                                        荘子

2023/01/19

あなたが生まれた時

あなたが生まれた時、あなたは誰からも教えられずに最初の呼吸をした。

2023/01/18

存在の感覚・私は在る

私は肉体に語りかけているのでもなければ、マインドに語りかけているのでもありません。私の本質である私は在る、すなわち、マインドを通して思考の「私は在る」として現われているあの存在の感覚に話しかけているのです。ただそれだけ、他には何もありません。
                           セイラーボブ

2023/01/17

金銀の山があっても、たとえそれを二倍にしても、一人の人を満足させることはできない。

                             サンユッタ・ニカーヤ

2023/01/16

世界を空(くう)なりと観ぜよ

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を感ずる人を、〈死の王〉は見る事がない。」
              岩波文庫 ブッダのことば・スッパニパータ/中村元 1119

2023/01/15

見破り続けてください

何度あなたはその体であると言われたことでしょう? 最も効果的な学習は、繰り返しによる学習です。今あなたは見抜き始めましたが、世界全体があなたを幻想へと連れ戻そうとするでしょう。見破り続け、それを繰り返すことによって、それがあなたの中で安定するようになります。そうすれば、彼らがあなたを明晰さから連れ戻す代わりに、あなたが彼らを明晰さのなかへと引き込むようになり、それがあなたの中で強化されます。
                                    セイラーボブ

2023/01/13

自分とはいったいどういうものなのか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その30」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木先生の動画をもっと見る方はこちらの索引からどうぞ。

2023/01/12

空は形であり、形は空である

2022.3.27ミーティング 46:30から

参加者:理解するのに苦労している点をもっとはっきりと理解したいと思います。空(くう)と形についてです。あなたの言った、「空は形であり、形は空である」をもっとはっきり理解できたらと思います。

ボブ:あなたは自分が物であるということを知っています。別の言い方をすると、この顕現のすべては物です。パターン、姿形は物です。すべては現象としての基本的な空間に現れていますが、その空感は何ものでもないもの/無です。つまり、何かが無からやってきているのです。あなたが調べてみると、何かは無からやってくることはできません。つまり、バイブレーションがパターンとなり、姿形となっているのです。それは常に束の間のものです。

それは常に変化していて、固定的な実体のあるものではありません。この体においても、今この瞬間に何千という細胞が死に、置き換わっています。私たちはこのことを理解しません。それは、固体のように見えます。そして、顕現は固体のように見えます。でも、それは全く固体ではありません。それはエネルギーのバイブレーションにすぎません。うわべ上で実在のように見えるだけです。はっきりわかりましたか?

参加者:ええ。

カット:そして、それはまた夢と呼ばれ、夢の中のすべてが、いかに無からやってくるのかを知るために、夢は素晴らしい例えです。たとえば、あなたが夜に夢を見る時、あなたの体はベッドを抜け出して山を登り、空を飛び、いろんな風変りなことをやり、人々に会い、何百年もそこにあると言われている建物や岩山、山々、木々を眺めます。でも、そうではありません。それはどこからともなくやってきました。

夢全体が無から一瞬にして現れ、とてもリアルになりました。見た目上では人々は死ぬこともあります。というのも、恐怖の体験や感情がとても強くて、文字通り殺されてしまうのです。あるいは衝撃をコントロールすることができず、感情はとても強く、世界がリアルに見えるために、他の体験をすることになります。でも、それは無です。それは無でできています。そして、これも(実際の世界も)また夢だというのです。

量子力学を学んでみると、こうしたことはすべて、素粒子、エネルギーの動きにすぎず、それを生体コンピューター(頭を指さす)が過去の記憶に基づいて絵にしているだけなのです。例えば私たちが何か新しいものを見ると、ただちにそれに関連したことがやってきて、慣れ親しんだものとしてラベルを貼るのです。そうやって、ゆっくりとアップデートされます。

それは実際には見せかけであり、マーヤー、見せかけと呼ばれます。なぜならそれは、固体であり実体のあるものとして現れるからです。私たちの体は現れていますが、私たちは体ではありません。でも、私たちの衣装として固体で実体のあるものとして現れているのです。ボブはしばしばそれを幻影と言います。でも、その本質はエネルギーです。

2023/01/10

「不生の仏心とは」2023/1/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】

第733回「不生の仏心とは」2023/1/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2023/01/09

あなたは幸せですか?

