2023.3.5ミーティング 51:04から
ギルバート:ええ、仏教徒は経典の中で短い言葉で言っています。あらゆる現象の本質は空(くう)である。もしそれを聞いて印象に残るようなら、それが真実だということを生まれつき知っているということです。
昨日、庭に何匹かの蝶が飛んでいました。彼らは(飛ぶために)努力していませんでした。そこには無努力がありました。あるいは、何らかのはっきりとした努力があったと想像することもできますが、あらゆる現象は空であり、そこには、どんな存在による努力もなされていません。
私たちはそうしたことを想像します。特に何か心地の悪いことが起こっている時には。そこには行為者はいないのです。行為者は想像の産物です。すべては行われ、行われなかったとことも終わっていないことも何もない。物事には始まりも終わりもない。
虹を見てください。虹は現象の良い例えです。虹には実際には位置がありません。子供の頃、虹のふもとには財宝があると聞いたことを覚えています。ある日虹が見えたので、愚かにも私は森を抜けて、虹の一方のふもとを目指したのです。もちろん・・・。
私たちは、財宝を見つけたいのです。
ボブ:それをどうしたのですか?
ギルバート:あ~、内緒です。(笑い)皆が見ている虹には位置がありません。皆同じ虹を見ているのに、それは同じ虹ではありません。違った角度から違った光が目に入って、そこにあるように見えます。聞いた話ですが、二重の虹を見る時は、確か常に46度から52度の角度で、太陽は後ろにあり、そこにはある種の物理の法則があるのですが、虹はそこにはありません。そこにあるように見えるだけです。
同じことが「私」についても言えます。ボブは言いました。「どこかの大馬鹿者が、『私』はいないと言っているが、彼が正しいか間違っているかは、あなたが自分で調べなくてはいけません」。自身の私生活など何でも調べてみて、そこに『私』がいるかどうか調べてみても、私はいません。というのも『私』はフィクションだからです。でも、それを調べる時、記憶やマインドから、あらゆる種類の物事がやってきます。『私』はいないということを見たくない抵抗があるかもしれません。もし『私』がいなかったら、私は一体何なのだ、私はどうしたらいいんだ、などなど。
でも、ボブが言うように、誰もそれをあなたの代わりにやることはできないし、あなたにそれを与えることもできません。そして私たちには皆、見る働き、知る働きの能力があり、分離していません。それが分離されているはずはありません。視覚的に物事はどこかに現れています。音はどこかに現れています。でも、あなたが音や視覚を分離しようとしてもできません。
それは同じ無(no thing)であり、それには位置がありません。でも私たちは、自己の中心を信じるように教えられました。あなたは個人であり、責任がある。あなたは正しい行いをしなくてはいけない、などなど。そしてあらゆる宗教がある種の罪悪感を人々に植え付けようとします。
でも、いずれにせよ、あらゆる現象の本質は空です。そこには、なされるべき努力はありません。つまり、非現実の中にうわべ上の現実があり、非現実を継続させています。といういのも、その中で『私』という個人がいるからです。私の現実であり、あなたの現実ではありません。でも、現実も非現実も無努力のものであり、どちらも同じ無なのです。
参加者:虹に関して一言付け加えたいと思います。あなたが財宝なのに、財宝を追い求めていました。(一同笑う)あなたはどこか反対の方向をへ走って行った。それはおもしろい話でした。とても感謝しています。