2023.3.5ミーティング 0:54から
ボブ:みなさんおはようございます。
一同:おはようございます。
ボブ:一つのもの(one)が、一つのもの(one)を歓迎しています。そこには一つのものがあるだけです。その他には何もありません。それを見るのは悪くない。(笑い)すべてが「それ」です。そした私たちは皆生まれつきそれを知っています。そのことを認識しているのですが、それを区別している唯一のものは言葉です。私たちは、身に着けた言葉によって、あらゆるものにラベルを貼り付けます。言葉は現実ではなく、ラベルにすぎません。(途中省略)
言葉は単なるラベル、描写にすぎません。描写は決して描写されるものそのものではありません。ここで描写しようとしているものは、描写されるものそのものではありませんが、それは、聖典やテキストの中でドヴァイタ、非二元と呼ばれるもののことです。非二元とは、二つではないということを指しています。一つもの(one)の他には何もありません。
他のものは、一つのものにとっては相対的に存在しているにすぎません。相対性は関係性であり、関係性が私たちの問題です。私たちには、うわべ上では一つのものが分割されて分離したもののように見えますが、決して分割されたことも分離されたこともありません。あなたがそれを認識していようといまいと、それがそこにあるすべてなのです。
ほんの少し調べてみるだけでわかるようになります。他に方法はありません。観念化することから抜け出せば、思考のない、永遠に新鮮な存在、思考から自由な意識があります。思考がやってくると、意思がやってきますが、それに構わないでおくと、それは去っていきます。
でも、私たちはそれを構わないでおきません。私たちはそれに固着し、言葉をうわべ上では現実だとしてしまいます。そのため、この顕現の中では、たくさんの苦痛、苦悩や奇妙なことが続いています。言葉や観念、考えを付け加えることなしに、それがいいとか悪いとか言う事ができるか考えてみてください。
「我はそれなり」という偉大なるマントラは、今ここ、今この瞬間があるだけだということを確かに知れという意味であり、ということは、あなたは「それ」に違いありません。ニサルガダッタも言うように、人は実在ではありません。私たちは皆、言葉を学んだ時に、この個人というイメージを身に着けました。
何人かの人はそれを調べてみるように言われ、それが真実ではなかったという者もあれば、引き続き抜け出せずにいる人もいます。でも、それを見破った人たちは、ほんの少し調べてみることが必要なだけだと言います。聖書にあるように、「真実を知れば、真実があなたを自由にするだろう」です。
もし、調べてみて虚偽であるとわかれば、あなたは虚偽から自由になるはずです。