2023.2.26ミーティング 40:04から
カット:今、ザンティから質問が届いています。「果てしなくおしゃべりを続けるマインドをどうしたらいいでしょうか?」
ボブ:フルストップ! マインドに入っていかないで。もし、思考を停止すると何が問題でしょうか? そうすると、それが良いとか悪いとか、つらいとか言うことはできません。でも、あなたは呼吸を止めません。心臓も鼓動を止めません。生は続いていて、それは思考以前にあるものです。それが意味することは、あなたはマインド以前に存在するということです。
あなたは二歳か二歳半になるまで言葉を持っていませんでした。ということは、あなたはマインド以前に存在していました。
参加者:でも、フルストップと言っても、停止しない時もあります。その場合、マインドをあれと提携させろと言われるのですか?
ボブ:もしマインドが停止しない時は、そこに何があるのか気づいてください。そこには依然として見る働きがあり、聞く働きがあり、思考より前に空間があります。思考より前に、アウエアネス(意識)、すなわち存在、あらゆる知る働きがあります。その感じをつかんでください。
参加者:あなたは以前、アウエアネス、何と呼んでもよいのですが、それとマインドを連携させなさいと言われたことがありますが、それがあなたの言われる連携ということですか?
ボブ:ある思考は連携して一層よく、理解・反響します。というのも、現れる思考はすべて観念的なものだからです。というわけで、(ボブ、言葉が出てこず言葉につまる)
カット:非観念的な意識?
(ボブ言葉が出ずに笑う)
(一部省略)
ボブ:言葉が思いつかない。離れる。「離れる」です(思考から)。
参加者:マインドで行うどんな行為も、マインドを作り出すことになります。私、あるいはマインドのどんな行為もそうです。
ボブ:人の事実として、今もしあなたに意識がないのではないなら、意識があるということです。思考がやってくるやいなや、あなたはそれに物語を付け加えます。その物語がどんどんを成長して思考とともに展開していくことになります。もし、その思考から離れて、ただそのままにしておき、それに固着しないでいると、その思考は、ふたたび背景にある純粋なアウエアネス(意識)の中へと落ちていきます。なぜあなたは物語を付け加えるのですか? すべての物語には始まり、途中、終わりがあります。それは先へ先へと続いていきます。
参加者:あなたが話しているマインドの持つ傾向として、私たちが(このことを)やり遂げるのは私たちの条件づけに反することです。それをやることは、私たちの性分、条件づけに合いません。
カット:ええ。専念することです。私たちは非二元の魅力を見つけ、ボブが言うように、物事が起こって私たちをここへ連れてきました。物事が探求に駆り立て、時々は人生、答え、信念などに対して苦悩や不満をもたらします。それは、表面下でマインドが明け渡す準備をさせるために起こっているのか、あるいはマインドが調査を始めるために好奇心をもたらすためにやっているのかのどちらかです。
というのも、調査は最初、単なる道具であり、あたかもそれはマインドがマインドを掘り下げているようなものです。でも、時がたつにつれて、存在が際立つようになり、前に出てきて、注意が直接に根底にあるスクリーンへと向かうようになります。それは無、あるいは空(くう)であり、注意全体がリラックスしておしゃべりから抜け出します。(携帯を見ながら)そして、これはザンティが、「果てしなくおしゃべりを続けるマインドをどうしたらいいでしょうか?」と聞いたことです。
究極の自由は、おしゃべりであろうと静かであろうと、気にしないでいることです。波ではなく、深海の海の静けさでいることです。おしゃべりと同化してしまうこと、おしゃべりを信じてしまうことが問題なのです。ボブが言うように、どうして物語がそれほど魅力的なのか、どうして物語に同化してしまうのか。もし、アウエアネス、存在、根底にあるスクリーンがなかったら、物語すら起こってはこないということを私たちは完全に忘れています。
生の神秘、エネルギーと比べて、物語がどれほど重要だというのでしょうか。(物語の)内容の魅力が減っていき、くつろぎがマインドから存在の愛の本質であるハートへと戻っていきます。それがポインターを通して起こります。「フルストップ」がポインターの一つです。リラックスはまた別のポンターです・・・。ええっと、ギルバート、何かありますか?
ギルバート:(あなたの)話が終わってからでいいよ。
カット:いいえ。私たちは皆同じことを話しています。(笑い)
ギルバート:いくつかのポインターは、とても有益な道具としてもたらされます。私にインパクトを与えたすばらしいポインターの一つは、「マインドを見つめ、それがどのように起こるのか、何が続いていくのかを見なさい」です。それはとても強力です。最初にマインドを見つめて、それが何を拠り所にしているのかを見なくてはいけません。
なぜなら、何が起こっているのかを観察しないかぎり、決してマインドを理解することはできないからです。要するに、あたかもマインドの目撃者のようになることです。でも、その目撃者にはどんな形態もありません。それは基本的には単に知る働きの活動なのです。ボブがすでに言ったとおり、すべてはエネルギーであり、それが振動してこうしたパターンとなっています。
でも、知る働きは振動してパターンとなることはありません。それは物ではないもの/無(no thing)です。マインドを見つめ始めると、それは非個人的で偏りのない目撃を使って何が起こっているのかを見ているようなもので、そこから多くの洞察がやってきます。「私」という思考は単なる思考、イメージ、記憶のかたまりに過ぎないということがわかりますが、この知る働きは記憶の中に蓄えておくことはできないのです。
それは永遠に新鮮で永遠に新しいものであり、記憶の中に蓄えておくことはできません。そのため、記憶の中へ入っていくことには意味がありません。というのも、記憶を信頼することはできないからです。あなたが何かを思いだすだびに、どこかが何か微妙に変化しています。これはしばしば法廷の証人が認識を変えてしまう時に見られることです。
認識は見る働き、あるいは知る働きではないということを理解しなくてはいけません。認識とは、ひとたびマインドが印象を処理するとそれが何かを作り出して記憶となります。でも、直接の見る働きは自発的に起こっていることです。そしてそれは、認知、すなわち知る働きと分離してはいません。それはどちらも物ではないもの/無です。
マインドを見つめることによって、マインドは実際には何も分割していないとわかります。ラベルを貼って名前、区別をつけることによって、分割しているように見えるだけです。あなたはあれやこれやと区別をしますが、そうした物は何か独立したものとして存在しているでしょうか? 知る働きがすべてなのです。私たちが知覚するものすべて、あらゆるエネルギーの動きは知る働きです。
それは個人的なことではなく、非個人的なことです。あなたは「マインドがぶっ飛んだ」と言いますが、マインドなどというものはないのです。マインドは単なる活動でありラベルにすぎません。私たちはマインドを責めたり、良いマインドだとか言ったりしますが、それはどれも物語です。
マインドを見つめることに戻ると、その知る働き、その認知活動はまったく非個人的なもの、包括的なものであり、それには始まりも終わりもありません。そのため、朝起きて、見る働きを始めるぞと言うことはできません。知る働きを始めるぞ、ラムのように、頭が働く前にコーヒーを一杯と言うことはできません。(笑い)ラムごめんなさい。マインドとは何か? それがどのように機能するのか見てください。