昨日ブログに書いた「サピエンス全史」の中で、「文明は人間を幸福にしたのか?」という章があって、その中で、人間はどういう状態にあると幸福だと感じるのかが様々な角度から検討されています。もちろん、安易な結論は出されておらず、読者に考える材料を提示して終わります。

「あなたは幸せですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 「非二元の教えでは、そこには幸せを感じる主体はいないのだから、その質問自体がナンセンスだ」と言ってしまえばそれまでですが、それでは身もふたもないので、ちょっとぶっちゃけて言うと、「おまえは幸せか」と聞かれたら、私の場合は、「幸せだと感じる時もあれば、そう感じない時もある」としか答えようがない気がします。

「幸せか?」と聞かれても、例えば金銭面、人間関係、仕事、家族とかいうふうに限定してくれれば何とか答えようがあるのですが、漠然と「幸せか?」と聞かれても答えようがない気がします。人間の気持ちは一瞬一瞬変化しているので、その全部を総括して、幸せかどうかと判断することは難しいのではないでしょうか。

以前、日記に毎日の気分を天気予報のように、晴れマーク・雨マークなどを使って記録していた時期がありました。でも、気分は一日の内で何度も変化して、雨のち晴れ時々くもり、みたいな日ばかりで収拾がつかなくなり、五段階評価にしてみたり、ABC評価にしてみたりしましたが、どれもうまくいかずに結局やめてしまいました。

「幸せ」もそれと同じで、自分で幸せの度合いを評価するのは難しいのではないでしょうか。「私は幸せか?」と考えるとき、そこには常に比較が入ってきます。「いついつの私よりは幸せ」「私が理想としている基準よりは幸せではない」「あの人よりは幸せ」という具合に比較のニュアンスが入る気がします。

サピエンス全史の中では、既婚者は概して独身者よりも幸福だという心理学や社会学の知見が出てきます。私は独身で一人暮らしなので、極まれに、家族がいたら幸せだろうなあと思うことがあります。ところが、私のまわりには、独身でいることをうらやましいと言う人が少なからずいます。この場合も、比較の問題だと思うのです。自分の境遇と比べて私よりも自由だというふうに考えているのではないでしょうか。

また、殺人事件の6割は家族による犯行だと、どこかで読んだ記憶があります。離婚率の高い現代の状況を見ると、必ずしも家族が幸福の尺度とは言えない気がします。

相田みつをさんが言うように、幸せは自分で決めればいいのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。幸せという言葉の裏には、何か欲望の充足といったようなニュアンスがあって、その満足感を幸せと言っているようなふしがある気がします。

「私は幸せだ」と言った裏には、「不幸せ」が隠れていて、その幸せを失うのではないかという恐怖がつきまといます。あたかも塞翁が馬の話のように。

セイラーボブは非二元を理解したら幸せになれるとは言わないし、佐々木先生や横田老師にしても、仏教を理解すれば幸せになれるとは言いません。どちらも、「心理的な苦しみからの解放」だと言います。

私は、非二元や仏教を学ぶ上で、ここが重要なポイントなのだと思います。「幸せだ」「幸せではない」という発想でいるかぎりは、いつまでたっても心の平穏はやってこない気がします。人はいつも何かを追い求めています。たとえそれが「幸福」であったとしても、何かを追い求めているかぎり、今この瞬間にいることができず、平安にはなれないのではないでしょうか。

「あなたは幸せですか?」「私は幸せか?」と問うこと自体が間違いではないでしょうか。存在していることが至福だというボブの言葉が思い出されます。

「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。かくのごとくに、人はどこまでいって踏み止まることができるものやらわからない」 森鷗外『高瀬舟』

2023/01/08

サピエンス全史


この本は前々から読もうとは思っていたのですが、内容が堅そうだったので躊躇していました。佐々木閑さんの本「宗教の本性: 誰が「私」を救うのか (NHK出版新書 656) 」で引用されていたので、読まないわけにはいかないと重い腰をあげて読みました。

予想に反して読みやすく、素晴らしい内容でした。人類がいかにして地球を支配するにいたったかを、わかりやすく紐解いてくれています。この本は、非二元を学ぶ人にはぜひお勧めしたい本です。

というのは、人類が他の生き物の種たちを圧倒して万物の長として文明を築き、地上の覇者になれたのは、「虚構(想像)」を共通認識として受け入れたからだというのです。人間が想像して勝手に作り上げた様々なものを基盤として繁栄を築いたというのです。

その最初の虚構が言語です。言語を発明したおかげで、人類同士で複雑な情報交換が可能になりました。言語で仲間同士での連携が可能となり、人類よりも大きな種を倒して食べることが可能になりました。そのせいで、人類がいかに多くの地上の生物を絶滅においやったのかを読んで、驚くと同時に悲しくなりました。

