2023.3.12ミーティング 58:54から
ギルバート:分離した自己という考えはどのようにして私に起こったのか。根本的に私は宇宙とは分離してはいない。どうやって、この分離の感覚が根を張ったのか。ボブは彼の最初の本の中で指摘していますが、幼い子供が外の世界の何かを見て、「あれは私ではない」と言います。それが、分離の感覚、傷つきやすさの始まりだとボブは言っています。
物語とともに、あれは私ではないとなります。「あれは私ではない」「あれは私ではない」「全部、私ではない」。どうやって私はこの、私ではないと戦えばいいのか。それはそこら中にある。その物語の中で、「私」というイメージに物事を付け加えて安全にしようとしますが、それは決してうまくいきません。うまくいくはずはありません。なぜなら、それは実在ではないからです。
ボブは深い思いやりから、「私」が実在かどうかを調べるようにと指摘します。「分離、あるいは独立した実体あるものを見つけることができますか?」。それはとても実用的です。私たちの物語や苦悩などが、この分離した自己という信念にぶらさがっています。それを切り離すために調査します。
私はこの「私」を見つけることができるだろうか? 「私」にまつわる物語を永遠に語ってうんざりすることはできます。(笑い)でも、正直な話、誰が私の物語に興味があるでしょうか? もし私でさえ興味がないのなら、他の人には明らかなことです。
これはとても重要なことですが、実際にはあなたがそれを見つけることはできません。でもこれはとても神秘的なことですが、人々はこれをメッセージと呼びます。あなたはメッセージを受け取ることになります。メッセージは様々な形となってやってきます。それはポインターとなってやってくるのですが、それはどれも、無(no thing)を指しています。
形、物事としてやって来ても、無なのです。「私」はその無なのですが、「私」は無なんか欲しくありません。「私」は何かが欲しい。それが苦悩です。それでまた、「私」の物語に引き戻されます。それはまったく必要のないことです。心理的な苦悩はどれも、この自己のイメージ「私」が中心にあります。
それはまったく不要なものなのですが、あなたはそれをただ単に取り除くことはできません。それにエネルギーを注がないこと。その直接性とともに留まり、進んで無でいようとすることです。そうすれば、それがどんなものか見つかります。
ボブ:私が無と言うと、人々はゼロ、真空、空虚のことだと考えますが、そういう意味ではありません。それは無/何ものでもないもの(no thing)です。あれがそれです(天井を指して)。電灯がそれです。この顕現の中にあるすべては(それが)現れているものです。ゼロではありません。顕現の全体は現象としての現れです。
現象の定義は「そのように現れているもの」です。それはすべて見せかけにすぎません。そう見えているだけです。
カット:(ギルバートに向かって)私はあなたが言う、「進んで無でいようとする」という表現が好きです。もし、心の底から真実を望むなら、進んで自己に関するあらゆる観念を脇に置いて、ただ無でいようとすること。そうすれば、その無の中にあらゆるものの可能性があり、それがあなたなのだということが明らかになります。
でも、あなたが、野心的な思考、戦略。ギルバートが言う戦略、世界の中で安全で確かでいようとする戦略。この世は危険な世界なので、それと戦うために、自分に何かを加えて強くなろうとするのですが、それはできません。なぜなら、それはもちろんフィクションだからです。そこには何もないのですが、自身に対して、観念、考え、お金、教育で武装しようとするのですが無駄です。その鎧は役にたちません。
でも、あなたが進んで無でいようとするなら、そこにどんな危険があるでしょうか? どうしてあなたが傷つくことがあるでしょうか? 開かれた空間が、どうやってあなたをおびやかすというのでしょうか? ボブが言うようにそれは何もない状態ではありません。観念にとっては何もない状態ですが、そうではなくて、無/何ものでもないもの(no thing)です。
それは愛、本質、命、振動、輝きです。存在の神秘です。それはマインドにとっては何もないものであり、理解することができません。ゼロです。それをマインドで理解することはできません。マインドはそれを観念化し、それはゴミだ、おもしろくない、私は物が欲しいと言います。それは、脇に置くべきです。
すると、思考を超えた深い認識、悲観念の知る働きがあります。それはどんな猫にも蚊にも、もともとあります。彼らには進行中の物語はありませんが、明らかに彼らには意識があり、あきらかに存在し、意識的です。
あなたが彼らの目を見ると、認識、知覚あるものがそこにあるのがわかります。でも、そこには、「私は小さな人間だ」あるいは「私は子猫だ。この体という檻の中に閉じ込められている。なんとかしなくては」といった解釈はありません。
もちろん、体には何らかの位置の感覚があり、生き残るため、あるいは病気を治すための戦略はあります。でも、それは本当のあなたではなく、本当のあなたである意識の中にあるものです。体、それにまつわる物語、観念や習慣からくる振る舞いなど何であれそれは本当のあなたである認識の中で起こります。
それを見守り、それに魅了されて、それでいてそれに束縛されないでいてください。ええ、なんという夢なのでしょう。