2023/03/30
そのままにしておいてください
2023/03/29
苦しみを消すことのみが仏教の最終目標
2023/03/28
あなたはもともとそれです
2023/03/27
二元性はフィクションです
2023/03/26
2023/03/25
苦悩は不要なもの
2023/03/24
実在ではないものを、あなたはどうすることもできません。
2023/03/23
もしトイレに行くなら、チェーンを引いてあげるよ。
2023/03/22
あなたが進んで無でいようとするなら、そこにどんな危険があるでしょうか?
2023/03/21
物語を落としてください
2023/03/20
そこに苦しみがある必要はないのです
2023/03/19
何も私を煩われせはしない
問題が起きても私は抵抗しない。
それゆえ、問題が長引くことはない。
あなたの側にだけたくさんのトラブルがある。
私の側ではまったくトラブルはない。
私の側へ来なさい。
2023/03/18
振り返ってみると
2023/03/17
それはすべて物語だったのです
2023/03/16
行為者は想像の産物です
2023/03/15
調べてみることが必要なだけです
2023/03/14
2023/03/13
2023/03/12
あるのは今この瞬間だけです。
2023/03/11
理解の起こり方
2023/03/10
カチッという音がしません
2023/03/09
意識(consciousness)とは何か?
2023/03/08
知る働きがすべてなのです
2023/03/07
AIはやがて自我を持つようになるのですか?
2023/03/06
大いなる完成に何を付け足すことができるでしょうか?
2023/03/05
そこであなたと会いましょう
2023/03/04
探求などなかった
ギルバートはしばしばミーティングの中で、「探求などなかった」と発言しています。それはとても深い言葉だなといつも感心します。
私は長い間、自分は探求をしていると思っていました。探求を続けていけば、覚醒が起きて、すべての苦悩から解放されると思い、半分イカれた頭を抱えて精神世界をあちこちと探求してきたつもりでした。
でも、セイラーボブと出会って、自分は一歩も元の場所を動いていないということを知りました。そして、20年以上にわたって精神世界に費やした時間や労力、お金のことを考えて、随分と後悔もしました。でも、ギルバートの、「探求などなかった」という言葉を聞いて救われた気がしました。
自分では探求しているつもりでも、自分は北極点にいて北極点を目指している探検家のようなもので、どこへも行く必要はなく、ただそうやって自己満足してきただけだったと知ったからです。
精神世界の旅人の多くは、自分は何か尊いことをやっているという幻想に取り付かれています。でも、精神世界の本をどれだけ読もうと、何人のグルに会おうと、どれほど瞑想しようと、本質的には何も変わりはしないのです。なぜなら、もともと「私」は完全なものだからです。
探求を続ければ何かになるだろう、何かを手に入れるだろうというのは幻想です。探求者は幻想の中で探求ごっこをして遊んでいるにすぎず、それが尊いとかそうでないということは少しもありません。お金儲けや娯楽に懸命になるのと少しも変わりません。
私がこのブログを書く目的の一つは、一人でも多くの人が探求という幻想から抜け出して、あるがままの自分にくつろいで欲しいからです。そして、それをやり遂げる唯一の方法は自分で調べて、「私」は実在ではないということを知ることです。
たくさん本を読む必要も、グルに会う必要も瞑想する必要もありません。セイラーボブもギルバートもあなたのかわりにそれをやってくれはしません。自分で調べるしかないのです。そして、それを知った時、探求などなかったと知って、くつろぐことができます。
2023/03/03
誰も束縛されてはいません
2023/03/02
物事は起こり、行為は行われるが、そこには個人としての行為者はいない
2023/03/01
みんな集って一緒に歌いましょう
2023/02/28
雨が止んだ今、視界は良好さ
2023/02/27
バイロン・ケイティ
2023/02/26
浄化は本当に必要ないのですか?
2023/02/25
おすすめの本を教えてください。
2023/02/24
訓練は必要ですか?
2023/02/23
2023/02/22
「私」は宇宙のどこにも存在しない
2023/02/21
空間の広大さ
2023/02/20
それは誰に起こっていますか?
2023/02/19
バイロン・ケイティ
2023/02/18
習慣に気づくこと
2023/02/17
【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月)
【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
2023/02/16
知的な理解
2023/02/15
本当の理解
2023/02/14
2023/02/13
生は自己の中心なしで機能し続けます
太陽自身が雲を起こし、太陽自身が雲を吹き飛ばしているということをあなたは理解しました。ということは、やって来る思考は知性エネルギーの活動に他ならないということがわかるでしょう。それはどこにも貼り付いてはいません。その真実を知れば、それは去っていきます。
生は自己の中心の活動なしに機能し続けます。
セイラーボブ
2023/02/12
私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか?
2023/02/11
2023/02/10
想像をやめること
やってみなさい。思っているほど難しいことではない。
2023/02/09
本当のあなた
「今」というこの瞬間が始まるのはいつですか? 今。そして、それが始まった時、それはもうすでに終わっていて、持続時間はありません。仏教徒はそれを「不生」と呼びます。「不生」とは、まだ始まっていないということです。それには始まりがないということです。それには始まりも終わりもありません。それには時間がないのです。それには空間がありません。それには体がありません。それにはマインドがありません。それは物ではありません。にもかかわらず、それはすべてが現れては消える本質です。それが本当のあなたです。
セイラーボブ
2023/02/08
2023/02/07
あなたの本質
2023/02/06
2023/02/05
2023/02/04
2023/02/03
誰が探求するというのですか?