大型生物は自然に絶滅したのではなく、そのほとんどは人類によって絶滅させられたと知りました。農耕が始まると、今度は地球上の植物の生態系は人類によって大きく変えられました。地球上のほんの一地域にしか生えてなかった麦や米が全世界へ広がり、地球の植生が大きく変えられました。そして今や、比較的被害を受けてこなかった海洋生物が絶滅の危機に瀕しています。

家畜とペットに適した動物だけを増やし、農作物を作って定住を始めた人類は、今度は「貨幣」という虚構を生み出しました。貨幣の発明のおかげで、人が人を支配する社会が一層発展しました。

一方で人類は、国家、企業、主義、人種など、ありとあらゆる虚構を生み出し、その虚構の上に私たちは生きています。そしてそれは「帝国」へと発展していきました。ここまでが上巻のあらまし。

人間の社会は、虚構の上に成り立っている。その最たるものがインターネットではないでしょいうか。人々はもはや現実を見るのではなく、携帯を見て生きています。その仮想現実の中で生き、洗脳され、幸せも不幸も借り物の価値観の上に成り立っています。

ここからは下巻。
下巻は少し難しい内容でした。最初に宗教について。キリスト教、イスラム教、仏教など、それぞれの宗教がどのように現れ広まっていったのかについて。

そして近代になると、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、新宗教が台頭してきました。こういったものを宗教ととらえる視点がすばらしい。

やがて帝国主義が科学と結びつき、ヨーロッパの国々による世界征服の時代が始まります。オランダ、スペイン、フランス、ポルトガル、イギリスがどうやって世界で植民地を支配していったかについて。

当時はアジアの国々の方が強大な国が多かったのに、なぜそれほど強大ではなかったヨーロッパの国々が世界を支配できたかなどは、とても興味深い内容でした。ヨーロッパの国々が、南北アメリカ、南米、オーストラリアの原住の人々をいかに絶滅させていったのか、アフリカからどれほど多くの奴隷を連れていったかを読んで、いろいろ考えさせられました。

産業革命が起こり、蒸気機関を発明したことにより、人間の移動や荷物の運搬が起きると、人間の活動範囲が急速に拡大します。そして資本主義の時代へと突入。人々は必要以上の物に囲まれ、消費することが幸せであると思うようになります。

99%が農業で成り立っていた社会は消え、今や農業人口は1%。一方で、家族や地域というコミュニティは崩壊。この500年の間に社会は大きな変化を経験します。

そこで筆者は問いかけます。「文明は人間を幸福にしたのか?」。なぜなら、かつては家族やコミュニティこそが幸福に基盤であったからです。物質やエネルギーはたくさん手に入るようになり、物質という視点から見れば、人類ははるかに豊かになった。それで、果たして人間は幸せになったのか?

ここで筆者は、幸福とは何か? どういう時に幸福を感じるのか? その尺度は? といった問題について検討していきます。そこら辺がものすごく考えさせられるものがあったのですが、ここで簡単にまとめることができません。

幸せは客観的な条件によるのではなく、期待との差によるのではないか、また、各個人の脳内のセラトニンの多少によるのではないかというアプローチも紹介。もともと持って生まれた生化学的な特性によって決まる部分が大きいのではないかという。そう言われてしまうと、私などはセラトニンが出にくいタイプなのかと思ってしまいます。

でも、言われてみれば、困難な状況にあっても幸せな人はいるし、人から見れば恵まれているように見えても、いつもふさぎ込んでいる人もいる。案外これは当たっているのかもしれません。

そして、仏教の話となり、仏教は渇愛を求めないことで幸福を得ようとすると紹介。この人の仏教に対する理解は的を射ていてすばらしい。

そして最後に、遺伝子操作などの話があり、現人類はさらに進化して、超ホモ・サピエンス(バイオニック生命体)、サイボーグなどとなる可能性を予言しながら終わる。

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本の内容は素晴らしい内容だったのですが、上手に要約できません。今まで私が抱いていた歴史認識がいかに浅いものだったかを思い知らされました。

人類は、科学の力を手にしたために、地球上で我が物顔でのさばり、地球上の大半の動物を滅ぼし、気に入らない原住民を次々と滅ぼし、植生を変えてきたのだということを改めて知りました。

