2023.1.29ミーティング 38:38から
サロージャ:ええっと、最終的に私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか? 私は準備ができています。私はアウエアネスの中にいたいのです。でも、私がそこにいることを妨げているのは何なのでしょうか? 私はそれを試みるのではなく、ただそこにいたいのです。最終的に私をそれから妨げているものは何なのでしょうか?
カット:ええ、あなたはそうではないと思っているのですね。ボブどうぞ。
ボブ:あなたには今意識がありませんか?(Are you unaware right now?)
サロージャ:私には意識があります。(I am aware.)
ボブ:では、それで在りなさい。私は意識があるとかないとか言って離れることなく、そのアウエアネス(意識)で在りなさい。アウエアネスは起こり続けていますが、それは「私は在る」へと翻訳されます。
カット:あなたが(自分は既にそうであるという)考えを持っていない時、この古い言葉を考えてみてください。「エンライトメントした人とエンライトメントしていない人の唯一の違いは、エンライトメントしていない人は、そこには何か違いがあるはずだと信じているにすぎない」。実際には何も違いはないのです。違うのは思考だけです。あなたとボブの違いは、そこには違いあるはずだというあなたの信念だけです。というのも、ボブは自分が存在していてそこに存在意識があるということを完全に鋭敏に知っていて、あなたの中にも同様に存在意識があると知っているからです。
でも、あなたはその余分に、何かが去らなければいけない、何かがシフトしなければいけない、何かが変わらなくてはいけない、何かが停止しなければいけない、何かが起きなければいけないと考えています。でも、実際に起きなくてはいけないのは、そこにある思考がただリラックスすることだけなのです。なぜなら、もしあなたが考えなかったら、何があなたの存在の完全なアウエアネスを邪魔しているのですか? ボブはあなたに、あなたに意識がないのかと尋ね、あなたは、あると言いました。でも、今それでは十分ではありませんね。
というのも、マインドがやって来てこう言うからです。「ええ、それでは十分ではない。私には意識がある。それでどうなる? エンライトメントはどこにある? 至福はどこにある?」。いいですか。マインドがやってきて、何かが変わるべきだというのは観念、思考なのです。
ボブはあなたに、「あなたは既にそれである」と言い、マインドは「いいえ、私はそうではありません」と言います。「私には花火か雷鳴のような何かが起きる必要があります」と言います。でも、真実は、あなたは本当にもともとそれなのです。おしゃべりなマインドだけが、あなたはそうではないと言っているにすぎません。
マインドがやすらいでリラックスした時、美しい夕日を見た時、美味しいチョコレートケーキを食べた時、猫を撫でた時、あるいは、その物語を脇によけるような何かをした時、それが「何も悪くはない」という瞬間のことです。(その瞬間)何も悪くはなく、生はあるがままで素晴らしく、容易なものです。それが、私たちが「自然な状態」と呼ぶものです。
人々はやって来て言います。「何かこれは違う。エンライトメントは何かもっと大きいもの。その言葉はもっと激しいもの」。でも、自然な状態は私たちが自然の中にいるような状態です。あらゆることに対してただリラックスしてくつろいだ存在。体が空腹を訴えれば食べ、オシッコがしたくなればトイレに行き、マインドが楽しみを必要とすれば音楽をかけ、それを問題にする人は誰もそこにはいない。
でも、いつもこの観念上の私、カタリーナ、サロージャは、これでは足りないと言います。私はもっと喜びが欲しい。私はもっと至福が欲しい。私はもっと愛が欲しい。私はもっと、もっと、もっと何か、これではないものが欲しい。この瞬間は良くない。これは間違っていて、こうあるべきではない。そうした観念のかたまりがこう言うのです。神は愚かだ、彼はすべて間違ったことをやった、私はもっとよく知っていて、この瞬間はこうあるべきではない。神は愚かだ。
この瞬間を創造しているこの現実、こんなやり方は間違っている。「私」、この創造された自己はもっと上手にやる。もっと喜びがあって、もっと至福に満ちて、もっと愛があって。その声、その自己は作られたもので、それは習慣からくるものです。私たちがどうやって話すかを学んでいたころ、ボブが言うように、あなたが二歳か三歳のころ、言葉を収集して学び、頭の中で下稽古して、OK、何と言おうか、そうだ、OK、赤ちゃんは喉が渇いた、赤ちゃんはあれが欲しい、これが欲しい。
その声に非常に慣れ親しんだため、ある時点で変化が起きて、これが「私だ」となり、「私はお腹が空いた」「私はアイスクリームが欲しい」と言い始めます。その声が内側のものとなり、この声が私であるとなります。そしてその声が今や、「これはよくない。これは間違っている」と言います。そして今や、これが私だ。私がそう言っている。この「私」という信念をどうしたらいいのか? この「私」を取り除くにはどうしたらいいのか?
それは不可能です。そんなことは起こりません。想像された自己は、ありもしない想像上の自己を取り除くことはできません。認識は想像された自己を超えたところからやってきます。すると、この仕組み全体が、いかにして幻想の複雑なまやかしのゲームに巻き込まれていったかがわかるでしょう。思考がなければ、何も問題はないとわかるでしょう。自然な状態には何も悪いことはありません。
思考がやって来て、いいえ、私はエンライトメントしていない、私はそれではない、私は明確ではないと言います。そしてドラマが始まります。ですから、実際には思考なのです。それを信じること、信頼することを止めるべきです。開いた意識の中でくつろいで認識してください。「私」という思考がある時もあれば、ない時もあります。でも、実在(being)はいつもそこにあります。
ですから、そこに「私」がある時は、それは意識のフィールドにただ起こっているということを理解してください。その「私」が本当の私だと信じる必要はないのです。それは単に、時々はそこにあり、時々はありません。あなたが眠る時、何も悪いことはありません。またあなたが、何かとてもハイになるバイブレーションにさらされたり、愛や至福を感じる時も、何も悪いことではありません。
でも、その時、渇きが起こり、私はハートの奥底ではもっと何かがあると知っていて、私はそれを持っていない、それが欲しい、それを渇望する、私のハートはその達成観を欲しがっているとなります。それが今や人生の物語になって、私はそれを探さなくてはいけない、それを見つけるために打ち込まなくてはいけないとなります。でも、それは決して隠されてはいません。
ジェーン:ちょっと話していいですか?
カット:ええもちろん。
ジェーン:(サロージャに向かって)あなたの質問は、なぜ……、あなたの質問は何でしたか? もう一度言って。
サロージャ:私は……
ジェーン:何が私を妨げているのか。妨げているのか? 何が私を妨げているのか。それがあなたの質問でした。今何があなたを妨げているのか。そこには分離があります。そこには分離があると知ってください。あなたはアウエアネス(意識)です。それは事実です。ボブはあなたに今存在しているか尋ね、あなたはイエスと答えました。それがアウエアネスです。そうでしょ。そしてあなたは、何が「私」を妨げているのか、と言いました。
つまり、その「私」は、あなたの記憶の中にだけあるものです。記憶のあなたが、ただ在ることからあなたを妨げているのです。つまり、その「私」は今この瞬間にここに生きることはできないのです。「私」とは、あなたの記憶です。つまり、あなたのマインドの中で、あなたとアウエアネスが分離しているのです。でも、あなたはその(マインドの中の)アウエアネスではなくて、常にアウエアネスなのです。そこにマインドが現れているにすぎません。マインドがその上に現れるのです。(ジェーンがサロージャに手を差し出して握手する)
カット:すばらしい。すばらしいですね。