2023/02/02
2023/02/01
2023/01/31
「在る」と「なる」
2023/01/30
マインドでそれを理解することは決してできません
2023/01/29
2023/01/28
メッセンジャーではなくメッセージ
2023/01/27
実際にそれを生きるのが難しいのですが?
2023/01/26
2023/01/25
自由意志はあるのかと問うてはならない
2023/01/24
あなたはそれです
2023/01/23
2023/01/22
2023/01/21
それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?
2023/01/20
胡蝶の夢
2023/01/19
2023/01/18
存在の感覚・私は在る
2023/01/17
2023/01/16
世界を空(くう)なりと観ぜよ
2023/01/15
見破り続けてください
何度あなたはその体であると言われたことでしょう? 最も効果的な学習は、繰り返しによる学習です。今あなたは見抜き始めましたが、世界全体があなたを幻想へと連れ戻そうとするでしょう。見破り続け、それを繰り返すことによって、それがあなたの中で安定するようになります。そうすれば、彼らがあなたを明晰さから連れ戻す代わりに、あなたが彼らを明晰さのなかへと引き込むようになり、それがあなたの中で強化されます。
セイラーボブ
2023/01/13
2023/01/12
空は形であり、形は空である
2023/01/10
2023/01/09
あなたは幸せですか?
昨日ブログに書いた「サピエンス全史」の中で、「文明は人間を幸福にしたのか?」という章があって、その中で、人間はどういう状態にあると幸福だと感じるのかが様々な角度から検討されています。もちろん、安易な結論は出されておらず、読者に考える材料を提示して終わります。
「あなたは幸せですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 「非二元の教えでは、そこには幸せを感じる主体はいないのだから、その質問自体がナンセンスだ」と言ってしまえばそれまでですが、それでは身もふたもないので、ちょっとぶっちゃけて言うと、「おまえは幸せか」と聞かれたら、私の場合は、「幸せだと感じる時もあれば、そう感じない時もある」としか答えようがない気がします。
「幸せか?」と聞かれても、例えば金銭面、人間関係、仕事、家族とかいうふうに限定してくれれば何とか答えようがあるのですが、漠然と「幸せか?」と聞かれても答えようがない気がします。人間の気持ちは一瞬一瞬変化しているので、その全部を総括して、幸せかどうかと判断することは難しいのではないでしょうか。
以前、日記に毎日の気分を天気予報のように、晴れマーク・雨マークなどを使って記録していた時期がありました。でも、気分は一日の内で何度も変化して、雨のち晴れ時々くもり、みたいな日ばかりで収拾がつかなくなり、五段階評価にしてみたり、ABC評価にしてみたりしましたが、どれもうまくいかずに結局やめてしまいました。
「幸せ」もそれと同じで、自分で幸せの度合いを評価するのは難しいのではないでしょうか。「私は幸せか?」と考えるとき、そこには常に比較が入ってきます。「いついつの私よりは幸せ」「私が理想としている基準よりは幸せではない」「あの人よりは幸せ」という具合に比較のニュアンスが入る気がします。
サピエンス全史の中では、既婚者は概して独身者よりも幸福だという心理学や社会学の知見が出てきます。私は独身で一人暮らしなので、極まれに、家族がいたら幸せだろうなあと思うことがあります。ところが、私のまわりには、独身でいることをうらやましいと言う人が少なからずいます。この場合も、比較の問題だと思うのです。自分の境遇と比べて私よりも自由だというふうに考えているのではないでしょうか。
また、殺人事件の6割は家族による犯行だと、どこかで読んだ記憶があります。離婚率の高い現代の状況を見ると、必ずしも家族が幸福の尺度とは言えない気がします。
相田みつをさんが言うように、幸せは自分で決めればいいのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。幸せという言葉の裏には、何か欲望の充足といったようなニュアンスがあって、その満足感を幸せと言っているようなふしがある気がします。
「私は幸せだ」と言った裏には、「不幸せ」が隠れていて、その幸せを失うのではないかという恐怖がつきまといます。あたかも塞翁が馬の話のように。
セイラーボブは非二元を理解したら幸せになれるとは言わないし、佐々木先生や横田老師にしても、仏教を理解すれば幸せになれるとは言いません。どちらも、「心理的な苦しみからの解放」だと言います。
私は、非二元や仏教を学ぶ上で、ここが重要なポイントなのだと思います。「幸せだ」「幸せではない」という発想でいるかぎりは、いつまでたっても心の平穏はやってこない気がします。人はいつも何かを追い求めています。たとえそれが「幸福」であったとしても、何かを追い求めているかぎり、今この瞬間にいることができず、平安にはなれないのではないでしょうか。
「あなたは幸せですか?」「私は幸せか?」と問うこと自体が間違いではないでしょうか。存在していることが至福だというボブの言葉が思い出されます。
「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。かくのごとくに、人はどこまでいって踏み止まることができるものやらわからない」 森鷗外『高瀬舟』