そして最後の、「文明は人間を幸福にしたのか?」という問いは、おまえにとっての幸せとはなんだ? おまえは幸せか? という問いに変わりました。

2023/01/07

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第18回 (2022年12月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第18回 (2022年12月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

今回もすばらしい内容でした。

全部聞かれる方はこちらからどうぞ

2023/01/06

ギーターンジャリ 

私の血管を夜となく昼となく流れているこの同じ生命の流れが、世界中に流れ渡り、リズムに合わせて踊っている。
この同じ生命が喜びとなってほとばしり、大地の塵埃の中を駆け廻って無数の草の葉に届き、激しい波となって木の葉や花に入り込む。
この同じ生命が生と死の太陽の揺籃の中で、潮に満ち干に連れて揺り動かされる。
この生命の世界に触れて、私の手足が栄光に輝くのを感じる。そしてこの刹那に多くの世代の生命の鼓動が私の血の中に踊っていることを私は誇りとする。

                  ラビーンドラナート・タゴール  『ギーターンジャリ』六九(岩波文庫)

2023/01/05

それがマインドの仕事です。

2022.4.3ミーティング 39:22から

(カットが携帯でオンライン参加者のメッセ―ジを読む)

カット:JBから、「どんなにしても独立した私が存在する中心、参照点を見つけることができない」。素晴らしいですね。(笑い)調査しても、想像しているような自己はそこにはいないということがわかり、それを確信、主張する結果になるだけです。そういう理由で、調査は、私は誰かという問いに対する答えを見つけるのではなく、私は誰かという問いは適切ではないということを見つけるためだと私たちは言うのです。そこには問いを発する人も見つかる人もいません。

私は何か、私は誰かを述べることはできないし、それを意識の対象物とすることもできません。なぜなら、もしそれが対象物だとしたら、あなたはどこからそれを見ているのですか? その場合、あなたは明らかにその後ろから見ていることになり、その見られているものはあなたではないことになります。それは何か他のものです。あなたが何であるかを知ることはできないのです。そして同時に、あなたが存在するということも否定することはできません。あなたは存在する。あなたは、自分は存在しないと言うことはできません。そしてそれがその本質です。

私は何か、私をどう定義すべきか、どうやって自分を見つけるのか、と心配するかわりに、あなたが存在するという真実とともに留まってください。それはささいなことではありません。それは実際、この教えの中心です。あなたは存在する。でもそうすると、観念的なマインドはあなたに、「ええ、それが何? とても退屈。もっと歯ごたえのあるものをちょうだい。私はもっと偉大なもの、大きなものになりたい。私はエンライトメントしたい。私は何かを見つけたい」とあなたに告げます。

でもそれらはすべてたわごとにすぎず、想像です。存在の事実は奇跡です。それは愛。そこには存在することへの愛があります。そして、その存在が広場の中の無数の物事となって反映した奇跡を目撃することは素晴らしいことなのですが、私たちはその事実を完全に見逃しています。なぜなら、私たちは頭の中の思考やイメージで忙しいからです。一方、ここ、ハートの中、本質の中では奇跡は続いていて、私達はそれを否定することはできません。

それはもともとそこにあり、完全に存在しています。そして、想像、思考、詳しく述べること、名前をつけること、文句を言うことや想像することからそこへ戻ってくること。その存在の本質へと戻り、それと恋に落ちることを喜ぶと、あなたはそれと恋に落ちる必要さえなく、愛はもともとそこにあったことがわかります。それを認識するだけでいいのです。そしてJBが言ったように、「分離した私はそこにはない」。

そこに誰かいる、見つけることができると思うなら、それは無駄だとわかるまで探し続けてください。それはそこに昨日は存在しませんでした。それはそこには10年前には存在しませんでした。あなたは決してそれを見つけることはできません。それはそこにはいないのです。そして、誰が見ているかを調べてください。誰がそれを見つけようとしているかわかりますか? あるいは、あなたはそこには誰もいないと知るだろうということを理解してください。思考が存在意識のフィールドの中を流れていっているにすぎません。私は誰かという思考。私は誰かという質問。

そこには誰もそれを尋ねている人はおらず、その相手側にも誰もおらず、思考が続いているだけです。そして、考える人と思考は単なる観念上の表現、シンボルです。それは一つの命、一つの見ること、呼吸です。思考はそれを見る人と見られるもの、考える人と思考、質問者と思考に分割します。それは二元的なマインドによる言語の機能にすぎません。それがマインドの仕事です。

2023/01/04

仏になろうとしないで、仏でいなさい。

                                        盤珪

2023/01/03

それは投影された世界です。それは現象としての世界です。

2022.4.10ミーティング 56:31から

(カットがオンライン参加者のコメントを読む)

カット:「ハロー、ボブ、カット。私はフアンです。ボブの話を聞いてこう思いました。もし、私たちのマインドがすべて思考で、思考から言葉がやって来るなら、私達はイメージや観念でできた世界に住んでいて、実在の中には住んでいないということになります。でももし、私たちの内側が静かになると、そこにあるのは自然に発生するものであり、ボブの言う「何ものでもないもの/無」です。同様に、あらゆるものはそれとして現れています」。素晴らしい言葉です。素晴らしい、フアン。その通りです。

言葉と音、イメージ、観念化で覆われた世界に意味を与え、翻訳しているのは想像です。そしてその根底には信じられないほど神秘的な何ものでもないもの/無があり、それがすべてとなって現れています。自然に。

参加者:(少し前のボブの話に対して)すばらしいメッセージでした、ボブ。ちょっとグッときました。いいぇ、そこにあるのは知性エネルギーだけだとわかりました。それが聞いていました。話すことがそこにあり、聞くことがここにあって、誰も聞いてはいません。それが聞いていて、それが共鳴して、もっと鮮明になります。そしてそこにはもう物語はありません。それは実際経験的なものであり、あたかも心臓の脈動や肺が呼吸するようなものです。それは実際、知性が深く共鳴するようなもので、私はその知性です。あらゆるものが観念的です。その知性が言うことをたくさん聞くことができますが、それはハートの中に落ちていきます。それはエネルギーです。それは単なる知る働き。いずれにしても、いつものように素晴らしい話でした。

参加者:ちょっと付け加えさせてください。観念として起こっていることも信じられないほどすばらしいことです。そして、空(くう)は満ちているという意味は、(中に)何もないということではありません。空は満ちているのです。それはすばらしいことです。

カット:ウエインの言葉がここにあります。「この瞬間が完全な教師である」。そして、あなたが言ったように、この瞬間には内容が満ちています。つまり、この瞬間の内容は思考、観念、イメージ、翻訳、観念化したものなのです。苦悩が始まるのは、自分のことを頭の中のナレーター、限界のある自己、個人だと思う時です。そして、私は十分ではない、私は愛されるに値しない、幸せになるためにはこれが要る、彼らが私を尊敬する必要があると思う時です。でもそれはまったく不要なことです。

もしそれが瞬間の中の内容なら、それを物語、ドラマとして完全に楽しむことができます。でも、それを信じてしまうと、その副産物は苦悩です。それをそんなふうに認識する必要はありません。(携帯のコメントを見ながら)モリーンから、「ええ、存在が教師」。ウエインは、この瞬間が完璧な教師と言っていて、モリーンもそのとおりだと言っています。ええ、そうです。というのも、あらゆる瞬間がそのものであり、この瞬間が唯一の瞬間だからです。この瞬間が常にその純粋な本質の反映であり、意識があらゆるものとなって現れているフィールドだからです。

あらゆるもの、あらゆる瞬間の中にその輝きが現れています。もし私たちが見方を知っていたら、というのも、もちろん、横取りする翻訳者が出てきて、「これが私だ。犠牲者だ。これが世界で、裏切り者だ」と言うとき、物語はふたたび美しいものとなりますが、(私たちを)傷つけるものとなります。それを信じるべきではありません。それは、驚くべき信じられない神秘的で奇跡のようなドラマです。でも、実在ではありません。

それは実在ではなく、マーヤーと呼ばれています。現象としての顕現です。(ボブに向かって)私たちに現象としての顕現を思い出せてください。(ボブは、カットがやるようにと促す)(笑い)
ええ、私たちは外側のすべてをマインド中の自分の知っている過去の記憶の何かに翻訳しています。それは投影された世界です。それは現象としての世界です。それは顕現です。

2023/01/02

無になった心にこそ神が宿る。

                               マイスター・エックハルト

2023/01/01

自然な状態は決して失われません

意識(awareness)は、それ自体で存在するものであり、それを手に入れたり無くしたりするための努力や誰かを必要としません。自然な状態は決して失われません。それは見せかけではないので消えたりしません。それはいつも変わりません。それは物ではありません。観念上の考える人や観念上の思考は観念化されない自然な状態を見かけ上で見えにくくしてしまうということを理解してください。ほんの一瞬でも思考を止めてみれば自然な状態は全く明白です。止まって見てください。その見ることの中で純粋な意識が姿を現します。
                                    セイラーボブ